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考える糧ゴリーコミュの差別論争.第3ステージ

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すでに〈差別〉について論じているトピックは2つありますが、異なる角度から議論に新展開が開けたらいいな、と考えます


私たちの通常の知は世界を区分、区別することで成り立っている
Aがあり、Bがあり、Cがあり、Dがあり……というように。

これらの〈分別知〉はそれ自体では個人に悔しさや憤りを生むものではない
差別とはこのような区別・区分をなす分別知がエゴあるいは集団エゴ(地域エゴや人種エゴや男性エゴや階級エゴなどもろもろを含む)を添加されて汚されたものに他ならない

汚された区別=差別は言葉、態度、規則、社会システムなどに浸透する
通常の中立的な区別をよそおいながら汚れた悪意ある目的を達成しようとする

その汚れた区別=差別の標的とされた個人や集団は、当たり前のようになされるその隠れた、あるいはあからさまな差別によって、人間的尊厳をいたく傷付けられることになる

では、人間的尊厳とはどこにあるものか?

それは差別の向こう側にあるのはもちろん、区別や分別知さえも超えたところに、すべての人に共通のものとしてある

私たちの分別知さえも超えたところにある無分別知の直覚の中で輝く無垢の命の絶対的価値なのだ!

コメント(69)

露山露さん、とても刺激的なコメント、ありがとうございます
共に学べることを嬉しく思います

>知というのは、何かについての知であると思います。たとえば、Aについての知は、Aと非Aとのちがいの上になりたっています。そのいみで、知のすべてが分別知だと思います。ですから、無分別知というのは没概念、という気がします。

「Aについての知」は確かにおっしゃるように「「Aについて」のものであり、「Aと非Aとのちがいの上になりたって」いるでしょう

Aと非Aとのちがいを認識できない状態から比べたら、そのちがいにはっきりと気づくことは確かに新たな知の獲得だと言えると思います

〈無分別知〉とは決してこのような知の獲得が達成されていない状態に帰ること、退行することではありません!

むしろ知の繊細な構築の果てにAと非Aを分別する自己の主観とその他の世界との境界や、有ることと無いこととの境界についてまで思考し、

ついにはこうした二元論のすべてへの疑念に直面してこれを突破し

すべての二元論が抱擁されてあるところの基底の明け開けに意識が開かれた時の輝きと安らぎを〈無分別知〉と呼んだのです

おっしゃるようにこの場合の〈知〉とは〈分別知〉とはまったく性格が異なります
露山露さん

それから
>「すべての人に等しく浸透している輝きを見る無分別知は、すべての人に対する限りない愛情として湧き出さずにはいられないのではないでしょうか?」
そうですが、人間の尊厳をになうのがひとりの「私」であるからこそ意味がある、とぼくは考えます。

ここの所がおっしゃっていることがよくわかりません
人間的尊厳は私にだけあるのだよ、という意味でしょうか?
私の人間的尊厳を傷付けられることこそが意味を持つのだよ、という意味でしょうか?
ここでの議論は、

差別=いけないこと。
差別をなくす行為=よいこと。

になっているかもしれませんが、「第3ステージ」ということで、他の意見も少し述べさせてください。
差別が人間的な行為とも言えることもあると思います。

たとえば、極端ですが、差別的な彼氏と平等思考の彼氏を例に考えました。

差別的な彼氏。
「僕は、他のどんな人に嫌われたてもいいから、君だけを愛したいんだ。そして、どんなことがあっても君を他の人から守っていく。君を守るために、僕は外で働いてくるから、君は家庭を守ってくれ。」

平等思考の彼氏。
「僕は、すべての人に対して、愛情をもっているから、君だけを愛することなんてできないんだ。君を特別扱いすると、他の人がそのことで差別だと思うかもしれないから、理解してほしい。それと、今の時代、男が女を守るなんて時代遅れだし、男女差別だよ。男が、こうしなければいけないなんてことなんてないんだよ。僕としては、きみの人権も尊重して、お互いが独立して協力し合って生きたいんだ。だから、ここのお勘定だけど、男女の経済的自立を考えて割り勘にするよ。」

どちらかというと差別的な彼氏のほうが「人間味」にあふれている気もします。どこまでが区別か、どこまでが差別かは難しいところです。

誰かを大切に扱うということは、誰かを大切に扱わないということにつながるし、どの人も平等に扱うということは、誰も大切に扱えないということにもつながるとも思います。

トピずれだったらごめんなさい。ただ、差別をなくすというより差別との共存ということを考えるほうが、いいのかなぁと思います。
>78910さん

自分を守ることが人間の尊厳を守ることであるような、
そんな感じのことをイメージしました。

たとえば、「私」にたいして不正が行われたとき、
「私」が我慢すればいいだけ、
という考えから忍従することもありうるけれど、
それは人間の尊厳にたいする義務に反することではないか、
というようなことです。
Five Eastさん、素晴らしい指摘ですね!

誰もが実生活の中でふと思い浮かべながらも、こういう差別論においてはつい忘れてしまうことを見事に拾い上げてくれました!

そうです。差別とか区別とかの言葉の定義は何らアプリオリなものではなく、したがって実生活の経験の実際によって常に突き崩される可能性がありますね

まさに僕たちは自分の好きな人を差別的に優遇する!
このことを悪いことと断罪できるのか否か?


道徳的な高みを歩こうとする人はもしかしたらこのような葛藤を感じるかもしれない
しかし僕は煩悩が深いせいか、明らかに自らのエロスが向かうその人を差別的に大事にしようとしてしまう

割り勘にするかどうかは、またちょっと次元の違う話だと思うけど(笑)
露山露さん

>たとえば、「私」にたいして不正が行われたとき、「私」が我慢すればいいだけ、という考えから忍従することもありうるけれど、それは人間の尊厳にたいする義務に反することではないか、というようなことです。

これは本当に繊細な問題ですね
こういう繊細な問題を議論の中で取り上げて下さる露山露さんに敬意を覚えます

そうだ!そこで黙っているべきではありませんね!
この時の戦いは自らの小さなエゴのためではなく、人類共通の価値のためにたった一人立ち上がる戦いですね

もちろん、戦いと言っても目的は相手をギャフンと言わせたり、傷付けることではなく、

相手に真実の価値と人間的優しさに気づかせる戦いです
ペイパー・ドールさん

損得勘定で生きている人間が多いから、卑劣な差別を行うような者には制裁として不利益が与えられることを社会がはっきり示すべきだ、
という意見ですね

でも、人が自らの大切な人を差別的に守ろうとするのは尊いことだ、という考えですね

誰かを守ろうとするとき
生きていく力が湧いてくる人は、多いのではないでしょうか。


掲げ続けることは、大切ですね。

>>その汚れた区別=差別の標的とされた個人や集団は、当たり前のようになされるその隠れた、あるいはあからさまな差別によって、人間的な尊厳をいたく傷つけられることになる。


トピック文にあるように、差別が〈当たり前のようになされる〉社会になってしまうことは、大変、恐ろしいことですから。


差別の現実は、恐ろしいですね。

個人の力には限界があります。

少しずつですが、
いろんな差別が、なくなる方向に向かっていってるとは思います。

〇永遠さん

「その汚れた区別=差別の標的とされた個人や集団は、当たり前のようになされるその隠れた、あるいはあからさまな差別によって、人間的な尊厳をいたく傷つけられることになる」

永遠さんがあらためて取り上げて下さったこの文中における「当たり前のようになされる」について、僕がそう書いた気持ちを書いてみます

すなわち、差別される側にしてみたら悔しさや惨めさや悲しさがこんなにアリアリとはっきりしているのに、差別する側はまるでそんな苦しい感情が生じているなんて知らないかのように、さも「ただただ当たり前のことをしているだけだ」としか考えていないかのように見える、という意味と(つまりこれは差別される側から見た意味)

差別する側にも実は自らの明確な目的について元々意識はあったのだが、それが決して自らの罪悪感をよび覚ますことのないように、巧妙に巧妙に無味乾燥の無色透明な中立的かつ事務的な言説で差別をまるで「当たり前のことのように」実行してゆこうとする、という意味(差別する側から見た意味)。
ペイパー・ドールさん

>差別は不可抗力です
街から学校が消えます
その地域の学校に通うと 差別されるからです

つまり、坑しきれない力で私たちの社会を追い詰める、という意味ですね

確かに長い歴史と先入観と一人一人の保身が複合されて、とても難しい問題になっていますね

啓蒙=人権教育と、未来志向の住み良い社会のビジョンと、一人一人の心の育成がとても大事だと思います
コヲノスケさん

>差別を引いて対立させることで、権力は群衆を統制できる。支配のためのテクノロジーだ。

すなわち、差別を設けることで当の差別対象ばかりでなく、差別対象を差別するその他の群衆を含めた民衆全体をたやすく統制=コントロールすることが可能になる、という意味ですね

国家権力がこうした基盤に立ち、こうしたテクノロジーを当たり前のように使用するなら、その国民とその時代は不幸です

コヲノスケさんはすべての国家権力、すべての時代の国家権力にこうしたことは不可避であると考えますか?

すべての国家権力はしたがって本質的に悪であると考えますか?

すべての国家権力は打ち倒されるべきだと考えますか?
コヲノスケさん、詳しい書き込み、ありがとうございます

しかしコヲノスケさんの意見は客観的な社会学的知見か、そうでなければ悲しいニヒリズムのように思えます

そこに理想の入り込む余地はないのでしょうか?
僕たちは「世の中ってそういうものだ」って了解して諦めているだけでいいのでしょうか?
単なる被害者や共同正犯にとどまっているだけでいいのでしょうか?

僕はそうは思いません
78910さんの正義感や理想に燃える姿、素敵ですわーい(嬉しい顔)
そういうのって嫌いじゃないです。

ただ、ふと思ったのは、エゴという行為が、自己の思いを相手に押し付けるものだとすれば、差別しようという行為だけではなく、差別をなくそうとする行為も「エゴ」ではあると思います。相手がしたいということに反して、自分がしたくないということを主張しているわけですから。

そして、汚いエゴがなく差別がない社会を作りたいという理想は素敵ですが、そのことを他の人にも求めようとする時点で、そういう気持ちを相手に押し付けようとする「エゴ」ではないですか?

僕は、女性専用車両はあってもいいとは思いますが、差別的な制度ではあると思っています。
http://www.eonet.ne.jp/~senyou-mondai/index.html

エゴや差別はあってもいいのです手(チョキ)(悪質でないのなら。)

78910さんが何をエゴとし、差別としているかを不思議に思い、コメントしました。

78910さんの理想が、「ポジティブアクション」に繋がらない事を願います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

78910さんの正義感や理想に燃える姿は とても…大切な事だと思います。

中立的な 考え程 悪を増長させるのでは なぃでしょうか ?

例えば…

虐めの問題にしても どんなに虐める理由があったとしても…

100%虐める側が いけなぃと思っています。

虐めてよぃ理由には 決してなりませんから…

僕も、イジメ、部落差別、偏見などなどの悪質な差別はなくしたいと思っています。だから、僕は、冷静になって「中立」になって考えたいです。それが、問題解決への近道だと思います。


イジメは、イジメられる側が、「嫌だ」と感じるときに問題になるんだと思います。これと同様で、差別も、差別される側が、「嫌だ」と感じるときに問題になるんだと思います。(エゴもエゴをされる側が、「嫌だ」と感じるときに問題になるんだと思います)

差別もエゴもそれ自体は問題ではなく、嫌がる人に嫌なことをするということが問題です。そして、考えるべきは、その行為をしないと嫌だという人と、その行為をしては嫌だという人がいたときに、どうするべきかだと思います。
Five Eastさん、ありがとうございます(^_^)

>エゴや差別はあってもいいのです手(チョキ)(悪質でないのなら。)

エゴと差別を同列に置くのはちょっと荒っぽい議論だと思います
エゴにはさまざまな定義がありうるし、文脈によってもその意味が変わって来るからです

「悪質でない差別はあってもいい」と言う場面の差別も、ほとんど通常の区別と見分けがつかなくなります
ただ、差別する側が「これは悪質ではない」と思っていたとしても、差別される側の心情や悲しみに対する無知からそう考えている場合もあります


>78910さんが何をエゴとし、差別としているかを不思議に思い、コメントしました。

相手の心情に寄り添おうとしない傲慢を、ここでは主にエゴと呼ばせていただきました
そして、立場が入れ替わった時に同じ仕打ちをされたなら、すごく悔しく悲しいことを主に差別と呼ばせていただいてます


>78910さんの理想が、「ポジティブアクション」に繋がらない事を願います。

ポジティブ・アクションとはどういうものでしょうか?
CoCoさん、ありがとうございます

「差別やイジメがあったとしても、それが自分に向かわない限りはいいや。黙っていよう。社会はそういうもんなんだから文句を言ったって始まらない」
こういう考えと態度は確かに差別やイジメを継続させますね
この考えと態度によって差別は生き続け、イジメは終わることがありません

理想を持ち、理想の方向へ1歩、歩み出すことは人間にとってとても尊いことだと思います
Five Eastさん

>差別もエゴもそれ自体は問題ではなく、嫌がる人に嫌なことをするということが問題です。

「嫌がる人に嫌なことをするということ」に差別があったり、エゴイスティックな言動があったりするのではないでしょうか?


>そして、考えるべきは、その行為をしないと嫌だという人と、その行為をしては嫌だという人がいたときに、どうするべきかだと思います。

「嫌がる人に嫌なことをする」行為をしないと嫌だという人と、そんな行為をされたら嫌だという人を見比べて思案なさっているのですね

確かに人を傷付けたい人や罵倒したい人や殺したいという人はいるかもしれません
そしてそういうのもその人たちにしてみたら純粋な欲求であり、自由の範囲内だ、という理屈もあるかもしれません

しかし、この理屈、この理論は明らかに間違いであると僕は思います
エゴと差別について、「傷付けたい人や罵倒したい人や殺したい」などの状況におけるもの限定なら、僕も78910サンの意見のままでいいと思います。

傷付けたい人や罵倒したい人や殺したい人

は、極端な例ですし、これへの反対だけなら、それほどは問題ないと思いますし、他の方の同意も得られると思います。

ポジティブアクションについは、コメント50にリンクを張ったので、もしよかったらご覧ください。wikiのホームページです。
Five Eastさん、リンクありがとうございます
(^_^)/

和製英語なんですね
お陰さまで意味はよくわかりました
その意味のことが「ポジティブ・アクション」と日本式で呼ばれているということは不勉強ながら初めて知りました

どうもありがとうございます(^o^)

ところで、Five Eastさんが僕に対して「ポジティブ・アクションを起こさなければいいが…」と心配なさるその言葉の意味がいまいちよくわかりません

差別やイジメから人を守ろうとして、かえって差別する人たちやイジメる人たちにつらくあたらなければいいけど…

ってゆう意味でしょうか?
そのとおりです。

差別をなくそうとして、新たな差別を作ったり、イジメをなくそうとして新たなイジメを作ったのでは、何をしたいのかわからなくなります。

世の中は、「正義」と「悪」との戦いというよりも、「正義」と「正義」の戦いのことのほうが多いと思います。勝ったほうが相手のことを「悪」と言っているだけです。

冷静になって、それらを考えてもいいと思いました。
Five Eastさん、ありがとうございます

確かに差別やイジメへの報復的反撃はおっしゃるような新たな自己正当化を装った差別やイジメに転化するおそれが無きにしもあらず、ですね
それは確かに考えてみる論点の一つだと思います

しかし、そのおそれはそのおそれをいかに排除するために最も大事なこと、すなわち
「私たちは誰かを血祭りにあげることが目的なのではない。誰ひとりとしてその決して傷付けられてはならない人間的価値と尊厳をしっかりと温かく守ってあげることこそが目的なのだ」
ということをお互いに心に深く理解し自らの心を成長させた時、取り除かれると思います

僕たちは何も、一つの差別を無くして代わりに新たな差別を生み出したいわけじゃない
一つのイジメを無くして代わりに新たなイジメを生み出したいわけじゃない

また、それを恐れて現在ある差別やイジメを放っといていい、という理屈にはならない

大事なことは報復や血祭りやいけにえではなく、誰もが安らぐことができ、誰もが笑顔と喜びをもってその人生をまっとうできる基盤となる愛情と支援に満ちた社会を作ることだと思います
コヲノスケさん、とっても深い見方ですね

>差別がなくなり、平等が仮に実現するとしたら そこには逆説的に喧嘩の強さやら頭の良さやら容姿のような別種の差別とコンプレックスがうまれてくるだけである。

今、世間に存在するすべての差別が消えて無くなった途端に新たにまたさまざまな差別が産まれて来る、という意味でしょうか?


>色々な差別があるがゆえに逆説的に原始的な差別は重層的に覆い隠され…

「喧嘩の強さやら頭の良さやら容姿のような別種の差別(とコンプレックス)」のことをコヲノスケさんは原始的差別と呼んでいらっしゃるのですね


>覆い隠されるがゆえに逆転可能なものとして見えてくるという側面がある。

コヲノスケさんがおっしゃる「喧嘩の強さやら頭の良さやら容姿のような」原始的差別はその他の差別によって覆い隠されていて、このような重層構造があるからこそ社会的にプラスに機能している側面もあるのだ、とおっしゃるのですね

「だから下手に今ある差別をなくさないほうがいい」というご意見でしょうか?
例えば、たまたま生まれた場所や国や肌の色や性別だけで、

昔の人への感情を押し付けられたり、
国家権力への好き嫌いを背負わされたり、
歴史的背景を絶対化してレッテルを貼られたり、
扱いを固定化されることは、
個人の心にとってとても悲しいことだと思います。
外部化された差別を保持、固定するのはつまるところ個々の無知です。
「差別をなくせ」というスローガンは「無知な人間をなくせ」というのに等しくその全き実現可能性はゼロに等しいと思います。
しかしながら、功利主義の名のもとに国家が行おうとする差別くらいは阻止できなければなりません。原発の維持推進に反対します。
>>[063]がそこで、原発の維持推進を差別の文脈で取り上げていらっしゃるのは、
誰に対する差別を念頭に置いたものでしょうか。
>>[60]が仰っている原始的な差別と関連する話ですが、
人間は元が順位制の群れを作るサルと同祖の生き物なので、
自分より弱い者を虐げて生きようとする本能があるのかもしれません。
そして言語を使う生き物であるが故に、虐げる(虐げられる)動機を説明出来る言葉を欲求する、
言い換えれば差別を欲求するのかもしれません。

ですから、人間が複数いてそれが強い者と弱い者に分けられるなら、
そこには必然的に差別が生じるのでしょう。
(この場合の強い弱いは能力だけではなく時機や縁故や運不運も含みます)

だからと言って今ある差別の禁止、防止をしなくて良いとは思いませんが。
むしろ本能的な差別への欲求があるとすれば尚更、
食欲や性欲同様に適切に抑圧される事で初めて快適かつ健康な社会生活が可能になると
言えるのではないでしょうか。
>>[066]

本当にそこの所は、ぼくたちが差別問題を考える時、どうしても突き当たる所ですよね〜。


>むしろ本能的な差別への欲求があるとすれば尚更、食欲や性欲同様に適切に抑圧される事で初めて快適かつ健康な社会生活が可能になると言えるのではないでしょうか。


この見方にはなるほどな〜と思わされました。
>>[68]

いえいえ、ありがとうございます。

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