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考える糧ゴリーコミュの悪について、悪の理由について。

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リュック・フェリーの『神に代わる人間』という本を読んで興味深く思ったので。

悪について考えましょう。

まず、神学の観点から。
ずっと長い間、西欧では神学的な倫理が善と悪の問題を決めていましたから。
(ちなみに私は無神論者です。)

ユダヤ・キリスト教では、創造主がたった一人で全てを作ったのに、
悪だけは創造しませんでした。創造主が悪を創ったとすると、
創造主の完全性を否定する事になります。
ですから、神学は悪の起源について、
最高位の天使であったサタンの悪意の源はサタン自身にあり、
悪はサタンの自由な選択の結果だったという事を認めています。

ここには既に、神がそう決めましたという決定論からの逸脱と、
わりと近代的な悪への考え方の萌芽があるように見えます。
(後ほど判ると思います。)
とはいえ、今では私たちは「悪魔が人間になりすまし」ていたり、
「悪霊が取り付いて悪事を為した」りするとは、普通考えませんね。

フェリーは「神学は人格化された存在の中にある『悪意』を告発し、
実際に悪を犯そうとする意志を意識ある主体に帰す。」と言っています。

おかげでというか、この考え方はユダヤ教徒、キリスト教徒でなくても
全く関係が無い訳ではないですし、
また、信仰を持つ人たちが昔ほど倫理観を神学や宗教的権威に求めなくなっても、
依然として悪の問題は残っています。

コメント(298)


また、78910さんが、#257でおっしゃるように、善悪という概念は、私たちの生活経験から生まれた、「共通了解を持つために与えた名人辞、概念」ですね。

その共通了解については、自分が本気で他者の立場にたつことを想定するならば
それほど、意見はわかれないのではないかと考えています。
悪質ないじめなどに関しても。
(脳の回路の問題など、考慮する点はありますが)


コラムから

俺の詩 を一つ

無明

無 無 無 無

何も感じないこと

世界 自心さえ無い
鼓動

さえも

善と悪の敵


全ての終わり。



つまり現代人は 自分を善と悪に分け その悪を敵と想定してしまい。

自身を狭めて 何かが欠けた人間になってしまっているのではないだろうか。

その善と悪が自身中で葛藤し和解して一人の人間になるのではないだろうか?

悪感情は 誰しもが持つもう一人の自分自身なのだから





>>[256]

道草を食ってますよ。少なくとも、私の思考は。ゴールはあまり意識したことはありません。

でわ 問い直そう

人々はなぜ 争いを好み 闘いそして勝つことに拘るのか?

いや 産まれて育つ世界が 争うことを強いているのだろうか?

しかし勝利の美酒ではないが勝利の瞬間の達成感と言うのはなぜ生まれるのだろうか?

[262] 次元王星空団長さん

人々は人間社会というものがたとえ協調を重視していても一皮むけば自分が生き残るか、それとも敗北して死ぬかの弱肉強食社会、主と奴の闘争社会(ヘーゲルの言葉)であることに敏感に気づいているからではないでしょうか?
それは人間が動物たちから分化する前の原始の闘争状態であり、理性なきエゴの無政府状態として常に悪夢の中でイメージされるものだと思います。
人間はこの悪夢に転落することを常に恐れている。
恐れながら、小賢しい人間は「自分こそ他人を踏みくだいてみせる」と暗い胸の中で企んでいる。


78910さん

そう そのくせ 人間は、孤独には耐えられず安らげる場所(恋人 家族 友)を求め 自ら手を延ばしまた延ばされた手を払い 苦悩し続ける。

この苦悩は 生存戦略に必要だったのだろうか?

イヌワシさん

いや

それは少し違うように思える。

闘争本能は 自身と同等か少し上回る相手を求めて争い続けるから闘争本能と言えるのではないだろうか?

完全な支配者になってしまうと闘えなくなるので逆に孤高で孤独な時間が続くことになり暴君になるように俺には思える。

イヌワシさん

だが満たされる訳でわなく。より孤独が浮き彫りになり
自滅を選択せざるおえなくなるのではないだろうか?
善悪を神が最終的に決するというキリスト教はカトリックとプロテスタントの間で血を血で洗う戦争を経験し、ヨーロッパに善悪の相対論、不可知論をもたらすことになった。
カントは宗教による善悪の決定論と、善悪の相対論を比較しながら相対論のほうに理性による優位性を認めながら、なお問題を深く掘り下げようとした。
そもそも人間の認識能力はこの世界をありのままに知ることができるかという所からカントは問い直した。
理論理性の限界を問題にし、その上で実践理性と善悪の問題を根幹からつまびらかにしようとした。
-善悪は、相対的に現れますー-。


-正義の味方であるハズのウルトラセブンも、ウルトラマンと並べると、セブンがちょい悪く見えますー-。


-ドラえもんとオバQならー-ドラえもんが悪。


-ポルシェとランボルギーニー-ランボルギーニが悪。


-たこ焼きと焼きそばー-焼きそばが悪。


-ピザとお好み焼きー-ピザが悪。


-茹で玉子とピータンー-ピータンが悪。


-ヒラメとカレイー-カレイが悪。


-ラーメンとうどんー-ラーメンが悪。

-ゴッホとゴーギャンー-ゴッホが悪。


-高嶋彩と中野美奈子ー-中野美奈子が悪(でも中野美奈子の方が美人)。


-例外はあるものの、黒くて尖ってて硬いイメージのものが悪で、白くて丸くて柔らかいイメージのものが善なのです。


-前者は父親のイメージ、後者は母親のイメージでもありますー-。


>>[274]ー-それはごもっともー-言えてますねー-。


-ゴッホとゴーギャンのケンカからのゴッホ耳切り事件のイメージとか、毛羽立った画風からゴッホを悪者にしてしまいましたー-まあ、個人的なイメージですからー-。


>>[276]ー-ぷぷぷ〜っー-深海怪獣ベラスケス、怪鳥ルドン、超音波怪獣エゴンシーレ、侵略宇宙人エルンストとか、いろいろ居ますねー-。

>>[271]

「犯罪者や戦争指導者」と、「普通のニンゲン」の差は、紙一重の場合はあると思いますが
その紙一重の真相に迫っていくことは、希望に繋がっていくのではないでしょうか。
たくさんの絶望も、通らないといけないでしょうけど。

>>[272] KENさん

「悪の教典」、映画は、未成年には悪影響ではないのかなあと、危ぶんでいます。
原作も読んでない無責任な意見です。すみません。
私も、気になっています。
>>[274]

これは、の巻さんに一票。勝手きままな悪さを感じます。
女性目線かもしれません。

私のイメージなんですが、ゴッホには、「悪い人」のイメージはないんですよね。
情念に苦しんだ、不器用な悲しい人、というイメージです。


>>[273]ヨシムラさん

>>善悪は、相対的に現れます。

そうですね。おっしゃるとおりですね!!

>たこ焼きと焼きそば
たこ焼きが丸くて柔らかいからなんでしょうか?
たこ焼きは、ちょい悪のイメージがあります。
私は、その2つだと、たこ焼きを食べることが多いです♪

ピザとお好み焼きだと、どうして、ピザが悪のイメージなんでしょうか?
>>[281]ー-ピザとお好み焼きで、何でピザが悪か?とツッコまれ困っていましたー-。


-カロリー的観点は、突破口ですねー-。


>>[282]
推論ですが
お好み焼きに比べピザが悪に見えるのは、
1.字形が四角形である。
2.海外の食べ物である。
3.カタカナである。
4.ハーブ類や辛いものをのせることができるので、刺激的である。

のいずれか(または複数)での印象的なものでは、ないでしょうか?

ちにみに、
その他の例との共通項を無理やり見つけるのなら、
海外かカタカナ説が高そうです。
>>[280]

思春期の少年少女は、心がやわらかで、影響を受けやすいですからね。
私も、思春期に「悪のねらい」に、やられそうになりました。
私の危惧を察してくださって、ありがとうございます。
o(^-^)o
>>[283]ー-なるほど、カタカナものは、たとえばパスタとそうめんなら、パスタが悪ですね。


-シルビア・クリステルと滝川クリステルならーシルビア・クリステルが悪。
>>[282]

突っ込みいれて、困らせてしまってすみません。
カロリー高め、カタカナもの、なるほど。
ちょっと贅肉がつきそうで、非日常のイメージは
確かに、悪のほのかな香りがします。
人間の倫理規範において悪だと判定されることも、大自然あるいは大宇宙の営みから見れば、その他の一つ一つの出来事とまったく等価の出来事である

という視点が成り立つとしたら、善悪という問題は本当に狭い世界でだけ戦わせられる話だ、と言えるのでしょうか?


信仰とか宗教とかにおいては善悪は人間の外部にある超越的なものからもたらされると考えられており、
究極的な価値は常に人間の外部、彼岸に置かれていた。
しかしこのような宗教、信仰のあり方では、彼岸の理想と此岸の現実(教会権力の下での腐敗や争いなど)の矛盾を解決できないことにヨーロッパの人々は気づくようになり、
理想を超越的な所に置くのではなく人間の足元に引きずり下ろし、
個人の絶対的自由ということが究極的な目標であると考える啓蒙思想が登場することになった。
神義論というのがあって、「世界は考えられる限り最良の選択」という考えがあったが、
これは大規模な自然災害(まあ、リスボン地震だが)によって覆されてしまった。
まあ、元々キリスト教では「悪とは善の欠如のこと」と言う考えが支配的で、
何とか一元的に八方丸く収まるような考えを模索してましたが、
そういうのは結局、第二次世界大戦という最悪のカタストロフィで吹っ飛びました。

自由意志によって人は悪を選択している、というのはライプニッツ以降どころか、
啓蒙思想も貫く、社会的なフィクションですが、だからと言ってこれを否定してしまうと社会が成り立たない。
ま、旧東側では「悪」をブルジョア精神の責にして、教育刑という形で、強制収容所で道徳を「叩き込む」という罰をつくってましたけど、
さすがに現代でこれを言う人はいない。

しかし、生物学的・大脳生理学的には、
前頭葉の機能の低下や、脳全体の活動過多によって、社会的に不道徳な行為を行って「しまう」人々もいる。
生得的にではなくて、脳のその時々の状況によって(これは精神疾患というわけでもない)。
勿論、こういう事を言い出したら、社会を貫く「お約束」が成り立たないので、無視されてますが。

ある脳科学者(脳科学という用語は日本の橋本内閣時代の造語ですが…)が、
「殺人犯」の脳のパターンというのを割り出そうと、健常者(というか前科の無い人)の脳の解析写真と共に、何百枚ものの画像を研究して、
「殺人犯の脳は有意的にこういうパターンだと言える」という結論を出した。
で、ふと机に目をやると、いかにも典型的な殺人犯的な脳の画像写真があったので、こいつはどんな凶悪犯なんだと思って名前を見たところ、
…自分の脳の画像だった。

人は誰しも悪になり得る。
それも、自由意志に依らずに。
自分が健全だと思っているのは、そう思い込んでいるだけに過ぎない。
悪(悪いこと)というのは、結局、他者の心を配慮することなく、自分の快楽のために他者の守られるべき人権や幸せを踏みにじったり、大きく損ねたりすることだと思います。

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