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本家公認・戸野広浩司復活企画コミュの戸野広浩司さんを辿る旅

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8月、戸野広浩司さんを辿る旅に出ました。

快傑ライオン丸でライバルのタイガージョーこと虎錠之介を演じ衝撃的なデビューを飾り、彗星の如く現れた瞬間の壮絶な死ー。

彼の素性は今まであまり明かされる事はありませんでした。

今回、故郷・広島に向かいルーツを探究してみました。

広島のご実家には、お母様と弟さん、姪っ子さんが現在住まわれております。

まずは、そのご実家に伺いました。

お母様との話しの中でつい先日、結婚が決まっていた許婚の方が訪ねてきた話しをお聞きしました。

73年1月3日に地元で結婚式をする事が決まっていたとの事です。

無念の死が72年の12月11日ですので、本当に結婚が間近に迫っていたんです。

その許婚さんとお母様が現在も親交が続いているのが、嬉しいです。

当時、顔が別の俳優さんに似てると言われ落ち込んだ事があるという話しをされたそうです。

二人で我が子の様に猫を可愛がっていたという話しもあります。

お母様には『戸野廣浩司記念劇場』のご報告と趣旨を説明させて頂きました。

若い演劇人に戸野廣さんの無念の思いを晴らしてもらいたい。

魂を伝承してもらいたい。

育成みたいな事もしていきたい。

趣旨はそんな感じなのですが、お母様から出たお話は

『浩司が役者としての道をくじけそうになった時、田舎に帰って教師をしながら演劇部の先生になって、後輩を育成したいなんて言った時があったんです』というエピソードでした。

この時はお父様が『自分の選んだ道なんだから、もっと頑張りなさい!』と辞める事を反対し、思い留まらせたそうです。

更に、読ませて頂いた本には『将来は田舎に戻って、演劇を若い人に教えていきたい』旨の事が書いてありました。

奇しくも、『伝える・育成』というキーワードで同じ事をご本人も考えていた事がわかりました。


その後、浩司さんの墓前にも劇場の件をご報告させて頂きました。

ご実家を後にして、次はお寺に向かいました。

このお寺の住職は浩司さんと生前親しくされていたという方。


ご実家から車で5分ほどのお寺でした。

戸野広浩司さんの葬儀を仕切り、そして翌年1月に決定していた結婚式もまたこのお寺で行われる予定だったとの事です。

アポなしでの訪問なので、住職さんにお会いできるか心配でしたが、快く迎えてくれました。


見た感じ年齢は戸野広さんと同じ位です。

『快傑ライオン丸ね〜』と口火を切った住職は次々にお話を聞かしてくれました。

『お葬式の時はとにかく悲しくてね〜。泣けて泣けてしょうがなかった。泣いても戻らないんですけどね〜。冷たい雨の日でしたこど戸野広家からココまで歩いて帰って来ましたよ』

と、亡くなった時の心境を鮮明に説明してくれました。

『あの時、Pプロのスタッフ全員のお酌を受けたっていうから、相当飲んでたんだろうね〜。狭間鉄さんがいたら、あんな事故は起こってなかったと思うよ。』

狭間鉄さんは戸野広さんと無二の親友だったようです。

広島に帰る時もいつも一緒にいたそうです。
故郷に帰ると、住職も合流して大宴会が行われたようでした。

『とにかくよく飲みましたよ。朝まで飲んでましたね〜。飲むと決まって浩司さんはギターを弾いて歌うんですよ。周りは皆踊ってました。ご家族も皆歌って踊ってましたね〜。』

戸野広さんの酒豪ぶりのルーツはお父様にあった話しもでました。
『お父さんが凄い飲む方で一升じゃ足らなくて、その後にウィスキーを生地のまま飲むんです。それで懸垂とかしてましたからね〜。』

ア然とするお話でした。

住職はよく戸野広さん、狭間鉄さんとモーターボートで近くの無人島に渡ったそうです。
目的はやはり飲む為でした。


『モーターボートを出して向かうんですが、そこから飲みはじめてましたよ。着いても飲むんです。とにかく、飲み続けたのは、東京で飲むのにも苦労してたからだと思いますよ〜。何か唐辛子をかじってぐっと飲んで、それで走ってたみたいですから(笑)』

その時、島で写した写真は狭間鉄さんにお贈りしたそうでした。

そこには、青春の1カットが刻まれているのでしょう。

お寺を後にして、戸野広さんが通っていた高校に向かいました。

何か生きていた証が残ってるかもしれない。

その途中、海沿いの道を走っていると、住職さんから聞いた島が見えました。

予想より陸に近い小さな島でした。

プライベートビーチのような砂浜があります。

あの島に渡って、あの小さな砂浜で飲んだのでしょう。

凄く贅沢な時間だったと思います。

そして高校へ。

恐らく建物も立て替えられてます。

しかし、この場所で高校時代に演劇部に入り、演じ成長したんだと思うと、ルーツに立っている気分になりました。

職員室にて聞いた話しでは2000年より前のデータは無くなっており、戸野広さんに触れる事はできませんでした。

演劇部も無くなってるとの事です。

唯一、時代を共有したであろう石碑を見つける事ができました。

戸野広さんが入学する遥か前の年号が刻まれた卒業記念の石碑です。

片隅にひっそりと存在してましたが、紛れも無く時代を共有した証人です。

コメント(4)

ここにも又お一人、戸野広さんをよく知る生き証人がおられたのですね。
住職さんというと、あの枯れ枝切りの住職のような人物をイメージしてしまいました。

今まで画面上でしか知ることが出来なかった戸野広さんですが、その素顔はかなり豪快な人だったようですね。
錠之介の野性的な凄みも、そんな性格から来ているのでしょうか。正に戸野広さんの為に作られたかのようなハマり役でした。
戸野広浩司を辿る旅〜彦根偏〜です


ゴールデンウイークを利用して、発作的に彦根に向かいました。

戸野広浩司さんを辿る旅を昨年から続けてますが、この彦根だけは行くべきか行かないでおくべきか、葛藤はありました。

彦根は戸野広さんが人生を終えた場所だからです。

意をけっして、車に乗り込みいざ彦根へ。


向かったのは良いのですが、場所が全くわかりません。

とりあえず、高速で一路彦根インターへ。

夜に出たのがいつしか朝日が出て明るくなりはじめました。

不思議とそんなに疲労感はなく、車は進みました。
途中、2時間だけ仮眠をとり再出発。彦根は思ったより遠いです。

岡崎付近で渋滞にあいまして、時間を食われてしまいましたが、昼ごろに彦根に到着。

さて何処に向かえばいいやら。

しかし、紛れも無くこの土地で38年前に快傑ライオン丸のロケが行われたのです。

まずは、事故の数時間前に潮哲也さんと散歩をしたと言われる琵琶湖に向かいました。

何も手掛かりがないわけでもないのです。

ライオン丸の本に当時の新聞記事が出ており、そこに彦根市●●町までは記載があったのです。

●●町側の琵琶湖に到着します。

車を路地に停めてじっと琵琶湖を眺めました。
広い湖に風で波紋が広がります。

『この湖を間違いなく38年前に戸野広さんは眺めてる』

と、思いながらしばらく見つめていました。

こんな景色の素晴らしい場所で潮哲也さんと将来について語りあったのでしょう。

二人とも明るい未来がきっと脳裏に広がった事と思われます。

若き戸野広さんと、潮さんが語り合う姿が見えたような気がしました。

細い路地や湖畔にも息吹を感じます。

返す返すも、戸野広さんがここにいたんだなと、思いつづけました。

しばらく、琵琶湖にいました。

琵琶湖のすぐ横に、もう使ってないらしい建物が立っておりました。

これか?

そう思い、シャッターを押しまくりました。

違うかもしれない。

容疑建物1となりました。
そうして、さらに近くにかんぽの宿が立ってます。

まさか、現在はかんぽの宿に!?

容疑建物2の正体をつかむべく中に。

2階のレストランに取りあえず行き、店員のおばさんに聞き込み調査開始。

琵琶湖側はガラス張りで綺麗な湖が一面に広がり、対岸も見えます。

『昔、湖城荘という国民宿舎があったと思いますが、どこだかわかりますか?』
『あっ、湖城荘なら建て替えられて営業してますよ』
『そうですか…。もう無いんですか?』

『今はあそこに見える白いビルの横辺りで経営してるよ』

なんと、旧湖城荘の建物は無くなっていたのです。

戸野広さんへの思いに更けながら、眼下の琵琶湖を見つめておりました。

負の遺産は無くなってよかったのかもしれない。


しかし、事態は急変しました。しばらくして、あの従業員が寄って来たのです。

つづく
戸野広浩司を辿る旅〜彦根偏〜続きです


彦根市のかんぽの宿で湖城荘の場所を聞き込み調査。
一度はもう現存しないと言われ、終わったかに見えたこの旅でしたが…。

眼下に広がる琵琶湖を見ながら食事をしていると、さっきの従業員さんが寄ってきました。

『あの〜、すいません。先程は●●荘と勘違いしてしまいました。湖城荘はもう営業してませんが、建物はまだ残っております。』

え!?あるの?

『あの道をまっすぐ行くと右側にあると思いますよ』
湖城荘の建物は当時のまま現存しておりました。

食事も早々に切り上げて、車に走りました。

戸野広浩司さんが最期を迎えなくてはならなかった場所ー。

国道沿いの右側ばかりを気にしながら走っていきました。

廃墟は結構多く、一軒一軒気になります。

しばらく、走ると少し奥ばった場所に殺気を感じました。なんというか、ここだ!みたいな引き付けられるような殺気です。

うわっという感じで右を見ると、ツタの絡まる建物が目に入りました。

何故か間違いないという確証を感じました。

しかし、あまりに一瞬だったので通り越してしまいました。

あれだ。絶対あれだ。

心で何度も繰り返しました。

しばらく走ってようやくUターンできる場所を発見。引き返すように走ります。

しかし、何か怖いものに近づくように、段々恐怖が湧いてきました。

もうすぐ、あの建物という頃、同じ道沿いに古びた神社(お寺?)がありました。。

あの建物が見えた場所に行くには国道から右の細い路地に入ります。

ありました。一際重いオーラを放っています。

車を停車して、降りて近づいていきました。

カメラでズームして入口の看板を見ると湖城荘という名前が掲げてあります。

あった。これが戸野広浩司さんが人生を終えた建物なのか…。

ご実感からお借りしたアルバムの写真が次から次に頭の中を過ぎります。

生まれたばかりの赤ちゃんの写真。

子供の頃の写真。

中学時代。

高校時代の修学旅行、部活、教室での写真。

劇団青俳の時代の写真。

東京からの里帰りの写真。
狭間さんと広島に帰省した時の写真。

婚約者の吉良さんとの写真。

虎錠之介の写真…。

そんな人生を送ってきた一人の人間の人生が、目の前の廃墟で終わったのです。

いろんな角度からとにかくシャッターを押しました。
あの玄関から入って行ったんだ…。

生々しい感覚として脳裏に浮かびます。

何故に胸が込み上げる物を感じ泣きそうになりました。

建物に向かい両手を合わせ、『戸野広さんが最期を迎えた場所を見ましたよ。辛かったでしょうね』と、語りかけました。

心持ちなのでしょうが、重い空気が漂っていました。
約30分バリケードの外からじっと物言わぬ証人を眺め続けました。

湖城荘。

奇妙な偶然ですが、『こじょうそう』は、虎錠荘と書き替える事もできます。

虎錠之介という役が最後に演じた役。

人生を終えた場所が湖城荘。

コジョウという言葉に運命を感じざる得ませんでした。


戸野広浩司さんが、この地で感じた無念は戸野廣浩司記念劇場が晴らしますからね。
戸野広浩司を辿る旅の彦根偏を湖城荘や戸野広さんの秘蔵写真を使って、アメブロにアップしました!
よろしくお願いします〜。

http://ameblo.jp/iandif/entry-10528779296.html

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