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サークル【わがままエリス】コミュの私小説 『7月22日』 遙介

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 寝る前の雨は止んでいたが、しかし雲はしっかり残っていた。これじゃ日食は見えないな、と、彼女は思った。
 彼女のバカに重たい赤色の携帯電話は、高校3年で買い換えた時から既に今日の日食を知らせていた。2009年7月22日。日本では実に46年振りに見られる皆既日食の日。随分と先の話だと思ったが、結局それから機種変更もせずに、予定通り大学3年になった彼女がいた。
 朝食はほとんど毎朝トーストとサラダと卵焼き。それに季節の=安い果物と、紅茶が3杯つく。電気ポットの最低水位が約紅茶3杯分なので、貧乏性には3杯以下にできないのだ。立て膝で食卓につき、NHKを見る。日食と衆院解散の話で持ちきりだと踏んでいた彼女は、大雨被害のトップニュースに意表を突かれた。老人ホームその他が土砂にやられ、死者5人、不明者11人。
 災害による行方不明者、の表現を、彼女は好まなかった。安否不明者とすべきだ。縁起が悪いという考慮からかは知れないが、行方不明者では迷子の幼稚園児や痴呆の老人と変わらない。そして彼女の痴呆予備軍の祖父は、今年のGW直前に死んでいた。部室での会議の最中、マナーモードにし忘れていた携帯が訃報を知らせ、それと知らずに慌てて音だけ消して2時間放っておいた事を、特に感慨もなしに彼女は思い出した。

 洗濯物をたたみ終えると9時15分だった。皮膚科が開くのは9時半なので、丁度良い頃合だ。スーパーでレジ打ちのアルバイトをしている彼女は、(その所為だと彼女は思い込んでいるのだが、)冬以外の季節にしつこく現れる手指の発疹に悩まされていた。ちなみに、冬場は指の関節にパックリひび割れができるのだが、こちらは間違いなくレジ業務の所為だ。
 前回の診察で直りかけだからと一段階弱い塗り薬を処方されてから、酷いぶちぶちが再発したので、元の薬に戻してもらおうと思っていたのだ。思ってはいたのだが、学期末のレポートやテストや部活にだらだらと取り組んでいる内に、ぶちぶちは治まってきてしまった。案の定、医者は弱い薬を出した。
 彼女はこの医者が好きでなかった。気さくで人柄は良いと思う。しかし悪化したと訴えても患者の手をろくに見ないで、「油断すると再発するからねぇ」「でも治ってきてるでしょ」「薬塗って、手袋して、守ってあげれば大丈夫」はないだろう、と。もっとも、経験を積んだ医者だからこその対応なのだろうが、医者の方の経歴など彼女の知った事ではなかった。第一、彼女は手袋が嫌いだった。
 多少ではあるが、彼女には潔癖症の気があった。電車やバスでつり革手すりに触りたくない方だった。受験期で苛立っている時は、一番の親友に手を握られる事すら気味悪く感じた。しかし女友達が飲み物を回し飲みしていると、嫌がっているのを知られたくないので、むしろ自分から「頂戴」と手を出すのだ。実際、そうやって人の手や口が触れたものに触っても拒絶反応が起こることはないので、正式な潔癖症ではないのだろう。何となく、汗や油や唾液が自分の体に付着した事が気になって、気持ち悪いのだ。
 手袋が嫌いなのは、自分の汗や垢がいつまでも自分の手に残るからに違いなかった。

 診察を終え、ついでにアルバイト先のスーパーに足を運んだ。今日はシフトは入っていない。が、レジのパート従業員のリーダーに呼び止められた。インフルエンザは大丈夫か、と。同じ大学の違うキャンパスで新型に感染した学生が出たらしい。が、彼女の学科には関係のない話として処理だれていたので、多分大丈夫だろうと彼女も答えた。ただ、発症した数名は女子寮の生徒で、1週間以内に同じ寮の友人と接触している事を彼女は忘れていた。覚えていてもそこまでは話さなかっただろうし、話しても重大に受け止められはしないだろう。

 帰宅し、ノートパソコンを立ち上げる。結局ニュースでは入手できなかった日食の時間の情報を仕入れようというのだ。要領を得ない気象庁の特設ページから推測するに、当該地域でのピークは午前11時前後。時計を見ると10時40分ほどだ。一度、相変わらずの曇天を窓越しに見上げたが、暑くも薄くもない雲の向こうに、相変わらず太陽はほぼ球体で輝いていた。
 それから11時過ぎまで動画サイトで暇をつぶし、ふと思い出して再び空を確かめると今度は三日月型の太陽があった。雲が塩梅よく光をやわらげているので、肉眼で見つめられる。曇ってて良かった。彼女は本日最初の仮定をひっくり返す結論を導き出して、登校の準備にかかった。自転車通学の彼女には、汗拭き用のハンドタオルと手拭用のハンカチとの両方が必要だった。

 昨日予約していた帰省用の切符を受け取りに、彼女は最初に生協トラベルセンターに立ち寄った。今年は祖父の初盆がある。が、その為に父の実家に帰る前に、1日でも関東の自らの実家に滞在して、池袋PARCOで8月末までの商品券を使わなければならない。買いたい商品はもう雑誌を立ち読みして決めてあった。別館4階。問題は売れ残っているか否かのみだ。
 それから昼休みの時間を部費の集金に充て、3時間目の時間は図書館で調べ物をし、4時間目は英語の授業に出て、研究室と二度目の図書館に寄ってから帰宅した。
 調べ物は資料が他の誰か(間違いなく同じ授業を受けている誰かである)に既に使われていたのではかどらなかった。日本古典文学の演習授業で、筆で書かれた室町時代の物語について、割り当てページを解読・翻刻し、語釈をつけ、現代語訳しなければならない。もっとも大方は済んでいる。例えば「有ゐの形」とは人間界における質量をもった身体だし、「迷途」と「慈非」は多分誤字。「御かくれになる」は偉い人が死んだ時の婉曲的表現、等々。しかし、後から後から分らない箇所が増えるのだ。「すくれきわめて」は「優れて極めた」で良いのか?当時から禁止の呼びかけは「(〜する)なよ」だったのか?
 英語は20世紀の世界史を英語で紹介した教科書を、あてられた者が読み、訳すものだ。彼女は前回中てられていたので今回は指名されないだろうとタカをくくっていた。が、インフルエンザで寮生が外出禁止にでもなっているのか、極端に出席者が少なかったので、焦ってこっそり練習する派目にあった。そのくせ、やはり指名はされなかった。
 今読んでいるページは第1次〜第3次中東戦争の辺りの話で、毎朝のNHKで時折耳にする「ムスリム」や「ガザ地区」の語が度々登場した。が、イスラエルとエルサレムが混同されている彼女の頭では、文章の訳は出来ても内容理解には到達しきれなかった。

 大学から一番近い大型スーパーは、アルバイト先のライバル店ではあったが、しかしおつとめ品に良いものが多いので彼女の行きつけでもあった。午後5時半。野菜も菓子類も、そろそろ値引き品が出揃う頃だ。夕飯を玉ねぎと海草のサラダにしようと思っていたので、今回は生で食べられる野菜を探しに来たのだった。が、家にあるキュウリとニンジンしか値引かれていなかったので、結局70円になっているクレープだけ買い、本日2回目のバイト先での買い物に向かう。
 自転車で移動中に、クレープは平らげた。信号のない道を選んで目的地まで止まらずに漕ぎ着ける。と、駐車場の片隅に、店長と、レジ責任者、若い女性パート従業員と、それに客らしき数人が集まってしゃがみ込んでいるのが見えた。何事かと近づいて、彼女は、驚いた。

 植え込みに女性が仰向けに倒れ込んだらしく、それを数人で介抱しているのだ。

 救急車を要請してか、主婦らしき女性が携帯電話に向かって場所の説明をしている。それより少し若い女性が倒れた女性の右肩を、レジ責任者が左肩を支えている。小柄な女性パートは店の住所を調べに店内に駆けていった。倒れた女性が背中の痛みを訴えるので、植え込みから下ろして横にさせた方が良いと店長が言う。コンクリートの地面に体育座りにさせた後は、更に電話を切った主婦も加わって倒れた女性を背中から抱きしめ、手を握ってしきりに「大丈夫大丈夫」と声を掛けた。
 女性は始終しゃくりあげており、顔は真っ赤だった。たどたどしいその言葉から、歩いていてフラフラし、倒れ、背中を打った事、胸が痛いのだという事、そして、最近、家族を亡くしたのだという事が分った。
 彼女は道から駐車場へ車が乗り入れる為の、傾斜になった部分の上に立って一部始終を見聞きしていた。病人の三方を支える大人たちの間に入っていくには、彼女はあまりに図体が大きかった。第一その傾斜になった段差を降りた、すぐそこに4人が固まっているので、スペース的に入り込むのは無理だったし、まして嗚咽交じりの女性の言葉に頷きつつ励ましつつ、その体を支えている3人に加えて、自分に此れ以上何が出来るだろう?

 その時、女性はレジ責任者の制服の袖で、涙を拭いた。

 彼女は鞄に手を入れ、ハンドタオルを引っ張り出した。それは登校時の彼女の汗をめいっぱい含んだ生乾きのタオルだった。一瞬の迷いの後、彼女はそれを女性に差し出した。何と言って良いのか分らず、良かったら使ってください、というような旨を、泣きじゃくる女性の言葉ほどに聞き取りにくい言葉で呟いた。女性は、一度それを受け取って涙を拭きなおし、再び彼女に返した。受け取った彼女は差し出す前より酷く申し訳ない気分に襲われた。
 その時救急車のサイレンが遠く聞こえた。道沿いに出ていた店長がこちらを向いたので、彼女はハンドタオルをその場に置いて駆け出した。が、何故か鞄だけはしっかりと抱えていた。手を上げて救急車に合図し、駐車場を横ぎって現場に誘導する。

 救急隊員は無神経にも思えるような明瞭な質問から、女性が酔っ払っている事を突き止めた。単なる精神的疲労による不調だと思っていた面々は面食らって顔を見合わせた。が、同時に身内を失ったという彼女の言葉も知っていたので、いっそう同情的になって彼女が救急車に積み込まれるのを眺めていた。救急隊員は心なしか呆れ顔をしており、少なくとも彼女の手を握っていた主婦は彼らの態度に少なからず立腹していた。そして、彼女もまた。本当の急性心不全患者や交通事故被害者、急に陣痛が来た上病院をたらい回しにされる妊婦がいるかも知れない事など、知った事ではなかった。
 置きっぱなしのハンドタオルを拾って、彼女はそれに自分の汗なのか女性の涙なのか分らない湿り気を感じた。それを鞄のポケットにしまった手を、帰ったら直ぐに脱ぐだろうパーカーの裾で拭いたのには後から気付いた。
 結局彼女は、店長と主婦、数人の野次馬に混じって、女性を乗せた救急車が数分間その場に留まった後に駐車場を出るまで、ずっとその茶色い窓を眺めていた。一緒に病院まで行けない歯がゆさからか、右肩を支えていた女性はいつの間にか姿を消していた。しかし一緒に病院に行けない事を、彼女以上に悔やむ必要のある者などいない筈だった。彼女以外は皆、本当に「行けない」のだから。
 その後彼女は店内に入り、やはりキュウリとニンジン以外は高かったので、カフェオレだけ買って飲みながら帰宅した。クレープの後に飲むカロリーハーフのカフェオレは甘くなかった。

 おそらく生野菜を扱うという以上の理由から、彼女は丹念に手を洗って調理を開始した。慣れぬ千切りに時間をとられ、ご飯とみそ汁とてんこ盛りの野菜サラダの夕食にありついたのは7時過ぎだった。NHKは相変わらず大雨による土砂災害を伝えていた。死者8人、不明者9人。朝は合わせて16人だったのが、増えている。それが15分まで続いて、2つ目の話題は皆既日食だ。それまで彼女は、太陽が月の影に隠れた事など忘れていた。
 天気予報が明日の曇天を告げる前に、彼女はテレビの電源を切って食器を洗いにかかった。水仕事は手袋をしてやれ、という皮膚科の言葉も忘れていた。

コメント(2)

本日のほぼ実話です。
実話過ぎてあまりに人権侵害なのですが、此処なら大丈夫かな、と甘い事をぬかしてみます。

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