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一条家御庭番秘帳コミュの(3)第一話「Good morning!Adventure!」

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 夕方まで帰らない、と言い残して出発した静が、無言で宿に帰って来たのはしかし、まだ日も高い時間だった。おかげで、叩き出されたはずの無代と食堂でばったり顔を会わせることになってしまった。
 が、静は無代を見ても何の反応も示さない。
 顔は真っ青。表情もなく、どうも足元も頼りない。
 さすがに女将が心配して、
 「お嬢様? 大丈夫でございますか? どこか具合でも…」
 「…いや…。女将…風呂を…頼む…。夕食は…いらない」
 やっとそれだけ言うと、部屋に閉じこもってしまった。
 「…虫だな…、ありゃ」
 書きかけの手紙に目をもどしながら、無代は苦笑する。
 「フィゲルのエロ…天才博士殿の依頼ってヤツだろう。下水道の地下2階に『なんとか草』取りに行くやつ…失敗したんだろうさ」
 「確かもう一個あるよねえ。地下4階までいくやつが」
 女将は心配そうだ。
 「…ああ。下水道地下4階の写真撮って来るヤツな。あの様子じゃ…無理だろな…。よしできた。これ、大至急届けてくれ。天津の石田城下に「泉屋」ってお茶屋がある。そこの店主に『無代から』って言えば、すぐに一条のお城に届けてくれる」
 「よしきた。…ご苦労だったね、無代さん。晩飯と…今夜の部屋を用意してあげるよ」
 「…助かる」
 「でも女を連れ込むのはナシだよ」
 「はは…もう愛想尽かされたよ」
 「そりゃ御愁傷様」
 宿を追い出されるのは免れたけれど…情けない状況は悪くなるばかりで、とてもじゃないが良い夢は見られそうもない。
 これ以上状況が悪くなることもあるまいと、夕食前に静の部屋のドアをノックしてみる。
 返事がない。
 直後に、風呂の案内に上がって来た女将がノックし、声もかけたがやはり返事がない。
 「…失礼いたしますお嬢様。開けさせていただきます!」
 合鍵でドアを開ける。
 「…いない…? あきらめて…国へ帰ったってことは…?」
 「いや…荷物はあるが…装備がない…まさかアイツ…もう一回アカデミーに!?」
 「クエストやり直しにかい!?」
 「…すまん女将、ちょっと行ってくる! 悪いけど金貸してくれ。手持ちの金じゃアカデミーに入れない」
 卒業生が冒険者アカデミーに入る際は、後輩たちへの寄付の意味で有料が決まりだ。
 が、今の無代にはその金もない。
 差し出される紙幣を引っ掴み、なけなしの装備を商人用のカートに放り込むと、ガラガラと引っ張りながら宿を飛び出す。
 露店街を走り抜け、中央噴水脇にあるアカデミーへの転送場所から飛ぶ。
 無代にとっては久しぶりのアカデミーだ。が、年季の入った石畳や石壁にとっては何ほどの時間でもない。
 そしてこの人にとっても。
 「あら、無代じゃない、久しぶりね? どうしたの、血相変えて」
 アカデミーの「ヌシ」、ルーンだ。
 このピンクの髪の女性は「伝説」では、アカデミー創設以来ずっとそこにいて、卒業生全員を詳細に記憶しているらしい…いやそれは恐らく伝説ではあるまい。
 「ルーン、すまん、教えてほしい。『一条静』って女の子が通ってるよな、今」
 「ええ、あの黒髪の、元気のいいコでしょ? 凄い勢いでクエストこなしてる…そういえば無代、貴方の事を探してたわね? 卒業してからのことは知らないって言っといたけど」
 「それはいいんだ。もう会えたから…。で、その静、今日は来たか?」
 「来たわよ? ついさっきも」
 「フィゲルのエロ…いや大博士の下水道のクエスト…だな?」
 「『実験のお手伝い』? それはさっき済んで…あ、また下水か〜。『冒険者になりたい』のラストに行ったとこ」
 「ありがと!」
 イヤな予感が的中する。
 『冒険者になりたい』の依頼こそ下水道地下4階、最下層への突入が必要なクエストだ。
 ダメモトで『ヨン爺』の所へ走ってみる。この老人は腕利きの元僧侶で、今はボランティアで新人冒険者の転送係を引き受けている。
 が、既にアカデミーを修了し、一人前の冒険者となった無代に対しては転送のサービスは拒否される。
 「どーしてもか?」
 「ダメじゃ、規則じゃからのう。…しかし、そのお嬢さんなら確かに少し前、下水道へ転送したぞ。今日一日で、都合…4度目だな」
 何度か失敗し、送り直してもらっているのだろう。
 あの虫嫌いが虫に集られて任務失敗、など想像を絶する精神状態に違いない。
 そりゃ青くもなるだろう。

 それでもやめようとしないのか。

 アカデミーを出て、自分の足で下水道まで走る。
 無代もしばらく通った道だ。覚えたての技、『カートレボリューション』でゴキブリを集め、連続で壁に叩き付けて狩る。商人が使うことが出来る、カートを振り回して敵をなぎ倒す技。
 過去に同じ事を繰り返してきた先輩たちの苦闘の跡が、『そのまま』壁に残されていて…それを見ないようにするのが大変だった。
 うまく西側の壁に集められず、撃ち漏らしに集られては倒れた日々。
 一匹だと思って手を出したら十数匹が固まっていて、いきなり爆発したように襲われた。アレは今でも夢に見る。
 静が…あそこにいるのか。
 地下2階で、静の事を『アイン』に訊ねてみる。彼女もまた、新人冒険者を支援する女戦士だ。
 やはり少し前に通過して行ったという。
 先を急ぐ。
 こういう場合は『ハエの羽』と呼ばれるアイテムを使うのが一般的だ。
 このアイテムを使うと、認識できるフィールド内のランダムな場所にテレポートできる。
 場所を選ぶことはできないため、この羽を何十枚と持って次々に使って連続でテレポートしながら、目的地に近い場所に出るのを待つ、というテクニック。
 通称『ハエ飛び』。
 これを使うと、強力なモンスターがうようよいるような場所でも、無傷で突破できたりする。
 だが、人探しとなると話は別だ。
 無代はハエの羽を使わず、ひたすら歩く。コウモリを斬り払いながら2階を踏破、3階へ。
 ここは、今の無代でも決して楽ではない。
 世界でもココにしか生息しない、体長1メートルを超える巨大なゴキブリは、彼の最強の武器である銘入りの名剣の一撃でも殺せないからだ。
 しかもこのゴキブリどもは、モンスターの落としたアイテムに群がって体内に取り込む性質を持つ。
 つまり倒せば倒すほど、その体内からこぼれたアイテムを狙って群がって来る。
 「静っ!」
 商人の技術の一つ、大声を張り上げる『ラウドボイス』で少女の名を呼びながら、集まって来るゴキブリをカートレボリューション連発で叩き潰す。長いこと狩りをさぼっていたツケで息が切れるが、身体で覚えたタイミングそのものは忘れていない。
 「静ぁっ!」
 歩いては声を上げ、また歩いては大声を出す。
 が、返事はない。既に任務完了して帰ったのか…いや、悪い予感しかしない。
 そして、そういう予感ほど良く当たる。
 3階もどん詰まりに近くなって、辺りの様子が一変した。
 ゴキブリの死骸、それも尋常な数ではない。
 あるものは頭から尻までをまっ二つにされ、またあるものは頭をすっぱりと斬り落とされ、床を流れる汚水にプカプカと浮いている。
 その凄まじいまでの太刀筋。
 間違いなく静だ。
 だが、先へ進むに従ってその太刀筋にも乱れが出て来る。斬っても急所を外れていたり、斬り口が歪んでいたり。
 肉体と精神の疲労、そして圧倒的な『数』の前に、さしもの静が次第に押し潰されていくのが分かる。
 『…静…!』
 無代は夢中で走った。
 そして最奥部、地下4階へ降りるワープポイントの光に透かして、倒れている人影が浮かぶ。
 見覚えのある衣装。
 「し、静! 静っ!」
 まわりに群がるゴキブリを必死で排除し、抱き起こす。
 幼い頃から武術で鍛えられた身体だが、しかし生気がなければ少し大柄な少女のそれにすぎない。
 息はあるが、ぐったりと動かない。ここまでたどり着くのに力を使い果たし、蝶の羽でアカデミーに戻る気力も残っていなかったらしい。
 放っておけばその肉体はゴキブリのエサになり、二度と復活できなかったろう。
 危ない所だ。
 無代はポケットからユグドラシルの葉を掴み出し、込められた魔法を起動する。死者蘇生の基本アイテムだ。
 発動する蘇生魔法。その威力を知ってはいても、結果を見るまではやはり気が気ではない。
 ふ、と静の口元に息が戻る。
 ぱちり、と黒曜石の目が開く。
 そして血の気の失せた唇が開き…
 「き、ゃああぁぁぁああああぁあああああああ!!!!!」
 絶叫が溢れ出した。
 恐怖、絶望、嫌悪、あらゆるマイナスの要素がどす黒くこびりついた絶叫。
 「静! 落ち着け、静! オレだ。無代だ。もう大丈夫。ヤツらはいないから!」
 「…あ…あ…あああ」
 眉の間に深い溝が刻まれ、薄汚れた頬を壊れたような涙が伝う。頬の奥で、合わない歯の根がガチガチと鳴る。
 自分の腕で自分の身体を抱きしめ、何かに憑かれたようにガタガタと震える。
 昼間、野次馬の前で見せたあの鮮やかな姿は、もはや見る影すらなかった。
 無代は、その老婆のように曲がった背中を撫でてやりながら、回復剤を口元に当ててすすらせてやる。
 静は、回復剤を少し飲んでは吐き、また飲んでは吐き、それを繰り返す。口元をぬぐってやるのは無代の役目だ。
 周囲に気を配る事も忘れない。こちらへ向かってくる影があれば、静の目に入る前に即座に飛んで行って潰す。が、何が起こっているのかは分かるのだろう。その度に、静の身体がびく、とすくみ上がる。
 「…静…」
 何とかいくつかの回復材を飲み終わり、身体の回復が追いついたところで、声をかける。
 「大丈夫…か?」
 「…」
 応えはない。首が縦横、どちらに振られることもない。わずかに視線を上げ、無代の方を見るのが精一杯らしい。
 「…これが…ここで言う冒険ってヤツなんだよ」
 無代は、諭すように言った。
 「そしてコレが…冒険者なんだ。俺はここに…一ヶ月通った。一度も吐かずに帰った事は…ない」
 「…」
 「お前が受けたアカデミークエスト。『冒険者になりたい』だろ? ゲフェンの少女・オネストの依頼。冒険者になりたいけど、親に反対されてる。本職の冒険者にあちこちの写真を撮って来てもらって、それを自分が撮ったことにして親を説得するって」
 「…」
 「それは嘘だ」
 「…え?」
 静の唇が小さく動き、疑問符を吐き出す。
 「あの子はゲフェンの大金持ちの子供でね。冒険者になるつもりなんか最初からない。自分の依頼で、アカデミーの駆け出し冒険者が四苦八苦するのを見て…楽しんでるだけなんだ」
 「…」
 「アカデミーもそれは知ってる。けど依頼の報酬以上に、彼女の親から莫大な額の寄付がある。冒険者の訓練にもなるってんで、黙認してるのさ。アカデミーのクエストはほとんど、そんなのばっかりなんだ」
 「…そんな…」
 「どんなに一生懸命になっても、こんなひどい思いをしても…変わらないんだ。お前が依頼を果たした次の瞬間には、ドアから次の冒険者が入ってくる。同じ事の繰り返しだ。下水道の…虫も! カートレボリューション!」
 わざと、静のすぐそばの壁に叩き付ける。
 静は悲鳴こそ上げなかったが、顔が力なくうつむいてしまう。
 「ここが分岐点だ。静」
 無代はその顔の前に、蝶の羽を差し出す。
 「これを使ってアカデミーに帰って、冒険ごっこをやめるか。あの地下4階へのワープポイントを抜けて、先に進むか。ただ、あの先にいるモンスターはさらに…強い」
 「…」
 「俺がついて行ってもいいが…あまり変わらないだろう。俺のレベルでも…楽に死ねる。ワープして、即座にカメラのシャッター押して、直後に蝶の羽を使ってテレポートするんだが…それでも死ぬ事は珍しくない」
 静は石になったように動かない。
 「…どうする?」
 「…」
 「…静?」
 「…帰…る…」
 うつむいたまま、小さな応えが返ってきた。
 「…帰る…」
 「…そうか。それが…いいだろ」
 安堵と…小さな胸の痛み。
 静は差し出された蝶の羽を、力のこもらない手で押し返し、
 「…自分のが…あるから…。イグドラシルの葉も…ありがと」
 腰のポシェットから新しい葉を取り出し、無代に返す。
 無代は黙って受け取る。
 「…宿に、先に帰ってて」
 ひゅん。
 無代が応えるひまもなく、静は蝶の羽を起動させていた。静の姿がテレポートの光に消える。
 下水道に静けさが戻った。
 無代は、自分がひどくイライラしていることに気づいた。
 そしてなぜ自分がイライラしなくてはいけないのかが分からず、余計に気分が荒れてくる。
 「…クソ」
 世間知らずのお嬢様に、世間ってヤツを教えてやったのだ。
 冒険に憧れる子供に、この世にロマンなんかないと教えてやったのだ。
 世界は変えられないと、教えてやったのだ。
 何が悪い?
 だって本当の事なのだ。自分が身をもって体験した、本当の事なのだ。
 「カートレボリューション!」
 なぜか蝶の羽で一足飛びに戻る気になれず、無代はゴキブリを叩き潰しながら歩き始める。
 (…もうやめよう)
 無代は心の中で吐き捨てた。
 静と一緒に国に帰ろう。瑞波の城下町で商売をすればいい。お城とのコネもあるのだから、いくらでもやっていけるだろう。
 顔色の悪いオーク鬼と、必死で殺し合う必要がどこにある?
 「すまん…流。でも…おれは…」
 行方の分からない友に、小さな声で告白する。
 「やっぱり勇者にはなれないよ…」
 薄汚い下水道の中に、その声は響くこともなく消えた。

 「…帰ってない!? 静が? 帰ってないって!?」
 無代が宿屋に帰ったのは、やっと日も落ちた頃だった。
 ゴキブリ相手に無意味な戦闘を繰り返し、下水を出てからもすぐに宿に帰る気にならずぶらぶらと時間を費やしたためだ。
 だが待っていたのは静ではなく、心配そうな女将の顔。
 「まだお帰りじゃないよ? 見つかったのかい? お嬢様は?」
 「見つけたさ! 下水道で別れて…アイツ、まさか…また下水道に!」
 そういえば下水道を歩いて戻る途中、ハエ飛びで下水道を移動する数人の冒険者を見かけた。
 その中に、女の剣士はいなかったか? 見覚えのある黒髪は?
 自分の間抜けぶりに腹が立つ。
 ダッシュでとんぼ返りして、今日二度目のアカデミー、二度目のルーン、二度目のヨン爺。
 すべてが無代の予想に合致した。
 静はもう一度、下水道に行ったのだ。
 『誰の助けも借りずに自力で』クエストを突破する気なのだ。
 蝶の羽を、イグドラシルの葉を、律儀に無代に返したのはそのためだったのだ。
 無代はまたしても下水へ戻る。さすがにアインに変な顔をされたが、構っているヒマはない。今度は歩かず、持てる限りのハエの羽をつぎ込んでハエ飛び。女将に借りた金もすっからかんだ。
 そして地下3階。彼女はそこにいた。
 数時間前に無代と分かれた、あの場所に。
 そして戦っていた。
 「えいっ! たあっ! …バッシュ!」
 鋭い気合いと、それ以上に鋭い太刀筋。
 そこに、剣士である彼女の持てる最大の攻撃スキル『バッシュ』を加え、巨大なゴキブリを駆逐していく。
 一撃ごとに回復剤を飲み、無理矢理体力を回復させての無茶苦茶な戦い。わずかな隙に壁にもたれて座り、体力を回復させてはまた叩く。
 飲んだ回復剤を吐かないように片手で口を抑えるが、それでも指の間から汚液が漏れる。
 下半身が濡れているのは、失禁の痕だろう。
 それでも戦いをやめない。
 無代に気づくこともなく、無代も声をかけられない。
 「えいっ! この! 返せ! どいつが食べた! 刀を! 刀を返せええ!」
 恐怖を、嫌悪を振り払い、自分を支えるための声。
 そしてその言葉の意味を知って、無代は愕然とせざるを得なかった。。
 銀狼丸。
 彼女が今、振るっている刀は銀狼丸ではない。
 アカデミークエストの報酬として無料でもらう、何の変哲もない店売りのツルギだ。
 あの時。
 ゴキブリに喰われて倒れたあの時。
 彼女はここで、刀を失っていたのだ。嫌らしいアイテム食いのゴキブリに、大切な家宝の刀を奪われたのだ。
 少女を助け起こした時、彼女の腰に刀が無い事になぜ気づかなかったのか。
 自分の間抜けさに言葉もない無代の耳に、静の叫びが届く。
 「返せ! 返せ! 返してよ! あれは…あれは『無代兄ちゃんの刀』なんだからっ!」
 「!」
 無代の背中を戦慄が貫いた。
 知っていた。
 少女は知っていた。
 それが彼女のものではないことを。
 一条家の家宝でもないことを。

 ひとりめのゆうしゃよ このかたなを ほうびにやろう

 「てんじょううらのまおう」が彼にくれた刀。『まおう』が生涯で唯一、自分で鍛えた刀。

 ゆうしゃのつるぎ。

 「あ、ああああったああああ!! あった! 銀狼丸! あったあああ!」
 静の絶叫に似た声が響いた。
 手の中のツルギを惜しげも無く捨て、モンスターの体から吐き出された銀狼丸を拾い上げる。
 「あった…よがった…なくしてなかった…よかった…これで…これで…」
 ぐい。
 折れそうになる体を、銀狼丸を支えに立ち上がる。
 そしてポシェットの中から、使い込まれたカメラを取り出し、首から下げた。アカデミークエストを完遂させるために。
 『冒険者になりたい』
 それは誰の望みだったのか。
 そして…静は光の中に消える。地下4階へのワープポイントの中へ。
 その先を…無代はもう、追いかけなかった。いや追いかけられなかった。
 たとえ失敗しても、彼女はまた来るだろう。
 無代がどんな『真実とやら』を告げた所で、冒険をやめないだろう。
 剣を支えに歩いて行く、その少女の後ろ姿に、無代は文字通り打ちのめされていた。
 ゴキブリが無代の体に群がりつつあったが、無代は動かない。いっそこのまま食われて消えてしまいたいような気分。
 情けなさも、どうやらココがMAXらしい。
 カチカチという牙の音に耳まで齧られて、無代はようやく蝶の羽を使った。
 どこへ帰るというのか。あてもないままに。


 ぼうけんをやめますか?


 静が宿に帰ってきたのは結局、日付が変わった真夜中だった。頭からずぶ濡れなのは、中央噴水に飛び込んできたからだろう。
 失禁の痕を隠すために。
 だが、それはアカデミーを修了した生徒なら誰でも知っている、伝統のごまかし法だ。ちなみにそれを教えてくれるのはルーン。
 『帰りに噴水に飛び込んでいくといいわ』。
 数知れぬ生徒たちに、彼女はそう教えてきた。
 その教えを守ってずぶ濡れになった静は、女将が『風呂に』と勧めるのを断ろうとした。
 が、ここは女将が頑としてゆずらなかった。言葉は丁寧だが叱りつけるような調子に、静も根負けする。
 「わかった、入ります。…洗濯と…着替えも頼めるかな…」
 「もちろんでございますとも」
 「ありがとう。…それと…無代は、その…まだ、いる?」
 1時間後。
 無代が静の部屋を訪れると、開口一番「…ペコペコの羽…頭の上」指摘されてしまった。
 今は鳥小屋住まいだから、とは言い訳にしても情けない。用意してもらった部屋を断り、また鳥小屋に転がり込んだのは自分だ。
 静は新しいコットンシャツに着替えていた。女将が用意したのだろうが、男性用らしく少し大きい。
 胸にはアカデミー修了バッチ。あのまま一気に修了まで突っ走ったらしい。失禁で汚れた服のままで。
 疲れているはずだが、その表情には逆に力が満ちていた。誇りと喜び。
 風呂で汚れを落としただけではない。五体にいつもの輝きがすっかり戻り、さらに深みさえ加わったようだ。
 光ってはいないが、輝いている。
 無代には眩しすぎる。
 「…無代。…これ」
 差し出された銀狼丸。汚れはすっかり清められている。
 両手で受け取り、額に押し頂いて一礼。鞘を払う。
 優美な曲線を描く刀身の刃紋はいささか不安定で、何カ所かの刃こぼれもある。
 「…ありがとう。虫から…取り返してくれて」
 「…うん」
 「知ってたんだな、コレが…俺のだって」
 「…お義母様が教えてくれた。これは…本当は無代のだって」
 無代の脳裏に、豪奢な金髪を頂いた女性の姿が浮かぶ。
 『てんじょううらのまおう』がいつも頭が上がらなかった、賢くて美しい『まおうのきさき』。
 「…『てんじょううらのまおう』を倒した褒美にもらったんだけど…お前が生まれる時、『姪っ子に守り刀を送ってやりたいけど、もう力がなくて鍛てないから…そいつ貸してくれないか』って言われて」
 「…うん…銀の叔父上様はそのままお亡くなりになって…。お父様とお義母様は事情を知ってたんだけど…どうしても…叔父上様の思い出の品を手放せなかったって」
 「…」
 「無代に返してあげてほしいって。そして『ごめんなさい』って」
 刀を持つ手が震える。手の中で、剣がずしり、と重くなる錯覚。
 「銀の殿様…あの魔王…ホント下手糞でさ…。…ひどい刀なんだ…刃紋はでこぼこだし…刃は歪んでるし…すぐ欠けるし…。病気で…力がないのに無理して打つから…」
 「…」
 「精錬もしてないし…しかもウルフカード一枚挿しだってさ…笑っちゃうよな」
 「…」
 「…ありがとう静。でも…これは、この刀は今の俺には…」
 「あのね、無代兄ちゃん」
 無代の言葉を遮って、静が昔の呼び名で彼を呼んだ。
 「アタシ、分かってたよ。…流義兄様が…ただの失踪じゃないってこと」
 「!」
 「そりゃ詳しい事は…分からないけれど。お父様とお義母様は、多分知ってるんだと思う。…無代兄ちゃんが…一人でどんなに調べたって…絶対分からないような…事情」
 「…静」
 無代は愕然とする。
 彼が半年がかりで調べた友の消息。
 無代とて馬鹿のつもりはない。できるだけ慎重に、できるだけ広範囲に、情報網を広げたつもりだ。
 だが、あるレベルに達すると、その網はかき消すように無力化される。無代程度の力では、到底太刀打ちできない何か…。
 例えば…国家。
 その万丈の断崖とも、千尋の谷ともつかない断絶を前に、無代は絶望せざるを得なかった。
 そして、せめてその絶望を彼女には…静には伝染すまいと、自分の無能ゆえに見つからないのだと嘘をついた。
 「でもね、みんなホントのこと言ってくれない。アタシを傷つけないように…みんな…嘘をつくの…」

 『無代も同じだ!』。

 昼間の罵倒はこの意味だったのか。
 「…アタシだって、一条の女だもん。自分が選んだ『男』の事だもん。義兄様が『生きてる』ってことはちゃんと『見える』よ。でも難しい状況にある、ってことも、ちゃんと分かる」
 誰もが彼女を傷つけまいとして。
 「本当のこと、言ってもらえない方が辛い。何も分からない子供扱いされるのは辛い。嘘つかれるのは…イヤだよ…」
 結局傷つけた。
 この誇り高く、誰よりも強い少女を。
 猫と虎の区別もつかず、カナリヤと鷹の区別もつかず、ただ愛玩した。
 「…わがまま言ってごめんなさい。…自分にも何かできるって…証明したかったの。アカデミーは修了できたけど…。無代兄ちゃんの言う通りだった。アタシ、何も分かってなくて…」
 無代の胸の痛みが拡大する。
 「…明日、瑞波へ帰ります。迷惑かけて…ごめんなさい」
 ぺこり、と頭を下げられて、胸の痛みはもはや激痛に変わっていた。 
 「…おやすみ、無代兄ちゃん」
 「…ああ、おやすみ」
 銀狼丸と無代を廊下に残して、ドアが閉じる。
 ギリギリだった。
 ギリギリで涙を見られずに済んだ。
 そして押し殺した嗚咽は、聴かれずに済むだろう。
 ドアの中から漏れる、嗚咽にかき消されて。

 ぼうけんをつづけますか?

 (4)へ続く。
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