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日本神道コミュの第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)『日本の歴史と最後の審判』

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『日本の歴史と最後の審判』
第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)��p884-1行〜��p958-15行》

「この論文は私が神の御意志のもとに書いたものであり、これが本当の正しい日本歴史なのですからそのつもりでお読み頂きたいと思います。安原 修」

※この写しは本人の許可は得て居ません(音信不通)。私が頂いた物を写しています。(2025.5.1)
               日本苅場 扶士男(かりば ふじお)

 ✮ 執筆:猪平成 七 年(1995)
             五 瀬 命 正 統
             国常立尊分霊.. 安原 修(やすはら おさむ)

 ✮ 記:蛇令和 七 年(2025)五月一日(木)
                 ✽苅場 扶士男(かりば ふじお)
                 ✽證明(しょうめい)
                 ✽五瀬月(いつせのつき)

コメント(26)

『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−1

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p884/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p884-1行〜

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
 すでに何度も述べた如く斉明天皇(さいめいてんのう)宝皇女(たからのひめみこ)は舒明天皇皇后で
はなく、舒明天皇と皇后吉備津媛(吉備媛王)との間に生ま
れた皇女だったのであり、宝皇女の婿養子となったのが息長(おきなが)
茅渟王(ちぬのみこ)の子軽王だったのである。そして宝皇女と軽王との間
に生まれた皇子が葛城皇子(かづらきのみこ)と大海人皇子(おほしあまのみこ)即ち後年の天智天皇
と天武天皇の二人だったのである。
 斉明天皇宝皇女は603年に生まれ、孝徳天皇軽王は59
7年に生まれたのである。斉明天皇宝皇女が孝徳天皇軽王を
夫君として迎えたのは620年頃であり、長男の葛城皇子が
生まれたのが622年、二男の大海人皇子が生まれたのが6
25年だったのである。そして舒明天皇が治世十三年で63
7年に死去した後、舒明天皇皇后吉備津媛が即位して皇極天
皇となり、皇極天皇は治世四年に宝皇女の夫君軽王に位を譲
ったのであり、641年に孝徳天皇軽王が即位したのである。

>p885

 今迄大化の改新は645年と信じられて来た。しかし大化
元年は645年ではなく641年だったのである。そして大
化改新の主役は中大兄と中臣鎌足の二人となっているけれど
もそうではなかったのである。大化の改新の真相は日本書紀
を書く時に消され、天智や中臣鎌足らに都合の良い様に書き
変えられたのである。故にこれから日本書紀によって消され
た大化の改新の真相の一部を述べようと思うのである。
 日本書紀は皇極紀に於いて四年の六月十二日に皇極天皇の
宮殿に於いて蘇我入鹿が殺され、十三日に入鹿の父蝦夷が自
殺し、十四日に天皇は位を軽皇子に譲り、中大兄を立てて皇
太子にしたと言うことを極く簡單に書いているのである。そ
して次の孝徳紀では、皇極天皇は位を中大兄に伝えようとし
て詔(みことのり)をしたところ、中大兄は退出して中臣鎌子に相談したと
ころ中臣鎌子は中大兄に「古人大兄は皇太子の兄であり、軽
皇子は皇太子の叔父であるから、兄や叔父を超えて天皇の位

>p886

につくのは良くないから、一応叔父に皇位を譲った方がよい」
と言う様なことをすゝめたことになっている。それで皇極天
皇は軽皇子に位を譲ろうとしたところ、軽皇子は辞退して古
人大兄に位を譲ろうとしたが、古人大兄は辞退して仏門に入
ったために、軽皇子が天皇になったと言うことである。
 しかしこの様なことは大嘘である。第一に皇極天皇が宝皇
女であると言うことが大嘘である。舒明天皇皇后は吉備本地(きびほむちの)
君(きみ)賀陽臣(かようのおみ)桜井王(さくらゐのみこ)の娘 吉備津媛(きびつひめ)であり、皇后吉備津媛が舒明天
皇の死後即位して皇后となったのであり、舒明天皇と皇后吉
備津媛との間に生まれた皇女が宝皇女と間人皇女の二人であ
り、宝皇女と間人皇女の夫君として迎えられたのが息長茅渟(おきながちぬ)
王(のみこ)の子軽王であり、宝皇女と軽王との間に生まれた皇子が葛
城皇子と大海人皇子の二人である。だから舒明天皇の死後皇
位を嗣ぐべき人は本来なら宝皇女だったのである。
 従って葛城皇子と大海人皇子の二人を舒明天皇皇子と言う

>p887

のが大嘘なのである。また古人大兄(ふるひとのおほえ)と中大兄(なかのおほえ)が異母兄弟と
言うのも大嘘であり、葛城皇子がその頃皇太子だったと言うの
も大嘘である。要するに日本書紀は宝皇女を舒明天皇皇后と
してごまかし、葛城皇子を舒明天皇の皇太子としてごまかし、
皇太子中大兄と中臣鎌子の二人が協力して大化の改新を成し
遂げたにもかゝわらず、何の功もなかった軽皇子に位を譲っ
て天皇にしたと言っているのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−1 孝徳天皇と斉明天皇��p884−1行〜��p887−7行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)五月          日の出(山)證明・夜五瀬月

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇 #宝皇女
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#大化の改新 #641年
#国常立神 #安原修 #五瀬命
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−2

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p887/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p887-8行〜

 しかし日本書紀は舒明天皇の死後何故皇后が即位して天皇
になったのかと言うことも、孝徳天皇が葛城皇子を皇太子に
立てたにもかゝわらず、孝徳天皇の死後何故宝皇女が皇太子
をさし置いて天皇になったのかと言うことも何一つ書いては
いないのである。或る時は大嘘を書き、具合の悪い時には何
も書かずに知らぬ顔をしてごまかすのが日本書紀のやり方な
のである。本来ならば斉明天皇が何故皇太子の即位を認めず
に女帝として即位したのかと言う様なことは説明しなければ

>p888

ならないことである。
 舒明天皇の後継者は宝皇女であって葛城皇子ではなかった
のである。しかし舒明天皇の死後宝皇女が即位出来なかった
のは蘇我氏の勢力が強く、蘇我蝦夷(そがえみし)は吉野皇子(よしののみこ)を立てようと
していたからである。それで吉野皇子の即位を押さえるため
に皇后吉備津媛命が即位したのである。そして蘇我蝦夷や入
鹿を滅ぼすについては宝皇女の夫君である軽王らも大いに働
いたのである。それで皇極天皇は自分の娘の宝皇女に即位させ
ず女婿の軽王に位を譲ったのである。だからそれ迄葛城皇子
は皇太子でもなく皇位に即ける立場でもなかったのである。
 皇極紀では中臣鎌子は非常に立派な人物であるかの様に書
いているが大嘘である。それは日本書紀を書く時にでっちあ
げた大嘘である。大体 中臣(なかとみ)とか藤原(ふじわら)と言う家系は宇宙人の世
界で重罪を犯して地球へ追放せられた重罪人の子孫であって
非常に邪悪でけがれた人物が多いのである。中臣鎌子もまた

>p889

重罪人 天児屋根(あめのこやね)の子孫であり、非常に邪悪でけがれた人物だ
ったのである。
 皇極紀では中臣鎌子(なかとみのかまこ)は中大兄(なかのおほえ)に蘇我蝦夷(そがのえみし)を討つには同族の
蘇我倉山田石川麻呂の長女を納し入れて妃とし、婚姻関係を
結んで協力させればよいと教えたことになっている。そして
中大兄は中臣鎌子の世話で蘇我倉山田麻呂の長女と契りを結
んだが、長女を偸(ぬす)まれたためにその妹を妃にしたことになっ
ているのである。しかしこの話は極めて悪質の嘘である。
 蘇我倉山田石川麻呂の長女を妃に迎えたのが孝徳天皇であ
り、長女の名は茅渟娘(ちぬのいらつめ)でありまたの名を越智娘(をちのいらつめ)とも言っ
ていたのである。それにもかゝわらず孝徳天皇妃となった蘇
我倉山田石川麻呂の女の名を乳娘(ちのいらつめ)としてごまかしたのである。
天智が妃にした蘇我倉山田石川麻呂の女は越智娘(をちのいらつめ)の妹 美濃津(みのつ)
子娘(このいらつめ)だったのである。
 孝徳天皇が阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)と蘇我倉山田石川麻呂らと親しか

>p890

ったからこそ阿倍倉梯麻呂の娘 小足媛(をたらしひめ)、蘇我倉山田石川麻呂
の娘 越智娘を妃に迎えたのである。孝徳天皇の子の葛城皇子
即ち後年の天智が阿倍倉梯麻呂の娘橘媛と蘇我倉山田石川麻
呂の娘美濃津子娘を妃にしたのはそれよりずっと後のことだ
ったのである。孝徳天皇と小足媛との間に有馬皇子(ありまのみこ)が生まれ
たのは640年であり、越智娘が鸕野皇女(うののひめみこ)を生んだのは64
1年だったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−2 孝徳天皇と斉明天皇��p887−8行〜��p890−7行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)皐月(さつき)
          日の出(山)證明・夜五瀬月

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−3

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p890/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p890-8行〜

 だから中臣鎌子が中大兄に蘇我倉山田石川麻呂の娘を妃に迎
えさせ大化の改新に協力させたと言うのは大嘘なのである。
蘇我馬子、蝦夷(えみし)、入鹿らは極めて邪悪な人物であったけれど
も、蘇我倉山田石川麻呂は信頼出来る立派な人物だったので
ある。それで孝徳天皇は皇極天皇から位を譲り受けて即位す
るとすぐに阿倍倉梯麻呂を左大臣に任じ、蘇我倉山田石川麻
呂を右大臣に任じたのである。それは孝徳天皇が大化の改新
よりもずっと以前から阿倍倉梯麻呂と蘇我倉山田石川麻呂ら

>p891

とは親しく且信頼出来る間柄にあったからである。
 しかるに中臣鎌子(なかとみのかまこ)は大化の改新を実現するために中大兄(なかのおほえ)に
蘇我山田石川麻呂と婚姻関係を結ばせて利用しようとしたこ
とになっているのであり、実際に蘇我山田石川麻呂は天智に
利用された後に一族が皆殺されているのである。中臣鎌子と
天智とは悪党同志でうまの合う間柄だったのである。
 孝徳天皇は舒明天皇 皇后 宝皇女の弟で皇太子中大兄の叔父
だと言うのは日本書紀を書く時にでっちあげた大嘘である。
大体皇太子がいるにもかゝわらず、皇后の弟に位を譲ると言
う様なことをする訳がないのである。兄と弟が位を譲り合う
例はあっても皇太子が母方の叔父に位を譲る様な馬鹿なこと
はないのである。孝徳天皇に舒明天皇の女婿であり、皇位を
嗣ぐべき立場にある宝皇女の夫であったから、天皇家にとっ
て重要な地位にあったのである。
 古人大兄こと吉野皇子は確かに舒明天皇の皇子ではあった

>p892

けれども、母が蘇我馬子の娘 法提郎女(ほていのいらつめ)であり、馬子(うまこ)の子の蝦(えみ)
夷(し)が吉野皇子を天皇にして皇位を奪おうとしていたから、天
皇家としては絶対に吉野皇子を天皇にすることは出来ない立
場にあったのである。しかし孝徳天皇はもともと天孫系の天
皇家の家系に生まれた人であるから天皇家を守ろうとしたの
である。孝徳天皇は宝皇女の夫としての立場から蘇我蝦夷と
入鹿父子の野望をくじき、天皇家を守ろうと努力したのであ
る。それで舒明天皇 皇后であった皇極天皇 吉備媛王は蘇我蝦
夷と入鹿が滅びた後の混乱した世の中を収拾(しゅうしゅう)するために女婿
の孝徳天皇に位を譲ったのである。
 従って大化の改新の時吉野皇子が天皇になれる可能性は全
くなかったのであり、中大兄が天皇になれる可能性も全くな
かったにもかゝわらず、中臣鎌子が中大兄にすゝめて叔父の
孝徳天皇に位を譲ったと言う大嘘を書いたのである。本来な
らば舒明天皇が死去した時に宝皇女が女帝として即位すれば

>p893

よかったのである。しかし蘇我氏の横暴のために宝皇女が皇
位を嗣ぐことが不可能な狀態であったからこそ皇后吉備津媛
が即位したのである。それ程蘇我氏の横暴はひどかったので
ある。だからその様な時代を宝皇女の力で乗り切ることは困
難だったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−3 孝徳天皇と斉明天皇��p890−8行〜��p893−5行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)皐月(さつき)
          日の出(山)證明・夜五瀬月

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−4

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p893/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p893-6行〜

 それで皇極天皇は宝皇女を即位させず、宝皇女の婿の軽王
に位を譲ったのである。それも天皇家の安泰(あんたい)を図るためだっ
たのである。だから孝徳天皇の即位は急なことだったのであ
る。皇極天皇はもともと自分が天皇になりたくてなったので
はないのである。蘇我氏が吉野皇子を立てるのを阻止するた
めに仕方なく天皇になったのである。だから天皇の死後皇后
が天皇になったのは皇極天皇が最初であり、それは極めて異
例のことだったのである。
 それで皇極天皇は蘇我蝦夷、入鹿が死んだ後すぐに孝徳天
皇に位を譲ったのである。それは皇極天皇自身が自分は本来

>p894

天皇になるべき立場にはなかったにもかゝわらず、心ならず
も天皇にならねばならなかったことを心苦しく思っていたか
らこそ、蘇我蝦夷らが死んだことで安心し、一日も早く天皇
の地位を正常化したいと思ったからに他ならないのである。
そして孝徳天皇は推古天皇の兄 息長来目王の孫であったから
こそ安心して位を譲ったのである。
 しかし孝徳天皇が即位したことは宝皇女にとっては不服だ
った訳である。それは舒明天皇の皇女として皇位を嗣ぐこと
の出来る地位にあったにもかゝわらず、婿の孝徳天皇が即位
したのであるから面白くなかったのである。それで孝徳天皇
は即位すると共に皇子の葛城皇子を皇太子に立てたにもかゝ
わらず、孝徳天皇が死去すると宝皇女は葛城皇子の即位を認
めず、自分が女帝として即位したのである。
 日本書紀は宝皇女が茅渟王(ちぬのみこ)の娘で舒明天皇皇后となり、舒
明天皇の死後即位して皇極天皇となり、皇極天皇が孝徳天皇

>p895

に譲位し、孝徳天皇の死後皇極天皇が再び即位して斉明天皇
になったことにしているけれども、そんな馬鹿なことが出来
るはずがないことに気付いた歴史学者が一人もいないことは情(なさけ)
ない限りである。孝徳天皇が死去した654年に斉明天皇宝
皇女は五十ニ才になっていたのであり、皇太子葛城皇子は三
十三才になっていたのである。だから皇太子が幼少であった
から母の皇后が代わりに即位したとは言えないのである。
 少くとも孝徳天皇の死後に葛城皇子が即位して都合の悪い
理由とか、宝皇女が即位した方が都合が良いと言う理由は何
もなかったのである。孝徳天皇の死後、斉明天皇宝皇女が即
位したのは、宝皇女が舒明天皇の皇女であり、正統な皇位継
承者であったからである。だから葛城皇子は母の宝皇女の即
位を当然のことと認めねばならなかったのである。日本書紀
はその様な真相のすべてを消してごまかしたのである。
 孝徳紀には大化元年七月に孝徳天皇は舒明天皇 皇女 間人皇(はしひとのひめ)

>p896

女(みこ)を立てて皇后とし、阿倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)の娘 小足媛(をたらしひめ)と蘇我山田石
川麻呂の娘 乳娘(ちのいらつめ)の二人を妃にしたと書いてある。しかし孝徳
紀は最も重要なことを隠して嘘を書いているのである。即ち
孝徳天皇皇后は間人皇女ではなく宝皇女(たからのひめみこ)だったのである。宝
皇女と間人皇女は姉妹であったにもかゝわらず、宝皇女を舒
明天皇皇后としてごまかし、間人皇女を宝皇女の娘、葛城皇
子の娘としてごまかしたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−4 孝徳天皇と斉明天皇��p893−6行〜��p896−7行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)皐月(さつき)
          日の出(山)證明・夜五瀬月

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−5

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p896/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p896-8行〜

 それで孝徳天皇は葛城皇子の妹であり、自分の姪である間
人皇女を皇后にしたことになっているのである。孝徳天皇は
舒明天皇 皇女 宝皇女と間人皇女の二人の夫だったのであるが、
宝皇女との間には葛城皇子と大海人皇子の二人の子が生まれ
たのに対して、間人皇女との間には子女は生まれなかったの
である。しかし間人皇女には皇子が生まれなかったことがか
えって幸福だったのである。何故ならば葛城皇子と大海人皇
子の二人は極めて邪悪な人間であったから、間人皇女に皇子

>p897

が生まれていたならば必ず葛城皇子らに殺されているのであ
る。宝皇女と間人皇女は非常に仲の良い姉妹だったのである。
しかし間人皇女に皇子が生まれていたら必ず悲劇が起こるは
ずだったのである。間人皇女には子女が生まれなかったから
姉の宝皇女と一生仲良く暮らすことが出来たのである。
 宝皇女は本当は女帝として皇位を嗣ぎ、軽王が女帝の夫君
として政治を補佐することになるはずだったけれども、社会
情勢が悪かったために母の皇極天皇が女婿の軽王を天皇に立
て、宝皇女を皇后にしたのである。しかるに日本書紀を書く
時に宝皇女を舒明天皇皇后とし、妹の間人皇女を孝徳天皇皇
后としてごまかしたのである。
 故に孝徳天皇の皇后は舒明天皇の娘 宝皇女(たからのひめみこ)であり、妃は舒
明天皇 皇女 間人皇女(はしひとのひめみこ)、阿倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)の娘 小足媛(をたらしひめ)、蘇我山田石(そがやまだいし)
川麻呂(かはまろ)の娘 茅渟娘(ちぬのいらつめ)の三人だったのである。そして孝徳天皇の子
女は宝皇女の生んだ葛城皇子と大海人皇子、茅渟娘(ちぬのいらつめ)の生んだ

>p898

鸕野皇女(うののひめみこ)、小足媛(をたらしひめ)の生んだ有馬皇子(ありまのみこ)の四人だったのである。
 さて葛城皇子と大海人皇子の二人について述べて置かねば
ならないことがある。葛城皇子即ち天智天皇は景行天皇皇子
成務天皇の生まれ変わりだったのであり、大海人皇子は同じ
く景行天皇皇子仲哀天皇の生まれ変わりだったのである。成
務天皇と仲哀天皇の二人は宇宙人の社会大罪を犯して地球
へ追放された罪人の生まれ変わりの人間であり、非常に邪悪
でけがれた人間だったのである。しかし神々はその様な邪悪
でけがれた人間をも天孫系の天皇家の皇子に生まれ変わらせ
て修行をさせ、少しでも正しく賢明な人間になれる様にして
やりたいと思われ、天皇家の皇子に生まれ変わらせられたの
である。
 それにもかゝわらず天智と天武はいささかも心を改めよう
とせずに邪悪でけがれたことばかりしたのである。彼らは宇
宙人の罪人から地球人の子孫に生まれ変わって来た輩である

>p899

から天孫降臨が気に喰わず、天孫系の天皇家を憎んだり怨ん
だり嫌ったりしていたのである。だから天孫系の天皇家の皇
子に生まれ変わらせて頂いても一向感謝もせず、喜びもせず、
正しく清らかで賢明な人間になるための努力をしようとは考
えなかったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−5 孝徳天皇と斉明天皇��p896−8行〜��p899−5行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)皐月(さつき)
          日の出(山)證明・夜五瀬月

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−6

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p899/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p899-6行〜

 天皇家の皇子に生まれて正しい立派な天皇になり、国家や
国民のために正しい良い政治をしようと努力すれば過去世の
罪も消え、最後の審判の時には正しく清らかで賢明な人間と
認められて、再び高度な文明を発展させている優秀な宇宙人
の社会に生まれ変わることを許されて超高度の文明社会で幸
福な生活を送ることが出来る様になっていたのである。それ
にもかゝわらず景行天皇や成務天皇や仲哀天皇や欽明天皇ら
は天皇家の皇子に生まれ変わらせて頂いたにもかゝわらず、
天孫降臨以来の正しい日本の歴史を消し、大嘘の歴史をでっ
ちあげたのである。

>p900

 旧事記と言う大嘘の歴史を書いたのが宇宙人の重罪人天児屋
根の生まれ変わりの欽明天皇である。欽明の書いた旧事記を
参考にして大嘘大出鱈目の日本歴史である天皇記、国記
などを書いたのが宇宙人の重罪人の生まれ変わりの饒速日(にぎはやひ)か
ら生まれ変わって来た聖徳太子だったのである。しかし欽明
の書いた旧事記も聖徳太子の書いた天皇記や国記もそれが大
嘘大出鱈目の歴史であるから世に出すことは出来なかったの
である。何故ならばその頃全国各地には天孫降臨以来の天孫
系の有力者の子孫が大勢住んで居り、神武天皇以後でも天皇
家から分れた名門の豪族の人々が居り、それらの豪族の家に
は正しい系図や歴史の書物が伝えられていたのである。
 各地の豪族の家に伝わる系図はその家の系図であり、歴史
はその家の祖先の歴史を伝えるものであるから日本の歴史と
言えるものではなかったのである。しかし天孫系の有力者の
家に伝わる正しい系図や歴史の書物が沢山ある限り、邪悪で

>p901

けがれた天皇らが大嘘大出鱈目の歴史をでっち上げても他の
良心的な皇族や有力な豪族らは認めないからどうにもならな
いのである。それで天智と天武の二悪党は国家的な大事業と
して彼らに都合の良い大嘘大出鱈目の日本歴史をでっちあげ
ることにしたのであるが、その偽歴史を強制的に国民に受け
入れさせるために、全国に住む天孫系の名門や有力者の家に
伝わる系図、祖先の歴史などの書物を没収したのである。
 それは所謂(いわゆる)壬申(じんしん)の乱以後に天武と持統らの悪人がやったこ
とであり、家に伝わる系図や歴史の書物を差し出すことを拒
否して天武のために家を滅ぼされたり、罪人とされて流罪に
されたりした天孫系の有力者も多いのである。
 天武が天皇になってからやったことは、欽明や聖徳太子が
書いて来た偽歴史を更に完成させて全国へ通用させるために、
天孫系や天皇家の分家に当たる有力者の家の系図を没収する
と共に、それらの有力者を天児屋根や饒速日などの罪人の子

>p902

孫と言うことにして偽系図を作って押しつけることだったの
である。そして天孫系の中でも最も大きな勢力を持っていた
吉備氏の一族の人々から系図や歴史の書物を没収して饒速日
や武内宿祢の子孫と言うことにして偽系図や偽歴史をでっち
あげて押しつけたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−6 孝徳天皇と斉明天皇��p899−6行〜��p902−5行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)五月
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#旧事記 #大嘘の歴史
#宇宙人の重罪人 #天児屋根
#欽明天皇 #罪人の子
#旧事記 #国記
#大嘘 #大出鱈目
#饒速日 #聖徳太子
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−7

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p902/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p902-6行〜

 岡山市の吉備津神社や吉備津彦神社などに伝わる系図や社
伝などは天武以後に大和朝廷から押し付けられた大嘘大出鱈
目の系図や歴史であり、古事記や日本書紀とつじつまを合わ
せてでっちあげて無理に押しつけて後世の人々を騙している
のである。だから日本書紀を書いた時に神武天皇の兄 五瀬命(いつせのみこと)
や稻飯命(いないいのみこと)や御毛沼命(みけぬのみこと)らの子孫は消されてしまったのであり、
神武天皇系の最有力者であった吉備氏の人々が系図や歴史の
書物を没収せられて素性を消され天児屋根や饒速日や武内宿
祢などの子孫にせられて今日に到ったのである。
 天孫系の名門や有力者の家から系図や歴史の書物を没収し

>p903

た大悪人は天武と持統であり、それによって大嘘大出鱈目の
歴史をでっちあげた重罪人が太安万侶と稗田阿礼の二人であ
り、極悪人景行天皇の生まれ変わりである天武の孫 舎人親王(とねりしんのう)、
藤原鎌足の子 藤原不比等(ふじはらふびと)らだったのである。
 天智と天武は孝徳天皇の子であったけれども、孝徳天皇が
天孫系の有力者であったことを嫌って舒明天皇の皇子として
自分達の素性をごまかしたのである。そして宇宙人の罪人で
あった天児屋根(あめのこやね)を皇孫 邇邇芸命(ににぎのみこと)の五伴神の筆頭に祀り上げ、
同じく宇宙人の罪人の生まれ変わりであった饒速日(にぎはやひ)を皇孫 邇(に)
邇芸命(にぎのみこと)の兄としてごまかしたのである。そして彼らは天孫系
の名門や有力者の人々を天孫系の系図から消して無もない庶
民に落としたり、天孫の人々を罪人の系統の子孫と言うことに
してごまかしたりした反面に、罪人の子孫らが系図をごまか
して天孫系の名門と偽って地位や権力を握り、私利私欲を図
り、栄耀栄華を誇って多くの国民を犠牲にして苦しめること

>p904

となったのである。
 蘇我稲目、馬子、蝦夷(えみし)、入鹿の四代は確かに邪悪でけがれ
た人物だったのである。しかし彼らは権力を握らせ横暴にし
た責任の半分以上は天皇家にあったのである。即ち欽明が偽
歴史の旧事記を書くために蘇我稻目(そがいなめ)を協力者にして機嫌を取
るために地位や権力を与えて優遇し、更に聖徳太子が大嘘大
出鱈目の日本歴史である天皇記や国記をでっちあげるために
蘇我馬子に協力させたことが蘇我氏を増長させ横暴にしたの
である。
 そして孝徳天皇が生家の息長氏や皇極天皇の生家賀陽臣や
其他吉備氏の有力者と阿倍倉梯麻呂や蘇我山田石川麻呂や日
本武尊の子孫犬上君らの協力によってやっと蘇我蝦夷らを倒
して大化の改新を実現したにもかゝわらず、天智天皇、天武
天皇、持統天皇、舎人親王などの悪人と藤原鎌足、藤原不比等、
不比等の四人の子らによって切角の苦労は泡となり、そ

>p905

れ以来天皇家は宇宙人の罪人の子孫や生まれ変わりである藤
原氏の思うまゝに支配せられる操り人形の如きあわれな存在
になり下がり、天皇や皇族そのものが堕落退廃してしまった
のである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−7 孝徳天皇と斉明天皇��p902−6行〜��p905−4行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月二日
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

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#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−8

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p905/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p905-5行〜

 大化の改新以前には吉備氏を始めとする天孫系の人々が何
とか天孫降臨以来の正しい理念や理想のもとに朝廷の堕落退
廃を阻止するために努力を続けて来たのである。しかし大化
の改新を境として天智や天武とその後継者らは大和朝廷から
吉備氏や天孫系の人々を追い出す様に努めたのであり、それ
に代わって藤原氏を始めとする罪人の子孫らが朝廷を支配し、
私利私欲を図り栄耀栄華を誇る様になり、天皇家そのものも
朝廷もすべてが堕落退廃して行ったのである。
 大化の改新を転機として天孫系の有力者は次第に朝廷から姿を消し、宇宙人の系統や、天孫降臨以来天皇家に叛
いて来た賊の系統の人々が権力を握って朝廷を動かす様にな

>p906

り、更に天孫系の正しく清らかな人々の霊は天皇や皇族や上
流階級の子孫に生まれ変わって来ることもなくなったのであ
る。そして皇族や上流階級には宇宙人の罪人や、天孫降臨に
反抗した賊などの霊が多く生まれ変わって来て邪悪な行為や
けがれた行為をする様になって行ったのである。
 日本書紀は大化の改新の真相を消して中臣鎌子即ち藤原鎌
足と中大兄即ち天智天皇の功績とし、彼らに都合の良い大嘘
の歴史をでっちあげたのである。そのために天孫降臨以来伝
えられて来た正しい歴史は消され、天孫降臨の理想もまた消
されてしまい、日本民族は民族の理想や使命を忘れてしまっ
たのである。天智と天武は確かに天孫系の孝徳天皇と斉明天
皇の間に生まれた子ではあったのである。しかし彼らは宇宙
人の罪人の生まれ変わりであり、天皇家の正しい歴史を消し、
系図をも書き変えたのである。故に天智以後の天皇家はもは
や天孫系の天皇家とは認められないのである。

>p907

 かつて景行天皇は天孫系の天皇家を滅ぼして宇宙人の罪人
饒速日系(にぎはやひけい)の王朝を立てようとしたのであり、景行の子であっ
た成務と仲哀が孝徳天皇の子として生まれ変わって来て、大
和朝廷から天孫系の人々を追い払い、宇宙人の罪人や賊の生
まれ変わりや子孫らの天皇家や朝廷を作ったのである。だか
ら孝徳天皇と斉明天皇の治世を以って天孫系の天皇家は滅び
たと言えるのである。
 天智(てんち)、天武(てんむ)、持統(ぢとう)、舎人親王(とねりしんのう)、藤原不比等(ふじはらふびと)、太安万侶(おほのやすまろ)、稗(ひ)
田阿礼(だのあれ)らの悪党は正しい日本の歴史を消した丈ではなく、天
孫系の人々を系図や歴史から消し、天孫降臨の大理想をも消
し去り、天孫系の天皇家を滅ぼして皇位を奪い、国を奪い、
日本民族を堕落頽廃(たいはい)させて滅亡の危機を招いたのである。天
智天皇は後世足利三代將軍 義満(よしみつ)に生まれ変わって来て天皇家の
血統を絶やし、自分の子を天皇にして大嘘の皇統譜を書いて
国民を騙したのである。しかし足利義満(あしかがよしみつ)は天皇家の系図や歴史

>p908

をごまかしたから今迄多くの人には気付かれなかったのであ
るが、今は最後の審判の時であるから足利義満の悪事のすべ
ては明らかにされ、神々によって審かれることになったので
ある。足利義満は天皇家の血統を絶やして自分の子を天皇に
したのみではないのである。彼は古事記を何度も書き変えた
り重要な部分を消したりしてごまかしたのである。足利義満
は更に後世明智光秀に生まれ変わって来て足利氏を守ろうと
したのであり、更に主君の織田信長を殺したのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−8 孝徳天皇と斉明天皇��p905−5行〜��p908−8行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−9

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p908/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p908-9行〜

 また天孫系の天皇家から皇位を奪って饒速日系王朝を立て
た暴虐の君主景行の生まれ変わりが天武の孫の舎人親王(とねりしんのう)であ
る。舎人親王こそ日本書紀編纂の最高責任者だった男であり、
この男が欽明の書いた旧事記や聖徳太子の書いた天皇記、国
記などを参考にして大嘘の日本書紀を完成させたのである。
しかし古事記、日本書紀の完成によって一番利益を得たのが
藤原氏だったのである。藤原鎌足以前の藤原氏は罪人の子孫

>p909

の家系であるから邪悪でけがれた人物が多く、大和朝廷の中
では取るに足らぬ存在でしかなかったのである。
 しかし藤原鎌足(ふじはらかまたり)と言う腹黒い男が孝徳天皇に取り入り、大
化の改新後はもっぱら中大兄(なかのおほえ)の機嫌を取って地位や権力を握
ることに努めたのである。その頃まだ若かった天智、天
武らに偽歴史の編纂をすゝめた男は藤原鎌足であると考えて
よいであろう。しかし孝徳天皇が健在である間は本格的に偽
歴史編纂に着手することは不可能だったのである。
 それで天武が天皇になってから偽歴史を編纂する準備とし
て全国の天孫系の有力者の家に伝わる系図や歴史の書物を没
収して正しい系図や歴史を消した上で偽歴史を書くことにし
たのである。それに最も協力したのが藤原不比等だったので
ある。しかし古事記と日本書紀が完成するや否や、藤原氏の
一族は邪悪な本性を表わしたのである。
 偽歴史によって藤原鎌足は大化の改新の功労者に祀り上げ

>p910

られ、罪人の子孫の藤原氏が皇孫 邇邇芸命(ににぎのみこと)の五伴神(ごばんしん)の筆頭に
祭り上げられたのである。それ以来、藤原氏は偽歴史を最大
限度に利用して次々と天孫系の有力者を滅ぼし、地位と権力
を握って天皇家の上に君臨し、天皇や皇太子の廃立迄も自由
し、多くの国民を犠牲にして藤原一門の私利私欲を図り、栄
耀栄華を樂しんで今日に至ったのである。
 大化の改新こそ日本民族の大きな不幸と悲劇の始まりだっ
たのであり、大化の改新の功労者とされている中大兄と藤原
鎌足の二人こそ日本民族を堕落頽廃させた元兇なのである。
 聖徳太子は偽歴史を書くために蘇我馬子を協力者にしたば
かりに馬子を増長させ天皇家の危機を招いたのである。しか
し天武(てんむ)や舎人(とねり)らは藤原不比等(ふじはらふびと)を偽歴史を書くための協力者に
したばかりに藤原氏に弱味を握られ、それ以来天皇家が藤原
氏に支配されることになったのである。だから蘇我馬子より
も藤原不比等の方が大悪党だったのである。

>p911

 さて大化の改新以来の孝徳天皇の歴史も大巾に書き変えら
れ、ごまかされているのである。孝徳天皇が即位した頃の日
本は上流階級、支配階級、地方豪族や有力者などが権力を握
って私利私欲を図り、国民を苦しめている例があまりにも多
かったのである。それで孝徳天皇は国民の立場を考え、国民
の利益や幸福を図るために上流階級、支配階級、地方豪族な
どの横暴や我欲や誤った行為をやめさせようと努力したので
ある。しかしそれを当然と考えていた上流階級や支配階級の
人々は孝徳天皇の命令に従わないことが多かったから、結局
孝徳天皇の理想そのものは実現出来なかったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−9 孝徳天皇と斉明天皇��p908−9行〜��p911−10行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

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『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−10

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p911/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p911-11行〜

 孝徳天皇はもともと天皇家の皇子として生まれた人ではな
く、息長家に生まれた人であるから天皇家の皇子達の知らな
い庶民階級の人々の生活の実狀を色々と知っていたのである。
それで天皇になってからは庶民達の生活の実狀に即した方法
で政治を改革し、国民が幸福に暮らせる社会を建設しようと

>p912

努力したのである。
 例えば孝徳紀では元年八月に東国の国司(くにのみこともち)らを都へ呼び集め
て詔(みことのり)をした中に「薗池水陸(そのいけみづくぬが)の利は百姓(おほみたから)と倶(とも)にせよ」と言う言
葉がある。これはどの様な意味かと言うと薗池水陸とは宅地
や田畑などの如くはっきりと個人の所有地と決まっている土
地に対して、山林原野、河川湖沼などと言った公有地とか所
有者のいない土地のことであろうと思うのである。農民は自
分の所有する田畑に作物を作って生活している訳であるが、
田畑以外の土地も生活を営む上で重要な役割を果たしている
のである。例えば薪(たきぎ)などは農民達が各自で近くの山へ行って
必要な丈の木を伐(き)って持ち帰っていたものであり、山には木
の実や山菜や茸などがあり、鳥獣類がいる。それらのものは
村の人々が自由に山へ入って取ることが認められていたので
あり、河川、湖沼の水利権や漁業権なども村の人々全体のも
のであったと考えられるのである。

>p913

 しかし時代が進み、人々が増加するに従って地方豪族や有
力者らが山林原野の一部を自分が勝手に占有し、農民達の出
入りを禁止すると言う様なことがしばしば起こって来たと思
うのである。そうなると農民達は今迄自由に山へ出入りして
薪や木の実や山菜や茸などを取って生活していたにもかゝわ
らず、それが出来なくなるのであるから生活に困る様になる
訳である。河川湖沼などの水利権や漁業権なども同じことで
ある。つまり農民達が生きて行くためには田畑丈でなく、山
林原野や河川湖沼などの大自然の恵みが必要なのである。し
かし地方の豪族や有力者らが山林原野などを自己の専用地と
して農民達の出入りを禁じて私利私欲を図るために、生活に
困る農民が多くなっていたから孝徳天皇は地方豪族や有力者
らが山林原野や河川湖沼などを私有して利益を独占すること
を禁止したのである。
 また国司らが自分の国で勝手に裁判をして処罰することを

>p914

禁止しているのである。それは裁判と刑罰が国司の都合の良
い様に決められることが多く、不当に重い罰を受けて苦しむ
人々が多く、現代的な言葉で言えば私刑(リンチ)が多かったからであ
ろうと思う。それで不当な裁判や刑罰によって苦しむ人々を
救うために裁判や処罰を禁止したのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−10 孝徳天皇と斉明天皇��p911−11行〜��p914−5行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−11

第三十七章 孝徳天皇(こうとくてんのう)と斉明天皇(さいめいてんのう)
(��p914/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p914-6行〜

 次に他人から貨賂(まいない)を取って人々を貧乏にすることや都へ上(のぼ)
る時に農民達を大勢従者にして連れて行くことを禁止してい
るのである。それはその頃賄賂(わいろ)を取る者が多かったからであ
る。また国司が都へ上る時に大勢の従者を連れて行き、自分
の権勢を誇ることも多かったのである。それは国司が従者ら
に日当でも払うと言うのであればまだ良いのであるが、国司
は従者らに自費でお供をさせていたのである。だから従者ら
は現代的に言えば「喰い出の無給」と言うことだったのであ
る。従者らは国司のお供をするために自分で旅費を工面しな
ければならず、お供をしている間は自分の仕事が全く出来な

>p915

い訳である。だから地方の人々が国司のお供をして都へ行く
ことは大きな負担であり損失であったのである。特に都から
遠い国の国司が長期の予定で都へ行く場合にはお供をさせら
れる農民達の負担は非常に大きなものだったのである。
 その様なことから国司が都へ上る時は国造(くにのみやつこ)、郡領(こほりのみやつこ)のみを従
者として連れて行くことを許可したのである。また国司が私
用ではなく公用で従来する時には部内(くにのうち)の馬に乗り、部内(くにのうち)の飯
を食べることを認めたのである。これは現代的に言えば官僚
が役所の仕事で出張する場合丈に役所の乗用車に乗って行く
ことを認め、食費などの出張旅費を支払うと言うのと同じで
ある。つまりその頃は役人が私用で旅行する時に迄個人所有
の馬でなく役所で飼っている馬に乗り、出張旅費迄取る者が
いたのである。それで役人の私用と公用をはっきり区別し、
公用で出張する場合のみに役所の馬に乗り、旅費に相当する
米などを受取ることが出来る様にしたのである。

>p916

 そして賞罰を明らかにし、法に違反した者は地位の高い者
は地位を下げ、地位の下の者は賄賂を取った者は賄賂の二倍
の罰金を取ることにしたのである。また国司の長官(かみ)の従者は
九人、次官(すけ)の従者は七人、主典(ふびと)の従者は五人とし、決められ
た人数以上の従者を連れた人は主人も従者も共に罰すること
としたのである。
 また朝廷では天皇や皇后に子がないと言う理由で名代(みなしろ)と言
う部(べ)を設(もう)け、それに所属する民を置いていたのであり、その
様な代(しろ)を置くことは無駄で誤った習慣であるからその様な制
度を廃止させたのである。また臣連等(おみのむらじたち)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)などがそ
れぞれ自分の民を置いて自分の都合の良い様に労役などに使
っていたのであり、更に国県(くにあがた)の山海、林野、池田などを分割
して私領、私有とし、豪族同志が自分の領土を拡大するため
に戰爭を続けている者もあり、そのために広大な田畑を私有
する者がある反面針を突き刺す程のせまち土地すら持たない

>p917

貧しい人も多かったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−11 孝徳天皇と斉明天皇��p914−6行〜��p917−1行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月
                    月読神霊統
                    宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統...苅場 扶士男

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#国司 #長官 #従者 #次官 #主典
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−12

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p917/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p917-2行〜

 また朝廷に租税を納めるに当たって臣連(おみのむらじ)や伴造(とものみやつこ)らが領民か
ら朝廷に納める租税だと称して多くの品物を微集しながら、
その多くを上前をはねて私服を肥やし、残りを朝廷へ献上す
ると言う例も多かったのである。また力の有る者が広大な田
畑を私有し、それを土地のない貧しい人々に貸し与えて毎年
高い年具を取ると言うことも盛んに行なわれていたのである。
それで豊かな者は益々豊かになり、貧しい者は益々貧しくな
って重大な社会問題となっていたのである。孝徳天皇はその
様な社会的な矛盾を現実的な方法で解決しようとして努力し
たのである。それで下層階級の農民達からは喜ばれたけれど
も、上流階級、支配階級の庶民を犠牲にして私利私欲を図っ
ている邪悪でけがれた輩からは憎まれたり怨まれたり嫌われ
たりしたのである。
 また孝徳紀ではニ年正月の詔(みことのり)の中に昔の天皇らが立てた子(こ)

>p918

代(しろ)の民、処処(ところどころ)の屯倉(みやけ)、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、村首(むらのおびと)らが所有す
る部曲(かき)の民、処処の田莊(たどころ)などを廃止し、食封(へひと)を大夫より上の
位の人々に与え、それより下の官史達には布巾(きぬ)を以って給与
としたことになっているのである。これらのことは現代人に
は理解し難いと思うが、昔の天皇の子代とか名代の民と言う
のは昔の天皇のために存在していたのであり、子代や名代の
民は現代的に言えば税金を免除されていて昔の天皇の霊をな
ぐさめたりするために何かをしていたものであろうと思う。
だからその様なことは無駄なことであり国家的な損失だった
から廃止したのである。
 また臣、連、伴造、国造、村首らが所有する部曲(かき)の民とか
田荘(たどころ)とか言うのは、それらの人々が所有する私有民と私有地
のことであり、現代的に言えば日本国民は皆が国に対して国
税を支払う義務を負っている訳であるが、部曲(かき)の民は日本国
民と言うよりも、臣、連、伴造、国造が私有する民であるか

>p919

ら公民と認められず、国税を払う義務がない代わりに臣(おみ)や連(むらじ)
などの自由に使われたり税金を取られたりしていたものであろう。また臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、村首(むらのおびと)らの田荘(たどころ)も国有の敷地
ではなく私有の農地であり、国に対して税金を支払わなくて
もよい土地となっていたものと思うのである。
 だから部曲(かき)の民が多くなる程国税を負担する公民が減少す
ることになるから国家の税収が減少することになり財政が苦
しくなる訳である。また部曲(かき)の田荘(たどころ)が増加する程国に納める
租税が減少するから国家の財政はそれ丈苦しくなるのである。
その反面 部曲(かき)の民を多く持ち、部曲の田荘(たどころ)を多く持つ程豪族
らの収入は多くなる訳だったのである。その様なことから臣、
連、伴造、国造らの中には多くの部曲の民を持ち、広大な田
荘を持ち、巨富を貯えてぜいたくな生活を送る者も多くなっ
て来たのである。一個人がいくらでも多くの部曲の民を所有
し、広大な田荘を占有することを認めるから貧富の差がひど

>p920

くなり、多くの国民が苦しまねばならなくなるのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−12 孝徳天皇と斉明天皇��p917−2行〜��p920−1行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)六月
                    月読神の霊統…五瀬月(いつせのつき)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#臣連 #伴造 #臣 #連 #国造 #村首
#孝徳紀
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−13

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p920/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p920-2行〜

 それで孝徳天皇は昔の天皇や皇族らの子代(こしろ)や名代(なしろ)や屯倉(みやけ)を
廃止し、臣、連、伴造、国造らが部曲(かき)の民を所有したり田荘(たどころ)
を所有することを禁じ、その代わりに食封(へひと)を与えて地位身分
に応じて一定の収入を保証すると言う方法に変えたのである。
しかしその頃の役人の大部分は腐敗していたのである。だか
ら多く者が法に違反した罪人と言うことになってしまったの
である。それは皆が悪いことをしていながら悪いとも罪とも
思わず、誤ったことをしていながら正当な行為、当然のこと
と思っていたからである。欽明が天皇になって以来日本中が
腐ってしまったのである。
 次に孝徳天皇は葬儀の簡素化を命令しているのである。そ
れは当時の天皇や皇族の陵墓は極めて巨大なものであり、陵
墓に納める副葬品も高価で貴重な品物が大量に用いられてい
たのである。また故人の遺体に豪華な衣服を沢山着せたり、

>p921

殯宮(もがりのみや)を立てて長期間の殯(もがり)をしたり、人を殉死(じゅんし)させたり馬を殉
死させたりしていたのである。そしてその様なことが盛んに
行なわれるために、庶民の生活が犠牲にせられ、多くの人々
が貧乏に苦しんでいたのである。
 地球人は人生とか死について正しい理念を持っていないの
である。そのために死者の葬儀について誤ったことばかり続
けて来たのである。人間は死んでも未来に何度でも生まれ変
わって来るのであり、死後の世界には現世に於ける様な生活
は一切存在しないのである。だから死者には食物も衣服も住
居も道具も財産も家臣も召使いも一切必要はないのである。
故人の遺体は一日も早く土に帰ればよいのであって、遺体を
ミイラにして永久に保存しようとしたり、遺体の腐敗を防ぐ
ために立派な棺に納めて防腐剤を入れたりすることは愚かな
ことである。
 また死者には生活は存在しないのであるから食物も衣服も

>p922

道具も財産も家臣も召使いも家畜も領土も一切必要ないので
ある。だから貴重な財産を沢山副葬品として納めたり、故人
のあの世での生活のために家臣や召使いや家畜が必要である
と思って殉死させたり、死者の住む場所として巨大な陵墓を
建設したりすることのすべてが誤りであり無駄なことである。
孝徳天皇にはそのことが判っていたからやめさせようとした
のである。
 孝徳天皇は皇族や貴族らの墓の大きを大巾に制限したので
ある。例えば王以上の身分の人、つまり天皇、皇后、皇子、
皇女らの墓も最大を玄室(げんしつ)の長さ九尺、巾五尺、墓の大きさは
九尋(ここのひろ)四方、高さ五尋(いつひろ)、千人の労働者で七日に完了させよと命
じているのである。陵墓の土盛(どもり)りが九尋四方と言えば大体十
六米四角、高さ五尋は九米位であるから過去の天皇陵に較べ
れば極めて小さいのである。仁徳天皇が応神天皇陵を建設し
た時には三年以上の年月を要し、多くの国民を苦しめ、国家

>p923

の財政をも破綻させたことは有名な話だったのである。仮に
毎日千人の労働者が三年かゝって陵墓を作ったとすれば労務
者の延べ人員は百万人以上となるのである。しかし孝徳天皇
の決めた千人で七日で完了する陵墓なら延べ人員は七千人で
ある。その点から考えても孝徳天皇がいかに葬儀の簡素化を
図ろうとしたかと言うことが判るのである。そして貴族や有
力者の墓についても天皇陵に準じて小さくさせたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−13 孝徳天皇と斉明天皇��p920−2行〜��p923−7行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)七月
               日の出(山)證明(占いしょうめい)✽Shomei

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#子代 #名代 #屯倉 #廃止
#臣 #連 #伴造 #国造 #部曲の民 #田荘
#食封
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#副葬品 #殯宮 #殉死
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−14

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p923/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p923-8行〜

 更に副葬品として金、銀、銅、鉄類を納めることを禁止し
たのである。その頃金銀銅などは国内には產出せず、海外か
らの輸入に頼っていたのであり、極めて貴重な金属だったの
である。また鉄は国内でも產出していたけれども貴重品であ
ることに変わりはなかったのである。しかるに天皇や皇族の
陵墓には金銀銅鉄などを多量に納めている例が非常に多いの
である。しかし庶民達にとっては貴重品である金属や金属製
品を何の必要もない故人の墓に大量に納めることは無駄なこ

>p924

とであり誤ったことであると言わねばならないのである。そ
れでその様な貴重な金属を副葬品として墓の中に納めること
を禁止したのである。
 またその当時は故人の口に珠玉を含ませたり、玉で飾った
豪華な衣服を着せたりしていたのである。それで故人
の口に珠を含ませたり珠玉で飾った豪華な衣服を着させるこ
とを禁止し、白い質素な布で作った衣服を着せる様にしたの
である。また故人のために殯宮(もがりのみや)を建て、長期間 殯(もがり)をして故人
の霊をなぐさめていたのであるが、そのために多くの人々が
貴重な労働時間を無駄にしていたのである。更に一年もニ年
もの殯をすれば遺体は腐乱し、死臭があたりに漂(ただよ)い、決して
気持ちの良いことではなかったはずである。その様なことか
ら殯宮を建てることを禁止すると共に殯を営むことを禁止し
て葬式の儀礼そのものをも簡素化させたのである。
 また昔は埋葬の習慣がなくて庶民の間では風葬が盛んに行

>p925

なわれていたのである。風葬とは死体を山野に放置して鳥獣
の喰うに任せ、腐敗して消滅するのに任せていたのである。
だから村のあちこちに遺体が放置されていて鳥獣や虫に喰い
荒らされたり、腐乱して異臭が漂っていたり、あちこちに白
骨が散乱していると言うすさまじく不気味な風景がしばしば
見られたのだと思うのである。それはまた伝染病の流行のも
とにもなったであろう。
 その様なことから孝徳天皇は遺体をどこへでも放置する風
葬を禁止し、一定の場所を墓地と決めて庶民の死者も土の中
に埋葬させることにしたのである。また高貴な人が死んだ場
合にその人に仕えていた人が自殺して故人に殉じたり、故人
に仕へていた人を無理に殺して殉死させたり、故人の飼って
いた馬を殉死させたりすることが当然の如く行なわれていた
のである。それで殉死の悪習を禁止したのである。また故人
の葬儀の時に髪毛を切ったり、股を刃物で刺して傷つけたり

>p926

して誄(しのびごと)をしたりする習慣があったのをやめさせたのである。
そして敢えて違反する人は処罰することにしたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−14 孝徳天皇と斉明天皇��p923−8行〜��p926−2行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 写記:蛇令 和 七 年(2025)七月
              月読神霊統…五瀬月(いつせのつき)
             日の出(山)證明(占いしょうめい)✽proof(プルーフ)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#副葬品
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄 #proof
花丸▲『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−15

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p926/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p926-3行〜

 孝徳天皇が葬儀を簡素化しようとしたことは正しいことで
あり必要なことであったのである。しかしそれを守った人が
どれ程あったかと言うことは大きな疑問である。それは現代
でも盛大な葬儀を営み、大きな墓を建て、盛大な供養をする
ことが正しいこと、立派なことであると考えている人が多い
ことから考えて見ても、大化の改新の頃に孝徳天皇が実施し
たことが正しいことであると理解した人は殆どいないと考え
られるのである。だから孝徳天皇の在世中もそれを理解し実
行した人は殆どいなかったと思われるのであり、孝徳天皇の
死後殆ど昔に帰ったものと思うのである。
 また大化の改新の頃には上流階級、支配階級の人々の中に
邪悪で腐った人間が多かった様に、下層階級にも邪悪で腐っ
た人々があまりにも多かったのである。孝徳紀にも書いてあ

>p927

るが、見たのに見ないと言い、見ないのに見たと言い、聞い
たことをも聞かないと言い、聞かないことをも聞いたと言っ
て偽証(ぎしょう)をして他人をおとしいれたり苦しめたりする人が多か
ったのである。
 またその頃は家に奴婢(ぬひ)と呼ばれる人々を置いている人々も
かなりあったのである。奴婢(ぬひ)とは或る人に従属してその人の
ために働いて生活していた男女のことであるが、その奴婢達
が自分の主人が貧しいのを嫌って主人の家から逃げ出し、豊
かな家へ逃げ込んで勝手にその家の奴婢になると言う例がよ
くあったのである。しかし家の主人と奴婢とは主従関係にあ
り、奴婢が勝手に主人の家を逃げ出すことは犯罪となってい
たのである。しかるに他人の家から逃げ出した奴婢を勝手に
自分の家の奴婢にして働かせる者も多かったのである。他家
の奴婢を勝手に自家の奴婢にすると言うことは他人の財産や
他人の家畜を奪うのと同じ犯罪だったのである。しかし富め

>p928

る者や地位身分の上の者が貧しい者や地位身分の低い者から
力づくで土地や財産や奴婢などを奪って益々富み栄えると言
う例は多かったのである。
 また夫が自分の妻妾(さいしょう)を捨てた場合は捨てられた女性が他の
男性と結婚するのは自由であり当然の権利であるにもかゝわ
らず、夫に捨てられた女性が他の男性と結婚すると何年も経
ってから妻を捨て前の夫が、捨てた妻の再婚先へ押しかけて
行って恐迫し、財産をまき上げると言う様なことがしばしば
行なわれていたのである。
 また地位や財力のある邪悪な男が未婚の女性と無理矢理に
性的関係を結んで置いて、その女性が他の男性と結婚した場
合、女性の生家と婚家の両方へ押しかけて行って物品を強要
すると言う例も多かったのである。正式の婚約をしたとか結
婚をした場合に女性が他の男性と結婚したと言うのであれば
現代でも婚約 不履行(ふりこう)とか重婚とか言う法律的な問題となるで

>p929

あろうけれども、正式の婚約をしたのでもなく結婚したので
もなく、邪悪でけがれた男が未婚の女性を力づくで犯して置
いて、その女性が他の男性と結婚した場合に、自分の婚約者
或は妻が勝手に他の男性と結婚したと言いふらして女性にぬ
れぎぬを着せて女性の生家から財産を奪い、女性の夫からも
財産を奪うと言うことも多かったのである。それは勿論正式
の婚約も結婚もしないで未婚の女性を力づくで犯した男が悪
いのであるが、その当時としては婚姻に関する完全な法律が
あった訳でもないから、現代的に言えば法律の不備や抜け道
を利用して合法的犯罪を犯すのと同じ様な行為をする悪党が
昔も大勢いたと言うことである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−15 孝徳天皇と斉明天皇��p926−3行〜��p929−11行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 写記:蛇令 和 七 年(2025)七月
              月読神霊統…五瀬月(いつせのつき)
                    日の出(山)證明(占いしょうめい)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#大化の改新 #奴婢 #妻妾
#婚約不履行 #重婚
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄

『日本の歴史と最後の審判』〈37〉−16

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p929/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p929-12行〜

 また夫に死別した女性が何年も経って再婚することもよく
あるが、その場合に前夫との間に生まれた子女があるのが普
通である。そして再婚した女性の娘が生家に残っているか、
母の連れ子として新しい夫の家で生活しているかいずれかで

>p930

あるが、要するに再婚した女性と前夫との間に生まれた女性
が結婚しようとする場合に、その女性の母が再婚しているこ
とを理由に不当に財産を要求する男がいたのである。
 それはその当時女性の再婚は悪いこと、けがれた行為と言
う様に考えられていたからである。儒教道徳では「男女七才
にして席を同じくせず」とか「貞女二夫にまみえず」と言う
言葉がある。しかしこの様な言葉を正しいと信じて盲信する
ことは誤っているのであり、この様な考え方は儒教道徳の非
常に誤った面、悪い面であることを知らねばならないのであ
る。夫婦の間で離婚しなければならないこともあれば再婚し
なければならないこともあるのは当然のことである。
 そして貞操と言うものは夫と妻、或はもっと広い意味で男
性と女性がお互いに生きているからこそ守らねばならないこ
とであって、死んだ夫や死んだ妻に対して貞操を守ると言う
ことは無意味なことであり無駄なことであり誤った行為であ

>p931

ると言わねばならないのである。更に男性の再婚は正当と認
められていても女性の再婚は誤った行為、けがれた行為と言
う様に考えられていたのである。
 それで再婚した女性の娘が結婚しようとすると、その娘の
母親は再婚してけがれているからけがれを祓(はら)わねばならない
と言ってもんくをつけ、けがれを祓う代償として物品を強要
することが多かったのである。これは応神天皇の時代に朝鮮
から入って来た儒教道徳の影響もあるけれども、夫に死別し
た女性が再婚するとけがれた行為とみなされ、それを口実に
再婚した女性の娘が結婚する時には再婚している母親から財
産を強要する悪い男が大勢いたことを述べているのである。
 また世間には夫があまりにも邪悪であったり横暴であった
り我欲であったり無能であったりして、妻に嫌われ愛想をつ
かされて逃げられる場合もある。その様な場合に夫の方は妻
に愛想をつかされて逃げられたと世間に知られれば自分の恥

>p932

になる訳である。それで夫の方は役所に訴え出て妻が何か悪
いことをして逃げたと言う様な嘘をついて罪人に堕し、妻を
自分の婢(めのこやっこ)にすると言う様なことがしばしば行なわれていたの
である。
 そう言っても現代人には理解出来ないであろうけれども、
当時の社会に於いては一般の男女は良民であり、現代的に言
えば公民権を与えられて一人の人間として基本的人権を認め
られて法律によって自由や平等の権利を認められているので
あるが、奴婢と言う身分は公民権が与えられず、人間として
の自由と平等が認められず、或る人の財産とか奴隷と言う様
な形式で自由を束縛され、権利を奪われて主人の思うまゝに
支配されると言う様な悲惨な境遇なのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−16 孝徳天皇と斉明天皇��p929−12行〜��p932−12行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 写記:蛇令 和 七 年(2025)七月
              月読神霊統…五瀬月(いつせのつき)
                    日の出(山)證明(占いしょうめい)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#貞操 #再婚
#奴婢 #ぬひ
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−17

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p932/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p932-13行〜

 そして妻に愛想をつかされ逃げられるのは夫の方が悪いの
であり、夫の罪であり責任であるけれども、夫の方が邪悪な
男であって役所へ訴へ出てあることやないことや色々と嘘を

>p933

言って妻を罪人に仕立てあげ、そして妻の人権を奪って自分
の婢にすると言う例も多かったのである。それは役人が夫の
嘘の訴えを信用して妻に罪人の判決を下せば妻は良民の地位
を奪われて人間としての自由や権利を保証せられない婢(めのこやっこ)、判
り易く言えば夫の女奴隷の様な身分に堕(おと)されて一生邪悪な男
の自由にされねばならなくなるのである。つまり妻には妻と
しての権利があるけれども、婢には妻としての権利も女性と
しての権利もないのである。そして善良な妻が邪悪な夫のた
めに妻として、女性としての権利も自由も奪われて一生女奴
隷の様な悲惨な生活を強制される例も多かったのである。
 また愚かな夫が自分の妻が他所(よそ)の男と姦通したと疑って証
拠もないのに役所へ行って妻を姦通罪で訴えると言う例も多
かったのである。しかもそれは三人の証人さえあれば認めら
れていたのであるから、邪悪な男が自分の仲間を証人に仕立
てて妻の姦通現場を見たと言う嘘の証言をさせれば妻は罪

>p934

人にされることになっていたのである。だからそれは夫の方
の一方的な訴えと夫の側の証人の証言丈で妻の姦通罪が決め
られていたのである。極めて不公平で誤りが多かったのであ
る。それで孝徳天皇はそれ迄の夫の一方的な訴えや夫の側の
証人の証言丈で判決を下すことをやめさせ、妻の方の証言や
証人などをも尊重して公平で間違いのない裁判を行なう様に
命令したのである。
 また当時朝廷で天皇が新しい都を建設したり、陵墓を造っ
たり、神社や寺院を建てたり、池や農業用水路を造ったりす
る場合には各地の農民を呼び寄せて労役を課していたのであ
る。そして仕事が終わって農民達が故郷へ帰る途中で病気に
なって死ぬることもよくあったのである。しかし農民達が故
郷へ帰る途中に道端で病気になって死ぬるとその近くの家の
人々が集まって来て「何の理由があって我々の住む家の近く
で人を死なせたのか」と難くせをつけて死んだ人の兄弟や仲

>p935

間の人々をその地に足留めして帰れない様にし、けがれ祓(はら)い
をさせていたのである。
 それは自分達の家の近くで人を死なせたから家や土地がけ
がれたと言って難くせをつけ、けがれ祓いをする迄兄弟や仲
間を郷里へ帰さないと言って強迫し物品をゆすり取っていた
のである。しかし彼らは朝廷から労役を課せられて給料も与
えられずに働かされたあげくやっと労役から解放せられて故
郷へ帰るところであるから着のみ着のまゝの姿であり財産の
持ち合わせなどあろうはずがないのである。だからそう言う
人々から財産をむしり取ろうとすることは極めて残酷な行為
だったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−17 孝徳天皇と斉明天皇��p932−13行〜��p935−11行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 写記:蛇令 和 七 年(2025)七月
              月読神霊統…五瀬月(いつせのつき)
                    日の出(山)證明(占いしょうめい)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#邪悪な男 #姦通罪
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−18

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p935/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p935-14行〜

 それで都での労役が終わって郷里へ帰る途中たとえ兄が病
気で道端で死んでも弟はかゝわりになることを恐れて兄を放
置してあわててそこを逃げねばならない程悲惨な狀態がしば
しば起こっていたのである。自分の兄弟の死をみとることも

>p936

出来ない位であるから兄弟の葬儀を営むことさえ出来ないの
であり、まして同じ村から来ている仲間が道で死んでも葬式
をするどころではなく、あわてて死者を捨てて逃げねばなら
なかったのである。
 また農民が何で溺れ死んでもそれを見た人が死者の家族ら
に「何で我々に溺死者に会わせてけがしたのか」と難くせを
つけてけがれ祓いの物品を強要すると言う有様だったのであ
る。それで兄が河で溺れていても弟が助けることも出来ない
場合があったのである。現代人なら誰かが河で溺れ死んだの
を見ると気の毒だと思って同情する人が多いであろうけれど
も、その頃には他人が河で溺れ死んだのを見て同情するどこ
ろか溺死者を見せられてけがれたからけがれを祓うために物
品を出せと遺族を強迫する者もいたのである。だから自分が
溺死者の身内だと知れたら財産を取られるから恐ろしくて知
らぬ顔をして居らねばならなかったのである。

>p937

 また朝廷の労役が終わって郷里へ帰る人々が途中のどこか
の村で野営をしてそこで飯を炊いて食べるとその近くの家の
者が出て来て「誰の許可を得てここで炊事をしたのか」と言っ
てそれをたねに物品を強要すると言う様なことが平気で行な
われていたのである。何故この様な馬鹿げたことが各地で行
なわれていたかと言うと欽明や敏達などのけがれた天皇が悪
い政治をして蘇我氏を横暴にし、更に聖徳太子が悪いことを
して蘇我馬子らを増長させたりしたことから上流階級、支配階級の人々の多くが頽廃(たいはい)してしまい、そのために地方の下級官
史迄も腐敗してしまって良民から賄賂を取ったり、良民の財
産をまき上げたりする様になり、そのために真面目に生きる
者が損をし苦しまねばならない浅ましい世の中になってしま
ったのである。そのために力の強い者があらゆることで弱い
者に難くせをつけては恐迫し、弱い者をゆすって物品を奪い
取って得をしたと思う様な邪悪でけがれた世になったのであ

>p938

る。つまり世の中が上から下迄腐れ切って強い者勝ち、悪い
ことをした方が得と言う世の中になっていたのである。
 また東国の人が馬に乗って都へ出掛けた時に、長旅で馬が
疲れ、痩(や)せて動けなくなることを心配して、布二尋(ぬのふたひろ)と麻二束(あさふたつか)
を参河(みかは)の人と尾張(をはり)の人に与えて馬の世話を頼み、更に都から
帰る時に鍬(すき)一口を与える約束で馬を預けたにもかゝわらず、
東国の人が都からの帰途、預けた馬を引き取るために参河の
人と尾張の人の家へ寄った所馬が死んだと言って返さなかっ
たのである。またそれが良い馬であれば盗まれたと嘘をつい
て返さなかったり、預かった馬が牝馬(めうま)で預り主の家で子を孕(はら)
んだりすればけがれたと難くせをつけて馬を奪ったりしてい
たのである。
 それで孝徳天皇は旅人が旅の途中で馬を預けて世話を頼む
場合、旅人は馬を預ける人と共に村首(むらのおびと)つまり現代的に言えば
村長の家へ行って村長の立合いのもとに馬を世話をして貰う

>p939

ための報酬を与え、旅人が帰りに馬を受け取る時に再び報酬
を強要されることがない様にしたのである。また馬を預った
人が不注意などで馬を疲れさせたり傷つけたり病気にしたり
した場合には報酬を与えなくてもよいことにし、更に馬を預
った人が馬が死んだとか盗まれたと言って嘘をついたりした
場合には罪として罰を加えることにしたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−18 孝徳天皇と斉明天皇��p935−12行〜��p939−6行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)七月
           占い月読神霊統…夜五瀬月(占いいつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#欽明や敏達 #けがれた天皇
#東国の人
#蘇我氏 #聖徳太子 #蘇我馬子

日本の歴史と最後の審判』〈37〉−19

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p939/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p939-7行〜

 また市司(いちのつかさ)、要路(ねみのみち)の津済(つわたり)の渡子(わたしもり)の調賦(みつき)をやめて田地(たどころ)を給与(たま)え
と命じているのである。これはどの様なことかと言うと昔は
各地で物々交換の市が開かれていたのであり、市(いち)の管理とか
支配をする人を市司(いちのつかさ)と言っていたのである。そして市司(いちのつかさ)の調(みつ)
賦(き)をやめて田地(たどころ)を与えよと言うことは市司が朝廷に貢物をす
るためには市へ物々交換に来る人々から手数料とか場所代と
か言うものを取らねばやって行けないことになり、そうなる
と物々交換に来る人々が不便で困ることが多いから市司から
貢物を取ることはやめて、田地を与えて生活を保証し、市場

>p940

へ物々交換に来る人々から手数料や場所代などを取らなくて
もよいことにしたのだと思うのである。
 もう一つ要路(ねみのみち)の津済(つわたり)の渡子(わたしもり)から貢物を取ることをやめて代
わりに田地(たどころ)を与えよと言うのは、都と地方とを結ぶ重要な道
筋にある津の渡(わた)り渡子(わたしもり)から貢物を取れば彼らも貢物を奉る
ために収入を得なければならないことになるのである。しか
し要路の津済(つわたり)の渡子(わたしもり)は朝廷の役人らも渡すことがしばしばあ
ったのである。その場合に無料で渡せば渡子(わたしもり)の生活が成り立
たなくなる訳である。それで津済(つわたり)の渡子(わたしもり)達から貢物を取るこ
とをやめると共に、渡子達に田地(たどころ)を与えて生活を安定させ、
その代わりに朝廷の大臣や官人などが渡船に乗る時には無料
で乗ってもよいことにしたのだと思うのである。つまり市司(いちのつかさ)
や要路(ねみのみち)の津済(つわたり)の渡子(わたしもり)達は非常に重要な仕事をしているから租
税や労役を免除し、公の給与を与えて官史に準じた身分に保
証したものと思うのである。

>p941

 さてこの様な庶民の生活にかゝわることは孝徳紀以外には
大体書いてないのである。日本書紀が歴代天皇の治績につい
て書いていることは主として戰爭や外交や朝廷の政治、宗教
経済などの重要な出来事である。従って日本書紀の中でも孝
徳紀は異例なのである。では日本書紀は何故孝徳紀丈にこの
様な庶民の生活にかゝわることを書いたのであろうか。
 それは多くの人は戰爭に於いて権謀術数を用いて大いに敵
を破ったと言う様な人を英雄、偉人、大將軍などと言って尊
敬するものであり、そう言う戰爭の歴史こそ素晴らしい歴史、
偉大な歴史と思って感激したりすることが多いのである。し
かしそれは地球人が邪悪で愚かでけがれているからこそ戰爭の
歴史を喜び、権謀術数を用いて敵を破り、多くの敵兵を殺し、
敵の領土を奪ったりすることが偉大なこと、立派なことと思
うのである。
 日本書紀に於いても大化の改新の主役、功労者は中大兄と

>p942

藤原鎌足の二人となって居り、天智天皇と天武天皇は偉大な
立派な天皇とせられて居り、藤原鎌足、天智、天武らの犯し
た大きな罪悪は消されているのである。日本書紀は藤原鎌足、
天智、天武らを英雄、偉人にまつり上げると共に、大化の改
新に重要な役割を果たした孝徳天皇の治績を消し、孝徳天皇
は庶民のためのくだらぬ問題ばかりに手をつけた無能でくだ
らぬ天皇と思わせるために、他の天皇の歴史には書かない様
な出来事をことさらに沢山詳しく書いているのである。
 天孫降臨以来の正しい日本の歴史を知らず、天孫降臨の理
想が何であったかと言うことを知らない今の日本人は歴史を
正しく読み、正しく理解するための理性や能力を失っている
のである。権謀術数を用いて敵を破り、或は政敵を倒して高
い地位につき、大きな権力を握り、人のうらやむ様な栄耀栄
華を誇る人が偉人英雄であると思い、その様な人物を尊敬し
たり崇拝したりあこがれたりすることは誤っているのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−19 孝徳天皇と斉明天皇��p939−7行〜��p942−15行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神霊統…夜五瀬月(占いいつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−20

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p943/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p943-1行〜

 戰爭の上手な英雄、偉人、大將軍、豪傑らの力で理想の社
会、平和な世界を建設することは出来ないのである。権謀術
数を用いて皆の利益や幸福や世界永遠の平和の約束せられる
理想の世界、一つの世界を建設することは出来ないのである。
天皇の皇子達が皇位継承の爭いを繰り返し、上流階級、支配
階級の人々が地位や権力を求めて爭いばかり繰り返していた
陰に多くの庶民達の悲惨極まりない生活があったことを真剣
に考えて見ようとする人はいないのである。
 さて大化元年九月に舒明天皇の子吉野皇子が兵を集めて皇
位を奪おうとして殺されたことになっている。しかし蘇我蝦(えみ)
夷(し)と入鹿が死んだ後、吉野皇子を天皇にしようと言う様な有
力者がそれ程いる訳ではないのである。これは中大兄と藤原
鎌足の二人が謀略で吉野皇子を殺したのだと思うのである。
中大兄は父の孝徳天皇には何も報告せず独断で吉野皇子を殺
したのである。しかも中大兄は吉野皇子の娘 倭媛(やまとひめ)を妃にして

>p944

いたのであるから吉野皇子は中大兄の岳父(がくふ)だったのである。
 次に大化五年三月に孝徳天皇の重臣 阿倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)が死去し
ている。これは本当は大化五年ではないのであり、651年
を大化元年として大化九年、659年のことである。そして
その月に蘇我臣日向(そがのおみひむか)が孝徳天皇の重臣蘇我山田石川麻呂が皇
太子を殺そうとしているとざん言(げん)したことから蘇我山田石川
麻呂の一族と多くの人々を殺しているのである。日本書紀は
孝徳天皇の仕業の様に書いているが、これは阿倍倉梯麻呂が
死んだのを良い機会にして蘇我山田石川麻呂を殺し、孝徳天
皇の手足をもぐ様なことをして天皇の力を弱めようとした中
大兄と藤原鎌足の陰謀だったのである。
 蘇我山田石川麻呂の娘 茅渟娘(ちぬのいらつめ)は孝徳天皇の妃となって鸕野(うの)
皇女を生んでいたのであり、妹の美濃津子娘(みのつこのいらつめ)は中大兄の妃と
なって大田皇女を生んでいたのである。しかし冷酷非常な中大
兄は妃の父である蘇我山田石川麻呂が邪魔になったからざん

>p945

言にこと寄せて殺したのである。誰がどんなに考えて見たと
ころで蘇我山田石川麻呂が中大兄を殺す理由はなかったので
ある。吉野皇子を殺した時にも謀略を用いて吉野皇子が叛反(むほん)
を起こそうとしていると称して殺したのであり、蘇我山田石
川麻呂を殺したのも殺す理由をでっちあげて殺したのである。
天智天皇とはそう言う性格の男だったのである。
 さて孝徳天皇の治世は大化の年号が元年から五年となって
いるのは嘘であり、大化元年は641年であり、大化は九年
迄あったのであり、十年目が白雉(はくち)元年であり、この年に穴戸(あなとの)
国司(くにのみこともち)草壁連(くさかべのむらじ)醜経(しこぶ)が白雉(しろきぎす)を献上したことから瑞祥(ずいしょう)であると言っ
て年号を白雉(はくち)と改めたのである。
 孝徳紀に白雉元年夏四月に新羅が使者を派遣して貢物(みつぎもの)を奉
ったと書いてある。そして誰に或本に去(い)はくとしこの天皇の
世に高麗、百済、新羅の三国が毎年朝貢したことを伝えてい
るのである。孝徳天皇の治世は朝鮮半島とは比較的に友好関

>p946

係が続いていたのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−20 孝徳天皇と斉明天皇��p943−1行〜��p946−1行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神霊統…夜五瀬月(占いいつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#大化五年
#阿倍倉梯麻呂 #蘇我臣日向 #重臣 #蘇我山田石川麻呂
#中大兄 #藤原鎌足
#天智天皇
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−21

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p946/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p946-2行〜

 白雉二年に天皇は難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)へ遷っている。しかし孝徳紀には大化元年冬十ニ月に天皇、都を難波長柄豊碕に遷す
と書いているのである。これはどの様なことかと言うと孝徳
天皇が都を難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)に遷す計画を立てたのが大化元年十
ニ月と言うことであって、その時に都が完成していたのでも
なく実際に遷都した訳でもないのである。それにしても大化
元年十ニ月に新しい都を建設しようと計画し、実際に都の造
営が終わって遷都したのは白雉二年冬十ニ月だったのである
から相当長い年月が経っているのである。
 大化元年十ニ月に難波長柄豊碕宮造営を計画して白雉二年
十ニ月に遷都したとすれば満十年の年月がかゝったことにな
る訳であるが、そんなに長くかゝる訳はないのである。大化
元年と言うのは本当の大化元年、641年のことではなく、
日本書紀の大化元年のことであるから本当の大化五年、64

>p947

5年のことだったのである。そして実際に遷都したのは白雉
二年十ニ月、651年であるから満六年かゝった訳である。
しかし遷都の計画を立てたのは大化五年であるけれども、様
々な事情があって着工は大巾に遅れ、工事ははかどらなかっ
たのである。故に工事そのものが満六年もかゝった訳ではな
いのである。そして遷都後も一部では工事が進められていた
のであり、すべての工事が完了したのは白雉三年九月だった
のである。従って難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)は非常に豪壯華麗(ごうそうかれい)な都だっ
たのである。
 白雉四年夏四月、天皇は小山上吉士長丹(しょうせんじょうきしのながに)を大使とし、小乙(しょうおつ)
上吉士駒(じょうきしのこま)を副使として唐へ遣使している。そしてその年に皇
太子が天皇に大和の京(みやこ)へ移りたいと言ったのを天皇が許可し
なかったところ、皇太子は母の宝皇女(たからのひめみこ)、宝皇女の妹 間人皇女(はしひとのひめみこ)、
弟の大海人皇子、公郷大夫、百官の人々を率いて倭飛鳥河辺(やまとのあすかのかわべの)
行宮(かりみや)へ去ったのである。これは皇太子らの始めからの計画だっ

>p948

たのであり、皇太子を皇后宝皇女らも孝徳天皇を捨てて都を
去った訳である。
 それは孝徳天皇が国民のための政治をしようと努力したこ
とが皇族や貴族や官僚らの利益と一致せず、そのために彼らは
もっと彼ら自身の利益になる政治を望んで孝徳天皇を排除
しようとしたのである。それで宝皇女、間人皇女らと皇太子、
大海人皇子らは相談して文武百官の官僚迄連れて都を去った
のである。しかし中大兄程冷酷非情な男が孝徳天皇を殺さな
かったのは孝徳天皇が中大兄の実父だったからである。
 それで皇太子は孝徳天皇を殺しはしなかったけれども実質
的に天皇の地位を奪うつもりで皇后宝皇女、妃の間人皇女、
弟の大海人皇子、更に文武百官を率いて都を去ったのである。
孝徳天皇の一番の弱味は自分が天皇家の皇子に生まれたので
はなく、息長の家に生まれて宝皇女の婿養子になり、婿養子
の身で皇極天皇に位を譲られて天皇になったことにあったの

>p949

である。宝皇女(たからのひめみこ)も間人皇女(はしひとのひめみこ)も天皇家の家付きの娘だったので
ある。それで宝皇女と間人皇女は葛城皇子と大海人皇子らと
相談の上で孝徳天皇を捨てて都を去ったのである。夫に
捨てられた妻の話はよくあるが天皇が妻の皇后や妃に捨てら
れた例は孝徳天皇以外にはないであろう。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−21 孝徳天皇と斉明天皇��p946−2行〜��p949−5行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神霊統…夜五瀬月(占いいつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#白雉 #難波長柄豊碕宮 #豪壯華麗
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−22

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p949/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p949-6行〜

 白雉五年十月、孝徳天皇は治世十四年、享年五十八才で難(なに)
波長柄豊碕宮(はのながらのとよさきのみや)で死去したのである。孝徳天皇の死によって本
当の意味の大化の改新の理想もまた水の泡と消えて行ったの
である。欽明(きんめい)天皇の時代以来皇族も貴族も官僚も地方の豪族
らも腐敗し切っていたのである。だから孝徳天皇は綱紀(こうき)の粛(しゅく)
正(せい)を最も重視して人心の刷新を図ろうと努力したのである。
しかし腐れ切り、けがれ切った人々には正しいことは受け入
れられなかったのである。そして孝徳天皇の死を境として大
和朝廷は天孫降臨以来の理想を捨てて堕落頽廃の一途をたど
って行ったのである。

>p950

 孝徳天皇が天智や天武らの父でなかったならば確実に殺さ
れて皇位を奪われているのである。天智も天武も宇宙人の罪
人から生まれ変わって来た男であるからもともと邪悪でけが
れた人物だったのである。だから天智と天武には孝徳天皇が
綱紀(こうき)の粛(しゅく)
正(せい)を図ろうとすることが腹が立って仕方がなかった
のである。それで孝徳天皇を殺すことは出来ないけれども何
とかして早く死んで貰いたいと思っていたのである。
 そして普通なら宝皇女は孝徳天皇と夫婦であるから夫を捨
てて逃げようとするはずはないのであるが、宝皇女は自分が
舒明天皇の皇女であったから天皇になりたくて仕方がなかっ
たのである。しかし孝徳天皇が健在である限り宝皇女が女帝
として即位することは出来ない訳である。そうかと言って宝
皇女も夫の孝徳天皇を殺して天皇になる訳にも行かなかった
のである。それで宝皇女は自分が早く天皇になるために夫の
孝徳天皇を捨てて都を去ったのである。

>p951

 斉明天皇宝皇女は孝徳天皇が死去した654年の翌年、6
55年に五十三才で即位したのである。孝徳天皇は即位した
時に葛城皇子(かづらきのみこ)を皇太子に立てたのであるから、孝徳天皇の死
後は葛城皇子が即位するのが当然と考えられるのである。し
かし葛城皇子が皇太子であったにもかゝわらず孝徳天皇の死
後天皇になれず、宝皇女が天皇になった理由を理解出来た人
はいないのである。それは日本書紀に騙されているから判ら
ないのである。
 宝皇女は自分が舒明天皇(じょめいてんのう)の皇女であり、皇位継承権がある
と信じていたから天皇になって国を治めたかったのである。
しかし舒明天皇の死後 蘇我蝦夷(そがえみし)らの勢力が強くて宝皇女を女
帝として立てることが困難な狀態であったからこそ、舒明天
皇皇后吉備津媛が即位して皇極天皇となったとなったのである。そし
て蘇我入鹿が殺され、蝦夷も自殺して天皇家の危機は一応去
ったけれども、宝皇女の力では国を治めることが困難である

>p952

と思ったからこそ皇極天皇は女婿の孝徳天皇に位を譲ったの
である。しかし宝皇女は自分が天皇になれなかったことが不
服だったのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−22 孝徳天皇と斉明天皇��p949−6行〜��p952−3行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神霊統…夜五瀬月(占いいつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)

#日本の歴史と最後の審判
#第三十七章
#孝徳天皇 #斉明天皇
#難波長柄豊碕宮
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#葛城皇子
#舒明天皇
#吉備津媛 #皇極天皇
#国常立神 #安原修 #五瀬命
#月読神 #宇麻志阿斯訶備比古遅神 #五瀬月 #證明 #苅場扶士男 #福田渕玄
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−23

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p952/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p952-4行〜

 それで宝皇女は自分が天皇になりたいために夫の孝徳天皇
を捨てて都を去ったのである。文武百官の役人らが宝皇女に
ついて行ったのは宝皇女は舒明天皇の皇女であり、孝徳天皇
は皇女の婿だったから、天皇家の娘の方へ群臣はついて行っ
た訳である。だから宝皇女が都を去った時点で孝徳天皇の天
皇としての政治生命は失われていたと言えるのである。それ
で孝徳天皇は退位するつもりだったのであるが、その年に孝
徳天皇が遣唐使を派遣して、いた関係で遣唐使の人々が無事に
帰って来ることを祈って待っていたのであり、遣唐使の人々
が帰って来たのを見届けて間もなく孝徳天皇は死去したので
ある。
 日本書紀では孝徳天皇が死去した後、皇極天皇が再び即位

>p953

したことになっているけれどもそれは大嘘である。では孝徳
天皇に譲位した後、皇極天皇はどうしていたのであろうか。
日本書紀では天智の三年六月に嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)が死去したことに
なっている。嶋皇祖母命とは敏達天皇皇女で舒明天皇の母と
なっている糠手媛皇女(あらてひめのひめみこ)となっているが、敏達の皇女が天智の
時代迄生きているはずはないのである。
 敏達は587年に六十八才で死んでいるのである。故に敏
達の皇女が仮に550年頃の生まれとしても650年には百
才位になるのである。日本書紀の天智三年は663年に当た
るから嶋皇祖母命が生存していたら百才から百十才位の高令
になっていたことになるのである。嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)とは本当は推(すい)
古天皇(こてんのう)のことであり、推古天皇は皇極天皇の二年、639年
に八十六才で死去しているのである。故に天智三年六月に死
去したのは嶋皇祖母命ではなく、只の皇祖母命(すめみおやのみこと)即ち斉明天皇
宝皇女だったのである。斉明天皇宝皇女は天智に位を譲って

>p954

皇祖母命の尊称を奉られ、天智三年六月に死去したのである。
しかし天智三年は663年ではなく670年なのであり、斉
明天皇宝皇女、皇祖母命はその年に享年六十八才、治世十三
年で死去したのである。
 そして日本書紀では斉明天皇宝皇女は治世七年で661年
に死去したことになっているけれども大嘘である。661年
に死去したのが舒明天皇皇后吉備津媛であり、享年は正確に
は判らないけれども大体七十八才位、八十才近い高令で死去
したのである。皇祖母命(すめみおやのみこと)は推古天皇(すいこてんのう)嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)、皇極天皇(こうぎょくてんのう)吉(き)
備嶋皇祖母命(びのしまのすめみおやのみこと)、斉明天皇(さいめいてんのう)皇祖母命(すめみおやのみこと)の三人だったのをうやむや
にしてごまかしているのである。
 斉明天皇は大体に我侭で気位の高い皇女だったのである。
それで自分は皇女に生まれたのだから天皇になるのが当然だ
と思って天皇になったのである。そして元年十月に小墾田(をはりだ)に
瓦覆(かはらぶき)の大宮殿を建てようとしたのであるが宮殿を建てるため

>p955

の木材が深い山や広い谷で伐採したまゝ運び出すことが出来
ず朽ってしまい、遂に工事をやめたことになっている。
 元年の冬に飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)が火災で焼失したために飛鳥川原宮(あすかのかははらのみや)
に遷り、二年、656年に飛鳥の岡本に宮地(みやどころ)を定め、宮殿の
造営に着手している。斉明天皇は土木工事を起すことの好き
な皇女だったのである。しかし世間知らずの皇女であったか
ら何度も大工事を起こしては失敗し世間の人々の謗(そし)りを何度
も受けているのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−23 孝徳天皇と斉明天皇��p952−4行〜��p955−8行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神の霊統…夜五瀬月(いつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)

#日本の歴史と最後の審判
#孝徳天皇 #斉明天皇
#嶋皇祖母命
#皇祖母命 #宝皇女
#天智
#日本書紀
#飛鳥川原宮 #飛鳥板蓋宮
#国常立神
日本の歴史と最後の審判』〈37〉−24

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p955/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p955-9行〜

 斉明紀によれば四年十一月に蘇我赤兄(そがあかえ)が有馬皇子(ありまのみこ)を騙して
謀叛(むほん)の罪を着せ、皇太子が死刑にしているのである。これも
結局有馬皇子を殺すために蘇我赤兄を使って有馬皇子を謀叛(むほん)
人に仕立てたのである。
 また斉明天皇は五年の三月に安倍臣(あへのおみ)を遣して船師(ふないくさ)一百八十
艘を率て蝦夷(えみし)の国を討ったと言う。更に六年の三月に阿倍臣
を遣して船師二百艘を率て粛慎国(みしはせのくに)を伐たせたと言う。そして

>p956

百済が援軍を求めたことから斉明天皇は百済救援のために自
ら筑紫国へ行き、七年の秋七月に朝倉宮で死去したことにな
っているのである。しかし斉明天皇が七年七月に筑紫国の朝
倉宮で死去したと言うのは全く大嘘である。斉明紀には「是(こ)
の夕(よい)に、朝倉山(あさくらやま)の上(うえ)に、鬼有(おにあ)りて、大笠(おほかさ)を着(き)て、喪(も)の儀(よそはひ)を臨(のぞ)
み視(み)る。人々皆怪ぶ」(岩波書店日本書紀下参照)と奇怪な
ことを書いているが、これは斉明天皇が朝倉で死去したのは
嘘と言う意味であると思うのである。
 天智紀によれば天智が正式に即位したのは七年の春正月と
なっているのであり、元年から六年迄は皇太子のまゝで素服(そふく)
稱制(しょうせい)をしたことになっているのである。しかし天皇が死去し
た後六年間も空位のまゝにして皇太子として政治をすると言
う様な馬鹿なことはあり得ないのである。斉明天皇宝皇女は
天智が即位して三年目の670年に享年六十八才で死去した
のであり、斉明天皇の治世は十三年だったのである。

>p957

 だから日本書紀の天智六年迄は斉明天皇の治世であり、斉
明天皇は治世十三年、667年に六十五才で位を皇太子に譲
り、皇祖母命の尊称を奉られ、天智三年、670年に享年六
十八才で死去したのである。また天智は668年に四十七才
で即位したのである。
 斉明天皇の死後六年間も皇太子が素服称制で政治をしたと
言う様な馬鹿げたことを書いたのは、結局宝皇女が孝徳天皇
皇后であり、天智と天武の二人が孝徳天皇の皇子であること
をどうしても消したかったからである。宝皇女は夫の孝徳天
皇を捨てて都を去り、天智と天武は父の孝徳天皇を捨てて都
を去り、孝徳天皇の死期を早め、その上で斉明天皇が即位し
たのであるから儒教道徳の立場から言えば斉明天皇宝皇女も
天智と天武もあまりかっこうの良いことはしてないのである。
 だから孝徳天皇が斉明天皇の夫であったことや天智と天武
の父が孝徳天皇であったこと丈はどうしても後世の人々に知

>p958

られたくなかったのである。それで斉明天皇は筑紫の朝倉宮
で七年に死去したと大嘘を書いたけれども、斉明天皇はそれ
から六年間実際に国を治めていたのである。それで日本書紀
を書く時に斉明天皇が七年に死去したと書きながら、天智が
本当に即位した七年迄は天智が天皇であったとは書けなかっ
たのである。それは天武にしても自分の母のことをあまり嘘
ばかり書きたくなかったからである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−24 孝徳天皇と斉明天皇��p955−9行〜��p958−7行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神の霊統…夜五瀬月(いつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)
日本苅場 扶士男(かりばふじお)

✽✽✽✽ ✽✽✽✽ ✽✽✽✽ ✽✽✽✽

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日本の歴史と最後の審判』〈37〉−25(章終)

第三十七章 孝徳天皇と斉明天皇
(��p958/��p884〜��p958)

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)安原 修

>p958-8行〜

 史上有名な百済の白村江の戰(たたかひ)に日本軍が大敗した最大の原
因は恐らく斉明天皇が戰爭のことはろくに判らないのにでし
ゃばり過ぎたために日本軍は良い作戰を考えることが出来な
かったからであろう。しかし天武も舎人(とねり)親王も斉明天皇のこ
と丈は絶対に悪く書きたくなかったから斉明天皇は朝倉宮で
死去したから白村江の戰いには関係ないことにしてごまかし
ているのだと思うのである。白村江の戰いのことがうやむや
にされた理由はそこにあると言えるのである。

《日本の歴史と最後の審判〈37〉−25(章終) 孝徳天皇と斉明天皇��p958−8行〜��p958−15行》

 ✮ 執筆:猪平 成 七 年(1995)
                     五 瀬 命 正 統
                     国常立神分霊…安原 修

 ✮ 記:蛇令 和 七 年(2025)八月
           占い月読神の霊統…夜五瀬月(いつせのつき)
                 占い福田 渕玄(ふくだ えんげん)
  晴れ宇麻志阿斯訶備比古遅神の系統
                   台風明土 富士(あけど ふじ)
日本苅場 扶士男(かりばふじお)

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