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奥崎謙三 ゆきゆきて神軍コミュのokuzaki(4)

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昭和四七年(一九七二)グアムのジャングルで未帰還兵、横井庄一が発見された。実に終戦から二八年が経過していた。帰国の際、横井の第一声は
「帰って参りました・・・恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」
というものだった。時折、アメリカ兵と出くわし交戦を繰り返すため、終戦など思いもよらず、ポツダム宣言を空からまかれた日本語新聞で知った時も、頭から「敵の謀略」と決め込み、「ポツダムとは、なんだろう」と話し合っていた。さらに横井達は、何度も投降勧告の放送を聞いている。
アメリカ軍の罠のような襲撃や見境ない銃撃に、次々と仲間を失っていく。横井は、いくら日本の流行歌などをマイクで唄われても、到底信じることはできなかった。発見されるという恐怖感で、二八年間一瞬たりとも熟睡したことがなく、独り言も自分に禁じたという。帰国後披露されたどの道具類もどの知恵も、「サバイバルの達人」と、人々をうならせる見事さであった。

これを見た奥崎は、グアムの密林にはまだ日本兵が生存していると思い、単身グアムに乗り込むことを計画する。ヘリをチャーターしグアム上空から自作のパンフレットをばらまこうとするものだった。早速パンフレットを一万冊印刷し、パスポートを作り、アメリカ大使館にてグアム行きのビザを取得しに行ったわけだが、奥崎は殺人の前科があるので、ビザが許可されない。
途方に暮れた奥崎の元に、代わりにグアムに行って良いという者も何人か現れた。本心は奥崎のことなどどうでもよく、タダで海外旅行に行けるという下心を抱いての身代わり志願なのだ。奥崎は気づかない振りをしたが、計画とパンフレットを見た途端に及び腰となってスゴスゴと帰って行くありさまであった。それほどに恐ろしい内容のパンフレットであったのだろう。最期の手として嫌がる妻のシズミに無理矢理グアムに渡航させることにした。
かくて、シズミはグアムへと飛び立った。現地の日本人は女一人旅のシズミに優しく接するのであるが、シズミが、奥崎から託されたパンフレットを見るやいなや、手のひらを返すような態度に豹変する。計画は頓挫すると思われたが、たまたま知り合ったアメリカ海軍下士官の日本人妻と知り合い、グアム警察によって、パンフレットを密林に配布するという運びとなった。パンフレットが全て配布されたことを祈る。
それから二年後の一九七四年、小野田寛郎少尉が太平洋戦争終結から二九年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たした。
一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、二月二〇日に小野田との接触に成功し、日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促した。小野田も
「直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。」
と約束した。翌月に嘗ての上司である谷口義美元少佐から任務解除・帰国命令が下り、小野田にとっての戦争は終わった。小野田はフィリピン軍基地に着くとフィリピン軍司令官に小野田は処刑される覚悟で軍刀を渡し降伏の意を示した。この時、フィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返し、小野田を
「軍隊における忠誠の見本」
と評した。こうして小野田は三〇年の戦いを終え帰国を果たした。小野田氏の場合はあくまで任務に忠実で帰国できずというケースだが、横井氏は奥崎同様、勝手に戦線を離脱した。本来ならば敵前逃亡であるが、その罪は大赦によって「お咎め無し」となった。大赦令は、日本国憲法公布に際して、一九四六年一一月三日に公布され、即日施行された。最近の大赦令として、昭和天皇の大喪に際して行われた一九八八年(平成元年)二月一三日公布、のものがある。
 しかし、横井氏と同様に、いろいろな理由のもとに戦線を離れ、隠れていた兵も少なくない。終戦後になって二、三カ月目に、正直に名乗り出た者たちは、敵前逃亡に問われて処刑をされた。処刑者は戦没者遺族年金等の色々な恩恵からはずされていたのだ。つまり、隠れていた者は大赦で「逃げ得」の恩恵に与っていたと言うことになる。

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