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実は創価学会ですコミュの【本門戒壇の大御本尊を離れて成仏はありえない】

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創価学会のいう
「自身の仏界を初めて悟る(始覚)とは、自身が本から仏であった(本覚)ことを知ることである。始覚に即して本覚を悟る。そこに、無始の九界即仏界が顕現する」
との邪義は、事理を混同している。
始覚とは、今まで覚っていなかったということであり、凡夫が菩提心を発(おこ)して仏道修行に励み、種子を覚知することである。
本覚とは、仏の本地の覚りのことであり、自解仏乗としての仏の悟りである。
したがって、もともと覚っていることであり、本仏のことである。
これらが同じであるはずがない。
覚ってみて初めて、その悟りが本仏と同じ覚りであると言えるのであって、我々衆生が直ちに本仏と同じであるという意味ではない。
『十章抄』には、
「設(たと)ひ開会(かいえ)をさとれる念仏なりとも、猶(なお)体内の権(ごん)なり、体内の実に及ばず」(十章抄 新編 468p)
『立正観抄』には、
「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず」(立正観抄 新編 770p)
と指南されている。
菩提を求めて修行する衆生には、必ず本仏の化導が必要である。
仏がこの世に出現するのは「一大事因縁」のためであり、衆生を導利するためである。
当然、本仏と我々衆生の関係は、仏に主師親の三徳があり、我々衆生はあくまで、弟子であり、子であり、臣下なのである。
故に、「唯願説之(ゆいがんせっし)」と説法を請い、常随給仕し、仏の因行果徳のすべてを譲り受けることができるのである。
たしかに始覚や本覚という語句は、『御義口伝』等に散見できるが、それはあくまで、「南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり」(御義口伝下・第五 正法治国不邪枉人民の事 新編1799p)とあるように、受持即観心という大前提の上に立っての御指南である。
大聖人が我々に示された「成仏論」「信行論」は「受持即観心」であって、受持を離れての成仏とか悟りというものは決してありえない。
仏性があっても、仏の化導(仏力・法力)と我々衆生の信心修行がなければ仏性は開かない。
したがって、我々衆生の成仏は、本仏大聖人・本門戒壇の大御本尊を離れてはありえない。
https://youtu.be/1Z_LIMd6EZE

コメント(4)

>>[1]

アハハ、お前さんまたノータリンなことをのたまいておるではないか。笑笑

お前さんの主張、それでいいんだね?
笑笑

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