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考える糧ゴリーコミュの「どうして殺人はいけないの?」を考える

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ローティーという人が気になっている
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E3%81%A5%E3%81%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9
現代米国の哲学者ローティの哲学的姿勢を示す言葉。なんらかの知識の正しさを証明することを「基礎づける」というが、あらゆる知識を究極的に基礎づけうるような絶対の根拠がどこかにあると考え、それを示すことこそ哲学の使命である、とする哲学上の姿勢を、ローティは「基礎づけ主義」と呼んで批判する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3
哲学の歴史の中で中心的な主題であった真理という問題を研究することは有益ではないことを認め、ポスト哲学的文化としてあらゆる種類の言説を相対化する文化へと移行することを意味している。

http://www.geocities.jp/ittokutomano/rentai.html
社会理論の諸目的は、非歴史的人間本性、自我の本性、道徳的行動の動機、人生の意味、といった話題を顧慮しなくても、達成することができる。


個々人の信念や信仰がどうであれ、人を殺してはいけない理由などないということは、頭では承認せざるを得ないだろう。一方社会では、子供を殺人犯にしないようにあの手この手で教育しなければならない。ここで重要なのは、子供に人を殺してはいけない理由があると信じ込ませることではなく、殺人の件数を減らすことではないだろうか。子供を殺人嫌いにさせれさえすればよく、それができる限りは、「殺人はいけない」という信仰を持たせる必要はない。

殺人をしてはならない理由があるふりをする努力から大人を解放し、理由はないがその上で殺人を防ぐにはどうするか考えるような態度をとるように促した方が、幸せな社会ではないか。つまり殺人はいけない理由をあれこれ考えなければならない社会より、あるいは殺人はいけないとあれこれ信じ込ませる方法を考えなければならない社会より、「どうして殺人はいけないのか?」「別に理由はないけども、私はしたくないからしない、おまえはしたいのか?」「いえ、したくない」とか「別に理由はないんだけど、しちゃいけないことになってて、それでいいんじゃないのか?」「そうだね」で終わるような社会を目指した方が楽だし幸せなんじゃないだろうか。

「殺人は?」に「いけないこと!」といわなくても気まずくならない社会に変えませんか?ということ。


ローティーは、反形而上学・反本質主義・プラグマティズムであるようです。私もその三つは支持します。

コメント(1000)

78910さん
さくらもちさん

トピの文の一部は撤回して訂正しており、57がそれです(「理由はない」から「普遍的な理由はない」に訂正してます)
できれば0を直接修正したいのですけども、権限はトピを建てた人にもないみたいです


>殺人がなされないようにする社会政策(広い意味で刑法も含む)を施行する理由さえなくなるのではないでしょうか?
>1.殺人件数を減らさねばならない理由はなんですか?

私もあなたがたも殺人を減らしたいのですね?
じゃあ一緒に減らしましょう。
となります。

もっとましな言い方をすれば、民主主義を使う一方、正義論は使いません。民主主義を正義論よりも重んじます。政治家も哲学者も、正義を語らなくても、目指す社会像を語り、共感を得さえすればよい、と。民主主義自体も、正義として重んじるわけではなく、共通の価値観や政治の妥協点として採用すれば特に矛盾は起きません。
人々の性格が丸くなっていくにつれ(人々が今善と呼ばれているもののいくつかを自然に好むようになるにつれ)、個人の好みと個人の「普遍的善」観とをほとんど同一視しても(今は、宗教は個人の価値観の一つ程度の扱いしかされてないが、道徳を同じような身分に格下げしても)、社会は機能するようになると思います。但し、将来像の話で、今すぐ学校教育において、道徳を真理として語るのをやめろというものではありません。

殺人を減らすことに興味がないという人に対しては、ほっておくか、我々の意志の結果転向を試みるか、ケースバイケースでしょうが、もし転向させるにせよ、絶対的正義の名の下にやるわけではない。

刑罰に関しても、正義の裏づけなく別の理由によって課すという形になりますね。慣習とか民主主義とかの。その辺は、受け入れられがいたいかな。
T_anakaさん

「殺人がいけないという普遍的理由はないから、民主主義を通じて殺人が起こらないようにしましょう」
というご意見でしょうか?

たとえ民主主義を通じてだろうと殺人を食い止める社会政策(広い意味で教育から刑法まで含む)に賛成する側とそれに反対する側に分かれるとすれば、

賛成する側は決して「理由はないけれども民主主義を通じて殺人を食い止めたほうがいいからだ」とは言わないでしょう。
なぜ食い止めたほうがいいと考えるのか、と突っ込まれることでしょう。
なぜ殺人はいけないのか、と突っ込まれることでしょう。

「いや、普遍的理由はないけれども民主主義を通じて食い止めたほうがいいと考えるからだ」と繰り返すばかりでは、「この人たちは思考の一部が機能停止してしまっているのではないだろうか?」と危ぶまれるのではないでしょうか?

少なくとも、「私や家族が殺されたりしたら嫌だからだ!」とか「殺される時は痛いだろうし、苦しいだろうし、人生の夢が途中で断ち切られて悔しいからだ!」などの理由を訴える必要があると思います。
>961 T anakaさん

>もっとましな言い方をすれば、民主主義を使う一方、正義論は使いません。民主主義を正義論よりも重んじます。政治家も哲学者も、正義を語らなくても、目指す社会像を語り、共感を得さえすればよい、と。民主主義自体も、正義として重んじるわけではなく、共通の価値観や政治の妥協点として採用すれば特に矛盾は起きません。

わたしには「本音(民主主義)と建前(正義論)」の関係を指摘しているだけのように思えます。日本は既にそうなっていませんか?


>人々の性格が丸くなっていくにつれ(人々が今善と呼ばれているもののいくつかを自然に好むようになるにつれ)、個人の好みと個人の「普遍的善」観とをほとんど同一視しても(今は、宗教は個人の価値観の一つ程度の扱いしかされてないが、道徳を同じような身分に格下げしても)、社会は機能するようになると思います。

死活的な危機を経験したことのない日本の戦後民主主義がこれから先も続くという甘い見通しを前提にしていませんか?
あなたのビジョンは「金持ち争わず」のユートピア社会のように思えます。

もし戦後民主主義が危機に瀕したとき(それは東日本大震災を起点にもう始まっているかもしれません)、いたるところで失業者が溢れ、政府を糾弾するデモが各地で繰り広げられ、人々の心がバラバラになり荒廃したとき、「正義ではなく、妥協にすぎない」民主主義が殺人の抑止力になるでしょうか?わたしはならないと思います。

民主主義が危機に瀕したとき、殺人の抑止力になりうるのは今のところ(国民に大きな価値転換がない限り)道徳だけです。
なぜなら、道徳は、たとえ国民がバラバラになったとしても、その一人一人に住まうことができるからです。

964でさくらもちさんが書かれていることには、同じ思いです。
他国の人が、この災害の直後の比較的秩序ある冷静な日本人を
高く評価しておっしゃっていたことですが
「日本人の一人一人の心の中には、隣人を信じ愛する心や国(福祉的な)への信頼が
長年養われてきたのではないか。」

それが、教育としての道徳、目に見えない道徳だといえると思います。
(今後もそれが保たれるためには、相当の努力が必要です。)

T anakaさんと同意見で、押し付け的な道徳には反対だということ

将来像のためだとしても、いえ、だからこそ、今、トピック文のような提言は
大変、危険なものになり得ると、何度か述べさせて頂いています。


また、78910さんが963でおっしゃるように
「人を殺す」という理由について語る時には
自分のこと、自分の大切な人のことを想定して
ある種、生々しく語るべきだという意見を持っています。

こういうテーマについての議論に関しても、同じ意見です。

>カナリアさん>943
人類の歴史の進歩をを肯定的に捉え、意義に眼を配る

同じように考えています。


> T_anakaさん959

私は、やはり本質主義よりの考え方なのだろうと自分を分析していますが
異なった価値観や論点をはっきりさせながら
プラグマズティズムという観点から、歩みよれるところは歩みよってこれたのではないでしょうか。少なくとも、私はそんな風に感じています。

体系的に考えていくという事を、どういう意味で使われているかはわかりませんが
ローティは、ある原理のもとに秩序だてるような発想、基礎づけ主義も批判していました。
前も述べましたように、「会話を継続していくこと」によって
「我々の信念体系を組みかえていくような語彙」をつくりだしていくこと

私は、このトピックでそのことを忘れたことはありません。
お答えしてない質問も、必ずお答えしますね。
(答え方に悩んでいるということもあり…申し訳ありません。)

歴史観についてですが、T anakaさんのおっしゃる、「人々が狭い範囲で共通の価値観を保持しつつ固まっていた過去」という観点は私も同じです。
狭い範囲を拡げていくことが、大事ですよね。これも、ローティ思想の真髄です。
○永遠さん

わたし自身を顧みて、学校に於ける道徳教育の効果については?です。
「菊次郎の夏」が文科省や教育委員会の推薦映画になるというようなことになれば別ですが・・
やくさん

>浮気しないとか

これは外してください。

「文化だから」
78910さん

普遍的理由の探求は必ずしもしなくてよいし(もちろんしてもよい)、普遍的理由の存在を信じない人に、無理に信じさせることもない。普遍的理由の探求や、普遍的理由があると信じ込ませる行為が殺人の抑止に役立つと思っているならば、必ずしもそうとはいえない。普遍的理由があると信じさせる行為(怒るとかね)が、正義であってたいていにおいて正しいと思うのではなく、殺人の抑止にとって効果があるかどうかという視点からもよしあしを評価するべきであり、場合によっては、「あし」にもなりうる
くらいの主張です。続きとして、耳障りのよい道徳的コメントが、人間の性質の冷静な探求を妨げているのではないかという疑いは持ってますが、それは0の話からはやや離れるかと。

なお、自分たちの価値を広める一手段として、普遍的理由があることにするという戦術は、必ずしも否定されないと思います。その場合、既に、相手を説得するという政治的動機が正議論よりも強く意識されてます。


>いや、普遍的理由はないけれども民主主義を通じて食い止めたほうがいいと考えるからだ」と繰り返すばかりでは、「この人たちは思考の一部が機能停止してしまっているのではないだろうか?」と危ぶまれるのではないでしょうか?

賢そうにみられたいとか、そういった事情がないならば、思考停止と思われようが動機(「理由」よりは「動機」の方が適切だと思います)を思う通りに答えておけばよいのでは。
さくらもちさん

>わたしには「本音(民主主義)と建前(正義論)」の関係を指摘しているだけのように思えます。日本は既にそうなっていませんか?
このトピの一部の方達をみると、そうはいい切れないでしょう。また、建前に正議論が残っているならば、建前からも少しずつ消すように望みます。


>民主主義が危機に瀕したとき、殺人の抑止力になりうるのは今のところ(国民に大きな価値転換がない限り)道徳だけです。
ちょいとイメージがわかないのですが、どのように道徳を機能させるのですか?とりわけ、その機能のさせ方において、正議論が必要なのですか?
経済発展に夢をみれなくなったなら、それに変わるなんらかの理念を作ってアイデンティティを安全な方向へ落ち着かせないと秩序が安定しないかとは思いますけども、道徳的な価値観はその候補の一つでしょうけども、そんなに密接には絡まないのでは。
永遠さん

>体系的に考えていくという事を、どういう意味で使われているかはわかりませんがローティは、ある原理のもとに秩序だてるような発想、基礎づけ主義も批判していました。

「残酷なこと禁止」であれ「プラグマティズム」であれ、それを自分の基本的な価値観に設定したならば、何を語るにせよそれを基礎におく姿勢です。私は三角形の定義にもA氏の定義にも同じ論理を当てはめるつもりですが、永遠さんにはそのつもりはないようです。同じ態度は、永遠さんの印象操作を巡る議論でもみられました。
かような一貫した姿勢をとるためには、三角形の対してどう思うかと、A氏の定義に対してどう思うかを考えただけでは十分ではなく、その二つの考えの整合性も考えなければなりません。
一貫性を求めない姿勢は、感覚で物事を判定するような姿勢になって、個人の生き方としては問題があるとは思ってませんが、論理的に自分の正しさを語ろうとしても、矛盾やダブスタなどが多くなって説得力を持たせることは困難でしょう。矛盾やダブスタは、あるからといって悪いとは思ってなくて、むしろあるのが自然かとも思いますが、それならそれでそれを認めないと、取り繕っているかのような変な論理になるでしょう。

気に入った言葉をコレクションするだけじゃダメですよ
> T_anakaさん
>973を読んで、大変残念に思いました。

>私は三角形の定義にもA氏の定義にも同じ論理を当てはめるつもりです。

そうですか。まだ、そうおっしゃるならば、「論理」という言葉を使われない方がいいと思います。

>気に入った言葉をコレクションするだけじゃダメですよ

私のコメントを読んで、こういう言葉しか出てこられなかったのですか。

「気に入った言葉」ではなく
ある目的のために、有用な実践かどうかということです。

前も言いましたが、実践には、あらゆる思考過程も入ります。

解釈は自由だと思いますが、思想を理解しようとしない態度はよくないと考えます。
>さくらもちさん
>967
「菊次郎の夏」推薦映画になれないシーン、ありましたっけ。
とても良い「物語」だったような
…昨日借りに行ったら、五本とも借りられてました。人気ですね♪

>わたし自身を顧みて、学校に於ける道徳教育の効果については?です。

そんなことは、決してないと思います。

そして、どんな先生に出会えるかも、大事ですね。
>私のコメントを読んで、こういう言葉しか出てこられなかったのですか。

ひょっとして、自分のコメントが「本質的に」優れており、なにか「立派」なコメントを引き出すに足るものとでも思ってませんか?


>解釈は自由だと思いますが、思想を理解しようとしない態度はよくないと考えます。

それはお互い様ですよ。
私は私のコメントを読むものが誤解してても、私の思い描く論点上重要でないなら指摘しないので気づけなかったのかもしれませんが
>私は私のコメントを読むものが誤解してても、私の思い描く論点上重要でないなら指摘しないので気づけなかったのかもしれませんが

素敵な言葉トピで話題になっているが、思想の理解というのは簡単なものではないので理解に難があったとしても自然だと思っている


さて、まんもうさんの924ですが
---引用---
1-a.三角形は論理的事実に基づいて判断されていますが、
1-b.黒い眼がなんとやらは経験的事実に基づいて判断されています。あきらかに帰納的推論なので必然性はありません。
2. 三角形は1個の理念で示されているので、それを扱うことで三角形すべてについて判断できます。
しかし眼の色はすべての人間のうちの一部の人間についての有限な事例の判断です。
3. A氏は有限回数の経験によって人間を定義しているに過ぎません。ようするに定義そのものが恣意的なのです。
4. ヒュームの「今日東から太陽が昇ったからといって明日そうであるとは限らない」という有名な言葉があります。太陽は東から昇ると定義してもその定義が正しいと主張することはできないのです。
5. 経験的事実から必然的判断はできません。
6. 一方三角形(サンコッケイではありません)はさまざまな形を想像できますが点と線によって「三角形すべてがこうだ」という共通の性質を持っているということが理解できます。
---引用---

2は924でまんもうさんが証明しなければならないことそのものなので、924の根拠にはなりえない。
4は「経験的事実に基づいた判断」への評価を語っているが、私はそのこと自体には異論を挟んでないので、いらない。

余計なものを省き、かつ、再編すると、
---再編---
1-b.黒い眼がなんとやらは経験的事実に基づいて判断されています。あきらかに帰納的推論なので必然性はありません。
3. A氏は有限回数の経験によって人間を定義しているに過ぎません。ようするに定義そのものが恣意的なのです。
5. 経験的事実から必然的判断はできません。

1-a.三角形は論理的事実に基づいて判断されています
6. 一方三角形(サンコッケイではありません)はさまざまな形を想像できますが点と線によって「三角形すべてがこうだ」という共通の性質を持っているということが理解できます。
---再編---

「A氏の定義は、明らかに経験的事実に基づいた判断である(かつ、経験的事実は必然的判断になりえない)」、一方、「三角形は点と線によって『三角形すべてがこうだ』という共通の性質を持っているということが理解できる(だから論理的事実に基づいており、必然的命題である)」。というのが、924のキモ。
A氏の定義が必然的かどうかを、「経験的事実に基づいた判断であるか否か」で判断している。一方、三角形の定義が必然的かどうかを、「定義から共通の性質を理解できるか否か」で判断している。

文字通りダブスタ。基準を二つ使っている。
まず、このあたりを整理して、同一の基準を使ってA氏の定義と三角形の定義の「本質」を区別するように、洗練させてみて欲しい。
ダブルチェック的な感じで基準を二つ使う分には、基準が二つあってもいいかとも思うが(「基準1によってAと評価され、かつ、基準2によってBと評価された場合のみ、Cとする」みたいな)、それはそれで、A氏の定義も三角形の定義も、同じように二つの基準でチェックするようにして欲しい。なお、「三角形の定義は基準2をパスするのだから必然的命題である、基準1をパスしないものは非必然的命題なのだから三角形の定義は基準1もパスする、よって三角形の定義は必然的命題である」とかやっちゃだめよ。
「人間は黒い眼を持つ」という恣意的は判断と「三角形は三つの線分を持つ」という当然の判断が区別できないわけがないのです。
こんなことはわからない問題ではないのです。
1-a,1-bですでに説明済みです。
それぞれ性質が違うのですからあなたの述べるダブスタというのは単なる思考の混乱です。
それを当然の前提として無根拠で置くってことなら、それでいんじゃね
↑私はその体系とは距離を置くけどね
>975 ○永遠さん

>「菊次郎の夏」推薦映画になれないシーン、ありましたっけ。

ほとんどのシーン(笑)。
この映画は以下の理由で教材として大変優れていると思いました。

1.子供たちの中にある道徳が何度も試練に晒される。
2.様々なシーンで子供たちに自己決定を迫る。
3.人間というのは複雑な生きものなのだということを教えている。

>そんなことは、決してないと思います。

うーん、わたしはリアルからしか学ばなかったような気がしますが、もしかすると学校での道徳教育がサブリミナルのように脳に仕込まれていて、その後の価値判断に影響を与えている可能性はあります。しかし授業の内容については、何一つ覚えていない・・・
>981 追記

タケシが演じる主人公「菊次郎」は、悪ガキがそのままオッサンになったキャラとして設定されています。この幼稚な菊次郎、この映画を観ている子供たちの延長線上にいる菊次郎が「大人とは何か?」を子供たちに教えるという設定が素晴らしいと思います。つまり、「キミたちが持っている物差しでは計れない、困った生き物が大人なのだ」と教えています。

トピずれ連投多謝。
>983 反ーテルさん

>もし私の考えが正しければ、この問いは、問いとして成立しつつも、明確な答えを了解してならない、という奇妙な事になります。

もう少しご説明願えたらと思います。
問いとしては成立するが、そのような問いは忌避すべきものであるから、問いに答えることも、答えを了解することも忌避すべきものである、ということでしょうか。
たとえば「神様は誰が作ったのか?」という問いのように。
>986 反ーテルさん

よく分かりました。
丁寧なご説明ありがとうございます。
あなたの仰ることは尤もだと思います。
そろそろ1000ですね

SEVENさんのあちらでの発言と絡みますが、
http://synodos.livedoor.biz/archives/1524883.html
にあった、ローティー評

>彼は、自身が身を置くアカデミックな正統哲学を無用であると告発し、哲学にルサンチマンを抱く人たちの生を肯定する。その魅力は、共倒れを覚悟で相手に最大のパンチをかますという、アイロニーの手法にあるだろう。相手を倒すが、自分もいずれ倒れる覚悟を決めておく。
さて、別トピですっきりしたところで

988のように思っているのに、その手の議論の作法を身につけて気合をいれるっていうのはきついなー
>T anakaさん

蒸し返して悪いんだけど、「三つの線分を持つ」という三角形の定義は、非ユークリッド幾何学では否定されるの?

また、「同一直線上にない三点と、それらを結ぶ三つの線分からなる多角形」という定義は非ユークリッド幾何学では否定されるの?
非ユークリッド幾何学が平面を扱う幾何学なら、そして、「直線」を「二点を最短距離で通る直線」とするなら、この定義でいけるんじゃないの?

わたしは幾何学もさっぱりなので教えてけろ。
>991 訂正

× 非ユークリッド幾何学が平面を扱う幾何学なら、
○ 非ユークリッド幾何学が曲面を扱う幾何学で、

失礼しました。
さくらもちさん

非ユークリッド幾何学が否定、というか、必ずしも成り立たないと言ったのは、平行線の公準と言われる、「平行線は交わらない」という趣旨の命題とされるのが普通だと思います。この公準は、かつての数学者達には、さして自明でないから証明がいるだろうという認識をされてはいたものの、しかし、正しいだろうから証明できるだろうとみなされていたような雰囲気だったと思います。
しかし、第5公準が「否定」、というか、必ずしも成り立つとみなさない(ある平行線の間では成り立っているが、別の平行線の間では成り立ってない、つまり、成り立つ場合も成り立たない場合もある)、非ユークリッド幾何学というものも、人類の頭で想定できることがわかりました。その意味で、ユークリッド幾何学の世界は、非ユークリッド幾何学の世界の「一部」といっていいかと思います(多分)。非ユークリッド幾何学が対象とする「面」のうちの一部である、平面のみを扱う幾何学がユークリッド幾何学だと。第5公準は、真理ではなく、扱う対象を限定するための前提だと。

私はユークリッド幾何学に描けるものも非ユークリッド幾何学に描けるものも、両方とも三角形で、定義は「同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形」だと思います。すると、ユークリッド幾何学の世界だけで三角形を考えていた数学者は、不十分だったのであり、非ユークリッド幾何学の誕生によって、新たな三角形が「発見」されたのだといえるかと思います。
定義が「否定」されたとか、定義が「変わった」とかでなく、定義によって描かれる図形の対象が、もっと広いものだとわかった、と。

一方、「非ユークリッド幾何学で発見されたのは『新たな三角形』ではない、たまたま三角形という同じ名称を持ってしまっているが、『別の』図形なのだ」というのが、まんもうさん側の論理です。「純粋三角形は知覚の対象にはなりえませんが、同一直線上にない3点を結ぶ3つの線分からなる図形という定義から三角形の部分の性質を共通感覚で思い描くことができます」という立場を維持するためには、数学者の直観に漏れがあったとする見解ではまずいので、新たに発見されたという解釈はとれないのでしょう。
論理的にはこれも成り立たないこともないかとは思いますが、私は、美的にどうかと思ってます。「美的」なので主観ですが、同一に扱えるものを別物として扱おうとして、理屈をごちゃごちゃさせた理論はいかがなものかと。
>論理的にはこれも成り立たないこともないかとは思いますが

「そういう理屈を構成したところで、論理的に矛盾が発生するわけではないが」の意です
>993 T anakaさん

>定義によって描かれる図形の対象が、もっと広いものだとわかった、と。

ということであれば、991で挙げた三角形の定義は、非ユークリッド幾何学(曲面)もその射程内に収めているということでしょ?
つまり、三角形の定義は、非ユークリッド幾何学の誕生後も変更の必要がない、ということになりませんか?

もしそうであるなら、A氏の帰納的証明のように、「三角形の定義も帰納的証明でしかない」とは言えないでしょう。

>一方、「非ユークリッド幾何学で発見されたのは『新たな三角形』ではない、たまたま三角形という同じ名称を持ってしまっているが、『別の』図形なのだ」というのが、まんもうさん側の論理です。

非ユークリッド空間?にプロットした三点を線分で結んだ図形をユークリッド幾何学で見たら、線分は直線ではなく曲線になる。つまり、平面に於いて三点を線分で結んだ図形と相似にはならない。したがって別の図形である。
これのどこがおかしいのでしょう?

>同一に扱えるものを別物として扱おうとして、理屈をごちゃごちゃさせた理論はいかがなものかと。

だから、上で述べたことが正しいなら、同一ではないのですよ。視点をどちらかの世界に固定すれば、二つの図形は別物です。曲率=0の世界の事象と、曲率≠0の世界の事象を同一だとするあなたの考え方のほうが間違っているのではないでしょうか?
さくらもちさん

確か1000コメで終了だったはずなので、最後までいかなそうですが

>ということであれば、991で挙げた三角形の定義は、非ユークリッド幾何学(曲面)もその射程内に収めているということでしょ? つまり、三角形の定義は、非ユークリッド幾何学の誕生後も変更の必要がない、ということになりませんか?

この部分に関しては、そうだと思います。
三角形の定義は、ユークリッド幾何学・非ユークリッド幾何学の双方の図形を含んでいるのに、数学者は、非ユークリッド幾何学の方の三角形については、長い間存在に気づかなかったのだ、と。

A氏の例示は、まんもうさんの論理(「純粋三角形は知覚の対象にはなりえませんが、同一直線上にない3点を結ぶ3つの線分からなる図形という定義から三角形の部分の性質を共通感覚で思い描くことができます」とか)が【正しいとしたら】、どういうことになるのか示したものです。その論理は、こういう結果を産むから馬鹿げているんじゃないか、と。
よって、私が「正しい」とは思っていないことをも主張しているかのようにみえるかと思います。
>A氏の帰納的証明のように、「三角形の定義も帰納的証明でしかない」とは言えないでしょう。
どちらかというと、私はA氏の定義は帰納的証明ではないといっていました。892はA氏の定義が成立するまでの歴史の話であり、証明ではない、と。それをいうなら、三角形の方も成立までの歴史がどんな感じだったのか考察しなければならんだろう、と。


>非ユークリッド空間?にプロットした三点を線分で結んだ図形をユークリッド幾何学で見たら、線分は直線ではなく曲線になる。つまり、平面に於いて三点を線分で結んだ図形と相似にはならない。したがって別の図形である。
これのどこがおかしいのでしょう?

>だから、上で述べたことが正しいなら、同一ではないのですよ。

「同一の」とか「別の」という言葉の解釈に齟齬があるような
Aという三角形とは別の、Bという三角形である、という意味ですか?

まんもうさんの論理は、多分、「『三角形』という記号が指すものには、意味?と意味?がある(イデアみたいな発想を使わないとまずいのでしょうが無視します)、ユークリッド幾何学の『三角形』は意味?でいうところの『三角形』であり、非ユークリッド幾何学の『三角形』は意味?における三角形である」というものだといってよいかと思います。
これは、「991で挙げた三角形の定義は、非ユークリッド幾何学(曲面)もその射程内に収めているということでしょ?」とは矛盾するのでは。

あと、「ユークリッド幾何学で見たら」の「見たら」もよくわからないのですけども
トピが終わる前に、感想

別のトピで書いたけども、社会や人の何がしかを論じるのであれば、「こんな問題があります、なんて悪いのでしょう!」ではなく、「この問題の解決策はこれでどうか?他に何があるか?」という形でやりたい。後者の議論においては、何かが問題であるという価値観さえ共有されれば、【なぜ】問題であるかの認識は、すり合わせなくてもよい。
問題とみなされてないことを問題であると指摘するためには、哲学的な理論は、一つの有用な説得方法かもしれないが、既に十分な協力者をえている問題の解決にあたっては、さして役に立たないようだ。
人類が得意としている問題解決の方法は、試行錯誤を繰り返しながら科学的に考えていく方法の方だろう。
問題への協力者が増えるにつれ、何故いけないかを論じ、価値観を共有して結束を強める政治に労力を割くよりも、実際に解決策を考える方へ力を入れたほうがよいのではないか。

結果としてよい社会ができるのであれば、その社会の人々の信仰がどこにあっても、よいのではないの。


あとものの見方を巡る論争は、とくに政治的な必要性がないならば、やりたい人達がやりたい人達とだけやっていればよいのではないの(新たなものの見方を提示する仕事には、社会的な価値があるとしても)。共存は、価値観が一致している部分をさがして、妥協点を探り、その妥協点を採用することで一致しさえすれば、十分である。

どの程度他人に対して「一致している部分」を求めるかは、人付き合いのスタイルという、個性の範疇。
相手が、自分の望むレベルで価値観が一致している深い関係を望んでなかったとしても、諦めろって話。
また、人類が望むレベルの「価値観の一致」は、昔に比べて、浅くなっていっているんでないか



そんなわけで、力を入れるなら哲学以外のことだなー
哲学にも触れるとしても
> T_anakaさん

997を読んで、いろいろあったけれど
このトピックも、十分分意義があったなあ、という個人的感想をもちました。

997は、ローティの思想の真髄ですね。
実践は、何より大事です。(なんべんか目で、すみません。)

ぴかぴか(新しい)初めの方の議論も、大変意味のある大切な議論がなされていますね。
皆さんのご意見が興味深いです。

相対主義や、詭弁や
三角形について学べて良かったです。

ローティの本を、何冊か読むことができました。
ありがとうございます。

本当に、お疲れ様でした。
m(_ _)m

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