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戦国時代 武将コミュコミュの長宗我部元親

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長宗我部 元親(1539〜1599)

官位・・・ 従四位下、宮内少輔、土佐守、侍従

兄弟・・吉良親貞、香宗我部親泰、島親益

父・・長宗我部国親

居城・・土佐国岡豊城

本姓は秦氏。家系は秦の始皇帝を祖とする秦河勝の血筋と伝わる長宗我部氏。長宗我部氏第20代当主
管領細川晴元の偏諱を受け、元の字をもらい「元親」

父、国親が作った一領具足を動員して勢力拡大を行なう。
ゲームのみなさん、一領具足なんて説明しなくてもわかりますよね??
長宗我部家なら基本ですよね。
永禄11年(1568年)に宿敵の本山氏、永禄12年(1569年)には八流の戦いで安芸氏をそれぞれ滅ぼした。元亀2年(1571年)、一条氏の家臣津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年(1574年)には一条氏の当主一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧した。天正3年(1575年)に兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたときは、一時窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐を完全に統一した。


短縮します。
豊臣政権下

天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ豊後大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の大将仙石秀久は元親や十河存保らの言を容れずに島津軍の策にはまって敗走し、この乱戦で信親は討死した。

天正16年(1588年)、本拠地を大高坂城へ移転する。その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興、吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。

天正18年(1590年)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、天正19年(1591年)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。

天正20年(1592年)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。慶長元年(1596年)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。

長宗我部元親百箇条

喧嘩・口論は硬く停止する。この旨に背き、勝負に及べば理非によらず成敗する。
国家への反逆・国中への悪口・流言蜚語は重罰刑とする。また、賭博禁止・犯人隠匿には連座制をもって処罰する。
喧嘩・博奕・大酒・踊・相撲見物・遊山振舞などは禁止する。
 →禁酒令は重臣でもある福留儀重に諌められ撤回。

隠田の禁止。難渋の場合、(百姓の)首をはねる事。
第一鉄砲、弓馬を専ら心がけること。など・・・


慶長4年(1599年)4月、上洛して間もなく病に倒れ、伏見屋敷で療養していたが、5月19日に伏見屋敷で死去。享年61。後を四男の盛親が継いだ


簡単に収めましたがゲーム厨さん、わかりますよね?


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