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考える糧ゴリーコミュの私たちの心の成り立ちについて考える

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アメリカでは鈴木大拙さんや鈴木俊隆師によって禅が紹介された衝撃もあって、西洋の深層心理学がそうした仏教の見せる日常を超えた心の世界をどう統合するかという試みがさまざまに重ねられ、トランスパーソナル心理学とかインテグラル理論とか呼ばれる形で理論化、体系化されたりしていますね。
私たちの心は、決して個別の遺伝とか衝動とか習慣とか刷り込みとか学習とかにとどまらない普遍的な光、力を基礎に持っていながら、
それは最も深い所でおおわれ、隠され、封じ込められ、抑圧されて個別的な日常の心として知られているものが幼児の頃から作られる。
しかし基盤的な光、力は、いつでも何らかのきっかけで垣間見られて私たちに至福感を与えたりする。
また、さまざまな理屈によってその垣間見られた光、力は理論化されたり教義に作り変えられたりして、ある種のエゴに彩られた宗教や新興宗教を生むこともある。
しかし、私たちが丁寧にその基盤的な光、力に我を捨てながら親しんでゆくなら、日常的自我の歪みや汚れや弱さでその光、力を勝手に解釈したり型にはめたりするのではなしに、本当に寄り添い、和らぎ、統合されるに至る。


こうした見方への疑問や批判も含め、各人の思うところを語り合いましょう。

コメント(49)

>>[3]

ありがとうございます。
インテグラル理論について、哲学コミュに、書いているものも、時間ができたら、ふりかえりにいったり、まとめたりしにいきたいなと、ふと、考えました。
★★★
「殺すなかれ、傷つけるなかれ、汝の隣人を汝自身のごとく愛しなさい」
そのようなことを大切にする、裏表のない
慈愛の信仰ならば、
現在の人間の心を、健やかに育ててくれると、思います。


>>[010]

なぜ私たちに、お互いを傷つけたり苦しめたりしないようにという道徳律、あるいは慈愛が生まれるのかと言えば、
いっさいの個的違いを超えた究極の智が、すなわち同時にいっさいの個を大事にいつくしむ視点として生きてくるからだと思います。
>>[009]

違いを強調し、違いに視点を固定していたなら、それは必ずどちらかの優劣をみちびき、ざわつきや動揺は終わらないし、
したがってこのざわつき、動揺をさらに乗り越えてゆく深い思索あるいは洞察がまだ必要であることを教えられるばかりなのではないでしょうか。
>>[12]

私も、そういう慈愛というものは、人間の中に内在していると思います。
>>[14]
失礼します。

>力無き愛は無力

力にも、いろいろ、あると思いますが、愛する対象のために、力を有したいと思うことは、前向きでいいですね。
その愛は、きっと、愛する対象以外か、どうなってもいいというような偏狭な愛ではないのでしょうね。

でも、ひたむきな まっすぐな愛が、人の心を一時的にでも、救う事はあると思います。

>愛無き力は、無意味。

これは、どんな風にいいわけしても、暴力なのでしょうね。

新訳聖書の中の、愛について考えながら、思うまま、書いてみました。

>>[10]に、激同してくださって、ありがとうございます。p(^^)q
世の中には「気の病」と言うのがあるらしい。
咽喉を調べてみても何も無いのに焼肉が引っかかった感じがする。
古典を見たら「梅核気」と言うのだそうな・・・
内科領域ではヒステリー玉と言うらしい。
何かこう、宗教的な匂いがして抵抗を感じます。
科学や哲学からは逸脱してしまっているような。

20年ぐらい前、岡野守也という人が宗教・霊性・意識の未来といったテーマで
知識人を何人か招きシンポジュームを開いたことがあった。
彼の問題提起は、そろそろ人間はエゴを捨てて次のステップに昇るべきだ、というような
ものだったと記憶している。
そこで彼は知識人たちから袋叩きにあったのだが、自分は当然だと思い、全く同情しませんでした。
>>[29]

科学がお望みなら科学的お話でもしましょうか(^^)
たまたま次男の嫁が液体クロマトの使い手で血液中のモノアミンの濃度と精神との関係を研究しています。
>>[029]

神とか仏とか無だとか空だとかにまで昇りつめようとする人間の意識や、そうしてそこに浸った際の意識のありようというのは、日常の私たちの意識と一体どのようなつながり、関係性があるのかと真面目に探究することは、単なる思いなし・決めつけ・独りよがりによってなそうとするものでない限り、
とても大切な問題領域だとぼくは思います。
もちろんしばしばいい加減な決めつけ、臆見によってまったく説得力や批判的吟味を欠いた言説が安易に大宣伝される事例は古今東西、後を絶ちませんが。
ところで素朴な疑問ですが・・・
このトピでは「心」をどのように定義するのでしょうか?
「心」とは地域により時代によって様々な意味を持っているように思います。
例えば心臓を意味したり宇宙を意味したり・・・
>>[30]

船井幸雄の本をたまに立読みすることがありましたが、妙な陰謀史観とか
アセンションだとか、信憑性に欠けることを言い散らかしているという感想しか
持てませんでした。
>>[31]

科学によって心の機能を完全に説明できる段階にはまだ来ていないけれども
だからといって宗教が言っていることをそのまま鵜呑みにすることもマズいと
思うのです。
>>[32]

まず、そういった高次元の意識みたいなものが本当に存在するのかといった問題が
あると思います。
私はそんなものを今まで体験したことはないし、そういったことを信じている人に話を
聞いても、自ら体験したという人はいなかった。
78910さん はどうなのでしょうか?

また体験したとしても、それを吟味して疑うことは必要ではないかと思います。
オウム信者にインタビューした村上春樹の「約束された場所で」を読むと、オウムに
入信した人はいずれも「神秘体験」を体験しているのです。
>>[36]

科学と限らず全ての学問や宗教でも完全な説明はできていません。
まあ宗教は信じるものであって学問ではない。

そう言えば・・このトピは心と精神が同じかどうかも規定していませんね。
>>[037]

その団体では今日明らかにされたところによると薬物によって神秘体験と称するものが、すでに初期の頃から重要な勧誘道具とされていたようですが、
そこには明らかに神秘体験を神聖視する未熟な欲求、すがりつき、渇望が各人の背後にあったと思います。
いわば神秘体験をそれこそサイケデリックな非日常と決めつけた所に希求される幻覚志向です。

私たちがいつでも近づける可能性のある日常意識の突破とはもっとさりげないもので、もちろん私も何度も体験したことがあるし、Uさんももちろんあるかもしれません。
それはいわば突然の一時的な至高体験のことを言っているのですが、
もっと安定的で意志的な意識の変容となると、止(サマタ)瞑想が必要であり、その修習に見合った成果がもちろん各人にあり、当然私にも私の修習に見合った成果があります。

神秘体験は、過程に生じる体験だということなのだと思います。

また、オウム真理教が使った手法のような
薬物使用や、睡眠時間を極端に制限する手法は、悪い意味の洗脳だという意見は変わっていません。
>>[040]

おっしゃるように自己満足的に希少なうっとり体験が求められるなら、それは強力な我欲が遂行するプロジェクトでしかありませんね。
周りとの関係性がより深い愛情に満ちたものへと成長してゆくかどうかが、おっしゃるように大切なリトマス試験紙になると思います。
自己の特別性ばかりが確信されて、他者を無下に扱うメンタリティが増幅されるなら、明らかに脇道にそれた嗜好に他なりませんね。
エゴイスティックな欲望を持ったままで解釈され理論化された教義にだまされないためには、

普通の人たちの普通の市井の感情や感覚を敬い、大切にする気持ちを失わないこととか、

「自分の理屈が考えて納得できたんだからこの教義は正しいんだ」なんて、安易に自分の理性を信じ込むことがいかに錯誤や盲点をかかえている可能性があるかってゆうことに気づき、決して思い上がらないこととか、

世の中には本当にさまざまな批判的検討や360度の誠実な学問的研究がなされているのだという事実を、しっかりと知っておき、それらに自らも謙虚にアクセスすることなどが大切ですね。
>>[41]

宗教への関心が特別な何かを体験したいということだけに特化していると、それは我欲の延長線上でしかないし、神秘体験だけを修行進捗の目安として強調し過ぎるなら、この我欲はさらに本人の中で正当化され、増長することになりますね。
また、そのためなら手段を選ばないというプラグマティズムが無批判に敷かれれば、批判精神や哲学的合理主義はますます萎縮していかざるをえない。
>>[44]

はい。仰るような理性的な視点は 心においておかないといけないものだと、私も考えています。
ナザレのイエスにしろ、シャキャ族のゴータマにしろ、目まぐるしい市井の日常から一度自分を引きはがして深い省察に入った。
さまざまな世俗の習慣や言説から自由になった座所で、それまでさまざまな思いや理屈を詰めこまれた頭を大気の中で呼吸させた。

僕たちも常に機会を見つけて、自分自身をまるごとリフレッシュすることができる。
「エゴとエコの深遠な統合。
最低位まで下降して、己れ自身へと上昇し帰還するスピリット。
それにもかかわらず、自己認識と自己実現のそれぞれの段階、自己を展開し発達させるすべての段階で、すべてに完全に現前しているスピリット。
コスモスのあらゆる運動に現前するスピリットの神的な劇。
しかし劇が進行するにつれてますます己れを見出してゆくスピリット。
宇宙のあらゆる身ぶりの中で完全に、神のように踊るスピリット。
決して失われることなく、決して見つかることなく、しかし最初からずっと現前しており、輝くような深淵から目配せし、うなずくスピリット」

(ケン・ウイルバー)
インド的思考は古代から、命というものがこの大自然に存在するさまざまな生き物に姿を変えながら、始まりさえない太古より流転してきているのだと考えて、この輪廻転生の考えは仏教にも引き継がれ、仏教の伝播とともに周辺国へも伝えられた。
輪廻転生の考えが確信として存在すると、私たちの心の成り立ちという問題を考える際にも心の最も不可思議な秘密の部分は輪廻転生によって説明されることになる。
すなわち、どうしても説明のつかない自分の心のさまざまな傾向は、前世における自分の行いにこそ原因があるのではないか、という考えだ。
心の成り立ちという問題は私たちが外界と触れ合う中でいかにして心のありようが形成されるかという分析の側面から考えることもできるし、これについては初期経典の中でゴータマ・ブッダも詳細に分析し取り組んでいる所だ。

六処とその所縁とさらに識、これらの触から同時的に受が生まれるという純粋な認識の過程の後、輪廻の過程に流されてゆくか、涅槃の過程に入ってゆくかの分かれ道に私たちは立つ。

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