ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ピーチスマッシュ!コミュの4話:疑問 ?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


 電気に当てられたかのような強烈なショックが、猿島の全身に疾走した。
「どうした? もうギブアップか? プロレスじゃ、三秒が一ラウンドだって初めて知ったぜ」
「こ、殺してやるッッッ!」
 拳を握り、目が血走った猿島が勢いよく立ち上がった。
 興奮していた。
 もはや、正常な判断ができるような精神ではなかった。
「何してるんだアンタたち!」
 雉谷と猿島の二人の争いに、犬山が六畳の間から飛び出し、走って二人の間に割って入った。
「どけッッ! 今からこのクソガキをぶっ殺してやる!」
 怒鳴り散らす猿島が、今にも雉谷を絞め殺さない勢いで突っ込もうとするのを、犬山が猿島の上半身に抱きついて、辛うじて止めている。
「お、落ち着け猿島さん! あんたどうかしてるぞ!」
「うるせぇ! あんたは関係ねぇんだよ! 俺はこいつ殺さなきゃいけねぇんだよ!」
「ほぉー、あんたができるってのか? さすがプロレスラーだ。ウスノロの分際でデケェことだけ抜かすのはいっちょ前だな」
「やめないか雉谷! こんなことして何になるってんだ!」
 必死に猿島を抑えようとする犬山だったが、猿島の怪力に押し返され、徐々に猿島の身体が前に雉谷に向かってきていた。犬山が踏ん張れば踏ん張るほどに、地面の小石や地面がえぐれていった。
 日本のボクシングでは、ミドル級は重い部類に入るが、猿島はプロレスラーである。
 相撲とは別に、肉をつけることを前提にする格闘技のプロレスが、減量苦と呼ぶほどに体重を削る作業を強いられるボクシングに真っ向なパワーで負けることは、まず有り得なかった。
「お前! いい加減にしろ雉谷! 見てわからねぇのか? 猿島は怪我してるんだぞ! 怪我人相手にケンカ売ってるんじゃねぇよ!」
「はは、そうかい。なるほどな。さすがボクサーだ」
 唇の端を吊り上げて、雉谷が鼻で嗤った。
「てめぇのコンディションが悪かったら逃げるっつーのだな。まさにスポーツだな」
「な、何?」
「前に、俺に説教したよなあんた」
 顎を上に向け、見下ろすように雉谷は言った。
 不意打ちで負けましたなんざ言い訳するのは、真の格闘家じゃねぇ。所詮は、空手はアマチュアってことか――。
 雉谷は、道場で縛られたあの時の犬山のセリフを、そっくりそのまま犬山に吐き捨てた。
「ケンカ売られといてやれルールだやれコンディションだって、んなことはこっちの知ったこっちゃじゃねぇんだよ。俺がやりてぇんだから、売ってるんだよ。関係ねぇテメェが首突っ込んでんじゃねぇっつーんだよタコ!」
 暴言を犬山にも吐いた雉谷の両肩が、わなわなと小刻みに震えた。
「うぜぇんだよ……テメェら二人とも……」
 喉の奥から声の塊を搾り出したかのような、低い声だった。
 ギリっと奥歯を噛み、雉谷が猿島と犬山の二人を睨みつけた。
「どいつもこいつも負け犬みてぇな面しやがってよぉ……気分が悪いったらありゃしねぇぜ! ぁあ!?」
 雉谷が二人に向けて吼えた。
 吼えた雉谷に、驚く猿島と犬山が目を見開いた。
 虚勢――。
 この雉谷という男には、絶対に他人に譲れないプライドというものがある。
 そのプライドを維持する為に、雉谷は虚勢を張っている。
 他人に従順しない、己が絶対の存在だという態度を取る格闘家は、世間にはいくらでもいる。
 テレビで放映されている格闘家のインタビューで、傍若無人な反応をする人間が大抵そうである。
 それは格闘という闘争の中で、負ければ最悪という自分自身への追い込みをかけているからだ。
 敗北は、どんな状況であったとしても敗北でしかない。
 ましてや、結果でしか物事を判断できない人種からすれば、敗北ほど恥辱なことはない。
 二人に向けて吼えたかのように見える雉谷であったが、実は雉谷自身が、自分に向けて吼えたかのように見えた。
 怒りを覚えるのは、腑抜けのようになった猿島と犬山だけではない。
 たった一撃で気絶させられた己の不甲斐なさに、激怒したのかもしれない。
 もしそれが本当なら、雉谷の気持ちは猿島にも理解できる。
 雉谷のように虚勢すら張ろうとせず、素直に敗北を認めてしょぼくれる己と犬山を見れば、腹が立つ気持ちはわかる。
 自分が雉谷の立場なら、きっと似たようなことをするかもしれない。猿島はそう思った。
 しかし、昨晩の、吉備子のヤクザ襲撃を目撃して以来、猿島と犬山は、諦めがついていた。
 あれはムリだ――と。
 住んでいる世界が違う。自分たちの格闘技が、通じるような相手ではない。
 格闘技といえど、闘う条件は同じである。相手も己も素手だ。もっと厳密に言えば、グローブをつけているし、リングもあるし、レフェリーもルールもある。
 武器を持ち、可能な限り相手を『殺す』ことが条件の世界だ。
 ルールがない“ルール”だ。
 そんな条件の中、対素手の戦いしか経験したことのない人間が闘うというのは、どういうことか。
 木剣と真剣の違いだ。 
 同じ闘う道具としても、危険度が明らかに違う。
 そう考えれば、諦めるしかなかった。
 潔く、認めるしかない。そうするしかないと、わかっている。
 わかっているが、それを公言することができない。
 もし言ってしまえば、何かが終わると思うのだ。
 自分の中で築き上げてきた何かが、大事な何かを失うような気がする。 
 だから、猿島はあえて口にできなかった。
 そしてそれは、犬山にも同じようにあったかもしれなかった。
「……バカバカしい。帰るぜ俺は……」
 雉谷が唾を庭に吐き捨て、踵を返して猿島たちに背を向けた。
 すると、雉谷の目の前に吉備子が立っていた。
「ちょっとぉー! どこ行こうっての? コケコッコー」
 腰に手を当てる吉備子が、雉谷を見た。
 いつの間に現れたのか、まるで予想もしなかった登場に吉備子本人を除くその場にいた全員が驚きの声を上げた。
「あれ? 何? どうかしたの?」
「ど、どうかしたのじゃねぇよバカ野郎ッッ!」
 犬山が怒鳴った。溜まっていた鬱憤を晴らすかのような、あるいは散々振り回された怒りをそのままぶつけるかのように、声を張り上げた。
「テメェいってぇ何者なんだッ! 何であんなことするんだよッ!」
「へ?」
「へ? じゃねぇよ! 昨日のテメェのせいで俺たち全員心中するハメになりそうだったんだぞ!」
 必死になって訴える犬山に、当の本人は首を傾げてばかりで、今の状況をさっぱろ理解できないといった様子であった。
「ひょっとして……ワンワンって低血圧?」
「ちげぇよ!」
「じゃ、カルシウム不足?」
「このガキ! おちょくるのもいい加減にしやがれッッ!」
 拳を握り、犬山が吉備子を殴りつけようとした。
 それを猿島がポンと犬山の肩を叩き、制止させた。
「やめとけ」
「さ、猿島さん! あんたは!」
 怒りで我を忘れかけている犬山に、猿島は首を横に振った。
「いや、わかってるさ。けど……ぶっちゃけ」
「どうでもよくなったてか?」
 雉谷が猿島の台詞を代弁した。
「ああ」
 猿島が言った。
「ねぇ? 何がどうでもいいっての? キビさっぱりわかんないんだけどぉ?」
「――なぁ」
「うん?」
「一つだけいいか?」
「ん?」
 落ち着いた声のトーンで、猿島は吉備子に訊いた。
 キョトンと不思議そうなものを見る目で、吉備子は猿島を見た。
「あれがあんたのいう“おにたいじ”っつーんだな」
「……あー」
 ほんの一呼吸の間、ようやく猿島が何を言いたいのか理解し、そして思い出したかのように吉備子は首を縦に二度三度振った。
「うん。まぁそんなところかな」
「あれを……俺たちにやってくれと……そう言いたいんだな?」
 猿島は、道場破りと称する吉備子が、自分たちを拉致した理由について以前訊ねたことを、再確認するように訊ねた。
 吉備子は言った。
 “おにたいじをする”――。
 それがどういう意味であるのかか、当初全くピンと来なかったが、実際に体験させられ、それが何なのか強制的に教え込まれた。
 教えられた今だからこそわかる。少なくとも猿島が持つ答えは一つしかない。
「俺はプロレスラーだ……」
「うん。だから?」
 それとなくわかりやすい返事をしたつもりであったが、やはり吉備子には通じていなかった。
 肩を落とし、猿島は続けた。
「確かにあんたに俺は負けちまったよ。それは認める。だがよ……」
 俺にも生活がある。
 そう猿島は言おうとした。
「それで?」
 残念ながら吉備子には伝わってないらしく、吉備子は猿島に話の続きを促した。
「最初に、あんたに会った時、あんたに言ったことを覚えているか?」
 猿島の問いに、吉備子は目を斜め上に動かし、覚えていないということを仕草で応えた。
「売られたケンカを買うのがプロレスラーだ。だが、自分からケンカを売ることは絶対にしちゃいけねぇんだよ」
「へぇ、そうなの」
 さほど興味のないといった様子で、吉備子は猿島に言った。
「……どうしてだ?」
 猿島は、吉備子に問うた。
「どうして、俺たちだ? あんただけでも、あいつらと戦争できるだろ?」
「センソォ? 誰が誰と?」
「あいつらとあんたさ」
「え? ちがうよぉー? キビはおにたいじしてるから、センソォはしてないよ?」
「どっちでもいいんだよッッ!」
 言葉の揚げ足を取る吉備子に、猿島は激怒し、吼えた。
 吉備子が驚いた顔になった。
 犬山と雉谷も思わず息を飲んだ。
「俺たちを巻き込まないでくれ」
 はっきりと猿島は言った。
「ついていけないんだよ。あんたには」
「どうして?」
 猿島の顔を真正面から覗き込むように、吉備子は訊ねた。 
「俺はあんたと違うんだ」
 猿島は力強くかつストレートに断言した。
 理解力がないのか、あるいは理解していてもわざと理解していない演技をしているのか、どっちなのかは判別がつきにくい吉備子の天然な性格に対し、明確に自分の意思を伝えなければならなかった。でなければ、吉備子流の解釈と力技で全てをまとめてしまうかもしれない。
 抗うことなく、吉備子の予測不能の行動に振り回される。
 それだけは絶対に避けなければならなかった。
「ふーん。そうなんだ」
 吉備子が言った。
 落胆した様子のない普通の反応だった。
「で? どーすんのこの後」
「まだわからん」
「そっかぁ」
 ぽりぽりと吉備子は頭を掻き、下唇を軽く噛んだ。
「うそつきだね。モンキッキーは」
「あ?」
 ニィっと吉備子が笑った。
「ホントはさ、ここの誰よりもおにたいじしたいのにさぁ……」
 核心をつくように、吉備子が猿島に言葉を放った。
 猿島は、無表情で吉備子を見た。
 明らかに、動揺を隠そうとしていた。
「モンキッキーってさぁ、本当は、プロレスがしたいワケじゃないんでしょ?」
「なんだと?」
「だって、もしマジでプロレス一筋ならさぁ、キビがケンカ売ってもケンカ買わないでしょ? でも、あの中で一番マジになってたのってさぁ、誰?」
「あれは違う」
 キッパリと猿島は言った。
「あれは、お前がプロレスを嘗めたから、許せなかっただけだ」
「別にキビはプロレスを嘗めてるわけじゃないよ?」
 予想していなかった意外な返事に、猿島は戸惑った。
「何だと? お前現に――」
「キビは、青田道場のみんながやってることがお遊びにしか見えなかったって言っただけっスよ」
 吉備子は、猿島だけでなく、雉谷、犬山の二人も見た。
「本当はさぁ、もっと強くなるのにさぁ。あんなんで満足するなんて、どうかしてるなぁって思ってさ」
「お前……」
 猿島は、両顎の前歯と犬歯を軽く噛み合せた。
「あんなんで、満足しないだと?」
「ん?」
 とぼけた顔で吉備子が猿島の顔を見た。
 今にも殴りかかりそうなほど険悪な表情の猿島が、やがてスイッチを切り替えたかのように顔中にシワよった筋肉を弛緩させ、目を閉じ、目を開けた。
「あんなんで満足なんだよ」
「へ? ウソ? そんなことないっしょ?」
 予想外の返事に、拍子抜けしたかのように吉備子が目をむいた。
「お前。勘違いしてるぜ。俺はプロレスラーだが、喧嘩屋じゃねぇ」
「うん。それは知ってるよ」
「金をもらって、プロレスしてるんだ。だから、プロレスは俺にとっては商売なんだよ」
 わかりやすく、小さな子供に説明するように猿島はゆっくりと説明した。
 吉備子は特に相槌は打たず、へぇっとあまり自分に関係ないような話を聞き流すかのように軽く言った。
「じゃぁ商売繁盛なんスね。モンキッキー」
「そうでもねぇよ」
「そうなんすか?」
 一〇年、プロレスをやってきた。猿島の経歴に、嘘偽りはない。
 が、一〇年プロレスの世界に身を捧げた男が組ましてもらえる試合が、メインを沸かす為に行われる前座である。よくて中堅クラスの試合で、メインを張ったことなど、一〇年のプロレス生活の中ただの一度もなかった。
 理由は簡単である。
 猿島には、プロレスラーとして決定的に欠けている部分があるからだ。
 ――華。
 プロレスは観客があって初めて成立する。そして、観客にわかりやすく善玉(ベビーフェイス)と悪玉(ヒール)の演出を魅せるルールがある。
 メインともなれば、やはり並のカリスマでは満足はいかない。
 観客の心をぐっと鷲掴むカリスマがなければ、メインに参戦できないのだ。それは悪役であろうと、やはりメインを張る以上、観客の心を惹きつけるモノを持っていなければいけない。
 猿島はプロレスの技術のみなら、メインを張る実力は持っている。
 だが、肝心の華がなかった。
 ゆえに、一〇年間、実力があってもメインイベンターになることがなかったのだ。
 最初の五年、メインを張ることができない自分自身を恨んだり、選んでくれない青田プロレスに不満を募らしていた時期があったが、一〇年経てば、むしろ諦めと同時に、納得がいった。
 メインを張ることができないのには、自分には華がないからだ。そう悟った。
 しかし、猿島は根っからのプロレスラーである。たとえメインを張れなくても、プロレスは続けたい。
 そう考えを切り替え、猿島は青田プロレスでプロレスをしていた。
 そのプロレスを、事情をまるで理解していない少女に、軽薄な言葉で否定しようとしている。
 こんな世間の荒波にもまれたことのなさそうな、頭の悪い子供にだ。
 大人気ないかもしれない。だが、どうしても許せなかった。
 猿島のプロとして誇りに、火がついた。
「お前にとっての“おにたいじ”っつーのも、所詮はお遊びなんだろう?」
 その台詞に、吉備子の身体の動きがピタっと静止した。
「違うよ? お遊びじゃないよ。真面目におにたいじだよ」
 ニコっといつもの笑顔で吉備子は言い返す。
 何勘違いしてるの? と、口ではなく顔で言った。
「いや、同じだ」
 猿島は固い表情のまま、否定の言葉を吉備子に投げた。
「お前は、俺たちの生活をぶち壊して、てめぇの好きなように振り回そうとしてういるつもりらしいが、てめぇがやってることの意味をもっと考えろ。俺は真面目にプロレスやってるんだ。お前と違って、こっちは生活かかってるんだよ」
「ううん違うってばぁ。こっちの方が断然正しいことだしマジ真剣なんですってばー! おにさんをたいじするんだよ? 悪者やっつけるのは正義の味方のお仕事だよ。それっていいことじゃん」
「そんなこと誰も望んじゃいねぇんだよ」
 冷たく突き放した。
 吉備子の突拍子もない理屈を、真っ向から正論で否定した。
 散々、吉備子の突拍子もない理屈に振り回された猿島が、復讐のつもりで吉備子にひどいことを言い放った。プロレスをバカにされ、正直腹を立てている。それは猿島は認めている。が、猿島はただ単に感情の生き物になっているのではない。全部が全部思ったことをそのまま口にしているワケではない。論理的な思考をもって、吉備子に言っている面もある。
 たとえ、悪行であろうと吉備子がやり遂げた行為は、賞賛に値する。
 不可能と思われた武装ヤクザの単身襲撃を、成し遂げたのだ。あの時の猿島は、その吉備子の強さと勇気に感動したことは事実である。
 すごいと思った。強いと感動した。それは確かだ。
 しかし、猿島は大人である。社会人だ。
 社会の常識を優先せねばならない年齢だ。
 それゆえに、吉備子に対して寛大であってはならない。
 ケンカに強くとも、他人に迷惑をかけるのは良くない行為だと、言わざるを得ない立場なのだ。
「正義の味方のお仕事だと? 笑わせるんじゃねぇよ。おめぇのやってることのどこに正義があるってんだ?」
「え、でも……」 
「お前のやったことは、カッコいいことでもましてや人様から褒められるような善行ではない。そんなこともわからねぇのか女子高生のくせに」
 反論の余地を一切与えず、畳み掛けるように猿島は吉備子を責めた。
「道理も理屈もない。ただの『暴力』だ。あいつらの個人的な恨みを買っただけにすぎない。お前のやってることはな――」
「……正しいことだもん」
 眼を伏せ、吉備子は静かに言った。
 声が僅かに震えていた。
 明らかに以前の吉備子の様子ではなかった。
 大人に強く説教され続け、追い詰められた子供が、それでも自分の価値判断は正しいと主張するかのように、弱々しく足掻いているかのようだった。
「違う。あれは……」
「いいことだよ」
 吉備子は言った。
 今度は強い口調だった。
「あいつら……人間じゃないもん。おにさんだもん。だから、キビがおにたいじしたんだもん」
 いつもの笑顔はどこかに消え、少し怒ったような顔つきで吉備子は猿島を見ていた。
「いい加減にしろ。お前の勝手な戦争でどれだけの人間が迷惑こうむるか考えたことないのか? お前のやってることは――」
「正しいことだもんッッッ! おにたいじなんだもんッッ!」
 庭の外の電柱に止まっていたカラスが、大きな羽を広げて空に飛び上がった。
 風が吹き、足元の小石や砂が転がっていった。
 すごい眼をした吉備子が、そこにいた。
 猿島は、思わず口を閉じた。
「あたしがやってることは、おにたいじだもん! あたしがやってることが正しいことなの! 猿島さんが決めることじゃないッッ!」
 初めて、吉備子が人前でムキになって怒鳴った。
 吉備子の両目は潤んでいて、半べそをかいているような顔になっていた。
「もういい」
 項を垂らし、恨めしそうな声で吉備子が言った。
「そんなに嫌ってなら、出て行けばいいじゃん」
「……いいのかい?」
「あっち行って。猿島さんの顔なんて、二度と見たくない」
 棘々しく吉備子は猿島を言葉で突き放し、そっぽを向いた。
「お、おい。猿島さん」
 不安そうに犬山が猿島に声を掛けたが、猿島は眉間にシワを寄せ、上から吉備子を見下ろしまま、眼を離そうとはしなかった。
「これから、警察に自首するか?」
「何であたしがしなきゃいけないのよ」
「お前がやったんだ。お前のケジメだろうが」
「勝手にすれば?」
 猿島は正論を吐いたつもりだった。が、吉備子は猿島に従おうとしなかった。
「通報すればいいじゃん。ケーサツだろーと軍隊だろーと、あたしがやっつけてやるんだから」
「……そうか」
 薄い反応だった。
 猿島は踵を返し、吉備子に背を向けた。
「え? お、おい。どこ行くんだ? 猿島さん?」
 前に歩を進める猿島に、出遅れた犬山が後を追って猿島に訊いた。
「帰るんだよ。もう付き合ってられねぇよ。こんなバカバカしいこと」
 猿島は一度振り向いた。
 眉間に縦しわを寄せる吉備子が、じっと猿島を睨みつけていた。
「治療費は請求しねぇよ。全部俺が負担してやる。それか、今から警察行くってなら一緒についてってやる」
 吉備子は何も言わず、そっぽを向いた。
 これでいい。
 これでいいんだ。
 たとえ悪態を吐かれようと、罵られようと、猿島は吉備子に対して態度を示さなければならない。
 所詮、他人の人生だ。
 ましてや、吉備子と出会ったのはつい最近の出来事である。
 深く干渉する必要はないし、くどくどと自己満足に近い説教を垂れるような趣味もない。
 吉備子が死のうが殺されようが、どうなろうとこっちには関係のない話だ。
 妙な同情心は、ただ自分の首を絞める結果だけしか招かない。それは、足柄事務所の殴りこみの一件で学んだことだ。
 割り切らなければ、ますます泥沼に浸かって抜けきれなくなる。
 俺はプロレスラーだ。
 猿島は、自分に強く言い聞かした。
 プロレスで、生きていくんだ。
 あんな、生死を賭けて、ケモノのような闘い方は、俺には出来ない。
 出来っこない。
 今まで培ってきた技術は、リングの中で使うモノだ。
 リングの外でやるものではない。
 レフェリーがいない場所で、思う存分使うものではない。
 観客が一人も見ていない世界で、披露するパオーマンスではない。
 その通りだ。まさに、その通りのはずだ。
 なのに、なのにどうしてだろうか。
 猿島の肉体が、ひどく悲しんでいる。
 足が、腕が、胸が、腰が、首が、筋肉が、細胞が、啼いている――。   
 “嘘”をついていることに、猿島の肉体が嘆いていた。
「ほぉー、それはこちらとしても困りますね」
 声が聞えた。
 男の声だ。
 ハッと猿島が声が聞えた方向に顔を向けた。
 庭の裏戸から、黒い背広を着た男が立っていた。
 その男には、片腕がなかった。

 〜続く〜

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ピーチスマッシュ! 更新情報

ピーチスマッシュ!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング