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地元で漱石発見コミュのインフルエンザと漱石の周辺

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1. インフルエンザとパンデミック

インフルエンザの世界的大流行はパンデミックと呼ばれ、過去最大のパンデミックを引き起こしたスペインかぜ(1918-1920年)では15〜35歳の年齢層でウイルス性肺炎や二次性細菌性肺炎による重症化が目立ち、本邦でも2300万人が罹患、38万人が死亡しました(内務省統計)。その後、アジアかぜ(1957-1958年)、香港かぜ(1968-1969年)、ソ連かぜ(1977-1978年)によるパンデミックを経て、以後、季節性インフルエンザの流行が繰り返されました。しかし、2009年、ブタ由来インフルエンザウイルスA型亜型(H1N1)によるパンデミックが30年振りに起こり、本邦でも若年層を中心に初秋から流行が拡大して11月下旬をピークに第一波が認められました。

2. 「三四郎」に描かれたインフルエンザと検証

漱石が生きた時代では1889−1891年と1900年にパンデミックがありました。「三四郎」(1908年)にインフルエンザが登場します。年の瀬も近い寒い夜、演芸会を見物して下宿に戻った三四郎は、翌朝から発熱し、頭が重くなり、学校を休んで寝ます。起きて昼食を食べて眠ると発汗して気がうとくなり、酔った気分になります。見舞いに来た与次郎との会話中にも発熱して寝込み、その晩、往診医からインフルエンザと診断されます。翌朝、頭は軽くなり、寝ていれば常体に近くなりますが、枕を離れるとふらふらします。三四郎は、飯も食わずに、仰向けに天井をながめ、寝たり覚めたりするうち、自然に従う一種の快感を得て4−5日で軽快します。

飛沫感染の危険性が高い閉鎖空間で長時間過ごし、寒空の下、体を冷やしながら下宿に辿り着いた半日後の発病は合理的潜伏期間です。くしゃみ・鼻水・咳は、感染力や増殖力の強いウイルスの駆逐に有効ではなく、IL-1と呼ばれる生理活性物質を介して初めから体温上昇でウイルス増殖を抑制するので、発熱が初発症状であった点も合致します。頭重は鼻副鼻腔炎症状で、副鼻腔の機能低下は加温加湿の不十分な外気を気道に直撃させて感染を促進します。学校を休んで寝たのは正しい判断です。IL-1には体温上昇作用以外に、ウイルスと戦う胃の負担を軽減する食欲低下作用や体力消耗を防ぐ睡眠誘導作用もあります。

さて、ウイルスは気道または消化管に侵攻しますが、生命維持に必須のガス交換を担う気道は病原体や異物の侵入に敏感で、上皮線毛運動、さらに咳や痰で迅速に排除します。三四郎にも咳や痰はなく、ウイルスは主に消化管に侵攻しています。睡眠中は胃液でウイルスを処理し、腸に侵攻したウイルスは蠕動運動で肛門側へ追い出しますが、昼食で胃液が薄まると腸へのウイルス侵攻が促進されます。さらに鼻副鼻腔炎でウイルス含有分泌物である後鼻漏が嚥下されると同時に、相当量の空気も飲み込まれて腹満を生じる結果、腸管内のウイルスを追い出す蠕動運動が阻止され、便秘に傾きます。三四郎が昼食後に眠ったのは、食事、さらに後鼻漏や空気の嚥下で拡張した腸管内にウイルスが蓄積し、IL-1による体温上昇、食欲低下、睡眠が誘導されたためです。

発熱でウイルス増殖が抑えられると発汗して解熱しますが、水分を喪失して脱水に傾き、気が疎くなります。酔った気分とはブドウ糖不足に対する飢餓反応としてケトン体が増えた兆候です。脱水を防ぐために水分回収も進行して便硬度が増し、さらに便秘になります。ウイルスが腸管内を中心に増え、またも、IL-1による体温上昇、食欲低下、睡眠が誘導され、三四郎は、与次郎との会話中にも発熱して眠気に襲われ、夕方まで寝込みます。三四郎に代診医と思われた医者は、脈は採れても、腹満の程度や下向結腸の便性など病態確認に重要な所見が採れていません。

本来、三四郎は、朝目覚めたら、水分補給して厠に登り、作者漱石に倣って、西大寺公望公からの招待であろうと断る決意で踏ん張るべきでした。昼食は避け、水分補給を継続して脱水予防に努め、再度、厠に篭るのが妥当でした。漱石の筆裁きは三四郎のインフルエンザの病勢を強めていますが、主人公だけに、その後は「飯も食わずに、仰向けに天井をながめ、寝たり覚めたりするうち、自然に従う一種の快感を得て」インフルエンザを克服させました。

3. インフルエンザと自然治癒力

さて、インフルエンザの治癒とはウイルス及びウイルス感染細胞の完全排除を意味します。特に感染細胞処理は、自分自身の細胞の処分、すなわち、犠牲を伴います。インフルエンザに限らず、あらゆる風邪において、最前線の気道や消化管の粘膜細胞は個体の生命を守るために犠牲を強いられます。とりわけ、低温乾燥環境では鼻副鼻腔炎が増強し、消化管はもとより、後鼻漏を介して下気道へのウイルス侵攻リスクも増し、ウイルス肺炎や2次性細菌性肺炎の合併頻度が高まり、下気道及び肺胞が広範に傷害されると、呼吸困難から低酸素血症に進展して生命予後を不良にします。

侵入を最小限に止めて排泄は最大限にし、体内のウイルス負荷を極力少なくすることが、自然治癒力を最大限にして犠牲を最小限にします。普段から、低温乾燥時は蒸タオルで温かい湿気のある空気を吸入して鼻副鼻腔を保護し、快眠、快食、快便を継続して、いざ、風邪を引いたら、栄養はさて置き、水分糖分電解質を確保して脱水を予防しながら、気道や消化管から可及的にウイルスを追い出すことが大切です。

現在のインフルエンザ診療は、残念ながら、迅速診断検査を偏重し、充分な診察と病態解釈を怠り、自然治癒力を疎かにして力尽くの抗ウイルス剤治療に陥っています。抗ウイルス剤で処理できるウイルス量は限られ、鼻副鼻腔炎や便秘で体内のウイルス負荷を増やすと効果は発揮されません。また、現行の不活化インフルエンザワクチンに発病予防効果は期待できません。インフルエンザを含め、あらゆる風邪の重症度は自然治癒力とそれを支える生活習慣で決まります。

4. インフルエンザと別離

最後にインフルエンザが漱石にもたらした別離を振り返ります。明治26年7月、帝国大学文化大学英文科を卒業して大学院に入学した漱石は、学習院出講を強く望み、7月12日付書簡で、学習院嘱託教授、立花銑三郎に周旋を依頼しました。立花は、共立学舎、東京大学予備門を経て、明治22年9月、帝国大学文科大学哲学科に入学、明治25年7月には漱石らと『哲学雑誌』編集委員になり、卒後は大学院に進むと共に、学習院嘱託教授として心理学・倫理学・美学を講じていました。一旦は学習院出講を確信し、教場に出るためのモーニングまで準備した漱石でしたが、立花らの懸命の周旋は実らず、採用されたのは米国留学の経験のある重見周吉でした。文学士として英文学者を目指した漱石には痛手でした。明治26年10月から高等師範学校英語嘱託となりますが、教育者には不向きと自認し、窮屈な所と思っていました。

また、その頃、帝国大学寄宿舎にいた漱石は、寄宿舎々監、清水彦五郎の斡旋で、同じく寄宿舎にいた小屋保治と共に、宮城控訴院々長、大塚正男の一人娘で才色兼備の大塚楠緒子の婿候補になります。明治39年1月9日付森田草平宛書簡には「其時今の大塚(小屋)君が新しい革鞄を買って帰って来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨ましかった。やがて先生(小屋)は旅行先で美人(大塚楠緒子)に惚れられたという話を聞いたら猶うらやましかった。」と回想されています。大塚楠緒子を巡って漱石と保治はライバル関係でしたが、明治28年3月、楠緒子が結婚したのは小屋保治でした。

漱石は、進路や就職、さらに結婚という人生の重大な転機を悉く思うに任せぬまま、明治28年4月、四国は愛媛県松山尋常中学校へ向かいました。

時は流れ、明治32年8月、立花銑三郎は、中学教育に関する取調べのため、学習院在職のまま渡欧しました。明治34年1月には、オーストリアやハンガリーを旅しますが、英国留学中の漱石へも、旅に出るという年賀状がベルリンの立花から届いていました。しかし、立花は、旅行中インフルエンザに罹患しました。1900年(明治33年)に始まったパンデミックに巻き込まれたと推定されます。

明治34年2月5日付ベルリン在住藤代禎輔宛漱石書簡に「立花も病気だつてね加愛想によろしくいって呉給へ」とあり、漱石も立花の病気を知っていました。しかし、極寒のベルリンで病勢は止まらず、3月上旬、立花は遂に帰国を命ぜられました。その後、漱石も立花の病状の深刻さを承知し、3月18日付立花銑三郎宛漱石書簡では、全快すると思っていた立花の突然の帰国に驚きを示しています。それでも、ロンドンの自分の下宿に泊まるように勧めるなど、立花が予想以上に重篤とは思い至りませんでした。

3月下旬、立花は「春雪の降りて心の寒さかな」と詠み、ベルリンを離れ、アムステルダムから常陸丸に乗船しました。3月27日付漱石日記で、アルバート・ドックの常陸丸から立花の手紙を受け取った漱石は船に駆けつけて対面しましたが、「立花ノ病気ハダメナリトアリ気の毒限ナシ」と落胆しました。孤独な留学生活を送る漱石にとって、回復の見込みのなくなった朋友、立花の姿はショックでした。明治34年5月12日、立花は上海沖の常陸丸船中で死去、享年35歳でした。四ヶ月という亜急性の経過で、インフルエンザ肺炎から二次性細菌性肺炎を併発して呼吸不全に至ったと思われます。

さらに時は過ぎ、明治40年、漱石が帝国大学文化大学英文科講師を辞して東京朝日新聞社小説記者になった頃、若き日の出会いを経て、当時は小説家同士、文芸創作上で親密な交流が続いていた大塚楠緒子に結核の影が忍び寄ります。明治41年5月11日付大塚楠緒子宛漱石書簡では、楠緒子が肺炎で転地を考えていたことが窺えます。さらに明治43年3月、「雲影」執筆中の楠緒子はインフルエンザに罹患して結核を悪化させ、高輪病院に入院します。その後、大磯大内館で静養に努めましたが、寛解に至らず、大磯と高輪病院の往復は三度に及びました。

一方、漱石も、胃潰瘍のため、明治43年6月18日から7月30日まで、長与胃腸病院に入院し、その後、8月6日から修善寺温泉菊屋旅館で転地療養しますが、8月24日夜、胃潰瘍による大量吐血で人事不詳となりました(修繕寺の大患)。10月11日、東京に戻りますが、そのまま、長与胃腸病院で療養生活が続きました。ところが、11月13日、大塚楠緒子が9日に大磯で亡くなったことを新聞で知ります。享年36歳でした。夫の大塚保治から、死の報知と広告に友人総代として名前を使って良いかと電話で聞かれて承諾しました。15日は、その死を悼んで「あるだけの菊投げ入れよ棺の中」など三句詠みました。19日に雑司が谷で行われた葬儀には参列できませんでした。

インフルエンザウイルスには免疫抑制作用があるので、インフルエンザを契機に結核が増悪して肋膜炎や粟粒結核に進展したと思われます。奇しくも、瀕死の重体から回復したばかりの漱石に突きつけられた楠緒子の突然の訃報は衝撃も大きかったと思われます。

5. まとめ

インフルエンザとパンデミックの脅威を振り返り、「三四郎」に描かれたインフルエンザを感染免疫学の立場から検証しながら、自然治癒力とそれを支える生活習慣の重要性にも言及しました。漱石の周辺でも、生涯の重要な転機に登場した立花銑三郎や大塚楠緒子が、思いがけず、インフルエンザを契機に急逝しました。思い出多い二人との別離は漱石に深い感慨を残したと思われます。


参考図書

夏目漱石:三四郎(岩波文庫);岩波書店、1990
荒 正人: 増補改定 漱石研究年表;集英社;1984
原武 哲:喪章を着けた千円札の漱石 伝記と考証; 笠間書院, 2003年
小坂 晋:漱石の愛と文学:講談社, 1974年
漱石全集:第22巻 書簡上; 明治22年−明治39年; 岩波書店, 1996年
漱石全集:第23巻 書簡中; 明治40年−明治44年; 岩波書店, 1996年
夏目漱石:漱石日記:平岡敏夫編;岩波書店、1990

コメント(2)

関連のご質問有り我闘ございます。

おたふく風邪=流行性耳下腺炎は、唾液腺、主として耳下腺の疼痛や腫れを引き起こすことが有名ですが、実際は全身性感染症です。代表的な感染部位は、耳下腺、髄膜(中枢神経)、膵臓、睾丸、卵巣、などで、耳下腺の痛みや腫れにもかなりの個人差があります。

実際、おたふく風邪の約1/3は発病することなく経過して免疫になっています(不顕性感染)。また、耳下腺炎は大部分がおたふく風邪によるものですが、おたふく風邪ウイルス以外のウイルスや細菌による耳下腺炎も結構あります。

よって、自分はおたふく風邪をしてないと思っていたが、既に気づかないうちに済んでいたという方もあれば、自分はおたふく風邪を済ませたと思い込んでいたが、実際は、かかっていなかったという方もあります。

通常、小学校に上がるくらいまでにかかることが多いのですが、大きくなればなるほど、周囲でおたふく風邪が流行る環境とは縁遠くなるので、かからないまま、成人になり、結婚して子供が出来て、自分の子供がおたふく風邪にかかってうつされるという事例も多くみられます。

ウイルス性感染症は、全般に、成人でかかるほど重い傾向はあります。

私自身、31歳の時、松山にいた時に、おたふく風邪にかかり、1週間寝込みました。39−40度の高熱と頭痛が続き、食事する度に、激烈な痛みが両側の耳下腺を襲い、遂に鎮痛剤を飲んでから食事という状況になりました。結婚して3年目の2月で、ちょうど長女が生まれた直後でした。出来たあとで良かったねぇ〜と、もう不妊確定のように周囲から言われましたが、その後、二人生まれました。

さて、成人でなると、高熱を伴い、耳下腺炎が強く現れる傾向があります。腹痛、特に背部痛があれば膵炎を考えます。脂ぎったラーメンは避けなければなりません。有名な睾丸炎は主として、片側の副睾丸炎で、不妊にいたる例はあまりありません。女性にも卵巣炎の合併があります。

子供に多い髄膜炎(頭痛・嘔吐)は成人では稀ですが、要注意は難聴です。片側性ですが、強度の感音性(聴神経性)難聴で、殆ど回復しません。二年前でしたが、子供からおたふく風邪をうつされたお母さんが左側の完全難聴になってしまいました。

もし、おたふく風邪にかかった御記憶がない場合、先ず、血液検査で、おたふく風邪ウイルスに対する抗体(ELISA IgGまたはHI)を測定して見るのが良いと思います。

かかってないつもりでも、かかっていることがあり、かかっているつもりでも、かかってないことがある病気なので、厳密な免疫の有無は抗体の有無で判定するのが最も正確です。

もし抗体があれば、かかった記憶があろうが、なかろうが、免疫があるので感染発病の心配はありません。逆に、抗体がなければ、かかった記憶があろうが、なかろうが、免疫はないので、感染発病の心配があります。この場合は、おたふく風邪ワクチンを受けて免疫を獲得するのが無難です。

以上、体験も織り交ぜてお話しましたカラオケ

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