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地元で漱石発見コミュの漱石箕面訪問100周年に寄せて

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初めに、箕面山朝日閣(倶楽部)の歴史を振り返ります。明治40年代、大阪朝日新聞社内で、社員の保養施設拡充を求める機運が高まり、明治41年9月、西村時彦・小西勝一等、社員の意見書として『至急申立』が発議されました。内容は、箕面公園内に借地して一棟の家屋を建築し、朝日新聞倶楽部と為すこと、箕面に作る利点は、大阪から電車で3,40分で出かけられ、「労働に疲れたる社員」の保養所として最適の上、今後、箕面が観光地として飛躍的に発展することを考え営業上も有利である、というものでした。

ちょうど、明治41年9月に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)株式会社が設立され、これに伴い、箕面山近辺は、明治41年からの二年間で旅館、店舗が26箇所新設され、沿道整備なども活発に進みました。明治43年3月10日には、遂に箕面有馬電気軌道が開業しました。

『大阪府・昭和7年・大阪府史跡、名勝、天然記念物調査報告(2)箕面山、山内 茶店変遷図』には、朝日新聞社「秋錦楼」を買収、社使用地とすると記録されています。「秋錦楼」は箕面山で府の許可を得た最も古い茶店で、明治25年秋には、関西新聞雑誌記者懇親会が開かれていました。明治43年4月、大阪朝日新聞社は、この秋錦楼を買い取り、「朝日新聞社使用地」とした後、厚生施設保養所・朝日閣(倶楽部)として開設するに至りました。明治43年3月13日付大阪朝日新聞には、漱石を箕面山に案内した、大阪朝日新聞経済課員(後主筆)高原操による「朝日閣」と題する記事が掲載されています。

倶楽部利用規定では、利用出来るのは、早朝から午後10時までで、宿泊は不可、料理提供はなく、近くの千秋閣(後に一方亭)から仕出しで調達するようになっていました。前述のように、漱石の日記では、食事や入浴の支度は千秋閣の「婆さん」がしているので、当初の世話係兼番人は千秋閣の老夫婦ではないかと思われます。

さらに、明治43年(1910)11月1日 箕面有馬電気軌道は、全国でも三番目となる「箕面動物園」を開設して、箕面山への観光客動員を積極的に進めました。宣伝文句には「広さ三万坪道路延長三哩 珍らしき動物無数四季の草花絶間なし 各所に休憩所あり 余興いろいろ」と謳われていました。

漱石の箕面訪問は、箕面有馬電気軌道主導による箕面山近辺の開発が最も加速していた頃でした。箕面有馬電気軌道は、箕面を訪れた観光客が有馬で宿泊できるように、さらに路線延長を図りました。大阪朝日新聞としても、箕面山の自然と、開設したばかりの保養施設である朝日倶楽部を、是非、漱石に紹介したいと考えたと思われます。

箕面有馬電気軌道の目論見は、観光客は箕面に来て山や滝や動物園を見物して、夜は有馬温泉に泊まるというものでした。しかし、有馬への路線延長計画が、用地買収難航で頓挫すると、大正5年には箕面動物園を閉園し、動物は宝塚新温泉に移すなど、当初の開発計画は行き詰まりました。昭和43年頃、大阪朝日新聞社の厚生施設も有馬温泉に移り、残された箕面山朝日倶楽部は昭和50年代に取り壊されたようです。

さて、夏目漱石は、明治40年、東京帝国大学文科大学英文科講師の職を辞して、東京朝日新聞社に入社し、小説記者として数々の作品を発表していました。しかし、明治43年、6月頃から発病した胃潰瘍の転地療養先として8月初旬から逗留していた修繕寺旅館で胃潰瘍による大出血を起こしました(修善寺の大患)。一時、人事不詳となり、生死を彷徨いましたが、辛くも生還して翌年まで入院生活が続きました。

退院後、明治44年6月の信州・上越方面への講演旅行で体力の回復に自信が戻っていた漱石の元に、7月下旬、大阪朝日新聞社から、兵庫・岡山・広島・和歌山・大阪の四県一府十数か所での講演会(朝日地方巡回講演会)に講師として加わるように依頼がありました。

前年の修善寺大患の際には、公私共に世話になった朝日新聞社への恩義もあって、返礼の形で、最終的に第三班に加わりました。大阪朝日側の交渉窓口であった長谷川如是閑への7月26日付の手紙では、講演日程は8月10日から8月15日の間を希望し、講演場所として「まだ行った事がない和歌山など」が含まれることを希望しました。また、8月8日付、池辺三山宛書簡では、帰りに「高野山に登り、伊勢へ廻る」心積もりを記していました。

大阪への出発は、8月1日付、小宮豊隆宛書簡では「9日頃」、8月8日付、池辺三山宛書簡でも「9日か10日」と記され、流動的でしたが、結局、8月10日午前8時30分新橋発の最急行で出かけることに落ち着きました。しかし、折悪しく、豪雨(台風接近)で東海道線が不通となったため、一日遅れて、翌8月11日午前8時30分新橋発の最急行で出発しました。

午後8時30分に梅田停車場(大阪)に到着し、長谷川如是閑らに出迎えられ、北区中之島1丁目銀水楼に泊まりました。翌12日午前、同じく、社の高原操(第五高等学校時代の教え子)に案内されて箕面に向かいました。半日で箕面山見物を済ませ、夕方、梅田停車場まで戻るや否や、東海道線で神戸まで行き、山陽線に乗り換え、明石停車場に到着しました。

その日は、明石市相生町浜通り112番衝濤館に泊まりました。8月13日、午後1時半から明石公会堂(明石市中崎公会堂)で開かれた明石郡明石町教育会・明石小学校連合同窓会主催の講演会に臨み「道楽と職業」と講演し、慰労茶話会に出席し、内の倶楽部で夕食を済ませて、梅田に戻り、紫雲楼に泊まりました。

明石を皮切りに、15日は和歌山、17日は堺、18日は大阪と、四箇所で講演しましたが、どの会場も大入り満員の大盛況でした。とりわけ、和歌山講演演題「現代日本の開化」は優れた文明論として高く評価されています。漱石自ら希望した講演先だけあって、一層、力が入ったのかもしれません。

しかし、昼過ぎに始まる講演会が多く、漱石も冒頭で毎回、猛暑に言及していましたが、空調もない真夏の会場での長時間の講演の連続で疲労も蓄積しました。とりわけ、17日堺と18日大阪は連日の講演となり、18日に最終講演を終えた直後から体調を崩しました。前年の生死を彷徨う大病から回復したとは言え、真夏の強行日程は漱石の負担となって胃潰瘍が再発し、そのまま湯川病院へ入院を余儀なくされました。

箕面訪問は関西地方巡回講演旅行の最初の日程でした。しかし、漱石の箕面訪問は単なる見物に止まらず、おそらく恩師漱石のための高原操の発案で、真夏の連続講演会に先立って、避暑効果を期待して計画され、また、タイミング良く、社の誇る朝日倶楽部が出来たことも重なって、組み込まれたと思われます。実際、箕面山の風光明媚な深山幽谷に分け入り、森林浴を満喫しながら、滝を目指す行程は、漱石も好印象を抱いたことは間違いなく、その体験は、明治45年1月1日から4月29日まで朝日新聞に連載された「彼岸過迄」でも、実名で織り込まれています。

原作では、出生の秘密などから、母や許婚の田口千代子との関係に葛藤し、また、実社会への戸惑いや不安も抱える須永市蔵が、大学の卒業試験終了直後に出かけた関西方面への旅での出来事として登場します。「僕は昨日、京都から大阪にきました。今日は、朝日新聞にいる友人を尋ねたら、その友人が箕面という紅葉の名所へ案内して呉れました。時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓流があって、山があって、山の行き当たりに滝があって大変好い所でした。友人は僕を休ませる為に社の(朝日)倶楽部とかいう二階建ての建物へ案内しました。其の所へ這って入って見ると、幅の広い長い土間が竪に家に間口を貫いていました。そうしてこれがことごとく敷瓦で敷きつめられている模様が何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。この家は何でも誰かが始めて別荘にこしらえたのを朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだと聞きましたが、よし別荘にせよ瓦を畳んで出来ているこの広々とした土間は何の為でしょう。僕はあまり妙だから友人に尋ねてみました。ところが友人は知らんと云いました。もっともこれはどうでも構わない事です。ただ叔父さん(松本)がこう云う事に明らかだから、あるいは知っておいでかも知れないと思って、ちょっと蛇足に書き添えただけです。僕の御報知したいのは実はこの広い土間ではなかったのです。土間の上に下りていた御婆さんが問題だったのです。御婆さんは二人いました。一人は立って、一人は椅子に腰をかけていました。ただし両方ともくりくり坊主です。その立っている方が、僕らが這入るるや否や、友人の顔を見て挨拶をしました。そうして『おや御免やす。今八十六の御婆さんの頭を剃っとるところだすよって。――御婆さんじっとしていなはれや、もう少しだけれ。――よう剃ったけれ毛は一本もありゃせんよって、何も恐ろしい事ありゃへん』と云いました。椅子に腰をかけた御婆さんは頭を撫でて『大きに』と礼を述べました。友人は僕を顧みて野趣があると笑いました。僕も笑いました。ただ笑っただけではありません。百年も昔の人に生れたような暢気した心持がしました。僕はこういう心持を御土産に東京へ持って帰りたいと思います」

漱石は、登り下りの前後二回立ち寄った倶楽部について、瓦を敷き詰めた一階土間に奇異な印象を残しましたが、耳にしたお年寄りの会話に、随分のんびりとした気分を感じて寛いでいます。また、滝を見物した帰りには、入浴し、仕出し弁当を食べ、午睡し、英気を養いました。目覚めた後、勧められた二度目の入浴を辞して、慌しく帰路に着いたのは、翌日の明石講演に備えて移動を余儀なくされたためと思われます。

箕面山訪問の当初の予定は定かではありませんが、偶発的な台風接近で、急遽、東京出発が丸一日遅れたことを考えると、本来は、前日の8月11日、あるいは11日と12日の両日が、箕面見物ないし箕面滞在であった可能性が高いと思われます。講演先には、漱石自ら希望した和歌の浦をはじめ、景勝地は多々ありますが、箕面のような避暑地は見当たりません。病み上がりの漱石にとって、そして招聘元の大阪朝日新聞社にとっても、箕面山での避暑には、連日に近い真夏の講演スケジュールを控えて、大変重要な意味があったのではないかと思われます。

朝日閣倶楽部は、利用規定から午後10時に閉じられていましたが、特例として宿泊できることになっていたかもしれません。あるいは、滝道沿いの宿屋を11日付けで予約していたかもしれません。しかし、実際には半日足らずの慌しい箕面見物でした。一連の巡回講演旅行の無理が祟って胃潰瘍を再発したと考えると、箕面山での避暑が11日と12日の二日間に渡って充分に出来ていたら、また、違う結果になったのではないかという思いを残します。

漱石の箕面訪問から、まもなく100年が経過します。箕面山の自然は漱石来訪当時のままですが、漱石所縁の朝日倶楽部は、昭和50年代に取り壊されたようです。おそらく、箕面山の地形に特化した構造の建物を移築するのは困難だったはずです。今はその面影はなく、記憶からも忘れ去られようとしています。箕面市所蔵の当時の絵葉書二葉にその映像を見ることができるのみです。往時を偲ぶ遺構が僅かに残されていますが、立ち止まる人は少ないようです。漱石が、束の間ながら、重要な意味があって、避暑に訪れた場所として、記念碑なり、説明板なり、何らかの形で、朝日倶楽部の歴史について啓蒙されることが望まれます。

主要参考文献・図書

1. 市政研究 石原佳子 連載 朝日新聞資料探訪 
第18回『箕面の朝日倶楽部をめぐる人びと』
第171号(2011年春季) 

2. 漱石全集 第23巻 書簡中 岩波書店 1996年

3. 荒正人 増補改訂漱石研究年表 集英社 1984年

コメント(5)

この夏の調査で朧気ながら朝日閣の姿が少しずつ判明してきましたねわーい(嬉しい顔)

ここで夏目漱石初心者の素朴な疑問なんですが、漱石は小説記者となってますが朝日新聞の社員でもあったんですか?

あと講演会がどこも満員御礼だったという事は、この時既にヒット作を生み出して人気作家としてビッグになっていたんですか?
> 赤い悪魔さん

明治40年に東京朝日新聞社社員になりました。主として在宅のままでしたが、社員としての肩書が「小説記者」でした。朝日紙面に載せる長編小説を年間3〜4編書く契約で月給200円でした。ボーナスは800円でした。

明治38年の「我輩は猫である」以来「坊っちゃん」「草枕」と矢継ぎ早に発表し、大変人気のあるベストセラー作家でした。


夏目漱石の時代よりはかなり新しいですが、昭和初期の写真が展示してありました。
携帯カメラでの撮影なので画像が小さいのはご容赦をあせあせ
1枚目から順に箕面駅周辺〜唐人戻り岩〜場所不明の山道

おそらく漱石時代とそんなに様変わりしてないように思います。
> 赤い悪魔さん

貴重な画像有難うございます!

三番目は、茶屋の手前のかなり滝に近づいた辺りで崖下は渓流になっているところですね!サフィーも記念撮影しました。

一番目は箕面駅ですが、円形に見える場所で汽車を回転して方向転換していたかもしれません。

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