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奥崎謙三 ゆきゆきて神軍コミュのokuzaki(3)

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ニューギニア島は、日本から真南に五〇〇〇キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島である。面積は七七万平方キロであり、島としてはグリーンランドに次いで世界で二番目に大きい。脊梁山脈には四、五〇〇〇メートル級の高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。
太平洋戦争が開始されると、日本軍はトラック諸島の海軍基地を防衛する必要からニューブリテン島ラバウルを攻略し前進拠点とした。しかしラバウルはオーストラリア領ニューギニアの中心拠点ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にあった。日本軍はラバウルの防衛と米豪遮断作戦を視野に入れてポートモレスビーの重要性を認識し、海路からの上陸作戦を計画した。作戦は「MO作戦」と名づけられ、ニューギニア島の北岸のラエやサラモアには前進航空基地の設営が計画された。連合軍にとっても、ポートモレスビーはオーストラリア本土の最後の防衛線であり、絶対に守り抜かねばならない拠点であった。
また、フィリピンから脱出してオーストラリアに拠点を置いていたダグラス・マッカーサー大将にとっては、オーストラリアからニューギニア島北岸を経由するルートは、フィリピンを奪還し東京へと至る対日反攻ルートの起点でもあった。
一九四二年三月七日、日本軍がラエとサラモアへ上陸してニューギニアにおける本格的な戦端が開かれた。以後一九四五年八月一五日の終戦に至るまで、ニューギニアで戦火がやむことはなかった。東部ニューギニア戦線に投入された第一八軍将兵は一六万名、西部ニューギニアも含めると日本軍は二〇万名以上が戦いに参加した。そのうち生きて内地の土を踏んだ者は二万名に過ぎなかった。  
昭和一八年四月、輸送船は駆逐艦に護送されながら、台湾の高雄、フィリピンのマニラ、パラオを経て、ニューギニアのハンサに到着した。その頃、日本軍は既に一九四二年七月からのポートモレスビー作戦をはじめ、ブナ方面の作戦、バサブアの戦い、ラエの戦い、フィンシュハーフェンの戦いにおいても次々と戦線の後退を余儀なくされ、ついには戦線が東部ニューギニアの湾岸線近くまでになっていた。奥崎が所属する独立工兵三六連隊は第八方面軍・第一八軍(安達二十三中将)所属で、任務は東ニューギニアの道路架橋の建設と、アレキシス、ウェワクに飛行場を建設することであった。
ハンサは沖合から見ると椰子林の中に原住民の小屋が数軒見えるような寂しいところで、部隊が上陸したことを察知した敵は毎日低空飛行で重爆撃を加えにやってきた。ハンサから目的地のアレキシスに到着したのも束の間、制空権は奪われてしまい、一八軍は四〇〇キロ西方にあるウェワクまで後退することになった。そして、ウェワクも追われ、昭和一九年三月には西イリアンのホルランジャへ後退することになり、奥崎は道無き道を転身することになるが、中間地点であるアイタペの基地にあと一歩と言うところで、川に邪魔され足止めを喰らうが、これによって機材を放棄し身軽になれた。しかし、アイタペは無人となっていた。
戦局は次第に悪化し、ジャングルをただ彷徨うだけの行動に、食料は徐々に底を付き始め、マラリアや疲労で、部隊の落伍者は増える一方であった。兵隊達は装備品の内、鉄兜を捨て始め、次にツルハシやスコップを捨て、最期に銃や弾薬を捨てるようになった。しかし、奥崎は最期まで銃を捨てることはなかった。食料も長く食いつなぐのではなく、早々と食べてしまって荷を軽くすることによって体力の消耗を極力減らし、寝るときも焚き火をしたあとの灰の上に寝た。じめじめしている地面だと、病原菌の巣になっている可能性がある。そういった色々な工夫は貧困の中で生まれた知恵だ。その様な状況でも中隊長は空腹の兵士に
「来るなら来てみろ赤とんぼ」
無理矢理軍歌を歌わせる有様であった。
 敵から逃れ逃れ死の行進が続く中、遂に奥崎も類に漏れず、マラリアを発病し高熱で動けなくなってしまった。行動を共にしていた軍曹は、原住民の毒矢にかかり狂死。奥崎は生に対する執着を捨てることなく、原隊に復帰するためジャングルを駆け抜けるが、敵の銃弾を右手と右足に受ける。戦場ではまともな手当も出来ずに、結果、右手の小指は切断する。これが奥崎の右手に小指が無い理由である。普通、指の欠損がある者はウマイ具合に隠すのであるが、奥崎は反対に堂々と右手を掲げて指の欠損を見せつける。

満身創痍で最早これまでと覚悟し、日本に続く海まで行って塩水を飲み、見晴らしの良い場所で死を待とうと奥崎は決心した。それでもしぶとく生き抜こうとしていたが、原住民の小屋の軒下に身を潜めている所を遂に見つかってしまう。ぐっすり泥のように眠り、目覚めた後だったので自然と気持ちは落ち着いていた。潔くアメリカ兵に殺して貰おうと、原住民の長老に、
「アメリカソルジャー・カム・ガン」
と言うが通じるわけもない。
「オランダ・アメリカ・イギリス・ニッポン・サマサマ」
長老は静かに奥崎に言った。さまさまとは「同じ」という意味らしい。原住民からしてみれば、肌の色は違っても余所から来る人種は全て同じなのだ。
そんなやりとりが続けられている間に奥崎はアメリカ兵に引き渡されて捕虜となり、敵の物資の豊富さに驚くことになる。アメリカ兵は奥崎を虐待することなく、傷の手当てを施し適法に捕虜として扱った。二三日後、奥崎を大勢の敵兵が取り囲んだ。二人のフィリピン人が怒りにまかせて言った。
「我々は日本軍の捕虜になったとき、ひどく虐待された」
奥崎は静かに
「日本兵の私も、あなたたちのより少ない食料で働き、多く殴られました。腹が立ったら私を殴ってください」
拍子抜けしたフィリピン人兵士はどこかに引き揚げていった。日本軍の弱い者虐めに、この時ほど奥崎は日本に生まれたことを恥ずかしいと思わずにおれなかった。傷が回復し、昭和一九年も暮れようとした時期に奥崎はオーストラリア、シドニー郊外の第七俘虜収容所に送致された。早くに捕虜になった奥崎は幸運だったかも知れない。奥崎が捕虜になった時はニューギニアにいる日本軍の地獄絵図は開けられたばかりであったのだから。

その後の部隊はどうなったのだろう。終戦間近の昭和二〇年六月頃には、東部ニューギニアに投入された第一八軍総計一六万名の兵力は、五万四千名にまで減少していた。他の部隊も空襲と艦砲射撃と飢餓とマラリアに斃れ、一定の戦闘能力を保持しているのは第四一師団の一部のみであった。兵士はみな骨と皮の栄養失調者で、軍服は擦り切れ、軍靴は破れ、加えてほぼ全員がマラリアや赤痢の既往症者であった。制海権・制空権は連合軍が完全に掌握し、第一八軍には補給が全く届かなくなった。
六月二〇日、大本営は第一八軍を第二方面軍指揮下から南方軍直属へ移し、
「東部ニューギニア要域における持久」
を命じた。もう敵を攻撃しなくて良いから現地で自活せよという趣旨であるが、安達軍司令官は最後の決戦を決意していた。連合軍にアイタペとホーランジアに先回りされて黙って見過ごすわけにはいかなかった。
そして理由はもう一つ、ウェワク地区で採取できる食糧の量では、五万四千名を養うことは不可能だったのである
こうして、第二〇師団、第四一師団、歩兵第六六連隊の二万の兵力が二百キロ西方のアイタペへ向けて移動を開始した。連合軍も偵察によりこの動きを察知し、アイタペ東方三〇キロのドリニュモール川(坂東川)に防衛線を敷き、アメリカ軍第一一二騎兵連隊戦闘団、第三二歩兵師団、第一二四連隊戦闘団、第四三歩兵師団を順に急派した。投入兵力は双方二個師団半であったが、日本軍の一個師団は実数一個連隊に過ぎなかった。

七月一〇日、日本軍はドリニュモール川沿いのアメリカ軍陣地へ攻撃を開始した。なけなしの砲弾による一〇分間の準備射撃の後、河口から二マイル上流の渡河点を渡河し前進した。この時点で川沿いのアメリカ軍は三個大隊に過ぎず、渡河点を守っていた第一二八連隊第二大隊は突破され、日本兵はアメリカ軍の物資を奪いルーズベルト給与にあずかった。
歩兵第二三七連隊はアメリカ軍を海岸へ圧迫、第二〇師団は上流側に旋回して川沿いのアフア陣地を包囲した。緒戦の戦果に、第一八軍司令部では
「うまくいくかもしれない」
という期待が広がった。第一八軍では渡河点へ第四一師団と歩兵第六六連隊を追加投入しようとしたが、両部隊の移動は空襲と艦砲射撃に阻まれて遅れていた。
七月一三日以降アメリカ軍の増援は続々戦場へ到着し、七月一五日には渡河点が奪回され歩兵第二三七連隊は川向こうに取り残されてしまう。十七日、歩兵第二三九連隊が渡河点の再奪取を試みるが撃退され、歩兵第二三七連隊は二二日までに壊滅状態となって押し戻された。ようやく戦場に到着した第四一師団と歩兵第六六連隊には第二〇師団を援護してのアフア陣地への攻撃が命じられ、両部隊はジャングルを南に大きく迂回して八月一日にアフア陣地の南側から攻撃に参加した。
だが日々増強される連合軍に対して日本軍の食糧弾薬は底をつき、八月四日には各連隊の兵力は一〇〇名以下にまで損耗していた。もはや作戦継続の不可能は明らかであった。八月四日、安達軍司令官は攻撃停止を指令し撤退を開始した。七月一〇日から八月五日までの戦闘で、日本軍は一万三千名が戦死した。アメリカ軍の戦死者は四五〇名、戦傷者は二五五〇名であった。
アイタペ決戦に敗れた第一八軍はウェワクへ後退した。各部隊はウェワクからセピック川流域の地域に分散し、オーストラリア軍との散発的戦闘を繰り返しながら、原住民の協力を得て食糧を採取し自活した。サクサクのほか、草の根やトカゲ、昆虫の類など、食べられるものは何でも食べたが、将兵は飢餓と感染症に倒れていった。

後の証言によれば、日本兵が日本兵を襲って食べる人肉食事件が発生したとされるのもこの時期である。
一九四四年一二月に第十八軍は
「友軍兵の屍肉を食す事を罰する」
と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した四名が処刑されている。オーストラリア軍の包囲の輪が次第に狭まり、一か月後の玉砕全滅を覚悟していた一九四五年八月一五日、終戦の知らせがニューギニアに届いた。


九月一三日、東部ニューギニアの日本軍はオーストラリア軍に対して降伏し、武装解除の後ムッシュ島に収容された。収容された陸海軍将兵の人数は一万一一九七名であったが、武装解除までの1ヶ月間、謎の死を遂げた兵士が数多くいたのは言うまでもない。

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