セラニンコミュのスマイリーとスミリー

　スマイリーとスミリーは街でも評判の美人姉妹だった。姉のスマイリーは誰の記憶にも残らないほどの美しさで、妹のスミリーは誰の目にも一瞬で焼き付く程の美しさだった。
　スマイリーとスミリーがどこに住んでいるのか、誰も知らなかった。ただ人々は二人が二人で暮らしていることだけを知っていた。あんなに美人の二人が暮らしているのだから、それはそれは美しい部屋なのだと誰もが思っていた。

　スマイリーはいつも、朝八時に品川を出る京浜東北線の車内で目撃されていた。
　その電車がどれほど混んでいても、誰もがスマイリーの姿を認め、その美しさにため息を漏らした。スマイリーがいる電車の車内では、誰もラッシュのストレスを感じることがなく、みなほほえみを浮かべていた。同じ車両にいれば、それだけでみながスマイリーを感じ、そして幸せになった。

　スミリーはいつも、朝八時に品川を出る京急線の車内で目撃されていた。
　その電車が例えどれだけ空いていても、スミリーは常に下心を持った男に囲まれていた。彼らは好色の目でスミリーを見た。スミリーは一週間に三回は痴漢の被害にあっていた。しかしスミリーはそれに対して、被害者感情すら抱かなかった。ただただスミリーは憐れな男達だと感じるだけだった。

　スマイリーとスミリーがどこに住んでいるのか、誰もしらない。
　スマイリーとスミリーはどこかからやってきて、朝の八時に品川駅から電車に乗る。どこかで仕事をしているのかも知れない。けれど、誰も知らない。

　スマイリーとスミリーは、週に一度、品川のホテルのレストランで食事をしている所を目撃されている。
　二人は綺麗に着飾っていて、スマイリーがソムリエと話し込んで決めたワインを、スミリーがとてもとても美味しそうに飲む。テーブルマナーは完璧で、誰もがその光景にため息をついた。

　けれど、誰もスマイリーの顔を覚えられない。
　そして、誰もスミリーの顔を忘れられない。

　二人が行動を起こし始めたのは、スミリーのことがネット上で噂になったころだった。
「京急線でいつも痴漢にあっている、信じられない程美しい女がる」
　一部の愚民がそれに食いつき、小市民がスミリーを哀れんだ。
　女性専用車両を使わないスミリーを非難する声もあり、ジェンダー学を学ぶ人々が舌戦を繰り広げた。
　スミリーの存在は、スマイリーの存在と不可分であった。やがて人々は痴漢に会う可哀想な女性と、車両の人々を幸せにする美女とをつなげ、スマイリーとスミリーに声をかける人が増え始めた。
　スマイリーに対して人々は聖者を前にするように接し、スミリーに対しては戦争孤児を前にしたように接した。

　スミリーには全てが理解不能であった。自分の体が馬鹿な男達（時には女もいた）に触られることが何故、かくも世間の関係無い人の注目を引くのかが理解できなかった。スマイリーは全てを理解していた。

　異変はまず、品川駅で起きた。
　スマイリーがいつもの電車に乗らなかったのだ。
　人々はスマイリーの不在を残念がり、いらだち、その車両で五人の男が痴漢で逮捕され、さらに五人の女が無罪の男を痴漢だと訴えた。一つの車両でほぼ同時に十の痴漢事件が起きた。その車両の、いつもスマイリーが乗る場所には、睡蓮の花が置かれていた。
　マスコミの一部がそれを報じた。誰も興味を引かなかった。
　しかし、その夜、品川駅の一角に、綺麗な睡蓮が飾られた。駅員ですら気づかないようにごく自然に、置かれたその睡蓮は、駅中をその香りで満たした。
　その日も、スミリーは駅で男に体を触られていた。スミリーにとってそれは、電車の揺れで体が揺れるのと同じくらいのことだった。

　翌日、東京駅に睡蓮が置かれた。スマイリーの姿はその日も見えなかった。京浜東北線での混乱は続いた。スマイリーを欠いたその電車は、たった一駅進む間に十五の事件を起こし、十五人が捕縛された。
　スミリーは変わることなく電車に乗り、痴漢にあっていた。

　翌日、上野駅に睡蓮が置かれた。スマイリーの姿はその日も見えなかった。京浜東北線での混乱は続いた。スマイリーを欠いたその電車は、たった一駅進む間に三十の事件を起こし、四十人が捕縛された。
　スミリーは変わることなく電車に乗り、痴漢にあっていた。

　混乱は徐々に広がり始めた。
　まずは京浜東北線と併走する山手線で混乱が起きた。それは都心をぐるりと回る心臓部分の混乱を意味した。
　翌日、ある車両が山手線を一周する約一時間で、百十五件の痴漢、暴力、事件が起き、百三十人が捕縛された。
　睡蓮は渋谷駅に置かれていた。
　スミリーは、もう電車に乗っていなかった。
　普段スミリーで性欲を発散していた男達の一部が他の女に痴漢行為を行い、次々に捕まった。
　京急線の品川駅にも睡蓮が置かれた。

　次の日には新宿に、その次のに日は池袋に睡蓮が置かれた。

　山手線の六つの大きな駅に睡蓮が置かれた。

　スマイリーとスミリーの不在は続いた。

　東京という街は、電車に支配されていた。そのことが非常に分かりやすい結果を生んだ。

　新宿駅に置かれた睡蓮は、小田急線や京王線に感染り、池袋に置かれた睡蓮は、やがて東武線や西武線に感染り、渋谷からは東急線に、品川からは京急線に、上野からは京成線に感染り、そして一ヶ月で都内の路線図の全ての駅に睡蓮は現れた。

　一ヶ月間の犯罪率は凄まじい数字をたたき出した。

　駅員達は睡蓮の撤去を考えた。しかし、睡蓮をどかしても、誰かがまたそこに睡蓮を置いていた。
　一日に三十ヶ所から睡蓮を排除しても、翌日の同じ時刻には、ほぼ同時にその睡蓮は出現していた。

　誰もスマイリーとスミリーの事を考えなくなった。

　スマイリーは睡蓮であったのではないか、という馬鹿げた説が流れ始めた。愚民は信じ、小市民は論理で対抗した。どちらでも結果は同じだった。

　品川から始まったその睡蓮は、一年以内に日本全国の駅に置かれた。
　鉄道会社は模倣犯の存在を訴え、人々に模倣行為をすることを控えるように訴えた。
　鉄道警察は毎日毎日大量の痴漢や暴力事件の処理に追われた。

　次第に、睡蓮は日本の鉄道の象徴と化していった。
　そしてそれは日本の電車利用者の犯罪率の高さの象徴ともなった。

　スマイリーとスミリーは以前姿を消していた。
　しかし、二人はある日、成田空港で目撃された。二人は長い間海外にいたことが判明した。

　睡蓮の一件とスマイリーとスミリーを結びつけることはほとんど不可能となった。

　スマイリーがまた電車に乗るようになってから、スマイリーが乗る車両だけ、平和となり、スミリーが乗る車両では他の車両の三倍程度の犯罪率となった。

　最初に睡蓮を置いたのは、スマイリーだろうか。スミリーだろうか。それは誰にも分からない。
　スミリーであったならば、人々はその姿を網膜に焼き付けているはずだ。
　スマイリーであったとしても、スマイリーがそれをする必要性はない。

　ある日、スミリーとスマイリーが同じ電車に乗っている姿を目撃された。
　二人は仲良く話していた。なんの憂いもなく、見るからに幸福で仲の良い姉妹の姿であった。
　その車両、一駅を走る間に三件の殺人事件が起きた。スマイリーとスミリーの目の前でそれらの事件は起きた。男が女を刺し、女が男を刺し、男が男をハンマーで殴りつけた。スマイリーとスミリーにもいくらか血がついた。しかし二人は眉一つ動かさず、電車が停車すると、電車を降りて振り替え輸送の電車に乗り込んでいった。
　そして乗り換えた電車も一駅で五人の死者を出し、運行停止となった。

　二人はその日一日で七つの電車に乗り、合計五十件の殺人（あるいは、未遂）事件を目の当たりにした。
　人々は、スミリーの乾いた目線を強烈に記憶している。そして、スマイリーがどんな表情をしていたか、誰も覚えていない。

　スマイリーとスミリーはただただ美しい姉妹であった。

　誰が睡蓮を置いたのか。誰が人々を犯罪に走らせたのか。それはスミリーにも分からない。スミリーとスマイリーは姉妹ですらない。
　スミリーはスマイリーが誰なのかも分からない。
　スマイリーは知っている。スマイリーはスミリーが誰なのかを知っている。
　だからスミリーはスマイリーと一緒にいる。それだけだ。
　人々は二人を姉妹だと思っている。しかしそれを証明できた者はいない。

　スミリーは物憂げに街を歩き、スマイリーは華々しく街を歩いた。

　後に残されるのは、睡蓮と、真っ赤な血だけ。

　スマイリーとスミリーは姉妹ではない。けれどそのことを証明できる者もまた、誰もいないのだ。

　睡蓮事件と言われたこの年の一連の騒動は、スマイリーとスミリーが東京から完全に姿を消すまでの間ずっと続いた。
　二人は今度は空港に姿を現すこともなく、煙のように消えてしまった。
　スマイリーが歩いていても、人々は覚えられない。だから正確にはスミリーが消滅したという表現が正しいのかも知れない。

　スミリーがどこにいったのか、誰が睡蓮を置いたのか、全ては、スマイリーの記憶に残らないほどの美しい表情の奥に隠されているだけである。

　スマイリーとスミリーは、ただひたすらに、美しかった。

　今日も、日本中の駅に睡蓮が置かれている。今では駅員が水をやるのが日課になっている。

　世界を変えるのは、或いは世界を破壊するのは、かくも簡単なのだと、スマイリーとスミリーは証明してみせた。
　我々には、スマイリーとスミリーの関係すら証明できない。
　要するに、そういうことである。