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奥崎謙三 ゆきゆきて神軍コミュのokuzaki(7)「殺人」

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警察署で凶器を取り出し、
「いま、楠六交差点のそばで人を刺してきた」
といい、奥崎は緊急逮捕された。刑事は慌てながら
「落ち着け、落ち着け」
と奥崎に焦りながら言う。そして取り調べを受けている最中に、
「病院で延原が仏になった」
と知らされた。痛い目に遭わせるだけの目的であったのが、殺人になってしまい、愕然とした気分になった。
 奥崎の弁護は元判事である山脇弁護士が担当した。起訴状には殺意有りと記載されていて、奥崎は殺意がなかったことを抗議するが、山脇弁護士は情状酌量を狙う方針を採ろうとしたので、意見が食い違い、山脇弁護士は解任される。最終的に判旨では、「殺意有り」という判断が下された。この頃から奥崎の弁護士に対する不信感が芽生えた。そういうこともあり、以降の裁判で奥崎に解任された弁護士は数知れない。
 その後、国選弁護士が奥崎を弁護したが、刑事事件を一人で戦うことは無謀にも等しく、裁判官の心証をすっかり悪くしてしまった奥崎は、懲役一〇年を宣告される。
裁判官には自由心証主義といい、何らの制約も受けずに論理法則と経験則によって自由な判断で、事実の存否につき確信を得て判決を下せられるという制度がある。この制度のお陰で、客観的に不合理な判決が下せられるという事実がままある。その為に現在日本では三審制という裁判制度が採られ、地裁、高裁、最高裁という三つのステップにより審理されるシステムが存在する。しかしながら、事実認定は高裁までで、最高裁では法律が憲法に反しているかどうかが争点となるので、実質的には地裁で決定されたことは余程のことでも無い限り覆されると言うことは有り得ない。
奥崎は裁判に理不尽さを感じながら、上告を取りやめて、昭和三二年十一月に大阪刑務所の第二区に下獄した。しかしながら、判決に納得いかず獄中より九三回も再審請求を裁判所に提出し続けた。奥崎宛の手紙に関しては、出所するまで奥崎の手元に渡ることはなかった。本件に関しては、流石に人権に反しており、大阪地裁は、大阪刑務所に対して三千円の慰謝料を奥崎に支払う判決を下している。

奥崎は刑務所内でこれまで自分が殴って懲らしめてきた人間を合法的に処刑したとしても、また同じような犯罪者は次から次へと生まれてくるということに気づき、本当に世の中を良くしたいのであれば、悪い人間を罰するのではなく、悪い人間が出てこない社会を作ることが一番重要であるという帰結にたどり着く。それは平等で、権力者の存在が無いという理想郷の建設だった。筆者は奥崎が自身を神軍平等兵と称する下地は、この大阪刑務所収監中に出来上がったと推測した。
その為に何をするかと、奥崎は考えた。それは、天皇に対して何かのアクションに出れば、マスコミによって騒がれて、自然と自分の目的が世間にアピールされる結果になるのではと目論んだのであった。それと同時に奥崎は、天皇のせいでこのような境遇に陥ったと思いこみ、天皇を生涯にわたり憎むのであった。

ここで、天皇に対して何らかのアクションに出て、世の不正を公表した人物として、筆者は足尾銅山鉱毒事件の田中正造と大逆事件の難波大助の名を思い浮かべた。
田中正造とは明治時代の政治家である。銅山の惨状を帝国議会に訴えるも全く改善されない実情に業を煮やした田中は、明治天皇に直訴を企てる。議会開院式からの帰路にある天皇の馬車が桜田門に近づいた頃、田中は白足袋のまま、両手に「謹奏」としたためた直訴状を握り、その列めがけて飛び出して行ったが、大勢の警官に取り押さえられ、天皇の馬車はその横を何事もなかったかのように通り過ぎた。それはとっさの出来事であり、天皇はその小さな出来事には気づかなかったが、世論を賑わせる結果となったのである。

難波大助は、帝国議会開院式に行幸途上の当時摂政宮であった昭和天皇が虎の門にさしかかった際、突然摂政宮の車をめがけてステッキ銃を発射した。幸いにも暴漢の銃弾は車の窓ガラスに丸い穴をあけただけで大事には至らなかった。難波は大逆罪が適用されて死刑。父は衆議院議員であったが、この事件のために辞任し自ら食を断ち自殺した。
大逆罪とは天皇・三后(太皇太后、皇太后、皇后)・皇太子(皇太孫も含む)に危害を加えようとした場合に適用される刑罰である。既遂は勿論の事、未遂や更に予備(準備)や陰謀などの計画段階、それどころかその意思を抱いた事が明らかになっただけでも既遂犯と同じ処罰対象とみなされた。三審制が適用されず、大審院での一審のみでの裁判で刑罰が確定した。
第二次世界大戦後、日本国憲法の制定とともに関連法制の改正が行われた際に大逆罪などの「皇室に関する罪」の改正は当初予定されてはいなかった。なぜならば、新憲法でも天皇は国家及び国民統合の「象徴」であり、それを守るための特別の刑罰は許されると解釈されていたためである。これに対して、GHQは大逆罪などの存続は国民主権の理念に反するとの観点からこれを許容しなかった。当時の内閣総理大臣吉田茂自らがGHQの説得に当たったものの拒絶され、遂に政府も大逆罪以下皇室に対する罪の廃止に同意せざるを得なくなった。
 さて何をするかと思案し、昭和三四年の皇太子結婚パレード中に馬車に石を投げた少年がいたことを知った奥崎は、天皇に石を投げるか、発煙筒を投げる等、世間を騒がせ、それをきっかけとして自分の思いの丈を世間に知らしめようと決心する。
奥崎は周囲の看守に犯行をほのめかす発言を続けるのであったが、収監当時の奥崎は精神鑑定の結果、パラノイアと診断され、満期出所するまで独居房に拘禁されていた。(精神鑑定の理由は法務大臣に対して、全ての死刑囚の刑の執行の停止を求める旨の電報を発信しようとしたのが理由である。) パラノイアは、物事への執着が強く妄想的である症状を指す。異常な妄想に囚われるが、妄想以外の部分では常人と大して変わらないのが特徴である。
おそらく話を聞いた看守は、真面目に取り合わなかったのであろうし、誰もが、その後の奥崎の行動を予想だにしなかったであろう。言わずもがな、大逆罪が存在していれば死刑である。

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