ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

commmons / コモンズコミュのcommmons newsletter vol.392 + RELEASE

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
------ Forwarded Message
From: commmons(newsletter) <newsletter@commmons.com>
Date: Wed, 10 Nov 2010 11:20:34 +0900
Subject: commmons newsletter vol.392 + RELEASE

commmons
〓〓〓〓〓〓〓〓〓
newsletter vol.392
〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓
http://www.commmons.com/


+RELEASE

本日発売!
大貫妙子 & 坂本龍一 13年ぶりの共同制作アルバム「UTAU」。

アーティスト:大貫妙子 & 坂本龍一
タイトル:UTAU
発売日:2010年11月10日(水)
<フルアートワークCD>
品番:RZCM-46624〜5 
価格:\3,500(tax in)
形態:アルバム(2枚組み)
Disc 1 - オリジナルアルバム
Disc 2 - インストルメンタル

<スーパーエコパッケージCD> 
品番:RZCM-46626
価格:\1,890(tax in)
形態:アルバム

ご購入はぜひcommmonsmartで!
オリジナルグッズ「UTAUリフレッシュ・ウッドスティック」との
セット商品もございます。
http://shop.mu-mo.net/avx/sv/list1?jsiteid=CMM&categ_id=57232101




+SPECIAL

大貫妙子 & 坂本龍一 アルバム「UTAU」の発売を本日迎えまして、
commmons newsletterにご登録いただいております皆さまに、
「UTAU」フルアートワーク盤のジャケット内でも原稿を
書いていただきました牧村憲一氏による、スペシャルバージョンの
ライナーノーツをお届けいたします!ぜひご一読下さい。



UTAUに寄せて

2010年 秋

ずっと長い間、空気を揺らす、「うた」が好きでした。
それは「うた」と同じように息をする、「ピアノ」に出会う前までの話です。
今僕は生まれたばかりのアルバムを聴いています。うたとピアノだけの、
凛とした「音楽」は、僕を二つに切り裂いてしまうのです。

片方はじっと聴き入り目を閉じて、音楽に魅入られてしまっています。
もう片方は、過去の記憶に身を委ね始めているのです。
こちらとあちら、現在と過去を行き交っているのです。


1976年1月

その日、音響ハウスでは、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』の
録音がされていました。その中の1曲、山下達郎さんの曲に作詞とコーラスで
参加していたのが、シュガー・ベイブのメンバー、大貫妙子さんでした。
その頃の僕は、シュガー・ベイブのマネージメント・サポートの立場に
いました。
僕たちスタッフは日頃、大貫さんをター坊と呼んでいました。
彼女の発見者の一人、矢野誠さんは「爽やかなシャーベットのような」と
評しており、ター坊と呼んでいても、
決して男の子みたいということではなく、実際、彼女は誰よりも華奢な
女の子でした。

その日のター坊は、ずっと考え事をしているようでした。
しばらくしてから、思い切って話しかけました。短い会話の中で、
僕はシュガー・ベイブの解散が近いことを感じました。
大きな出来事は、景色ごと脳裏に焼きつきます。
スタジオのガラス越しに感じた冷たい空気、闇の濃さ。僕は帰り道、
覚悟を決めていました。
シュガー・ベイブのセカンド・アルバムを諦めること。
ター坊、いや大貫さんにソロ・アルバムの提案すること。


1976年6月

大貫さんのデビューは、キャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)が
所属していたPANAMレーベル(クラウンレコード)になりました。
6月12日レコーディング開始。
このファースト・ソロ・アルバム『GreySkies』には、山下達郎さん、
矢野誠さん、ティン・パン・アレー、そして坂本龍一さんたちが参加しました。
前年1975年12月23日、シュガー・ベイブ「クリスマス・コンサート」で
大貫さんソロ・コーナーのピアノを受け持ったのは、坂本さんでした。
シュガー・ベイブの初代マネージャーだった長門芳郎さんは、荻窪ロフトに
出入りする、ピアノが上手い、芸大らしからぬ?風貌と素行の坂本さんを
狙っていたそうです。(笑)

坂本さんは、1974年、友部正人さんの『誰もぼくの絵を描けないだろう』と
いうアルバムに参加後、1975年1月からのレコ発ライブツアーに同行して
いました。
長門さんが坂本さんを知ったのはこのツアーの最中でした。
友部さんは、新宿ゴールデン街で出会ったばかりの坂本さんを、すぐに
CBSソニーのスタジオに連れて行かれたそうです。ひとつひとつの出会いが
偶然を装いながら、実は意味を持っていたのだと思います。

ファースト・アルバム制作時の大貫妙子さんは、初めての体験で多くの不安を
抱えていました。
しかしこのレコーディングが、この先34年に及ぶ朋友関係を築かせたのです。
大貫さんはこの時の出会いを「まだそんなに有名ではなかったのですが、
とても才能のある人だと思いました。新しいシンセサイザーが出た頃ですが、
いち早く取り入れ使っていました。レコーディングを通じて
いろいろ試していたようですが、自分の音楽に近いところにいると思いました。
私のメロディーは器楽的なのですが、坂本さんはそこを
よく理解してくれました。」と語っています。


1976年秋

このデビュー・アルバム発表に向けて、いくつかのライブが行われ、
坂本さんはそのすべてに参加しています。
この時期のセッション・メンバーは固定できず、8月16日渋谷西武で
行われたニッポン放送の公開番組収録時には、寺尾次郎、徳武弘文、
野沢秀行さんたち、8月28日29日の下北沢ロフトには、つのだひろ、
土屋昌巳、六川正彦、緒方泰男さんたち、10月6日新宿ロフト・オープニング
記念の中日、10月15日の新宿ロフトには寺尾次郎、原宏一、斉藤とし江、
向井慈春、鈴木昌夫さんたち、11月27日下北沢ロフトでのバースディ・
ライヴでは上記メンバー以外に、村松邦男、岡井大二さんらが参加しています。
坂本さんは生ピアノだけではなく、アープ・シンセサイザーも駆使。
20代前半の勢いのあるプレイぶりに顔がほころんでしまいます。


1977年5月

セカンド・アルバム制作時、僕はスタッフから抜けることになります。
制作を引き継いでくれたのがスタッフだった生田朗さん、
そして坂本龍一さんでした。

生田さんは1977年4月8日から3日間行われた、反捕鯨、環境保護を訴える
コンサート、ローリング・ココナッツ・レビュー・ジャパンに
来日していたSTUFFのクリス・パーカーにレコーディングへの参加要請を
します。翌5月に制作されたのがセカンド・アルバム『SUNSHOWER』です。
この頃は大貫さんと坂本さんの会話にも、スタッフ、ブレッカー・ブラザーズ、
ウエザー・リポート、チック・コリア、ベン・シドランらの名前が
良く登場していました。
まさにフュージョン・ブームの時代でした。

サウンドに走りすぎたのではと、当事者からも発言が出ておりましたが、
共同作業、共振がまたひとつ進んだ、重要なステップだったと思います。


1978年

1978年僕は再びスタッフに復帰しました。大貫さん、竹内まりやさん、
加藤和彦さん(トノバン)の参加を得ます。RVC移籍後の『Mignonne』は
小倉エージさんのプロデュースで、坂本さんと瀬尾一三さんがアレンジを担当。

このアルバムには「突然の贈りもの」が収録されました。
このレコーディング時の記憶は、今も生々しく残っています。
緻密な音作り、それに詞とうたが共鳴し完成したその瞬間の感動を。
あれからもう32年が経ってしまいました。今も大貫さんに会うと、
このフレーズが口元に浮かんできます。
「元気でいるから、安心してね」と。

しかし、悩み多き時代だったと大貫さんは語っています。
実際、売り上げでしか判断しないのがレコード会社でした。
そうした不遇の環境の中、大貫さんは長い休みに入りました。

坂本さんはこの年、4月から7月にかけて自身のファースト・アルバム
『千のナイフ』を録音します。


1980年

僕はRVCの制作担当の宮田茂樹さんに協力を仰ぎ、大貫さんのプロデュースをし
ます。
アレンジとサウンドプロデュースに坂本龍一さんと、トノバンを迎えてです。
これが『ROMANTIQUE』です。
このアルバムは売り上げ面でも成功し、続けて翌年の1981年『AVENTURE』を
制作しました。
坂本さんはYMOの活動と重なりあう中でした。山ほどのエピソードがあります
が、それはまたにします。
そしてこの2作に続いて制作されたのが「Cliche」でした。


1982年

『Cliche』は、僕がレコード制作に参加した最後のアルバムとなりました。
当時、音楽雑誌の取材に僕はこう答えました。「最良のプロデューサー、
大貫妙子さんにバトン・タッチします。」
現実はもっと素晴らしいことになっていました。「色彩都市」が
生まれていたのです。
それは、今に繋がる、大貫妙子がうたう坂本龍一、坂本龍一が奏でる
大貫妙子の金字塔でした。

余談になりますがその年の僕には、もうひとつ坂本さんとのうたの仕事が
ありました。坂本さんと忌野清志郎さんとの
「い・け・な・いルージュマジック」の制作です。
今でも語られるPVでの濃厚なキス、撮影時に使用しそのまま行方不明になった
現金3万円。
今日まで清志郎さん犯人説のままですが、その話になると清志郎さんは
笑ってくれました。
やっとの思いでビジネス的な難問を乗り越え、スタート台に立った日のことを
忘れられません。「で、僕たちは何をやればいいの?」。


2009年

12月23日の日比谷公会堂、丁度34年前のシュガー・ベイブのクリスマス・
コンサートの「からっぽの椅子」以来の、ふたりだけの演奏。
うたとピアノだけの「色彩都市」「TANGO」「風の道」。
それぞれが出会い、出会った分だけ別れがあり、また再び出会う。
ステージの上のふたりをなぞるように、僕にも観客にもそれぞれがあり、
共有した時間がありました。
それが僕たちが知る、80年代半ばの『SIGNIFIE』、1997年『LUCY』での
共演以来、13年ぶりの大貫さんと坂本さんの出会い、共同制作アルバム
『UTAU』へのスタートです。
音楽の本質はとても個人的なものであるけれど、人は、音楽は深いところで
繋がっていけるはずだと、旅立つかのようにみえました。


再び2010年 秋

僕は最近あらためて、「色彩」と「都市」という、ふたつの言葉に意味を
感じ始めています。
四季がなくなりつつある、季節の色も失いつつある今を。東京という街が、
まるで架空の街のごとく弄ばれている今。
生粋の東京人である大貫さんと坂本さんが、違う土地で暮らしながら、
東京を憂い、日本を憂い、地球を憂い、宇宙を憂うのも。
動物を愛し、草木を愛し、家族を愛し、人を愛するのも。

このアルバムのために書き下ろされた「a life」は語りかけてくれます。
ふたりから。「そして出会おう 素敵な人と 言葉をつかもう 生きた声を」
これは間違いなくもう一つの、2010年の「色彩都市」です。

ずっと長い間、空気を揺らす、「うた」が好きでした。それは「うた」と
同じように息をする、「ピアノ」に出会う前までの話です。

呼吸をし、空気を揺らし、響かせる『UTAU』という言葉。
Uで閉じた唇が、TAで離れて、もう一度Uで出会う、
素晴らしいタイトル『UTAU』。


牧村憲一




〓〓〓〓〓〓〓〓
●このメールは、commmons newsletterにご登録頂いた方を対象に
お送りしております。
●newsletterの掲載内容を無許可で印刷物・ウェブ上へ転載・引用
することはご遠慮ください。
●commmons newsletterは不定期発行です。
●newsletterの登録/登録解除(退会)はこちらから:
http://www.commmons.com/letter.html
●旧commmonsmart(2010年9月30日まで)から購読申し込みをされた方の
解除方法が変更になりました。
下記ページより解除を行ってください。
http://www.commmons.com/letter.html

Copyright(C)2010 commmons
All rights reserved.

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

commmons / コモンズ 更新情報

commmons / コモンズのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング