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イーグルスファンコミュの平石監督、故郷大分で見せた来季へ決意

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野球オコエよ「力で目立て」平石監督変な髪形なら断髪へ野球

オコエよ、真面目に頑張れ! 平石監督が30日、オコエに熱いメッセージを送った。

気の緩みが容姿に直結してきた過去を問題視。「キャンプ始まりましたという大事な時に、

変な髪形とかで登場したとか、ちゃんと髪を切っていなかったら、俺が監督室で切る」と真顔で言った。

昨季もそんなやりとりがあった。CSの西武戦を控えた10月、当時2軍監督だった平石監督のもとに、

1軍からオコエの昇格が伝えられた。「チームは大事な時期。ちゃんとした髪形で行きなさい」と

オコエに話したところ、指揮官の熱意を気合MAXで上回った。それまで両サイドを刈り上げた

パーマ姿だった“やんちゃ”なオコエが、丸坊主姿でメットライフドームに登場したのだ。

平石監督 オコエの持っている能力という部分は、誰もが分かっている。

ただ、ここまでそれを生かし切れていないし、1年間続けて活躍できていない。

彼も来年で4年目。ライバルも続々と入ってきている。もう若手ではない。彼はやれば、言えば、

できるって僕は分かっている。髪形とかを気にしている時間はないと思っている。

愛情深く見守っているからこそ、あふれ出る厳しいメッセージ。

「常々、報道陣の人にもオコエを持ち上げ過ぎないでと言っていますけどね。

アイツはもうレギュラーを取らないといけないし、そういうアピールをしてほしい。

髪形ではなく、力で目立ってほしい」。果たして、オコエのキャンプインは。




野球平石監督、故郷大分で見せた来季へ決意野球


今年、東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任した平石洋介監督の故郷、

大分・杵築(きつき)市で、29日「東北楽天・平石洋介監督を励ます会」が行われた。

監督就任後、初めてとなる帰省に、杵築市長・永松悟氏ら約100人の有志が集まった。

平石監督は「ものすごく厳しい戦いになると思いますが、覚悟はできています。勝ちます。

楽天は杵築の皆さんが見ても、感動していただけるチーム。どうか温かく見守ってください」と

決意を口にした。

大分出身ながら、たどった球歴から「大阪出身」と間違われることが多いと言う。

八尾フレンド(大阪)からPL学園に入学。同志社大学、トヨタ自動車でプレーし、2005年ドラフト7巡目で

楽天に入団。アマチュア時代の大半を関西で過ごしたからか、話し言葉も関西弁だ。

そんな平石監督は「僕は早々にこの地(杵築)を出たのでね。関西出身と間違われるたびに

『僕の生まれ故郷は大分の杵築っていうところなんですよ』と言っているんですよ」と笑った。

地域の人に育てられた恩がある。郷土愛は、人一倍深い。

「早々に」。そう、平石監督は小学校卒業後、12歳で親元を離れている。「プロ野球選手になる」という

夢をかなえるため祖父母と共に大阪に渡り、PL学園・桑田真澄投手らを輩出した

中学野球の名門・八尾フレンドに入部したのだ。当時あまり例のない“中学校からの野球留学”。

この時の決断と思い出を語るとき、平石監督の瞳は少しだけ潤む。

「大分発のフェリーでしたね。地元の友達たちが紙テープを投げて見送ってくれてね。

BGMが蛍の光。いっそう寂しくなって、みんなが見えなくなってから船の上で泣きました」。

いまも鮮明に覚えているシーンだ。


■人が自然とついていくキャプテン


「励ます会」には、あのとき港から平石監督を見送った、野球チーム「臥牛(がぎゅう)」の

同級生もかけつけた。当時サードを守った稲吉荘平さんは述懐する。

「ヒラ(当時の愛称)が大阪に行くと聞いたときはショックだったけど誰も『寂しい』とか『行くな』とは

言えなかった。我が強い選手ばかりのチームだったけど、アイツがキャプテンだったからまとまった。

多くを語らなくても、人が自然とついていくキャプテンでした」。携帯電話やSNSがない時代。

中学、高校時代は手紙を送り合う「文通」で心のつながりを続けていたという。

今年10月には、稲吉さんら同級生たちが声を掛け合い、監督就任を祝う横断幕を制作した。

控えめなデザインが、選手として決して華やかではなかった平石監督の人望を表しているようにも

見えた。杵築インターを下りてすぐの市道に、その横断幕は飾られている。


12球団で最も若い監督となった平石監督を見ながら、稲吉さんはこんなことも言っていた。

「人の心をつかむ求心力を、機会があったら彼に聞いてみたいんですよね」。

38歳。結婚して親となり、会社では中間管理職を任される年齢になった。自分も働き盛りでありながら、

部下を抱え、人にヤル気を起こさせる、人の心を動かす、そういった難しさに直面することが

増えてきている。

「ですので、ヒラの監督就任は、刺激になっているんです。この先、大変なことがたくさんあると

思いますが、自分も負けてられないと思いました」。置かれた場所で、自分の役割を全うする。

「臥牛」がそうやって強くなっていったように、監督就任は、稲吉さんら同級生たちの負けん気に

再び火を付けたようだ。


平石監督はチーム作りについて「ぶれない心を大事にしたい」と言い切った。

「もちろん迷いや悩みはいつもあると思います。人間、無責任だったら悩まない。

でも、チームのことを真剣に考えれば悩むのは当然です。ぶれない、というのは人の意見を聞かないと

いうことではありません。本音でぶつかり合って、その結果、ぶれない姿勢を見せていきたいですね」。


恩師や野球関係者、先輩後輩同級生、お世話になった地元の住民の人たち一人一人と握手をし、

目を見ながら思い出話を交わしていた平石監督。「故郷に帰ってくると、頭をいったんリセットできる。

地元の人たちから新しい気づきや勇気をもらいました」。決意の顔は、もう2019年に向かっていた。





野球<E番ノート>さよならダンプさん野球

 「ダンプさん」の愛称で親しまれた野球解説者の佐々木信行さんが今季でプロ野球解説者を辞め、

半世紀近く身を置いたプロ野球界に別れを告げた。1970年代のロッテと2005年からの東北楽天。

宮城を拠点にした2球団の歴史を全て知る生き証人だった。

どちらも不思議な縁に導かれた。71年秋に宮城・佐沼高から社会人チームに入るはずが

、ロッテから想定外のドラフト指名を受けた。2年目から宮城球場(現楽天生命パーク宮城)の

土を踏み、引退後も03年まで2軍監督などを務め、04年秋に仙台市内に居酒屋を開いた。

すると、球界再編騒動の渦中にいた堀江貴文ライブドア社長(当時)が不意に来店し、

新球団構想を語った。瞬く間に東北楽天が誕生。解説者として球界に引き戻された。

東北楽天のテレビ・ラジオ中継では負けが込んでも温かく鼓舞した。「いいところを褒めたかった。

若手育成のコーチが長かったからかな」。若手アナウンサーの実況デビューでは相手役を快く

引き受け、もり立てた。

懐の深さは捕手時代から。宮城球場のベンチ脇のブルペンで村田兆治投手のボールをよく受けた。

「サインなしで突然フォークボールを投げられ、四苦八苦したよ。ただでさえ、ナイター照明と

重なって見づらいのにね」

最後の解説を務めた10月、宮城球場時代からの戦友とも言える照明灯を懐かしそうに見つめた。

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