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竹村洋介コミュの栄養学は性差別です。

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階級差別でもありますが。
似非科学「栄養学」にも一分の理はあるでしょうが、
フードファディズムの立役者であったことからも明らかなように、害悪の方が大です。

とこれ加筆可能なのですよね。いま携帯からなので。
フードファディズムのWikipediaの解説は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0

文献リストは
* 高橋久仁子 『フードファディズム-メディアに惑わされない食生活』 中央法規出版、シリーズCura、2007年9月。ISBN 978-4-8058-3004-8。
* 高橋久仁子 『食べもの神話」の落とし穴-巷にはびこるフードファディズム』 講談社《ブルーバックス》 2003年9月。ISBN 4062574187。
* 高橋久仁子 『「食べもの情報」ウソ・ホント-氾濫する情報を正しく読み取る』 講談社《ブルーバックス》、1998年10月。ISBN 4062572311。
* 高橋久仁子 『食と健康Q&A-チョットおかしな情報の見分け方・接し方』フットワーク出版、2002年10月。ISBN 4-87689-447-7。
* マリオン・ネスル 『フード・ポリティクス-肥満社会と食品産業』 三宅真季子・鈴木眞理子訳、新曜社、2005年。ISBN 978-4788509313。


でも、ホントに問題にしたいのは、栄養学科が女子短期大学にばかりあり、
女子「差別」教育に荷担していることです。根底に、男女性別役割分業観があるからでしょうが。


コメント(15)

 栄養学を似非科学と断じられると、恥ずかしながら「科学の徒」と「川島栄養学の徒」を自認する私は黙っているわけには参りません(苦笑)。
 栄養学とはどういう学問であるのか、そこを弁えない栄養学は、科学ですら無い・・・という事であれば、大いに同意出来ますが。

 栄養学科が女子大に偏っているのは性差別だ、というのは、その通りで、男性に知識を与えないという時点で男性差別でもあります。栄養学は生きていくために必要な知識であり、男女の別無く知るべきものです。
 特に、現代のように、食べ物のほとんどを自分で採集する事の無い生活形態にあっては、栄養学の重要性はますます高まるものと考えます。

 スーパーマーケットなどで購入する食材について、これはもともと どこでどうやって暮らしていた生き物なのか、どうやったら捕まえることが出来るのか、そういう包括的な視点を持たない栄養学であれば、これは似非科学と言われても致し方ありますまいが、川島栄養学は、このような視点を持ち、栄養学を論じています。
 川島栄養学の知見は古く、今見ると全てが正しいというわけではありませんが、栄養学に対する姿勢、考え方については、今でも学ぶべきところは多いと考えます。カルシウムがどうした、ビタミンがどうした、という知識も必要ではあると思いますが、それは栄養学の一側面に過ぎない、という事を、川島先生はお教えになっていると思います。
すいません、誤字訂正のために消去してしまいました。そのため、順番が入れ替わっています。



だいぶ前に書きましたが、マクドナルドだけで食事は充分です。
マクドナルド30日生活で実証した人がいます。書評については、ドリコムアイ.netのバックナンバーをご覧下さい。
マクドナルドでに充分でなところに「健康」幻想を構成して市場を開拓する、そういう機能を「栄養学」は果たしました。

僕もマクドナルドよりうまいもの食いたいですが。

>マクドナルドで充分でなところに
を
マクドナルドで、充分なところに
とあらためました。
>男性に知識を与えないという時点で男性差別でもあります。栄養学は生きていくために必要な知識であり、男女の別無く知るべきものです。

同感です。同様に、経済学も必要です。
金融資本主義下でいかなる株を買いあさるかべきかなどの知識は必要ないでしょうが。
(金融商品に投資される余剰資金はほとんどが収奪の結果であり、人民所有化されるべきというのが、
 僕の後輩であるM.E.主義者森泰一郎君の持論でした。)

ちなみに若干細かくなりますが、女子大学ではなく、女子短期大学です。

私は、かれこれ、6年半女子短期大学、家政学科(途中で、生活科学科に名称のみ変更)に
助手として勤務しましたが、「川島栄養学」というのは、耳にすらしませんでした。

栄養学をやる気がなかったと言えばそれまでですが、家政学会には入会しており、出席もしました。
しかし、申し訳ありませんが、一度たりとも、「川島栄養学」との言葉が出た記憶はありません。
まったく知られていないとうのが、現状でしょう。(再評価されているのなら知りませんが、
まずありえないでしょう)

当時、聖母女学院短期大学の家政学科は、栄養学コースと家政学コースに別れ、
「栄養学」科助手は、飯炊き女といわれていました。その名の通り、教授の昼飯を朝から炊くのが
仕事だったからです。それに対し、家政学科助手は理系をなのり、理系だといって、スプレッドシートで
無意味な統計を出していました。どれほど、理系かはインフルエンザにかかった時、家政学科助手は
「点滴をしてもらえばなおる」といいました。なんの点滴か尋ねても、点滴は点滴だそうです。
目薬でも、点滴してやればいいとおもいました。(当時、タミフルはありませんでした)
ホイップバーターと、ただのバターを重量あたり(体積ではありません)の栄養比較をし、
成分はまったく同じというような理系の研究でした。

>これはもともと どこでどうやって暮らしていた生き物なのか、どうやったら捕まえることが出来るのか、そういう包括的な視点
をもつものは、すでに「栄養学」の範疇を超えているようです。その証左に、「栄養士」の国家試験で
そのよなことは、一切問われません。(4年生卒が条件の「管理栄養士」でも同じです)

医学科に医学はなく、栄養学科に栄養学はない、というのなら、大いに同意できますが。(笑い

どうせ、そのうち、中下等技術者に解体される(医学、上等!)資格者養成課程ですから。

それも究極としては、オートメーション化が期待されるところというのは、
「人格を失うテクノクラート」に記しました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32876635&comm_id=48345
八百屋、魚屋、肉屋と栄養士に関する職業がテクノクラートであったかは議論の余地のありましょうが。
(テクノクラートなどであった試しがないとの賛美する声もありましょう。)


哲学者が哲学屋になり、英文学教師がTOEIC屋になる、わからんひとにはわからんでしょうが、
khrataさんなら、察して頂けるでしょうから、いかがですか?


と書いているうちに、ノザキ/ハラナガのコメントが入りました。

ちょっと回答が面倒になりそうですが、自分の名前を冠したコミュニティなので、答えるようつとめます。

というわけで、khurataさん、よろしく。

 現代栄養学、それは、ノザキ/ハラナガさんが書かれたような、「一日にこれだけの量・単位を摂取せよ」という側面が強いのですが、なぜそういう事になっているのか、それに答える事は難しくありません。
 ヒトを閉鎖空間に閉じこめ、人体に何が入っていき、何が出てきたか、体重・体脂肪・骨量・水分量などがどう増減したか、を調べれば、ヒトの代謝を知る事が出来ます。さらに、そうして閉じこめたヒトに、一定の運動をさせれば、「どれだけの負荷にはどれだけのカロリーが必要なのか」という測定も出来ます。
 このように、ヒトを対象とした「物質の出入り」の知識を蓄積した結果として、「一日にこれだけの量・単位を摂取せよ」(※1)という知見が得られます。

 ただし、ヒトを閉鎖空間に閉じこめて測定したところで、測定技術の無い物質の出入りは分かるはずもなく、栄養学とは常に未完成の学問です(※2)。
 また、栄養学とは人体に対する学問でありますが、人体は個人差がきわめて大きなものでもあります(※3)。従って、栄養の所要量は人によって全て異なり、「これが正しい」という量を提示する事も出来ません。
 これらの点は、栄養学云々以前の話なのですが、栄養学を論じる方々に、こういう視点が欠けがち(に見える)なのは残念なところです。

※1
 この「一日」は、「平均すると一日」という意味であって、毎日毎日同じ量を摂らねばならないという事ではありません。ヒトの身体には物質を蓄積出来るだけの余剰空間があり、たとえばビタミンが 30 日間摂れなかったとしても、死に至ることはまずありません。
 もともと、ヒトの身体は、飢餓に強い性質を持っていますし、1〜2週間の間での「1日平均」で考えれば実際上充分と言えます。

※2
 常に未完成である、という事は、科学自体にも言える事です。よって、この点をもって栄養学が科学的でないと言う事は出来ません。

※3
 遺伝的な差異にはじまり、生活史、生活環境、その人に関わる事全てが、その人の栄養所要量を左右します。栄養学は決して「栄養素学」ではなく、トータルな視点を持つべきである、という川島栄養学の考えは、こういう点とも関わっていると思っています。
>ノザキ/ハラナガさん
 現代の科学・医学において、残念ながら(?)、自然や人体はブラックボックス以外の何者でもなく、それをホワイトボックスとして扱うまでには至っておりません。科学の対象としてホワイトボックスなのは、数学とコンピュータソフトウェアくらいのものではないかと思います。
 何であるかが分からない、内部機序も明確でない、そのようなものの性質を明らかにするためには、「場」に封じ込め、入力(刺激)を与えて出力(反応)を見るしかありません。

> 限られた条件下の限られた種類の物質の出入りを測定するだけで本当にその仕組みが理解
> できたといえるのか?
 私はそのような事を申し上げるつもりはありませんし、そういう方法論で「理解」出来るとも思えません。しかし、他の方法論を考えるのはきわめて難しいと思います。何しろ古今東西の、私なぞよりはるかに考えの深い科学者達ですら、「他の方法」を持ち合わせていないのです。
 限られた条件での誤差を含む実験と、限られた手法での誤差ある観察、こういう道具しか無いのです。そこを否定する事は、科学の否定につながってしまうでしょう。科学を否定するという事は、今現在の、自分の生活を否定する事でもありましょう。

 もちろん、科学は万能でもなければ、絶対に正しいものでもありません。時代により科学は変わってきましたし、今後もそうでしょう。だから、そんな危うい科学に乗っかってしまうのはどうか、という懐疑的な考えも、理解は出来ます。
 しかし、人間の知力の及ぶ限界のところまで、科学は迫れる・迫っていると思います。だから、言い方は乱暴ですけれども、その時代その時代において科学が最善とする方法を採っていくしかない、と思います。
 人間は、所詮、その時代の人間が認識出来る事しか、分からないからです。自然や人体が全て分かったと言う人は、長き未来にわたって現れないでしょう。

> 栄養学についていえば、良い料理人がいれば事足りることについてなぜ学問が必要なの
> か?
 理由はいろいろあると思いますが、私が知る1つの事例として、医学的な貢献が挙げられます。

 夏目漱石は胃潰瘍で死にましたが、その頃、すでに胃潰瘍の手術は確立されていました。にも関わらず、漱石は手術を避けて、死にました。当時の胃潰瘍の手術は、胃を摘出し、食道と十二指腸をつなぎ合わせるというもので、手技自体は、当時としてもさほど難しいものではありませんでした。
 しかし、当時、胃潰瘍の手術の術後1週間の死亡率は 30%近くという高率で、漱石はそれを怖れたと言われています(今だったら、そんな死亡率の手術は、病気で死んだのか手術で死んだのか分からない、つまり治療としての意味が無い、という事で行われませんが)。

 なぜ、そんなに死亡率が高かったのか・・・胃を切除したあとは、当然のことですが、しばらくは口からモノを食べる事が出来ません。そのため、点滴などに栄養を頼る事になるのですが、かつては、静脈注射だけでは栄養を維持出来ませんでした。
 食道と十二指腸は、糸で縫ってつなぎ合わせますが、このつなぎ目がちゃんとくっついてくれるかどうかは、患者の栄養状態により大きく左右されます。消化管手術を受けた患者は、充分な栄養が摂れないのに、栄養状態が良くなければ回復しない・・・このジレンマは、外科医にとって大問題でした。

 この問題を解決したのが、栄養学でした。1965 年、ダドリックやウィルモアら、栄養学に精通した医者が、静脈への栄養注射だけで、仔犬を成犬にまで成長させる実験を成功させました。口からは水一滴すら与えていません。完全静脈栄養法、と言いますが、これは、栄養学の知見無くしては実現し得なかった手法です。
 この完全静脈栄養法があるおかげで、こんにち、消化管手術はほとんどリスクの無い手術になりました。いかに優れた料理人であっても、数万人の命を救う業績は、為し得ないでしょう。

 余談ですが、栄養学に限らず、「役に立たない」科学分野というのは、たぶんありません。19 世紀、電気に関する科学は当時の最先端でしたが、まことに貧弱なものでした。ファラデーは、彼の貧弱な電気実験を見た貴婦人から、「それが何の役に立ちますの?」と問われた時、彼は「そのうち、あなたがたは、電気に税金をかけるようになるでしょう」と答えた・・・と言われています。
 なぜ学問が必要なのか、その問いは大切ですが、それと、学問は不要だ、という姿勢を混同すべきではないと考えます。
>ノザキ/ハラナガさん

> 科学がカバーする範囲が日常生活の全体へと広がっていくことを暗黙の前提と
 私が前記したように、人間は、その時代において持つ認識でしか物事を認識し得ないがゆえに、その時代の認識において後世を縛るのは科学的に善であるとは言い切れない、と私は認識しています。
 現在の認識において、ある分野・技術が役に立たなそうだ、と思われるからと言って、それを止めてしまったら、基礎研究は成立しません。ファラデーは一科学者として、その意を言ったのだと私は理解しています。言い換えるならば、現在の認識で可能性を閉ざす是非を問うたのだと思うのです。
 今、役に立つかどうか分からない、というのは、将来役に立つ、とイコールではありませんが、将来役に立たない、ともイコールではありません。どちらに転ぶかは賭けですが、それは今決める事が出来ないのです。おそらく誰も、「正しい取捨選択」は出来ないでしょう。
 なれば、あらゆる可能性を残し、後世に委ねられるようにする、というのが、現在に生きる者の真摯な取り組みであるとは言えないでしょうか。

 確かに、科学は人間の生活を支配する全てであるとは私も思いませんし、そうあるべきだとも思いません。いかに科学や技術が発達しようと、人間の心には、おそらく、他の何かでなければ満たせない隙間のようなものが残ると直感します。
 ですが、科学とは、万人の共通言語であります。万人の共通言語で記述された、その時代における最も確からしい仮説に従う、というのは、政治で言えば民主主義に似た考えとも言えると思います。それが妥当でないとは、私には思えません。
 それが疑義を差し挟むような事になってしまうのは、真に科学的な考察や姿勢を国民が学べていないからだと私は思っています。
 1つ、うっかり書き忘れてしまいましたので追記致します。

>ノザキ/ハラナガさん
> 少なくとも学校給食の栄養士が心得ておくべき知識とは思えません…。
 完全静脈栄養法が医学界に与えた知見は、「仔犬を成犬にまで生育させるのに必要充分な栄養とは何か」だった事を思い起こしていただければ、それが外科学にとどまるものでない事を容易にご想像いただけることと思います。
 「仔犬」を子供に、「成犬」を成人に置き換えて読めば(もちろんイヌとヒトとでは必要な栄養は異なりますが)、それが学校などの栄養士にとって有用な知見である事は明白かと思います。

 かてて加えて、栄養学は、常に未完成の科学の一分野ですから、職業人としての栄養士は、常に新しい事を勉強する必要に迫られるはずです。もしそう見えないと言うのなら、それは栄養士の怠慢と言って差し支えないと思います。

 もっとも、私が書いたような事は、現職の栄養士にこそ言ってほしい・広めてほしい事でして、それを一介のしがないエロ漫画家が書いているという事自体、すでに栄養士の怠慢であるとも言えますが・・・。

ノザキ/ハラナガさん 、khurataさん、完全に置いてけぼりを食らってしまっているトピ主ですが・・・

>「科学とは何か?」という疑問を置き去りにして「分科の学」がますます細分化していき、いってみれば私たちの生活を浸潤していくことについての不安と警戒

この点だけでいえば、栄養学は滑稽なまでに簡単にボロが出ているので、皮肉にも
「罪が浅い」科学といえるかもしれません。
たとえば医学に比して、その非力さは、多くの人間にとって明白なものでしたから。

栄養士、臨床心理士、医師と対置させていけば、その近代科学成立への貢献度、
裏を言うならば業の深さはおのずと見えてくるのではないでしょうか?

「分科の学」をテリトリーとして、そのなかで「比較的」高度な知識を占有し、
近代科学の存立基盤を問わないままにテクノクラートとして機能することの問題意識については、
私自身、よく知らないうちに山本義隆氏の影響下にあるものと思われます。
そのあたりを、「人格を失うテクノクラート」では問いたかったのですが。
栄養士だろうと、医師だろうと、職業倫理としてはともかく、現実の資格問題としては、
>常に新しい事を勉強する必要に迫られ
ているとは、到底思えません。大学教授もそうですが。
一度、資格(それも国家認定のものがよろしいようです)を手にしてしまえば、
テクノクラートとして(それなりにではありますが)安泰というのが現状ではないでしょうか。

天才科学哲学者、山本義隆氏に喰ってかかろうというものではありません。
彼の問題意識を全面的に引き継ぎ発展させることは手に余ることかもしれませんが、
できる限りにおいてそれを進めて生きたいと考えています。

イリッチ問題とも絡んでくるとは思いますが、
「人格を失うテクノクラート」もよろしく。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32876635&comm_id=48345

>13:Yousuke さん
 栄養学者が、栄養学しか学ばないなら、その栄養学者はもはや科学者では無いと私は考えています。医者も同様です。
 栄養学は科学の一部である、と自覚している栄養士・栄養学者なら、「一部が他に接する部分」についても学ぶ必要があると分かるはずであり、それをやらなければ、栄養学は「取り残された化石的学問」になってしまうでしょう。川島四郎先生の嘆きが聞こえるようです。

> 一度、資格(それも国家認定のものがよろしいようです)を手にしてしまえば、
> テクノクラートとして(それなりにではありますが)安泰
 そんな人達が仮にいて、ある種の世界を作っているとするなら、それはもはや科学界とは呼べないでしょう。科学は名声を得るためのダシではありません。
 しかし、現代科学は、1人では遂行出来ない、巨額の資金がかかる分野も多く、そういう分野に挑むには、政治的手腕のような才も必要です。かつてアインシュタインが言ったように、「科学者は鉛管工のような単純労働で糧を得て、科学は余技としてやるべきだ」という事は、もはや難しいのです。
 とは言いつつ、それに溺れてしまってもいけません。科学者はあくまで科学に対して真摯に取り組む者でなければならないはずです。

>14:ノザキ/ハラナガさん
 おっしゃる通り、栄養士・栄養学者は科学者として、常に社会への関わりを自覚し活動すべきだと思います。なぜなら、科学者といえども社会の中で生かされているわけで、社会に自らの知見をもって貢献・還元する事は、科学者のみならず、全ての職業人の責務であるはずだからです。

 穀物価格の高騰については、近年論議されているバイオ燃料と投機の関わりを解決する必要があり、これは栄養学の出番というよりは、国際金融や政治の出番であると考えます。
 しかし、栄養学者にも出来ない事が無いわけではありません。一例として、筋肉と内燃機関のエネルギー効率を比べ、「生体の筋肉の方がはるかに高効率である」事を示し、バイオ燃料の行く末に警鐘を鳴らす、という事は、栄養学の見地から可能な事です。
 「WFP FOOD FORCE」は、ゲームとはいえ、栄養士を主要キャラクターとして採用したのは、聡明な選択であると思います。しかもこのキャラクターは医学を学んだ栄養士、という設定になっており、ゲーム製作者側の意図を感じさせます。

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