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奥崎謙三 ゆきゆきて神軍コミュのokuzaki(13)「ゆきゆきて神軍!!」(1)

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昭和五六年一二月、神戸の奥崎邸を訪れた二人組がいた。映画監督原一男とその妻小林佐知子であった。原一男は今村昌平より渡された「田中角栄を殺すために記す」を読み、奥崎に興味を抱いたのであった。原は今村に奥崎に会いたい旨を伝えると、紹介状代わりと、自分の名刺を原に渡した。
翌年の昭和五七年に、原は再度、奥崎邸に向かった。まだ無名であった原は、奥崎に映画作りを熱く語った。本音は今村に撮って欲しかった奥崎ではあるが、次第に乗り気になったのか、最終的な資金の話まで及んだ。原の妻である小林は資金を一口二〇万で募ると懸命に具体的なプランを説明した。奥崎も乗り気になったように、
「そうですか、私のお金をアテにしてらっしゃったのなら、私はお金がありませんから、映画を作っていただくことをお断りしようと思っていたんです」
「原さんと小林さんが、御自分のためだと思われて、映画を作っていただけるのなら、私の方も甘えてばかりはおれませんから、何とかしなくてはいけませんね」
と、映画作りに意欲的な態度を示す結果となった。奥崎の本心としては、原ではなく今村に映画を撮って欲しかったのだ。かくして「ゆきゆきて神軍」のスタートが決定したわけであるが、完成まで六年弱の歳月が掛かろうとは誰も予測しなかったのだろうか。
「ゆきゆきて神軍」冒頭部分は奥崎の日常や人となりが映し出される。物語は奥崎邸のアップからはじまり、何やら自宅には色々な文章が書かれているが、内容は次の通りだ。

外壁部

 総ての人の生命を平等に尊重することが出来,総ての人が自分を本当に愛することが出来る構造の,神・天意・自然法・人間性に叛く天皇や天皇的な権力者がいない,全人類が一台の自動車の如く組織され,分裂・抗争・対立・競合が完全に絶える真に民主的・文化的・倫理的・衛生的・経済的・科学的・平和・自由・幸福な新世界を,一日も早く実現させる,誠の大義・善・公利・公欲を追求する目的の手段として,無知・狂気・迷信・抗争・偏見・独断・妄想・錯覚・不経済・分裂・対立・搾取・悪無責任・の象徴である,天皇裕仁にパチンコを撃ち・天皇一家のポルノビラを撒き十名の判事・検事の顔に小便と唾をかけて罵倒し,見たことがない名古屋の松井不朽先生から二百万円を頂き,東京拘置所の独房の中から,参議院議員(全国区)選挙に立候補し,自費で再び立候補する決心を固め,自民党員の神戸市市会議員である,溝田弘利と小西徹夫を収賄罪で告発した,殺人・暴行・ワイセツ図画頒布前科三犯の奥崎謙三は,天与の生命がある限り,誠の大義・善・公利・公欲を追求し,何千万年たっても色があせない行動と発言をすることを誓います。

シャッター部

田中角栄を殺すために記す
人類を啓蒙する手段として
発行 サン書店 発売 有文社

奥崎は朝早くシャッターを開けて、妻のシズミと共に朝食を摂り、自らでデザインしたトヨタマーク?を駆って兵庫県養父町に向かった。奥崎賛同者の一人である太田垣俊和氏の結婚式に向かうためだ。太田垣氏は元神大全共闘沖縄で火炎瓶を投げた罪で、逮捕歴がある。奥崎との出会いは入り口の看板を見て心惹かれるものがあったという。すぐに意気投合し、中古の軽自動車を買った。奥崎は婚期の遅れている太田垣氏のために店の入り口に「花嫁求む」の募集広告を出したら、たまたま応募があり、早速レストランで見合いをして話はトントン拍子に進んで今日の日となったのだ。仲人である奥崎は声高らかに次の通り祝辞を述べる。
 「私は太田垣俊和さんと、佐野絹子さんの、婚約を媒酌させていただきました、奥崎謙三でございます。太田垣俊和さんと佐野絹子さんのご結婚おめでとうございます。花婿の太田垣さんは、神戸大学を卒業後、反体制活動をした咎により、前科一犯でございます。媒酌人の私は、不動産業者を殺し、皇居で天皇にパチンコを撃ち、銀座渋谷新宿のデパートの屋上から天皇ポルノビラをまいて、独房生活を一三年九ヶ月おくりました、殺人暴行猥褻の前科三犯でございます。つまり今日の結婚式は、花婿と媒酌人が、ともに反体制活動をした前科者であるが故に実現いたしました、類い稀なる結婚式でございます」
 それからも、マーク?で東京に乗り込みアジを飛ばしたり、神戸拘置所に独房の寸法を測りに行ったり、法曹会館で行われた、帝銀事件主任弁護士である遠藤誠氏のパーティー席上で司法を批判したりと、奥崎の暴走ぶりが克明に映し出された。尚、遠藤氏は次に紹介する奥崎のスピーチがもとで、法曹会館の使用禁止処分を受けている。
奥崎のスピーチ
「私は、一般庶民よりも、法律の被害を多く受けてきましたので、日本人の中では、法律の恩恵をもっとも多く受けてきました無知・無理・無責任のシンボルである、天皇裕仁に対して、4個のパチンコ玉をパチンコで発射いたしまして、続いて、天皇ポルノビラを、銀座渋谷新宿のデパート屋上からバラまき、その2つの刑事事件に関わった、法律家であるところの二名の判事と八名の検事の顔に、小便と唾をかけておもいきり罵倒いたしました」

「例えば、この法曹会館の横に並んでおります、東京高等裁判所の刑事法廷におきましては、裁判長に向かって手錠をはめられたまま、「貴様は俺の前でそんな高いところに立っている資格はない、降りてきて土下座をさらせ」と怒鳴りました。そして退廷を命ぜられまして、今度は引き続いて午後に、今度は私は「俺の前で土下座をするのはもったいない、穴を掘って入れ!」と申しました。
 
画面中ではスピーチの内容に顔面蒼白の遠藤弁護士が映し出されるが、その後、奥崎の弁護人を無償で引き受ける結果になったことは、やはり遠藤弁護士の人徳によるものであろう。

そして、奥崎が戦友達の墓参に行くことと共に、物語は本題へ入っていくことになる。奥崎は墓前で「岸壁の母」を歌う戦友の母に一番まともな死に方をしたと説明し、一緒にニューギニアに行くことを約束させる。早く母を失った奥崎にとって、戦友の母に尽くすことによって、自分の親孝行としようとしたのではないだろうか。しかし、戦友の母は奥崎がニューギニアに行くことを待たずに、寿命が尽きた結果となった。
 かくして戦友の墓参を続けていく課程で、戦争が終わったのにも関わらず、銃殺事件が起こったことを知った奥崎は真相究明に乗り出す決意を固める。生存者から証言を得るべく神軍の行進が始まるのであった。
 
一人目は元分隊長の所である高見実氏である。生き延びて、平穏に暮らしていた高見氏は、奥崎のいきなりの訪問に面食らう。そこには元上官たる威厳はどこにもない。高見氏は処刑には立ち会っていないと証言した。
 
次に訪問した妹尾氏は、迷惑そうに応対する。それもそのはずで、当時の奥崎は現場に居合わせていないのである。完全に部外者扱いだ。妹尾氏が追求に耐えきれず中座しようとした刹那、奥崎がいきなり掴みかかった。しかし、異常を察知した隣人によって反対に奥崎が取り押さえられてしまう。
「お前さんら、ヤメロ、俺がしぼられてるじゃないか」
この時、原は悠然と様子をカメラに収めていた。奥崎はそれが気に入らないのか、いきなり映画の打ち切りを宣言する。
「原さん、この映画はもうやめましょう」
「私が妹尾幸雄にやられとっても、平気で撮影なさってる方とは一緒に行動できません。私はあのとき、本当に命が危なかったんですよ。私はニューギニアでも死なずに生きて帰ったんです。それが今日、死ぬかも知れなかったんですよ。原さんは人の命が危ないときも撮影なさっていてカメラマンとしては立派だな、と感心しました。しかしカメラマンとしては立派でも、人間として、原さんはダメな方だと思うんです」
「私に妹尾幸雄が馬乗りになっているときに、まあまあと、止めに入って来て欲しかったんです。第一、この映画の主人公は私ですよ。私がご本尊なんですよ。その御本尊がやられているシーンなんて格好悪くて映画を見てくれている人は喜んでくれませんよ」
原は奥崎の勝手さに憤り、絶望し、涙した。しかしその後、奥崎は何事も無かったのかのように撮影の続行を原に伝える。撮影中は、このような辞める辞めないが幾度となく繰り返されていることは、映画を見ている側にとっては知る由もない話であった。
現状では当時の状況を知る関係者を訪問しても固く口を閉ざしたままであることを、知ったか知らずか、以降は銃殺された兵隊の遺族である野村氏と崎本氏が同行することになった。

三人目の訪問先は山梨県石和にある桜田氏だ。この事件の関係者の多くは苗字を変えている。やはり、触れられたくない部分であるのだ。奥崎達の執拗な追求にも動じず、のらりくらりと言い逃れを続ける。不法拘禁の疑いで警察が駆けつけるのだが、刑事は奥崎を引っ張るどころか、深々と慇懃に挨拶しているところを目の当たりにして桜田氏は重い口を開けた。

「あの二人が敵前逃亡、逃亡の罪において銃殺された、ちゅうことをやられてごらんなさい、あんたたちが迷惑するでしょう。」
処刑には加わったが、幸いにも装填された銃弾は不発弾であったということを桜田氏は証言した。

四人目は当時の衛生兵、浜口氏である。既に現役を退き隠居中の身であった。浜口氏によれば野村・吉沢両名は脱走の罪で処刑されたとのこと。軍法会議の記録は残っておらず、記録は「戦病死」。明らかに辻褄が合わない。浜口氏は更にショッキングなことを証言した。
「肉はみな、今日は白か、今日は黒かと言うて、くろんぼか、しろんぼか言うてね、みな、食べました。」
黒は原住民、白は白人兵ということは言うまでもない。更に浜口氏は語る。
「原住民の豚取ったら殺される。」
浜口氏は処刑には参加したが、桜田氏と同様に銃弾は不発と証言した。ここで気になるのは浜口氏の余裕だ。他の処刑に参加した兵隊は緊迫し怯えた表情を見せるのだが、浜口氏にはそれがない。実は事前に奥崎が浜口氏を訪問して根回しを進めていたのであった。
しかし、これを最期にして、処刑された兵隊の遺族が同行することは無かった。理由は撮影スケジュールの一環で、墓参りが入っていたのだが、これが銃殺事件とは無関係の人物であったので、同行する、しないで、奥崎と被害者遺族との間に諍いが起こったのだ。関係ない人物の所に行っても意味がない。色々事情もあるのかも知れないが、全体の都合で処刑された無念を、個人的な都合でねじ曲げるのはいささか傲慢な行為である。

遺族が同行できなくては、証言を得るための大義名分が立たない。代役として、原の母親が候補にあがるが、あっさり拒否。最終的に苦肉の策で奥崎は自分の妻と、友人の桑田博氏を遺族の身代わりとし、元隊長である村本氏の自宅に乗り込んだ。さすがに村本氏の自宅は元将校にふさわしく、今までの登場人物の中の家では一番立派な外見であった。
奥崎の訪問を受けて、村本氏は狼狽している様子だ。かつての指揮官の威風は既に無く、弱々しい老人となっていた。奥崎の追求に村本氏は、敵兵の人肉を喰らったので処刑したと辿々しく答えた。自分は現場にいなくて、拳銃も持っていない、自分は役目柄殺したと言われてもしかたがないと、前置きしながら、
「僕は僕なりにね、とにかく、あのう、みんなを最期迄ね、連れて行く責任がある。ということで、あのう、実際戦場でもって、後ろに下がった人間もおりますよ。僕はみんなを犠牲にしてね、生きて帰るという気持ちは一つもなかった。みんなのために最期までやってきた男だから、天地に恥じることはない」
村本氏の精一杯の遠回しな反論だった。
その後、前述の高見氏、妹尾氏を訪問し、事実が解明された。高見氏、妹尾氏、桜田氏、会川氏、浜口氏の五人が銃殺に参加し、トドメは拳銃で村本氏が行ったという結果だった。これでバラバラだった当事者の点と線は一つになった。事件の更なる核心は後に明らかになることになる。
その衝撃も束の間に、撮影隊は最期の登場人物、奥崎の元上官である山田氏の自宅に向かう。山田氏は、銃殺事件の当事者ではないのだが、別に、部隊内で謀殺事件があったからである。
「ニューギニアで亡くなった人は家族に聞かせられないような死に方してるんだよ」
山田氏は固く口を閉ざす。奥崎は真実を語ることが最高の供養になると、強引に山田氏に証言を迫ると、意を決した様子で封印していた記憶を解放するかの如く、訥々と語った。謀殺したのは部隊の食料を盗み食いしたことが理由であるが、敗戦末期にはどこの部隊でも生じていた。
「原住民は食わない。とても向こうの方がすばしっこいから、こっちが負けちゃうんだ」
「自分だけ、一人だけ生きようとすると、ずるく考える。本人とすれば真剣なんだけど。自分の勢力が一人でも二人でも減れば、今度は自分が狙われる。だけどそれで庇う人もいるわけだ。奴を殺したら不自由だと、俺はそれで助けられた」

「実を言えば、勘が良かったわけ。水のある山無い山、外が見えないジャングルだって見分ける力があるわけ。だから俺を殺したら不自由になるから、殺して食いたいと言う人もいるけど、庇う人も居る。それで助けられた」
嫌々ながら証言を開始した山田氏ではあるが、真実を伝えた後の山田氏の顔は、すっかり憑きものが落ちた穏やかな表情に変わっていた。

戦争とはいえ、既に下級兵士は上官の「食い物」にされていたわけである。どれだけ下級兵士の人権が無視されていたかの一つの例となるのは、中部太平洋のメレヨン島の例である。ここでは補給も途絶し、米軍からも無視される中で敗戦にいたるまで飢餓との闘いが続いたのであるが、同島守備隊は最後まで「軍紀厳正」だったということで、昭和天皇からとくに賞賛の言葉が与えられたのである。
しかし「軍紀厳正」の実態は、飢えのために食糧を盗み出そうと試みた兵士に対する裁判によらない処刑の乱発で保たれていたものだった。食糧の配給も将校と兵士の間では大きな差が付けられていた。その結果、同島からの陸軍の生還者は准士官以上の階級では七割であるのに対し、兵士は二割に満たなかったのである。すなわち餓死の運命は平等に軍人を襲ったわけではなく、明確な階級差がついていた。下級であればあるほど、餓死の比率も多くなったのだ。日本の国民兵たちは敵の弾よりも、日本の職業軍人の手で、より多く殺されたのだ。

フィリピンのミンダナオ島でも相当数のフィリピン人が「食用」されていた。ドキュメンタリー番組で、人肉で生き延びた元日本兵が贖罪のために人知れず訪れるそうだ。事情を知らない現地人は贖罪に来た老人が包んだ、なにがしかの金を受け取っていたが、どうも老人が何をしに来たかわからない様子だ。それもそのはず、老人は通訳を介しているのだ。何を話しているのかは老人は殆どわからないのだろう。場の雰囲気はどうみても、ひなびた村の普通の村祭りに日本人が来ました。といった感だ。何を言いたいのかと言うと、老人はお詫びに来たのだが、フィリピン人の通訳は全く違うことを言って誤魔化しているのだ。この他にも色々な理由を付けては老人から金を引き出しているのだろう。
これは筆者の見聞なのだが、一部を除いて、日本から東南アジア方面で暮らす老人の殆どは現地の言葉を話すことはおろか、理解しようともしない。無理矢理に日本語で通そうとするのだ。そして、持ち金をあの手この手で引っ張り出し尽くし、利用価値が無くなれば、死体になって山に捨てられるというケースが後を絶たない。現地人はヒドイ事をするなと思われがちだが、当の本人は現地語が全く通じない、現地人のことは「土人」扱いして傲岸な態度を取る。となれば、金以外は邪魔でしかないのだ。横井、小野田両氏のケースは例外として、語学はサバイバルに必要不可欠なのだ。海軍は早くから英語の導入に力を入れていたが、陸軍ではそういった努力が無かったらしいので、それも運命の分かれ目とも言えよう。(山下大将は語学堪能だった)
本当に謝罪の気があるのならば、タガログの日常会話位はマスターすべきだ。何十年も経ち、既に誰が住んでいるかもわからない状態の村にいきなりやってきて、しかも他人を介して詫びるということは、見方によっては美談かもしれないが、現地人の感情を察すれば、あまりにも横柄では無いのだろうか。
これは偏見ではないが、フィリピン人は本人が言葉がわからないと知れば、平気でタガログ語で本人そっちのけで密談(といっても小声では無いのだが)を始める。こういった「贖罪」を利用して、反対に食い物にされているケースもあるのだから、どっちもどっちということになる。
「戦友の死肉を食べることによって、戦友の肉は自分の血肉と一緒になり、祖国に帰れることが出来る。だから戦友の肉をたべるのだ」
そう嘯いて、堂々と人肉を貪っていた猛者もいたと証言していた老人がいた。本人は生きることで必死なのだ。

筆者はニューギニア戦線の生き残った方々の手記を読み漁った。殆どが口を揃えたかのように、たまたま手つかずの農園を見つけた、たまたま原住民の家畜を接収できた等、幸運なことがあったから生き残れたような記述が多い。戦後生まれで戦争知らずの筆者がこのようなことを言うのもおこがましいが、ニューギニアは開発もされず、食料も自給自足。先住民も原始時代に近い生活をしている。元来、食料の備蓄が乏しく、本土よりの補給もままならない。そのような地に約二〇万人もの軍勢が投入され、「たまたま」に遭遇することが果たして可能なのであろうか。山田氏のように突発的にでも真実を告白する勇気がある人物ばかりではない。現在とは違って、村社会で生きている人々は少しのスキャンダルで村に居れなくなってしまう。悪しき習慣に縛られていると言えばそれまでであるが、村社会で互いに監視し合うことが、そのままの警察機構となって犯罪の抑制に繋がっていることも否めない。本当ならば真実を告白し贖罪したい気持ちはあるが、それをすると自分の明日からの生活が立ちゆかない。人肉食が生への執着とすれば、真実を隠すこともまた生への執着であるといえよう。実は生き残った帰還兵こそが一番の戦争被害者であるのだ。
人肉食は非か?それは極限状態に置かれなければ理解できないだろう。終戦後も戦争ということには限らず、人肉食事件はあった。

一九七二年にウルグアイのカラスコ国際空港を発った大学のラグビーチームを乗せたウルグアイ空軍機チャーター機は、悪天候のために一晩空港で待機し、チリのサンティアゴに向けて離陸したものの、航空管制の誤誘導によりアンデス山脈のチリとアルゼンチン国境付近のセロ・セレール山の頂点近くに墜落した。
機体はセロ・セレール山の山頂付近に接触して胴体と翼がばらばらになり、さらに胴体は二つに分かれた。機体前部に搭乗していた者の多くは生き残ったものの、事故直後に一二名、翌日までに八人、八日目に一人が死亡した。
ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの三カ国により救助隊が編成され捜索に当たったが、墜落地点がアンデス山中の奥地であったこと、事故機の白い外見が雪に紛れて上空から目視出来なかったことなどが原因で捜索隊は事故機を発見出来ず、捜索は打ち切りになった。その後家族らの依頼によりウルグアイ政府が捜索を再開したものの、その後何も発見できなかったことから再び短期間で打ち切られることとなった。しかしその後も家族による自主捜索活動が継続されていた。
短時間のフライト予定だったため機内食の用意もなく、乗客の持ち込んだ菓子のみという状態で八日目に食料が尽きてしまい、極寒の山中での生存を強いられた生存者たちは、一〇日目に全員の決断により凍死した仲間の遺体を人肉食するという究極の選択を迫られるなど極限状況を体験するに至った。このときまでに二七人が生存していたが、生存者たちはトランジスタラジオで捜索の打ち切りを知り、その後起きた雪崩で八人が死亡した。
これらのことを受けて自力で生還するため、何度か下山のための決死隊を編成し、事故から六〇日後の一二月一二日三名が下山を試み、体力低下と高山病に悩まされながらも、勇気と体力、航空地図を頼りに二名の青年が(一人は途中で連絡のために戻った)九日後の一二月二一日に馬に乗った現地人を発見し、翌日に現地人の手引きで下山に成功した。
下山した青年らの誘導でチリ空軍の救助隊により墜落地点が確認され、翌日には事故後七二日ぶりに全ての生存者が救出されたが、生存者は一六名に減っていた。クリスマス直前のセンセーショナルな救出劇だったため、世界各国の新聞などで「クリスマスの奇跡」として報道され、その後人肉食での生存に対して報道が過熱した。生存者の全てが敬虔なカトリック信者だったため、人肉食の行いに対してローマ教皇が罪に問わないという声明を出した。この事故を機に、
「航空事故の捜索は事故機を発見するまで決して打ち切らない」
というのが世界各国における救助活動の不文律となった。

手塚治虫氏は「ゆきゆきて神軍」の映画評をまとめた倒語社刊「群論ゆきゆきて神軍」で興味深い手記を書きつづっている。手塚氏の父親が主計少尉として赴任したフィリピンでの二年間の話しだ

「さあみんな集まれ。オレがどんなに苦労してきたか話して聞かせてやるから」
と言って、学校へ出かけようとした我々を並んで座らせた。それから長々とフィリピンでの逃避行の話が始まった。僕は正直の所、感動も同情もしなかった。白けてしまって、さっさと学校に行きたかった。親父の話がメリハリが無くて退屈だっただけでなく、親父が将校として部下にチヤホヤされて、結構ウマイ生活をしていたようだったからである。食糧なんかも部下に調達させて、いの一番に親父が好きなだけ食い、残りを部下が分けているようだった。
そんなところに僕は反発した。なんだ、内地の我々のひどい暮らしの方を、親父に聞かせたいくらいだ。だが、話が進むにつれて、フィリピンの山中の生活がかなりひどいものだったことがわかった。部下が逃げたり餓死したりして、どんどん減っていったらしい。山奥の現地人の村に迷い込んで、部隊は小休止した。ここから先はどうも書くことをはばかりたい。だが、やっぱり続けねばならない。部下が親父の所に来て、
「豚を調達して来ましたので召し上がりますか、隊長殿」
と言った。
「豚が村にいたのか」
「野豚であります。隊長殿にまず召し上がって頂きたいと思います」
あのときは、本当に久しぶりに腹一杯食ったなあ、と親父は言った。更に部隊はあてどもなく山を逃げ回った。再び小さな村があって、そこでも親父は部下に、
「また野豚の肉が、手に入りました」
と言われた。親父は喜んで食った。いつも、いの一番に親父が味わうのだった。どの村でも豚を食べたという。
「あの時も、腹一杯食ったなあ。豚だけはいざとなったら、部下の奴がうまく手に入れてくれよってなあ」
米が一日、二合一石配合という、最低の食料状態で生活していた我々にとって、豚肉の話は唾を飲み込みたいほどであった。だが、親父はもしかしたら極めて、恐ろしい話をしていたのかも知れない。自分は何も知らずに、今、そうでなかったことを祈りたい。本当の野豚であったことを祈りたい。


手塚氏は奥崎のことを、いささか、辟易する「やりたがり」というか、その告発の姿勢がかなりカメラを意識して演技的に見えるとしながらも、親父の遺言代わりの映画であると締めくくっている。このように極限状態では生命力・生の執着が強い者のみしか生き残れない。誰も責めることは出来ないのだ。

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