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イーグルスファンコミュの<今こそノムさんの教え(32)>「誰かは見ている」

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野球<今こそノムさんの教え(32)>「誰かは見ている」野球

年末年始、こたつでぬくぬくしながら動画投稿サイト「ユーチューブ」に
くぎ付けだった。「仙台放送チャンネル」で見た男たちの別れに際する対談。
東北楽天から古巣DeNA(前横浜)に戻る藤田一也を、
2歳上の1軍打撃コーチ渡辺直人がねぎらう。
地元スポーツを応援する番組「スポルたん!NEO」ならではの珠玉の企画だった。

2人ともプロへと導いてくれた愛着のある球団から放出され、
新天地で活路を見いだし、晩年に古巣へ呼び戻される経験をした。
特に藤田は2011年、横浜に突然移ってきた渡辺との定位置争いに敗れた
過去と因果がある。くしくも渡辺の古巣東北楽天へトレードになると、
球界随一の二塁手に飛躍。13年初の日本一達成の原動力になった。

対談は苦楽を経て通じ合える間柄になった特別な関係が言葉の端々ににじむ。

藤田「楽天でもうプレーできないなら、ベイスターズと思っていた。
最後もう一回、帰ってプレーできるって本当にうれしいことだし、
声を掛けていただいたことに感謝している」

渡辺「古巣に帰るのは一番幸せな形。やっぱりやってきたことは間違えてなかったな」

藤田「しんどかったですけどね」

同じせりふのせいか、筆者は1978年の「空白の一日」を経て強引な形で
巨人入団した江川卓、玉突きで阪神へ移った小林繁の両元投手が2007年に
共演した日本酒のCMを思い出した。
杯を交わし、約30年越しに心を通わせる。
「しんどかったよな。俺もしんどかった。2人ともしんどかった」

話は戻って藤田と言えば、13年日本シリーズ第5戦。死球で出塁し、
痛みに耐えて三塁まで激走した後、星野仙一監督に「もういい、代われ」と
言われて号泣しながらベンチに引き上げる。
とても出続けられる患部の状態でないのに続く2戦も先発出場し、
日本一の瞬間に立ち会った。

対談で藤田は横浜時代の渡辺から闘志を引き継いだと明かした。

藤田「だって直人さん、『痛くても出ろ』って言うじゃないですか」

「横浜時代、とんでもないサポーターを着けて出ているのを僕は見ている」

「直人さんの言葉とかレギュラーの人たちの姿を見て、
1年間全試合出ないといけないと教わった。
直人さんのギラギラした目を見て、僕も楽天でレギュラーを取れた」

渡辺「隙を見せたくなかった。1、2試合休む間に誰かが活躍して
自分の居場所がなくなるというのは一番やりたくなかった。
レギュラーは『痛い、かゆい』と言ってる場合じゃないっていう思いでやってきた」

藤田は14年全144試合に出て、二塁手として2年連続のゴールデングラブ賞に輝く。
一方の渡辺も東北楽天を出た後、一生懸命に歩み続けた。
17年冬に7年ぶりに東北楽天に復帰する直前の記事を紹介する。

 ◇  ◇
青天のへきれきだった。「えっ、横浜にトレード?」。
球界関係者からの電話でうわさ話を聞いた東北楽天・渡辺直人の表情が突然、曇った。
2010年12月6日深夜、筆者は仙台市内の飲食店で一緒に焼き肉の台を囲んでいた。

翌年は大リーグから国内復帰する松井稼頭央と正遊撃手を争う。
4季定位置を守る脂の乗りきった30歳は野村楽天で育った優等生。
鬼気迫る表情で対抗心をにじませたばかりだった。
「開幕でショートを譲っても、1年が終わった時は『やっぱり直人だ』って
思われるように頑張る」

翌朝、一部スポーツ新聞が移籍をスクープした。それでも本人は動揺の色を見せず、
自主トレ先の千葉県へ。
8日、彼から電話があった。9日に仙台市へとんぼ返りして球団幹部と
面会するという。「覚悟はしています」の言葉とは裏腹に心細そうな声。
たまらず「明日、そこで出てくるのを待っているよ」と返した。

面会場所のホテルから出てきた本人は意外なほど穏やかだった。
「松井が来て、君がベンチを温める姿を見たくない。
求められた横浜でキャリアを積む考え方もある」。
球団幹部の説得を前向きに受け止めようと必死だったのだろう。

だが、時間を置かず臨んだ退団の記者会見でファンへの思いを問われると、
もう涙をこらえ切れなかった。翌10日の契約更改会見では嶋基宏、鉄平、
草野大輔も泣いて別れを惜しんだ。
創設期の寄せ集め軍団から脱却し、生え抜きの若手が増えていた。
渡辺直は若手の心のよりどころで、選手会長就任直後の嶋と並んで
チームの未来を担う人材だと誰もが信じていた。

東日本大震災が起きた11年、新天地の彼は、レギュラー級藤田一也らとの争いを
制して正二塁手になった。オールスター戦で仙台に帰ってきた。
その敢闘賞の賞金100万円を仙台市に寄付。心は被災地とともにあったからだ。
「最短で14年にフリーエージェント(FA)権が得られる。
その時、楽天に手を挙げてもらえる選手でいたい」


だが、12年、DeNAとなったチームは若返りを期す。
渡辺は二塁手争いで、石川雄洋、藤田との交換で来た内村賢介に後塵を拝した。
13年は開幕1軍にこそ入るも2軍が増えた。
「出番がなく、選手として終わりかけていた」という7月、トレードで西武へ。
9月26日、東日本大震災後、悲願のリーグ初制覇を果たす東北楽天の田中、嶋、
藤田らの勇姿を間近に見た。

「拾ってもらった恩義がある。自分から西武を出て行くようなまねはできない」。
15年にFA権を得た時、考え方は変わっていた。
年々、守備固めや代打に役割が限られていく中、後輩の指導を積極的に引き受けた。
17年は世代交代があって、ほぼ2軍暮らし。10月に戦力外になった。

あれから7年、渡辺が帰ってくる。
当時、球団は否定したものの、主力選手のポスティングシステムによる
大リーグ移籍が失敗したチーム編成の余波を、彼が受けたのは自明だった。
昭和の名作ドラマ「おしん」のような泣き別れにも、彼の口から一度も
恨み言を聞いたことはなかった。

それこそが、東北のファンに惜しまれ続けた彼の人間味だ。
「チームの模範になる」と評価して、機を見て呼び戻した球団にも家族的な
愛情を感じる。入団会見を前に、ファンに代わってただ一言、告げたい。

 「おかえり」

 ◇  ◇
ベイスターズファンが今、藤田を迎え入れる気持ちは同じだろう。
人間の真価は「敵は我にあり」と克己心を持ち、置かれた場所で
必死に花開こうとする姿に現れる。だから渡辺や藤田の姿はファンの胸を打つ。

「誰かは見ている。だから常に頑張る姿を見せ続けなくてはいけない」。
野村監督は、9年間の解説者生活を経てヤクルトから監督就任を請われた時に思った
(第5回「上り坂、下り坂、まさか」参照)。渡辺はその教えを体現した。

藤田、渡辺、西武で来季から1軍ヘッドコーチとなる松井稼。
実際に、3人とも経験や人柄を買われ、元のさやに収まるかのように
振り出しのチームに求められたのも、ある意味必然なのかもしれない。
藤田にも慕われる渡辺を見て、改めて思った。
涙を乗り越え一生懸命に歩む人の思いは誰かに連鎖していく、と。


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