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「宮崎 駿」より「高畑 勲」コミュの「宮崎 駿」より「高畑 勲」が好きな理由は?

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双方から理由を書いてくれれば分かりやすいと思います。

「宮崎 駿」は、昔(未来少年コナンなど)は、アニメ文法を開拓するぐらい興味ぶかい作品をつくっていたが最近の作品は何が言いたいのかさっぱり分からない。


「高畑 勲」は、良い意味で感覚的ではない作り込んだ作品が多く、私的に『火垂るの墓』は「何度も観たい」作品では決してないが色んな人に「観せたくなる」最高の作品であると考えている。

(かたい文になってしまいましたが気にせず、何か言いたいことがあればわしわしと書いちゃってください)

コメント(12)

宮崎駿さんの名前はアニメージュで「風の谷のナウシカ」を連載し始めた頃から知っています。
そしてそれが、初めての宮崎駿オリジナル作品じゃないでしょうか。
アニメファン向けの雑誌で、アニメファン受けするような作品を作った。
で、だんだん、有名になり、…
今では、その当時のメッセージ性が薄くなっているような気がします。
賞を取るほどの監督なので、時代に乗るのがうまく、大衆受けする演出等も心得てはいるようですが・・・

一方、高畑勲さんは、「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968)の演出家として、古くからのアニメファンの間では、若手の時の作品から有名。
しかし、この作品が当たらなかったために○映から干されるという境遇の持ち主。
自然なキャラの演技や演出で、一見実写として作れるような作品が多いような気がしますが、わざわざアニメで作ることにより、低年齢から大人向け?作品に親しませることに成功。
これこそ、きっと高畑監督の考えるアニメのあり方なんでしょう。
はじめまして。

「宮崎駿」はコナン、カリオストロ、ナウシカまでは良かったのだが、それ以後屈折した宮崎趣味少女キャラが出過ぎで食傷。
宮代真司も宮崎監督本人に指摘した(成長した女性を描けない)ところ逆鱗に触れたとか。つまり図星だった?

「高畑勳」はアニメっぽい動きも少なく地味かもしれないが、内容で見せる。(コナンの2話、アン、ゴーシュ)千鳥さんに同感。
はじめまして。
じぶんのまわりに「宮崎さんより高畑さん」というひとはいないので、このコミュニティをみつけてたいへんよろこんでいます。どうぞ、よろしくおねがいします。

波乱万丈な宮崎さんより、いっけん平凡な日常のなかにひそむドラマをたんねんに描く高畑さんのほうが、登場人物に感情移入しやすくて、すきです。

「生きろ」というもののけ姫は、みてぐったりしちゃうけど、「てきとう」というとなりの山田くんは、何度観ても癒されます。

  地上波で再度「火垂るの墓」を再度見て
  その深さと凄まじい演出力に度肝を抜かれました。
   また見るたびに新しい発見があります。

http://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/rg/suzuki_vol45.mp3

・宮崎作品が映画足り得たのは鈴木プロデューサーという監修装置があったから。
・高畑という呪縛から抜け出せなかった宮崎。
「映画になっていない」という 押井守監督 談
↑これは必聴です。
僕は宮崎駿は昔から尊敬してますし、「カリオストロの城」「未来少年コナン」なんて作品は、それこそ何回観たか解りませんが、「演出家」としては高畑勲のほうが好きですね。

その人物が、ある状況で、どういう思いを抱いていて、その状況に対してどう対処していくかという、「人のおこない」の心理描写、心象風景というものを描かせたら、日本で高畑勲の右に出る者はいない。と思っています。

僕は高畑勲の全盛期だったのは、宮崎駿の画面構成の才能をフルに使っていた40代の頃・・・「ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」の頃だと勝手に思っているのですが、1年に52話作らなければならないという殺人的なスケジュールの中で、それでも高畑勲の神がかった演出というものは、本当に感動しましたし、今でもその思いは変わりません。

・ハイジがデーテに無理やりフランクフルトに連れて行かれて、汽車の後部でアルプスを涙ながらに見送る場面。

・フランクフルトで身近で飼っていた子猫をロッテンマイヤーに捨てられて、悲嘆に暮れているハイジをクララが「赤ずきん」の話をして泣きそうになりなりながらも、慰めようと必死に振舞う場面。

・マルコがお母さんをたずねてやっとの思いでブエノスアイレスにたどりつきながらスリにお金を取られてしまい、先に上陸していたペッピーノ一座のフイォリーナとの公園での再開の場面。

・マシュウの心臓病による急死がすぐには理解できず、皆が揃っているときには泣けないアンが、夜中にマシュウがアンの部屋に現れてお別れに来たときに堰を切った様に泣き出す場面。

数を挙げればキリがありませんが、その状況に置かれた登場人物が示す心の動きみたいなものが、平板なセルに描かれた演技であるにもかかわらず、手に取るように理解できて体の中からその感情が理解できる「演出」の手管というものは、宮崎駿でも適わないところだと思います。

そしてその「わかりやすさ」

ひとつひとつの演技はどれも難しいところはなく、それでも自分でも気がつかない間に自分の気持ちが遥かな高みにまで自然に持って行かれてしまう無理の無い「演出」

宮崎駿だと時に、自分の思い、感情にとらわれてしまって観客の気持ちを置いていってしまう「暴走」が最近とみにひどく感じますが、高畑監督の「中立性」「大人感覚」というものは、そういう事に陥ることがありません。

何より「人に提示する作品」というものは、監督のものである以上に見てもらう人のために存在しているのだという事をこれほど理解している人はいないと思います。

「神は細部に宿る・・・・」

高畑演出の魅力というものは、何よりその場の空気・演技・ディテールの信じられないほどの深さであると思っています。

この間の「かぐや姫の物語」を観て、その気持ちを再確認できたみたいでうれしかったですね。


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