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無名人インタビュー むははさんコミュの09 幼児期…昭和20年代の北区赤羽界隈

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私は東京の北区で生まれた。7歳になる少し前まで同区で育ち、荒川区に越して少年期を過ごした。
実際に生まれたのは赤羽のどこからしいが、詳しい場所は分からない。生まれて間もなく、だと思うが、隣町の「稲付」という町に転居したからだ。随分前、親のなにかの手続きの必要があって、私にとっても結婚前の本籍地であった台東区の戸籍謄本を入手したことがあり、それを見れば分かるはずだが、どこかに仕舞いこんで、今は分からない。
そんなわけで、私の最初の記憶の背景となるのは稲付だが、この地名も今は残っていない。稲付の地名は昭和43年の地図にはまだ載っていたことを下記で知った。
http://www1.ocn.ne.jp/~makita/ekhp_aka_hi_sengo_j.html

小学1年の1学期一杯を通った稲田小学校は健在らしく、今も地図に載っている。子ども心に、稲付けという地名と稲田という学校名の関連性を想像した記憶がある(実際にはずっと後になってからだと思うが)。

この土地の記憶として強く印象に残っているものが二つある。隣町の神谷にあった火力発電所へ向かう「引込み線」、そして赤羽駅周辺の「闇市」と通称された商店街だ。
火力発電所は、今度調べてみて正式名称が「国電赤羽火力発電所」ということを初めて知った。発電所自体は、まだ幼児だったこともあり、いつも遠くからしか見たことがない。その印象は、後に引っ越した荒川区で馴染んだお化け煙突の風景にも通じるものがあった。
私の家の前の路地を出て、少し広い道を右手に300メートルぐらい(?)行くと稲田小学校の塀に突き当たるが、その道の、我が家からわずか50メートルぐらい先のところを、火力発電所に石炭を運ぶための鉄道の引込み線が横切っていた。

そこを一日数回、石炭を積んだ無蓋車を引っ張って、蒸気機関車が走った。ごくまれには、角ばって薄茶色をした電気機関車も通ったように記憶する。線路と生活道路が交差していながら踏み切りもなかったので、汽車は遠くから警笛をけたたましく鳴らしながら近づいてきた。遠くに汽車が見えると、私たち子どもは線路に撒かれた砂利や、時には釘を拾ってきて(当時はよく落ちてた)線路に置いた。今考えるととんでもない遊びを無邪気にやっていたもんだ。そして、列車が通り過ぎると、まだ熱い線路に耳を押し付けて、轟音を聞いた。

この汽車の線路は引込み線のため、本線から別れて大きくカーブを描いたあと直線に入り、間もなくその辺りを通過したから、遠くの汽笛を聞いてすぐにその方向を見ると、始めは車列全体の向かって左側面を斜めに見せて走ってきて、ゆっくりと私たちの見ている方へ向き直り、あの真っ黒い汽車の正面が見えてくる。そしてさらに近づくと、今度は右側面を見せながら眼前を横切っていく。その変化を楽しむことが出来た。しかし、カーブした先は町並みのなかに没しているため、線路がどこへつながっているのか、汽車がどこからやってくるのか、子どもの私には想像もできなかった。

私たちの眼前を通過した汽車は、少し先のおせんべい屋さんのうちの脇を流れる小さな溝川を、そこに架かった小さな鉄橋(というんだろうか?)を超えて渡り、遠くに見える火力発電所の煙突に向かって少しずつ小さくなっていった。

この引込み線については、以下の記事で知ることが出来た。

「赤羽駅と鉄道史」
http://www.kitanet.ne.jp/~kiya/hometown/topics007-2.htm
大正9年 8月神谷に国電赤羽火力発電所が起工
大正10年 特殊専用線 赤羽発電所〜王子駅開通 石炭運搬
大正12年 2月東京鉄道局赤羽火力発電所完成 現在の北清掃工場地 3階建て
山手線中央線赤羽線電車に送電開始 京浜線は矢口発電所
 ※北清掃工場は1998年操業開始(平川:記)。


コメント(18)

昨日書いた上の記事を読み直したら分かりずらかったので、書き直そうと思ったのだが、最初の記事は削除できないようだ。仕方がない。

さて、汽車がめったに通らないこともあり、線路の周辺は私たち子どもの良い遊び場だった。周囲より一段小高くなった線路上に立って神谷町方向を見ると、はるか遠くにそびえる火力発電所の建物が、子どもの目でも見ることが出来た。大きな煙突を持つ、荒涼としたコンクリートの建造物は、後に荒川区で馴染んだお化け煙突(これも今はもうない)にどこか似ていたが、印象はこちらのほうが明るかった。

線路の両側には、わずかな畑地が広がっていた。おそらくこの畑地は、線路の安全のために確保された敷地だったのだろうが、いわゆる戦後のドサクサ時代のこと、いまだ不足気味の食料を補うために無断使用されていたのではないか。しかし、おかげで住宅街の間を帯状に貫くこの空間には雑草も含めて緑が多く、春には白や黄色の蝶が、夏には塩辛、秋には赤とんぼがたくさん飛んでいた。夏の夕方には夕焼けの空をこうもりが不気味に飛び交った。

我が家のほうから線路に沿って左に折れ、少し行くと小さな町工場があった。家内工業でこうもり傘の骨を作っていた。ある日、道端に落ちていたその細い金属性の棒を拾うと、U字型の溝に泥が詰まっていた。私は雨が降った後の水溜りにその棒を浸けて、泥を落とそうと親指でこすった。すると、指の腹に鋭い痛みが走り、見ると二筋の傷となって、赤い血が滲んでいた。きっと、泣いて家へ帰ったと思うが、よく覚えていない。
その工場には私と同い年ぐらいの男の子がいた。仮にけんちゃんとしよう。けんちゃんの家と、その隣のおせんべい屋さんの家は、私たちの住むあたりから2軒だけちょっと外れていたせいもあり、けんちゃんの性格のせいもあって、私たちとはあまり一緒に遊ぶことはなかった。けんちゃんの遊び相手は、となりのおせんべい屋さんのところの同年代のとしこちゃん(仮名)だった。
おせんべい屋さんには頭の禿げたおじいさんがいて、よく縁側でタバコを巻いていた。当時、しけもくを集めてほぐし、手巻きで巻き直す簡単な道具があった。それを使って巻いていたのだ。また一度だけ、そのおじいさんが先頭に立ち、家族一同で手焼きのおせんべいを焼いているところも見たことがあった。火の上で、忙しくおせんべいを裏返す手つきに見とれてしまった。

不思議なことに、ある日、そのとしこちゃんと私が二人だけでおままごとをやって遊んだことがあった。おせんべい屋さんの家の脇を流れるわずか3メートルほどの溝川を、例の線路がまたいでいる。線路上から川の淵を覗くと、枕木の間から下へ降りられるようにコンクリートの階段ができている。私たちは枕木の間に体を入れ、階段の一段目にしゃがんでおままごとをして遊んだ。枕木をちゃぶ台に見立てて、お皿なんかを並べて遊んだのだが、遠くから見れば、二人の顔だけが枕木の間から覗いている状態だった。

そこへ、1日数回しか通らない汽車がやってきた。私たち2人がそのとき何を考えていたのか、まるで覚えていない。やがて機関手が私たちに気づいたらしく、汽車は汽笛を激しく断続的に鳴らしながら接近してきた。そうなって初めて、私たちは火がついたように泣き出した。おせんべい屋さんの家の人たちが事態に気づき、おばさんやおじいさんが家の中から飛び出してきた。汽車は私たちの数メートル先でかろうじて止まった。おじいさんが私たちを一人ずつ枕木の間から抱き上げてくれた。後ろでおばさんがなにか叫んでいた。
降りてきた機関手におじいさんがしきりに頭を下げて謝っている。機関手はそれにうなづいて答えると、自動車のクランクの大きくなったような奴を機関車の前に差し込み、体をつかって回した。私は泣きながら「機関車も自動車と同じことをするんだ…」と思った。当時はバッテリー切れが多かったのか? 自動車の前にこんなのを突っ込んで回し、エンジンをかけるところを見たことがあったのだ。

実は、「都営稲付第二住宅」というのが、あの店のあった建物の正式な名称です。あの辺り一帯は、以前は、軍需工場などの施設が点在しており、戦後は一部を米軍が接収。一部は自衛隊、一部は旧地検第二庁舎等々、となっていました。西が丘サッカー場もその跡地です。米軍の接収していた土地を譲り受けて、移転してきたのか、方南町から焼け出されて、浅草とかを転々としてきた帝京高校です。時代は違いますが、なにかと縁がありますねえ。

引き込み線と、赤羽線(現在の埼京線)の位置関係は、確かめたことがないので、よくわかりません。ところで、引き込み線の汽車は、石炭?で動いていたのですか?
そうですか、あの辺も稲付だったんですか。では、現在は赤羽南ですね。私の当時すんでいたところとは結構近かったわけだ。

引込み線は始発駅は王子だったようです。

引込み線の汽車の燃料は石炭でしょう。だって、たまに電気機関車を見た(というのもハッキリしない。当時の赤羽の大踏み切りにあった、歩道橋の上から汽車を見るのも大好きだったので、その記憶と混同しているかもしれないから。歩道橋の下を通る汽車が雪をかぶっているのを見て、随分遠くからきたんだな、と感じ入ったことがある)以外は、いわゆる汽車、つまり蒸気機関車ですから。
私が轢かれそうになったのも、あの真っ黒い蒸気機関車です。

最初の記事中に紹介したサイトだったかで、赤羽を軍事の街とも紹介していました。陸軍の被服廠があったことは親からも聞いていましたし、親に連れられて「闇市」に行ったとき、米軍の盛大なパレードを見たこともあります。また、我が家の路地の奥には、いわゆるオンリーさんが住んでいました。弟が生まれた「国立病院」と呼んでいた病院が、どうやら国立王子病院で、ベトナム戦争反対運動の頃に問題となったところのようです。設立当時、王子区に属していたことによる名称とか。
確かに、元、米兵相手のP2だったばあさんもいましたね。私の知っているのは、OOさんの奥さんで、近所の口の悪い老人の間では、戦後、50年たとうが60年たとうが、〇〇さんの話をするときは、「アイツの女房は…」ってのが枕言葉になっていました。
ところで、一番最初の記憶って、どの辺りからありますか?
それほど古い記憶は残っていないほうだと思います。5歳になる少し前に弟が生まれ、6歳で小学校に上がり、同年に引越しがあり、と、いろいろ変化があったので、この辺りの記憶は随分鮮明なんですが。
以前、いろいろと思い出していたときに、一部「ああ、これは弟がまだ生まれてなくて、自分の天下だった頃だな」というのがある程度だから、4歳がいいところでしょうか。

数年前に読んだ、産婦人科医が書いた本で、胎児だったときの記憶をとどめている幼児の話がありましたが、そうした記憶も小学校の低学年ぐらいで失われてしまうと言います。したがって、覚えていたことさえも少しずつ忘れていくのでしょう。上に書いた、弟が生まれる前の記憶というのも、今ではどんな場面だったか分かりません。
引込み線の線路を、ときどきトロッコが走った。線路上の工事をする作業員が道具などを載せて、数人で押していくのだ。勢いがつくと囲いもない平らな床に皆でひょいと飛び乗って、タバコを吸ったりしていた。

ある日、うちと親しくしていた野辺さんちのお兄ちゃん、たかおちゃん(小学5年生ぐらい)が少し大きな子たちと数人で、人夫たちが乗ったトロッコを押しているのを見た。彼らはトロッコに勢いがつくと、人夫たちの脇に次々に飛び乗ったが、最後に飛び乗ったたかおちゃんは乗り損ねて線路上に落ちてしまった。
一瞬、なにが起こったのか分からなかった。たかおちゃんはしばらく蹲っていたが、やがて立ち上がり、泣きながらケンケンをして家に帰っていった。傍を通ったところを見ると、右足から血が滴っていた。

野辺さんちのおばさんは生憎留守だったので、私の母親が、おせんべい屋さんと道路を挟んで向かいあった診療所へ付き添っていった。後で聞くと、診療所の医師は「右足の小指が切れて、皮一枚しかついていない。切断するがいいか?」と母親に返答を求めたという。母親は「それでは仕方がない」と答えたらしいが、帰宅した野辺さんのおばさんは泣いて悔しがったそうだ。「私がついていれば、生まれもつかないカタワなんかにさせなかったのに!」
言われた母親のほうも、「実の母親がついていたって、皮一枚しかついてないっていうんじゃ、どうしようもないじゃない!」といって、怒っていた。当時の医療技術では、母親の意見も否定は出来なかったかもしれない。

野辺さんの家は、我が家のある路地の一番奥の右側にあった。古い二階家(焼け残った周囲の家はみな古かったが)で、二階を仕事場にして時計の修繕の仕事をしていたおじさんは、少し前に亡くなった。結核かな? 私は一度ぐらいそのおじさんを見たように記憶しているのだが、定かではない。
たかおちゃんの下に私と同い年の男の子がいて、他に妹が二人いた。

路地を挟んだそのお向かいが、オンリーさんの家で、その女性とハーフの小さな女の子が住んでいた。女の子はカタカナの名前で呼ばれていたが、噂ばかりで、私はほとんど見たことがなかった。
その家にはちょっとした庭があり、夏(の花とは今調べて知ったのだが)の強い日差しの中、垣根越しに真っ赤な鶏頭の花が咲いていたのを見た記憶がある。
また、ときどきどこから来たのか黒塗りのハイヤーが路地を出たところに止まることがあり、訪問先はオンリーさんの家だった。どこかからの迎えなのか、誰かが乗ってきて、その家を訪ねたのか分からない。運転手が羽ぼうきでピカピカの車体のほこりを払っていて、私たちが「うわー!」なんて寄っていくと「触るな!」と怒られた。

野辺さんちの一見手前、我が家のお向かいは、清水さんのおばあちゃんがたしか一人で住んでいた。小柄だけど、いつも険しい顔をした怖いおばあちゃんで、近寄りがたかった。

清水さんちのもうひとつ隣は、もう路地の入り口の角家で、佐藤さんといい、真っ白いひげを生やしたおじいさんを時々見かけた。なんと、えらい行司さんだという。おばさんはいつもきれいな和服を着た、上品で優しい人だった。町内のお祭りのとき、親戚の子が遊びに来ていて、はっぴを着せられ、男の子なのにきれいにお化粧をしてもらっていた。私が不思議なものを見るように、垣根から覗いていると「●●坊もおいで」といっておばさんは私を招き入れ、同じように鼻筋におしろいを塗り、目の縁に紅でラインを入れ、口紅を塗られた。紅で目の縁を書かれるのが痛くて顔をしかめると「少し我慢しなさい。きれいになれるよ」と体で押さえつけられて、そのやわらかい感触、よい匂いにぼーっとなった。

佐藤さんの反対側の角、我が家のもう一方の隣は「紙屋」さん。苗字は忘れた。油を敷いた梱包用紙のようなものを裁断する仕事をやっていたらしく「紙屋のうちの親父さんがどうこうした」なんて大人が言ってたと思う。この家の、たしか糖尿持ちの太った親父さんはオートバイが趣味で、表でよく磨いていたが、あるとき、住まいの一角にあった作業場でオートバイをいじっていて、タバコの火がガソリンに引火し、火事を出した。

私はその日、昼間に遊び疲れたらしく、狭い家のあがり框でうたた寝をしていた。まだ、7時とか、そんなものだったのだろう。紙屋のうちの家族はおばさんが子どもたちを連れて、親戚へ行っていたとかで、おじさん一人だったらしい。私はいきなり「●●坊、火事だよっ、起きな、起きなさい」と揺り起こされた。しかし、私は寝ぼけてなかなか起きず、気がつくと騒ぎは収まりかけていた。少し大きめのボヤ程度だったらしい。少しだけ、燃え上がる炎を見たような気もするが、私たちが避難をすることもなかったのだから、確かではない。
しかし、家は消防の水もかかって使い物にならなくなったらしい。なにせ、我が家ほどではないにしても、狭い家が多かったから。間もなく紙屋の家は取り壊され、更地になったところで大工さんが入り、子どもには珍しい家作りの工程が毎日眺められることになった。
また、紙屋のおじさんはけっこうなやけどを負って、しばらくは痛々しい格好をしていたように思う。

我が家の前の路地を出て、線路とは反対の左に曲がり、佐藤さんちの向こう隣の横田さんちの角をさらに左に曲がると、小さな商店街になっていた。お菓子屋さん、八百屋さん、お蕎麦屋さん、床屋さんなんかがあり、界隈には腕白坊主も数人いた。が、そこまで行く前に、実は、我が家にはもう一軒、お隣さんがあったのだ。佐藤さんちと紙屋さんちの間の路地を入ってきて、紙屋さんちの裏手が我が家になるのだが、紙屋と我が家の間はさらに細い路地になっていて、我が家の奥にもう一軒の家があった。我が家とこの家は、周囲の焼け残った家々とは違い、戦後間もなくに貸しに出されたわずかな敷地に建った、いわゆる当時のバラックという奴だった。玄関を入ると小さな土間になっていて、台所をかねていた。そこで靴を脱いで上がったところが6畳一間の畳の部屋、脇に便所がついて、それで全部だった。間もなく引っ越すまでは、我が家でもその6畳一間に5人、弟が生まれてからは6人が寝起きしていた。

それはともかく、隣にははじめ、看護婦さん夫婦が住んでいた、らしい。私はこの人たちを記憶していないが。それが引っ越して行き、代わりに越してきたのは、ちょっと変わった一家だった。冬の寒い日、一人で留守番をしていた私は、その一家の引越しを目撃することになった。私は、窓の隙間からそうっと彼らを観察した。
たかおちゃんが怪我しても、助けないんですね、人夫の人達は…。それに紙屋という商売。どういう経営だったのでしょうか。不思議ですね。何のための紙を、何処に納入していたのでしょうかね? 次回がたのしみです。
そうなんですね。トロッコはそのまま行ってしまったんです。指が千切れたんですから、さぞかし痛かったことだろうと想像します。路地に点々と血の跡が続いていましたっけ。
私はこの路地を、ずっとあとになって訪ねたことがありますが、真っ直ぐに向かったのは野辺さんのうちでした。もうじき18歳になろうとしていた(虫プロ時代)私を、歳をとったおばさんが迎えてくれ、私と同い年の弟あきおちゃんと妹たちもいました。そして夕方になると、たかおちゃんも勤め先から帰ってきました。「おばさん(私の母親)は元気?」などといったとりとめのない話をしながらも、懐かしい気持ちだけはたっぷりと味わうことが出来ました。
私としては、少しは人生などを考えるようになって、自分の出発点となった場所を見てみたくなったのでした。
なんかヤバイ! この幼児期のことを書き込んでいる時間が、無性に楽しい!!
う〜む…なんなんでしょう?
現実生活では、尻に火がついているというのに、仕事もしないで私は。
ハテ、サテ…。
楽しいことは、きっといいことです。
ある冬の寒い日、4歳の私が一人留守番をしていると、外が急に騒がしくなった。その気配に気づいて、窓の隙間から外をのぞくと、数人の人が荷物を抱えて、家の前の一間もない狭い路地を入っていく。彼らは空き家になった奥の家に引っ越してきたのだ。自分より少しだけ年長と思えるような男の子もいた。坊主頭で色の黒いその少年は、1人用らしい小さな火鉢を胸に抱えて運んでいた。
引越しといっても貧しい時代の貧しい家族のこと。大した荷物ではなかったのだろう。間もなく、一通りの荷物を運び終えて人の気配も少なくなった頃、あらためて窓に額を押し付けて外を見た。すると、今で言えば高校生ぐらいか、体の細い少女を先頭に、その後ろに中学生くらいの少年、最後に先ほどの男の子が隊列を組み、全員がそろって肩を右に左に大仰にゆすりながら、路地の奥へ消えていった。もちろん、半分はおどけているのだが、幼児にも、その奇妙な歩き方が不良の真似であることは分かった。私はそんな子どもを見たことがなかった。

それは奇妙な家族だった。母親がいろいろと仕入れてくる噂でも、一体何人が定住しているのか、誰と誰が親子なのか、兄弟姉妹なのか、よく分からなかった。とにかく最年長者のおばあちゃんがいた。刺青を入れた中年男がいた。後で知ったところでは、これが私より1歳上の男の子ときおちゃんのお父さんだった。あきちゃんと呼ばれる中年のおばさんがいた。中学生でちょっと利口そうな男の子ひろみっちゃんのおかあさんだ。しかし、この中年の男女は夫婦ではないらしい。かっちゃんという、おそらく二十歳ぐらいの背の高い青年もいた。それに高校生ぐらいの女の子みっちゃん。彼ら2人は誰の子だったのだろう。私が子どもだったせいもあろうが、よく分からない。それ以外にも、いろんな人が出入りしては狭い家に泊まっていった。

その家族の家業は、いわゆる闇屋だった。当時はまだ米が配給制で、購入できる量が1人1ヵ月どれだけと決まっていたのだ。だから、闇屋の仕事が成立した。近在の農家へ行って余分に出来た米を安く仕入れ、背中に背負ってきては都会で高く売って利益を得るわけだ。もっと食糧事情が厳しかった数年前には、東京のどの家庭でも、商売目的ではなく自分たちが食べる米の確保のためにやっていたことだ。配給だけではまるで足らなかったから。そして、少しずつ食糧事情が良くなっていき、数年後には消滅していった商売でもある。そんな商売をしている家族の家に、なんと、闇屋を取り締まる側の警察官が泊まっていったりもした。彼らは駅前の交番の巡査とはじっこんの間柄だった。私は一度、その現場を目撃したことがあった。

はじめは我が家でも、町内の新参者を胡散臭く思ったことだったろう。しかし、そこはお隣同士。しばらくすると、田部さんちよりも親しく付き合うようになっていった。特に母親が気を許したのは、あきちゃんというおばさんに対してだった。後に弟が生まれてからは、あきちゃんは弟をあやしに、毎日顔を見せていた。そんな大人たちの変化の中で、私も時々ときおちゃんと遊んだりするようになった。
不思議だったのは、隣の家族の中の背の高い青年、かっちゃんがなぜか私をかわいがってくれたことだった。家族の中には同じくらいの年齢の男の子ときおちゃんがいるのに、彼を誘うことなく、私だけを映画に連れて行ってくれたこともあった。そこが、誰と誰が兄弟か分からない家族の不思議さだった。
私はかっちゃんに手を引かれて、おそらくその時初めて映画館に入った。おせんべいか何かを買ってもらって暗い場内に入ると、私はもう不安になった。幼児は暗いだけで怖い、ということをかっちゃんは知らなかったのだろう。映画は時代劇だった。般若のお面をかぶった忍び装束の男が武家屋敷らしいところに侵入し、座敷の中央に立ったところで天井から先をわっか状にしたロープが下りてきた。男はそれに首をつるされ、もがきながら少しずつ引き上げられていった。
私は般若のお面がまた怖かった。さらに、その般若がもがきながら吊り上げられていくところで、恐怖が最高潮に達し、ついに私は泣き出した。そうなったら、かっちゃんがなだめすかしたって利くもんじゃない。「しょうがねぇなあ、●●坊は…」といって、かっちゃんは映画の続きを諦めることになった。

そのかっちゃんが、もう一度だけ、私の手を引いて駅前の闇市に連れて行ったことがあった。このとき彼が、なぜ私を連れて行こうと思ったのか、よく分からない。それはもう、夕方から夜に至ろうとする頃だった。今から考えれば、うちの母親もよくそんな時間に幼児を他人に預けたものだ。
道路を挟んで斜め前方に駅と駅前交番が見える角まで来て、腕時計で時間を確かめると、かっちゃんは「ここで待ってろ」と言い置いて一人で駅のほうに歩いていった。そして、交番の前までいくと、中にいる巡査に頭を下げ、なにか一言二言言葉を交わし、もう一度頭を下げると、交番脇の駅に続く階段(と思うのだが、改札は少し先の一階にあったはずで、あれがどこに続く階段だったのか分からない)の下に立った。電灯の光がまぶしい改札付近と違って、階段は暗く、人の行き来も少ない。かっちゃんは懐中電灯を点けて頭上にかざし、階段の上の暗がりに向かって大きく回した。すると、大きな荷物を背負った人が上から急ぎ足で下りてきた。この風景の意味が、当時の私に分かっていたとは思えないのだが、なぜか鮮明に記憶に残っている。


激動の時代の庶民ですね。15年違うと、こんなにも違いますか。しかし、闇屋一家のその後は、どうなったんでしょうか? 続きを待っています。闇屋が消滅する頃になると、他の職業も成立して、そっちで食えるようになっていったんでしょうかね。
>庭師さん
闇屋一家のその後は、間もなく引っ越してしまった私には分かりません。
闇屋の代わりに、東京近郊の農家などから季節の花や落花生などの農産物を売りに来るおばさんが、引越し先の荒川区辺りには来ましたね。京成の最寄り駅で電車を待っていると、千葉方面からのそうした人の専用電車がときどき止まりました。座席が、背負った荷物を置くのに便利な、変わった作りになっていました。

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