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ジョーイ・バートン Joey Bartonコミュの//プロフィール//

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サッカー名前:Joseph Anthony Barton
○国籍:イングランド
●出身:マージーサイド州ノウズリー・ハイトン
○ポジション:MF
●生年月日:1982/9/2
○身長/体重:180cm 69kg
●代表キャップ数
U21:2
A代表:1
○試合前に食べる好きな食べ物:Cereal, Beans on Toast
●好きな音楽: The Smiths、The National、Milburn、Oasis、The Beatles、Arctic Monkeys、The La’s、Metoronomy、Frank Sinatra

--【番号】--
○イングランド代表U21 / 8
●イングランド代表 / 18
○マンチェスター・シティ / 41 / 24 / 8
● ニューカッスル・ユナイテッド / 7
○クィーンズ・パーク・レンジャーズ / 17 / 8
●オリンピック・マルセイユ / 17 / 6
○バーンリー / 13
●レンジャーズ / 8
○バーンリー / 19

--【所属クラブ】--
●エヴァートン(ユース)
○マンチェスター・シティ 1997-2002(ユース)
●マンチェスター・シティ 2002-2007
○ニューカッスル・ユナイテッド 2007-2011
●クィーンズ・パーク・レンジャーズ 2011-2015
○オリンピック・マルセイユ(レンタル) 2012-13
●バーンリー 2015〜2016
○レンジャーズ 2016〜2016
●バーンリー 2017〜2017

--【監督歴】--
○フリートウッド・タウン 2018〜

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

--〈1982-1995〉--
イングランドで指折りの貧しい地域、マージーサイド州ノウズリー・ハイトンで、3人兄弟の長男として誕生。叔父のジョーは殺害され、別の叔父エドワードも地元の賭博場で襲われ、植物人間と化すなど荒んだ環境で育つ。父親はNorthwich Victoria FCでセミプロのフットボーラーをやってた経験があった。
家族は熱狂的なエバートンFCのファン。
1985 European Cup Winners' Cup Finalのビデオは、父親に4000回は見せられたという。
そんな環境でフットボールに夢中になる。
「キツい所だから生き延びるためには少々攻撃的にならなきゃいけなかった。鋭いところがなきゃどんな才能も埋もれちまう。自分を守るために戦うしかないんだ。俺らは木材や建築資材なんかでゴールを作って、できる限りプレーした。そうやしてる限り、うちの親は心配することはなかったけどね」


--〈1996〉--
両親が離婚。
屋根職人の父に連れられ、ハイトンを離れてセントジョンの厳格な祖母の家で暮らす。
学校は荒廃し、犯罪とドラッグが渦巻く街で、自分を見失わなかったのは、祖母のお陰だと語る。
憧れのエヴァートンからプロになることを夢見たが、アカデミーをクビにされる。
ノッティンガム・フォレストFCでトライアルを受けるが、背が小さいという理由で落ちる。
この時「絶対フットボーラーとなって周囲を見返してやる!!」という強い決意を持つ。


--〈1997〉--
エヴァートンの元スカウトマンBarry Poyntonの目にとまり、マンチェスター・シティFCのトライアルを受け合格

--〈2002〉--
11月、ミドルスブラ戦でメンバー入り。HTにユニフォームを盗まれるというアクシデントに遭い、デビューはお預けに


--〈2003〉--
4月、ボルトン戦で先発起用され公式戦デビュー。トッテナム戦で初ゴール。クラブのヤングプレーヤー賞に選出
U21イングランド代表の召集を受け、マケドニアとポルトガル戦に出場し1ゴールを決める


--〈2004〉--
7月、ドンカスター・ローヴァーズとの親善試合で乱闘

クリニックで7日間にわたりカウンセリングを受ける
「人生が変わる経験だったね。助けを求めたって弱虫になるわけじゃないし、トラブルを避けても腰抜けにはならないってことを学んだ。これまでに俺がやった中で最高のことだ。物事について全く違った見方ができるようになったんだ。俺は未だにカッとなりやすいし、それが人間として、選手としての俺なんだけど、前よりコントロールできるようになった。騒動を避ける方法を学んだ。前は渦中にいたけどね。過去の過ちから学んだんだ」

12/19 クリスマス・パーティーでユースのジェイミー・タンディの左まぶたにタバコを押し付け、6週間分の給料没収


--〈2005〉--
05/06シーズン、憧れのロビー・ファウラーがつけていた8番を継承
7/22 タイへ遠征中にバンコクのホテルのバーで、エバートンサポーターの15才の少年と口論になり殴る。強制送還され、3万ポンド(約600万円)の罰金
8/1、弟のマイケルが殺人を犯し逃亡。メディアを通じ出頭を呼びかける


--〈2006〉--
1月、ミドルスブラFCが関心を示す。シティで限界を感じ、移籍も考えたが思いとどまる
夏、アーセナルFCヴェンゲル監督の紹介を受けたASモナコをはじめ、多くのクラブが獲得に動いたが、シティと4年の契約延長をして残留
10/30 エバートンサポーターの野次にケツを出して応戦。2000ポンドの罰金

--〈2007〉--
1月、憧れのクラブであるエバートンから12億のオファーをもらうが・・・
「俺は今、素晴らしい状態を保ってんだ。ここを去る気はないね。俺はここで身を固めるつもりだし、チームは正しい方向へと向かっている。俺のことを信じてくれる監督もいる」と残留を決意

2/7 スペインとの親善試合にイングランドA代表として初召集
プレーはたった12分だったが、
「他の奴が長い時間かけてやってたこと以上のことをやってのけた」と豪語

3/4 タクシー運転手に暴行し逮捕
5/1、チームメイトのウスマン・ダボを練習中に殴る
5/16 ダボ暴行容疑で逮捕。クラブは14億で放出を決定。すぐさまニューカッスル、ウェストハム、サンダーランドが獲得に興味を示す
6/14 移籍金14億でニューカッスル・ユナイテッドFCへ移籍。背番号は7
7/21 親善試合で骨折、シーズン序盤を欠場
10月、ニューカッスルで公式戦デビュー。途中交代が続く
12/27 リバプールで暴行事件を起こし、年越しを留置場で過ごす
酒を絶つためにクリニックに通う


--〈2008〉--
5/20 昨年末の暴行事件の判決で禁固6ヵ月を喰らい刑務所行きが確定
7/27 74日間のお務め後、模範囚としてマンチェスター・ストレンジウェイズ刑務所から釈放
8/30 4ヵ月ぶりの復帰戦で一発退場
9/3 赤信号無視の交通違反
9/5 ダボへの暴行で12試合出場停止、2万5千ポンドの罰金
11/15 ウィガン戦で右ひざじん帯を負傷、全治8週間


--〈2009〉--
1/17 ブラックバーン戦でシーズン3度目の復帰
1/28 古巣マンチェスター・シティ戦で右足の第5中足骨を骨折
4/20 無賃乗車で逮捕
5/3 リバプール戦でシーズン4度目の復帰。危険タックルで一発退場
5/24 ニューカッスルは最終節で2部降格が決定
ブラックバーン、ボルトン、トッテナム、ポーツマス、バーミンガムが獲得に興味を示したが、ニューカッスルへの残留を表明

8/8 09/10シーズン開幕戦でスタメン落ちし大激怒
第2節レディング戦で、スタメン復帰するも、82分に負傷交代
第5節のレスター・シティ戦で4試合ぶりの復帰
10/2 第四中足骨手術


--〈2010〉--
3/24 アウェイのドンカスター戦で半年ぶりに復帰
4/19 ニューカッスルの2部チャンピオンシップ優勝、プレミア昇格

6月、グラストンベリー・フェスティバルで同僚ケヴィン・ノーランと酔いつぶれる
8/22 勝つまで口ひげを剃らないという誓いをキャロル、スミス、R.テイラーとたてる
ホームのアストン・ビラ戦で圧勝し口ひげを剃る
11/10 ブラックバーン戦で相手の胸元を殴り、3試合の出場停止
12/10 ウェスト・ハムからのオファーを拒否
12/11 ホームのリバプール戦で復帰。マン・オブ・ザ・マッチ
しかし試合中、卑猥なジェスチャーをして、FAから文書で注意を受ける


--〈2011〉--
1月、アストン・ビラが関心を示す。ウェスト・ハムとブラックバーンからのオファーを断る
プレイヤー・オブ・ザ・マンスに選出される
2/9 好調にも関わらず、代表戦に呼ばれない状況に代理人が不快感
3月、怪我で2試合お休み
4月、去就が注目されるが「クラブが野心を見せるまで契約延長にサインしない」とコメント
5/25 契約延長交渉が破綻
バイエルン・ミュンヘン、エバートン、リバプール、アーセナル、アストン・ビラが獲得に興味を示す
プレーヤー・オブ・ザ・イヤーに選出
6/24 グラストンベリーフェスティバルで憧れのモリッシーと面会
7/13 ビザを取得できずアメリカツアーに加われず。リザーブチームとオランダ遠征
マンチェスター・ユナイテッドが関心を示す
8/1 フリーで放出することをニューカッスルが発表
アーセナル、トッテナム、ストーク、アストン・ヴィラ、QPR、セルティック、ゼニトが関心を示す
イングランド代表カペッロ監督が代表に招集することはないと宣言
8/26 昇格したQPRと4年契約で完全移籍。主将に任命され背番号は17
9/12 古巣ニューカッスル戦でQPRデビュー
ニューカッスルの地元誌で2010/11 Player of the Year Awardに選出
10/24 音楽誌Q Magazine主催の2011 Q Awardsでプレゼンターを務める
伝説のバンドThe Smithsの再結成を手伝いたいと発言
11月、世界的人気ゲーム【Call of Duty:Modern warfare 3】の発売記念イベントに出席
人種差別撲滅を目指し"Show Racism The Red Card"キャンペーンを支持
The Big Issue誌でコラムを担当
12/28 ガールフレンドのジョージア・マクニールとの間に第一子Cassius Joseph Barton(男の子)誕生


--〈2012〉--
1/2 ノリッジ戦で頭突きをしたとして退場。誤審だと主張するも3試合の出場停止
5/23 マンC戦での退場及び暴行により、12試合の出場停止/7万5千ポンドの罰金
6/4 リバプールのゲイバーの外で殴られる
6/25 主将剥奪、6週間分の給与の罰金
7/23 オフィシャルHP完成
7/26 4部フリートウッド・タウンの練習に参加
8/31 フランス・リーグアンのオリンピック・マルセイユへレンタル移籍
11/8 ヨーロッパリーグ、ボルシアMG戦でCKを直接決め、4試合目にして初ゴール
11/25 14節リールOSC戦でリーグアンデビュー
12/2 15節スタッド・ブレスト戦で2アシスト。レキップ誌が選ぶリーグアンベスト11選出、最高点8獲得


--〈2013〉--
4/9 QPRには復帰しない宣言
4/28 QPRの2部降格が決定
5/26 マルセイユが2位でシーズンを終える
5/31 コーチライセンスの取得のために北アイルランドへ
7/31 代理人がエヴァートンと接触してることを明かす
8/12 ウェストハムが獲得に乗り出すとの噂
8/27 クリスタル・パレスが獲得に乗り出すとの報道
9/11 セント・ジェームズ・パークで行われたスティーヴ・ハーパーのメモリアルマッチに出場
9/14 8月期のプレイヤー・オブ・ザ・マンス選出


--〈2014〉--
1/11 イプスウィッチ戦で負傷交代
2/1 バーンリー戦で3試合ぶりの復帰
4/21 腿の怪我から6試合ぶりに復帰
5/3 QPR4位でチャンピオンシップを終える。プレーオフ進出決定
5/12 ウィガンを破りプレーオフファイナル進出決定。MOTMに選出
5/24 プレーオフファイナル。ダービーを1-0で下し、プレミアリーグ昇格
6/6 ジョージア・マクニールとの間に第二子Pietá(女の子)が誕生
6/8 W杯ブラジル大会でのメディアの仕事のために現地へ向かう
6/11 ブラジルでEURO SPORTのお仕事をこなす
6/26 グラストンベリー・フェスティバルへ参加
8/15 スカッドナンバーが発表され、マンC以来となる8番となる
8/16 プレミアリーグ2014/15開幕。再び主将に返り咲くもホームでハル・シティに敗戦
8/20 アイス・バケツ・チャレンジに挑戦
9/14 膝の怪我でマンUとのビッグマッチを欠場
9/20 ストーク戦で負傷交代
11/8 7試合ぶりにホーム古巣マンC戦で復帰


-- 〈2015〉 --
2/10 7試合連続イエローカードでプレミア新記録樹立
2/21 ハル戦で、相手に下腹部パンチをし一発退場。3試合の出場停止
5/10 マンCに大敗し、2試合を残し降格が決定。リーズとバーミンガムが早くも関心を寄せる
5/24 レスターに大敗し最下位でシーズン終了
5/27 QPR退団
6/26 イングランドフットボール界を痛烈に批判
8/2 リーズ加入が報道される
8/10 ウェストハムの練習に参加し、加入目前
8/12 ウェストハムサポーターの猛反対に遭ったせいか移籍が破綻
8/27 2部バーンリーに1年契約で加入。背番号13
9/21 ダービー戦でベンチ入りも出場ならず
9/26 レディング戦で後半途中出場しデビュー


-- 〈2016〉 --
1/12 MKドンズ戦で移籍後初ゴール
2/27 バーンリーが首位に立つ
5/2 バーンリーのプレミアへの自動昇格が決定
5/7 バーンリー2部チャンピオンシップ優勝。クラブ年間最優秀選手に選出
5/17〜21 イタリア・カプリ島でバカンス
5/24 フリーでスコティッシュ・プレミアリーグのレンジャーズへ2年契約で移籍
6/28 グラストンベリー2016へ行く
7/19 カップ戦でレンジャーズ選手として公式戦デビュー
8/6 リーグ戦デビュー
9/10 セルティックとのオールド・ファーム・ダービーに大敗
9/22 ダービー大敗で監督・同僚と衝突し謹慎処分
11/2 練習に復帰
11/4 練習に姿を見せなくなる
11/10 レンジャーズ退団
11/17 賭博を行っていた為、SFAより1試合の出場停止を課される
11/24 フィットネスの維持のためバーンリーの練習に参加
12/23 過去に1260試合もの賭博疑惑が発覚


-- 〈2017〉 --
1/2 バーンリーに再加入
1/7 FA杯サンダーランド戦で2度目のバーンリーデビュー
1/14 PLサウサンプトン戦でFKから決勝
3/8 過去の大量賭博の件でFAに出頭することになっていたが、刑の緩和を求め延期
4/26 大量賭博の件でFAから1年半の出場停止と3万ポンド(約430万円)の罰金
5/21 プレミアリーグ終了。バーンリーは16位でシーズンを終え、プレミア残留
5/23 クラブより退団が発表される
5/25 自伝「No Nonsense」が、第15回クロススポーツ・ブック・アワードで年間最高作となり受賞される
6/22 グラストンベリー2017へ行く
7/28 出場停止期間が1年1ヶ月に短縮される
8/1 ラジオ局『talk SPORT』と契約を結び、2017-2018プレミアリーグの解説者となる
10/17 憧れのミュージシャン・モリッシーの新曲PVが公開され、バートンが堂々と出演


-- 〈2018〉 --
4/18 英3部フリートウッド・タウンの監督に就任することが発表される
6/21 ジョージアとの間に第3子Penn Anthony Bartonが誕生
8/11 2節目で、監督としてリーグ戦初勝利


-- 〈2019〉 --
5/5 フリートウッド・タウン監督初年度を11位で終える
6/6 長年のパートナー、ジョージア・マクニールと結婚

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ジョー自身が語るその歩み

?The Early Days
-- In my Mersey paradise --

俺はジョセフ・アンソニー・バートン。(イングランド)マージーサイド州・ハイトンで1982年9月2日に生まれた。※1: ハイトンはノーズリー区の中にあって、そして2007年ここがどんなとこだったか、どんなとこか ぁ… ここは住む場所としては、英国内でトップ10に入る最悪の場所という位置づけだ。しかし、それが常に俺の故郷だった。

未だに非常に堅く結びついたコミュニティがあるんだよ。俺はそれを見るのがマジで好きじゃなかった。

どの地域でもフットボールに熱狂的で、みんな試合をしていたよ。それを理解するためにも、ハイトンから出てきた名を見ておく必要があるだろう。 ピーター・リード、スティーブン・ジェラード、デイビッド・ニュージェント、トニー・ヒバート… トッププレーヤーを供給してきたんだ。

※1: ハイトン マージーサイド州ノーズリー区にある町。マージーサイド州は、人口140万人近くでリヴァプールという世界的都市を抱えているが、奴隷貿易の歴史と今も続く白人至上主義の暗部を抱えている。失業率も高く治安も悪い。


-- Jumpers for goalposts --

俺の幼少期はすべてフットボールだったね。何か他に興味を持っていたわけじゃなかった。学校、他のスポーツ、何もなかったよ。 俺は、常に他の子供よりタフだと感じていた。 たとえ俺より少し速かったり、強かったり、あるいは技術が上のプレーヤーがいたとしてもね。

俺は特別だと常に感じていた。当時からフットボーラーになるということは分かっていた。7歳までには、そうを決心してた。そして、そうなった。当時は、おそらく(周囲に)愚かに聞こえていたことも、分かっていた。でも、それ(フットボーラーになること)が起こるということを知っていたんだ。

けど、俺のばあちゃんは勉強するように言ったよ。俺は試験を受けた。そして、マジで復習とかしなかった(試験当日の朝に本を読んだ)けど、なんとか10の※2:GCSEを得ることができた。

しかし、言ったように当時の俺はすべてフットボール漬けだった。1日3試合はプレーしたもの。思うに、俺はちょっと怪しいガキだったかもしれないな。

俺には3組の仲間がいた。ストリートのキッズ(周囲の路上にいる不良)たち、学校からの少年(少々テクニカルだった)たち、そして、団地からのヤバい子(時々粗暴だったな)たちとプレーしてた。

特に試合がなかった時は一人で街灯相手にプレーをした。街灯から20、または30ヤード離れて立って、その上にボールをカーブさせようとしてた。俺はしばらくしてかなり上手くできるようになった。そして、それが今フリーキックとコーナーを取った時の為になったと俺は思ってるよ。

そうだな、かつてハイトンでのそんな日々が、俺のキャリアの準備となったね。俺は、彼ら(仲間たち)にスキルを磨いてくれて、俺にプロフットボーラーになる決心を与えてくれたと言えるだろう。

※2:GCSE General Certificate of Secondary Educationの略。
イングランドとウェールズ、北アイルランドで、 義務教育修了時の16歳で受験する統一試験。成績評価はA〜Gのグレードで評価され、大学進学希望 者は一般的に8〜10科目を受験。大学進学や就職をする際の選考基準として広く採用されている。
-- Signing for Everton --

ジョンズストリート中の仲間やその辺の不良と同様に、セントアンと呼ばれていた地元のチームでプレーした。
自惚れてるわけじゃないけど、多分俺はほとんどの試合で、ベストプレイヤーだった。そして、しばらくしてエヴァートンが俺をスカウトした。 8歳か9歳だったけど、彼らとプレーし始め俺は作られていった。

俺は生粋のエヴァートンファンとして生まれた。家族はみんなエヴァートンファンだった。そして、俺はエヴァートンでプレーしてたんだ。それは、※3: Boy’s Own story のようなものさ。※4: Roy of the Rovers stuff が適当かな。俺はフィル・ジャギエルカやブラッドリー・オーのようなプレーヤーたちと同じ世代で、物事は大きく進んでいった。
ピッチでいい時間を送っていたし、 試合もうまくこなしていたんだ。

その後、16歳だった時に新しいアカデミーダイレクターが来てさ、すべての選手を分析し、ミッドフィルダーとして成功するにはあまりに小さいと言いやがったんだ。そして、彼らは俺にオファーを与えてくれはしなかった。
彼らはやる気まんまんの奴を探していたんじゃないのか、大きな傷を負った下級労働者。

※5: ロイ・キーン
ポール・インス
デビッド・バッティ
俺が典型としたそういったプレーヤーは合わないってことだ。

そして俺は出ていった。多分、それはちょうど俺に必要な罰だったんだろうな。俺の人生で最初の深刻な挫折だった。
その時までは、俺は達成しようと試みたすべてを成し遂げてきたんだ。

俺は故郷のクラブでプレーしていた。物事で自分が行っていたやり方に満足していたのに。俺は放出された。

内臓を抉られたようなもの。
それから、ほぼ同時期におふくろと親父が離婚した。2つの巨大な精神的ダメージが一度にやってきた。
俺の自信は打ち砕かれ、そしてその夜ボロボロになって家に帰ったんだ。

※3: Boy’s Own story
A Boy's Own Story
「ある少年の物語 」 米国の作家エドマンド・ホワイトのゲイ小説(1982) 11歳ごろから同性愛に目覚めた少年の苦しみ,葛藤を描く自伝的作品

※4: Roy of the Rovers stuff
1954年刊行のフットボールコミック。

※5: ロイ・キーン(Roy Keane)
ポール・インス(Paul Ince)
デビッド・バッティ(David Batty)
3人とも大柄ではないが闘将として知られるミッドフィルダー。
?Making it at Man City
-- Goodbye Everton. Hello City --

俺がエヴァートンから放出された日に、マンチェスター・シティと契約した。それは、物事が本当に自分のために上手くいき始めたことだった。
しばらくハードにこなした後、ユースチームに入れた。すぐリザーブに加えられて、キャプテンになったんだ。

俺は、あらゆるポジションをこなせた。初めてプレーヤーとして、リーズのリザーブチームと戦ったことを覚えてるよ。ポール・ロビンソン相手にゴールし、ハリー・キューウェルとロビー・キーンと対決した。
そして、俺たちは3-0で彼らに勝った。俺はチームのまさしく中心的な存在だったね。そして、俺たちはそ の後も26か27は勝ち続けた。


-- Breaking into the first team --

俺はボルトン戦でついにファースチームデビューのチャンスを得た。
俺はそれまで何ヶ月もベンチ上にさえいなかったのに。そして、土曜日の朝にケヴィン・キーガン監督が、俺がセントラルミッドフィールドでプレーすると告げたんだ。俺たちは2-0で負けたけど、俺はよくプレーできたと思ってるよ。

俺が2回目にプレーした時、ジュニーニョをマークしなきゃいけなくてさ。ブラジル代表でワールドカップでプレーした人だよ。俺は試合中、彼を完璧に封じ込めた。
3回目の試合はスパーズ戦で、俺の最初のゴールが生まれた。その後、シーズンの残りはチームに居場所を確保できた。

俺たちはリバプールを叩きのめし、それで彼らがチャンピオンズリーグ圏内を失うってことになってね。おかげで全てのエヴァートンファン仲間に受け入れられたよ!

俺は最後の7試合で90分フルでプレーして、週給6000ポンドプラス出場料という適切な契約を結んで報われた。マジでフットボール選手として成功したように感じたね。


-- Everything comes to an end --

早い段階での成功の後、シティは少 し良くなかったね。いくつかいい補強はしたんだけど、俺たちの成績は落ち込んだ。そして、俺は次から次へとタブロイド記事に載るようになった。

ジェイミ・タンディーとの葉巻事件(酔っぱらっちまってさ、正直、奴の目を狙ったわけじゃないんだけど)
タイでエヴァートンファンとってのもあったな(彼は朝3時にホテルのバーに駈け上がってきて、俺に殴りかかってきやがった。彼が15歳であったかなんて俺には知る由もないだろ?)

そして、ダボとのトレーニンググラウンドでの喧嘩。
明らかにそれについては多く言われてきた。分かってる真実は、奴がパンチしてきやがって、そして、それに俺が応戦したってことだ。
それはちょっとしたバカな行為だった。けど、どっかで誰かがいきなり殴りかかってきたなら、反撃くらいするだろ。いずれにしろそれがシティでの終わりになった。

俺は2006/07シーズンの終わりまで外されて、スチュアート・ピアース 監督との関係も崩壊した。でも、シティを去らなきゃいけないことは苦痛だったよ。
俺にはファンと良い関係があったからね。そして、ガキの頃からそこにいたんだから。

そうじゃなくとも、それもフットボールだろ? すべてはいつか終わりが来るんだ。
?A few years with the Toon
Army
-- A new club and a new start --

シティとの時間が自然消滅を辿り、 俺はニューカッスルとのサインへ向かっていく。俺はニューカッスルで物事を勝ち取っていける可能性を感じていたし、マジでサム・アラダイス監督と働きたいと思ったね。
他のプレーヤーから彼について良いことを聞いていたし、彼がボルトンで成し遂げたことに異論はないだろう。

俺はシティで起こった物事を過去にし、新しいスタートをきる準備ができていた。
マイケル・オーウェン、マーク・ビドゥカ、シェイ・ギブンにオバフェミ・マルティンスがいるようなチームに加わったんだ。俺たちは優勝やヨーロッパ圏内を狙えるチャンスがあると感じたよ。

当時、アーセナル、マンチェスター・ユナイテッド、チェルシー、リバプールが4強だった。しかし、このニューカッスルのチームなら彼らに対抗でき、チャンピオンズリーグ圏内を得ることができるという感覚があったね。
俺には多くの金が払われていたし、ファンに何ができるかを示したかった。そして、イングランド代表定着も視野へ入れていた。


-- Injuries. Bans. Trouble at the
Toon --

けど、俺は完全に仕事の道から脱線しちまった!
カーライルとのプレシーズンマッチで、中足骨を折って、何ヶ月も試合から離れた。んで暴行で懲役77日だろ。それから、短期間復帰したものの、FAはダボ事件のことで6試合出場停止にしやがった。

俺はサンダーランドとのダービーで復帰した。ウォームアップ中にコインを投げつけられるような中で戦った。でも、俺たちは2-1で負けたんだ。
俺は一ヶ月ほどしかフットボールできなかった。リー・キャタモールから鋭い(完璧に良い)タックルを食らって、靭帯損傷で2ヵ月試合に出れなくなった。
1月に二度目の復帰をしたけど、また中足骨を折っちまって、さらに3ヵ月試合に出ることができなくなった。

それからようやく状態が戻って復帰したけど、血気にはやって遅れ気味のタックルをシャビ・アロンソに食らわしちしまった。そう、それであぁなっちまった。
俺は、そのタックルてFAによって3 試合出場停止。そして、アラン・シアラーとイアン・ダウイーにちょっとムカついた事実をぶちまけたら、クラブから残りのシーズン全て出場停止となった。


-- Relegation. Promotion. And a sad farewell --

降格はニューカッスルにとって悪いことだけしゃなかった。俺たちはチームとして調和し出したし、クリス・ヒュートンという良い監督を得て、信頼を取り戻し歩み始めた。
いずれにしろ最初の数試合を経て、プリマス戦で再び足を壊しちまって4月中旬まで試合から離れた。

俺は復帰してシーズン最後の7試合に出て、チームがチャンピオンとしてシーズンを終えるのを助けることができた。
けど、俺がチャンピオンシップの優勝メダルに値したとは感じない。
たとえ試合に出て、ゴールしてチャンスを作っていたとしても。そう感じることはできなかった。
俺はあくまでその小さなパートでしかなかった。それに、ケビン・ノーランやファビオ・コロッチーニのようなプレーヤーがやったようなことはもたらせなかったし。

その次のシーズン、ニューカッスルがプレミアへ戻った最初のシーズンは、多分俺のキャリアで最高のものだったんじゃないかな。俺はコンスタントにプレーできていた。

チームはかなりよくプレーできていた。俺自身も大きな怪我もなかったし、なんか罰を食らうこともなかったしね。

おそらく、ハイライトはセントジェームズパークでのアーセナル戦。4-0から追いついたんだ。俺は2つのPKを決めた。レオン・ベストがゴールをかっさらい、そしてシェイク・ティオテは歓喜のマシーンと化した。
4ゴールのために成された仕事。偉大な日だよ。最高だったね。
12位でシーズンを終え、その年のベスト・プレイヤーの1人にもなった。うまくいき始めた最初のシーズンであったにも関わらず、ニューカッスルとの関係はよく終わらなかった。

クラブはベスト・プレイヤー(アンディ・ キャロル、ケビン・ノーラン、ホセ・エンリケ)を売っちまった。そして、俺は不満を独りで抱え込むことがてきなかった。

それで、チェアマンとボードによる上っ面の態度、たくさんの戯言の後、俺はフリートランスファーで去ることができると言われたんだ。

今日まで、俺はとても大きな誇りとパッションと共に、ニューカッスルでの時間を振り返ることができる。
俺はすべてのジョーディーズたちのの前でプレーすることを愛していた。そして、これからも常に白黒のストライプが好きに違いない。
?A year with the R ’ s
-- The move that I needed --

QPRの人々と話して、すぐにクラブ に対する彼らの野心が気に入った。新しいオーナーは相応しく、クラブのみんなが良い方向に向かってるように思えたからね。
 
新しいチーム、ミスターウォーノックが最近昇格において成し遂げたものを、俺は確かに評価した。そして、彼らは野心を大きく持っていた。
俺が2011年9月に加わったクラブは、典型的なチャンピオンシップ式クラブから、すでに大きく進み出していた。
QPRでプレーし、最初からキャプテンを任されたことは、本当にちゃんとしたフットボールプロジェクトに関われるチャンスを与えてくれた。それは、俺のエネルギーを変化させてくれる。

フットボールクラブと契約する時、 俺は身も心もをそこに入れる。俺はいい加減にやる方法なんて知らないからな。
QPRは徹底的に俺にとって好都合だった。そして、複雑で政治的でもあるキャプテンは俺に新しい世界を開いた。


-- New Manager --

俺がそれを知る前に、俺たちにはマーク・ ヒューズという新監督が決まっていた。そして、彼はクラブで前例がなかったレベルでプロ根性をすぐにもたらした。
彼が根本からすべてを変更し、彼が来る前よりはるかに良い状況にクラブを導いていくんだろうなと思ったね。

彼は偉大なプレーヤーだった。彼はその雰囲気を持っているし、称賛に値する。
彼は自分自身の能力に対し絶対的な信頼を持つハイクラスなフットボール人だ。
彼がQPRに成功をもたらすだろう。俺は少しもそれを疑わないよ。 彼は勝者であり、彼の前のクラブ、バイエルン・ミュンヘン、バルセロナとマンチェスター・ユナイテッドとその成功を知ることができる。
英国人が世界的(海外を含む)ビッグクラブ3つでプレーすることは珍しいよ。

マーク・ヒューズが来た時、俺のポジションについての多くの推測がされた。新聞は1月に俺を売るつもりだとか、ツイッターを禁止するつもりだとかほざいてた。
すべてありえないね。俺の名前を見出しに入れるチャンスさえあれば、怠惰なジャーナリストは憶測立てて、306はでっち上げている。


-- So why did I move after only a
year? --

正に俺がまだQPRのプレーヤーである今、 明らかにしよう。12試合出場停止の発表の後、人生は難しくなった。ローンに頼るのが唯一の解決法のように感じている。
人々は「ジョーイには当然の報いだ」と言う。けど、それは見解の相違だ。

FAは俺に12試合の出場停止を課し、それを受けてクラブは別に重い6つの禁止令、罰金を俺に手渡してた。さらにキャプテンの地位を奪った。

俺はクラブが行ったことを見極める必要があり、受け入れたよ。決してFAやクラブの決定に上訴することはしなかった。
俺は自分の誤りを真剣に評価してくれたオーナーを尊敬する。俺はクラブを辞めることを申し出たけど、オーナーはすぐさま却下したよ。
しかし、問題はクラブの経営陣が俺を素早く追い出したやり方だ。プレシーズンツアーから締め出して、若い連中とトレーニングを受けることを強制し、俺に言うことなく別のプレーヤーに俺の番号を渡しやがった。
マーク・ヒューズとの関係は悲しげに途切れ、クラブとのコミュニケーションも疎遠になった。QPRの状況は突然分からなくなった。

俺がもはや彼らのプランに入ってないことは明白で、英雄からわずか数ヶ月でゼロに落ちた。
むしろ、それでくよくよしてるより、俺はシーズンに関して何か動かなきゃいけなかった。長期のローン移籍は実現の可能性が高く、双方の のための最良の手段として一致した。
そしてマルセイユに入ったわけだ。

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