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イーグルスファンコミュの楽天三木監督「下位打線」の名を好まず…与える役割&橋上秀樹氏、1000勝達成・楽天への思い語る「38勝しかできないチームが初CSここまで来れたのかと」…ロングインタビュー

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野球26日予告先発野球

<セ・リーグ>

巨人畠世周−中日福谷浩司(東京ドーム=時計14時)

ヤクルト・スアレス−阪神ガンケル(神宮=時計18時30分)

広島森下暢仁−DeNA浜口遥大(マツダスタジアム=時計14時)

<パ・リーグ>

西武ノリン−楽天石橋良太(メットライフドーム=時計14時)

ロッテ中村稔弥−ソフトバンク東浜巨(ZOZOマリン=時計14時)

オリックス・アルバース−日本ハム有原航平(京セラドーム大阪=時計14時)

野球楽天・三木監督が語った「下妻物語」の背景野球

24日のロッテ戦で8年目でプロ初本塁打を放った楽天・下妻貴寛捕手について、
三木肇監督は「おととい(23日)、(内野手兼1軍打撃コーチの渡辺)
直人が練習中に1対1で下妻と話していた。
そういうことの積み重ねが若手の成長のヒントになったり、きっかけになったりする。
直人もすごくうれしかったんじゃないかな」。
その上で、「直人の(現役)ラストシーズンをいい形で送り出すためにも、
(若い選手は)直人の教えを聞いて前に進んでほしい」と話した。



野球楽天三木監督「下位打線」の名を好まず…与える役割野球

“ライパチ”。幼少期に野球をかじった経験がある人なら、
1度は耳にしたことがあるかもしれない。
「8番ライト」の略で“下手な人”への不名誉な代名詞だ。
ちなみに記者は小学時代、主に7番捕手。
「やけにチャンスで回るな」と思った記憶がある。

「“下位打線”と言うのが当たり前だけど、あんまり僕は言うのが好きじゃない」。
楽天三木監督は球界に広がる一般的な概念に疑問を持った。
「7、8、9番にも1、2、3、4番と違った役割がある。
打力が弱い人がいるというイメージになってほしくない」。
どんな打順でも、代打を送られなければ1試合に最低3度は打席に立つ。
俊足、パワー、巧打と特徴を生かした打順づくりに指揮官は日々頭を悩ませる。

23日の試合で“下位打線”から得点につながったシーンがあった。2回1死一塁。
一走は6番ロメロ、打者は8番太田。
初球はセーフティーバントの構えで揺さぶり、見逃しストライク。
カウント1−2から3球粘り、7球目にエンドランもファウル。
8球目に三遊間を破る左前打でつなぐと、9番小深田が先制適時打。
1番田中が2点適時打で、この3得点。試合の主導権を握った。

三木監督は「あそこは1つのポイント。僕は去年2軍監督だったけど、
ファームの春先は太田も普通にエンドランを空振りしていた。
コーチの指導を聞いて身につけているからこそ、
ファウルで粘れたりする。うちの外国人はサインをしっかり覚えて
何でもやってくれるから作戦が立てやすい」と振り返る。
就任当初から「いろんな攻撃ができる状態を作る」ことを掲げ、
実践と修正を重ねた成果の一端が見えた。


野球橋上秀樹氏、1000勝達成・楽天への思い語る
「38勝しかできないチームが初CSここまで来れたのかと」…ロングインタビュー野球

2007年〜09年まで楽天・野村克也監督のもとでヘッドコーチを務めた
橋上秀樹氏BC新潟総合コーチ=がこのほど、スポーツ報知のインタビューに応じた。
橋上氏はコーチとして05年の球団創設期から初のクライマックスシリーズ
(CS)進出までチームを支えた。
また巨人のコーチだった13年には日本シリーズで楽天と戦い、
楽天の日本一を目の前で見た。球団の様々な“歴史的瞬間”に立ち会った同氏が、
球団通算1000勝に到達した楽天への思いなどを語った。

―楽天が22日のロッテ戦(楽天生命パーク)に12―4で勝利し、
球団通算1000勝に到達した。率直な感想は?

「球団創設時を知る人間としては、非常に感慨深いものがありますね。
1年目は年間で38勝しかできないチームでしたから」

 ―改めて球団創設時を振り返ると?

「04年11月(の秋季練習で)藤井寺球場で新球団として初めて
全体練習を行いました。全員が学生のような真っ白なユニホーム。
衝撃を受けましたね。始動の日にユニホームすら間に合わなかった。
今までのプロ野球のチームと比べて異質なものがありましたね。
ある意味、新鮮ではありましたけど改めて新規参入のチームだと実感しましたね」

―05年2月のキャンプの頃は、どんな思いでした?

「正直に言うと、(将来を)思い描けなかった。どうなるか分からなかった。
久米島キャンプでは、1、2軍の振り分けもなかった。
全員が1つのグラウンドで練習しました。
室内練習場も狭くて、限られた環境の中なので、効率も悪かった。
その時点で、なかなか大変だなと思いました。
戦力的にも厳しかったのは間違いなかった」

 ―1年目はダントツの最下位だった。

「1年目はチームとしてできあがっていなかった。
まさか田尾(安志)監督が1年で変わるのは想像できなかったですけど、プロとして、
結果に対して責任は取らないといけないと痛感しましたね」

 ―2年目からは野村監督が指揮を執った。
07年から09年まではヘッドコーチとして、野村監督を支えた。
改めて指揮官との思い出は?

「報道陣に対して話している印象が強いのかもしれませんが、(報道陣と)
話をしながらも、しっかりと選手の練習には目を光らせていましたね」


―特に野村監督が、厳しく指導していた選手は?

「渡辺直人(現兼任コーチ)ですね。脇役の選手であるために、どうすべきなのか。
私が記憶している中では、打撃練習では直人に対して一番注文が多かった。
彼の場合はバットのヘッドが下がり、フライが上がることが多かった。
それではダメだと。進塁打を打つにしても、まずはゴロを打つことが重要。
そのためにどうするのか。キーマンとして考えた1人だったと思いますよ」


―コーチに対しても、野村監督は要求が多かった?

「ほとんどの監督さんは、打撃のことは打撃コーチ、投手のことは投手コーチに
聞きます。ただ野村監督は全てのことをヘッドコーチである自分に尋ねてこられた。
野村監督にとっては、ヘッドコーチはそういう立場だった。
『全てをとりまとめて、おまえが答えるようにしておけ』と言われていました」

 ―毎日、味方だけでなく、相手チームの全選手の情報を詳細に調べていた?

「前もって準備しないと答えられないことがたくさんありましたね。
たとえばこちらの攻撃時。カウントごとに(相手投手の)直球の確率、
変化球の確率を聞かれましたね。そして、それぞれの球種のストライク率も。
すぐに答えられるようにしていました」


―初のCS進出を決めた09年の裏には、まさに「ID野球」があった?

「当時、他の球団と比べてもデータ面では進んでいたと思いますよ。
資料室もありましたからね。
最初の頃はあえて、選手のロッカーでパソコンで相手選手の映像やデータなどを
見るようにしていました。頭ごなしにこちらが『見ろ』と言っても、
中々頭には入らない。強制するのではなく、自然と興味を持つ形でやろうと
思いました。その方がうまく選手に入っていく」


―楽天には05〜09年までと15年、計6シーズン在籍した。
その中でのベストゲームを選ぶとしたら?

「やっぱり2009年ですよね。2位で、球団として初めてCSに出場できた。
あのチームがここまで来られたのかと、感慨深いものがありました」

 ―そのCSの中から、最も印象に残っている試合を挙げるとしたら?

「ベストゲームと言っていいのか分からないけど、日本ハムに4―9で敗れて
CS敗退が決まった(10月24日の第2ステージ)第4戦(札幌D)ですね」

 ―その理由は?

「第2戦で8回を完投した岩隈(久志)が(第4戦で)『行かせてください』と
言ってきた。あれほど、周囲から『チームのために一生懸命やらない選手』と
言われていた岩隈が、2点ビハインドの8回にリリーフで登板した。
あの場面は、チームが変わってきたことを象徴していたと思う。
勝ち負け以上に、成長したことを感じるシーンでした。
エースとしての気持ちの持ち方は、田中(将大)に対しても
いい影響を与えたと思いますよ。その後につながっていると思いたいですね」

―13年には、巨人のコーチとして楽天と日本シリーズを戦った。
日本一を逃した時の心境は?

「第7戦で楽天が勝って日本一になった。一塁側のベンチから、星野(仙一)監督が
胴上げされているのを見ていました。
我がことのように、心の中で拍手を送っていました。ちょうどあの日は11月3日。
(東日本大震災が襲った)3月11日の逆だったんです。
東北の地で楽天が日本一になったのは、本当にいいことだと感じました。
私も6年間、東北でお世話になったので」


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