ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

イーグルスファンコミュの東北の野球文化を豊かにするために OB選手らが支える楽天アカデミー事業

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
野球東北の野球文化を豊かにするために OB選手らが支える楽天アカデミー事業野球

ぴかぴか(新しい)地元の星になれるか? 楽天ジュニア出身の西巻は現在アピール中ぴかぴか(新しい)

ドラフト6位で楽天に入団した高卒ルーキー・西巻賢二内野手が元気だ。

春季キャンプでは1軍メンバーに名を連ね、オープン戦でも期待されていた堅実な守備のほか

打撃でもアピール。狙い球を鋭く振り抜く思い切りの良さなどで徐々に評価を上げている。

その西巻が“楽天イーグルスジュニア”出身であることがドラフト時などに話題となった。

NPBでは2005年よりセ・パ12球団が地域の小学5、6年生を中心に編成した代表チーム

(ジュニアチーム)を編成して戦う「12球団ジュニアトーナメント」を年末に開催している。

西巻は2011年の楽天のジュニアチームのメンバーに選ばれ、この大会に出場していた

(NPBのウェブサイトには、楽天のユニホームを着て背番号7をつけた小学6年生の西巻の写真が

掲載されている)。東北の福島県で育ち、球団との縁もあるフランチャイズプレーヤー候補の

登場を喜ぶファンも多いことだろう。

西巻のような存在が飛び出してきた背景には、球団創設期から東北の野球振興を目指し、

続けられてきたアカデミー事業の歴史がある。楽天イーグルスジュニアは年に1度のトーナメントへの

出場を目的に編成されるものだが、ほかにも“ベースボールスクール”や、

中学生で編成される硬式野球チーム“東北楽天リトルシニア”など常設されているものもある。

スクールは野球を楽しむことを前提としたプログラムを組む一方、リトルシニアは球団の下部組織と

しての位置づけで高いレベルの技術を磨いている。

カバーする年代、技術レベルにバリエーションを設け、たくさんの子供たちと

野球の接点をつくりだそうと努めている。


ぴかぴか(新しい)小さなバンで東北各地を行脚、プロの技を“言葉”で伝えていくぴかぴか(新しい)

これ以外にもスポットでのイベントも各地で開催。2月には新たな試みとして、駅伝・マラソン大会を

楽天生命パーク宮城と隣接する仙台市陸上競技場を会場に実施。

仙台市の少年野球チームに所属する小学生1632人が参加した。

また野球肘検診の受診を出場の条件とすることで、スポーツ障害予防の啓発の機会にもした。

3月には、岩手県花巻市が「『復興ありがとうホストタウン』モデルプロジェクト」として実施した

野球教室に協力。

2009年から13年まで楽天に在籍し、現在は国際スカウトのダレル・ラズナー氏らが講師を務めた。

「アカデミー事業の発展は、やはりコーチたちの努力によるところが大きいと思います」

こう話すのは株式会社楽天野球団スクール部長で東北楽天リトルシニアの会長も務める渡辺誉志氏。

アカデミーのコーチはイーグルスのOBを中心に現在は17名が所属。指導に加えて

、試合中継の解説や学校訪問などもまかされ、球団職員に近い立場で様々な職務にあたる。

球団も、楽天イーグルスのコーチやスカウトを目指す人材には、そうした経験を積むことを求めており、

それがアカデミーのコーチたちのモチベーションに繋がっているという。

「多くのコーチたちは、最初は子供に野球を教える難しさに直面します。

そこで、人前で話したり、伝えたりする技術を磨くことの大切さを実感する。

でも、元々野球に人生を懸けてきた人たちですから、簡単にあきらめたりはしません。

自分たちが学んできた野球をどう教えるか、どう伝えるかを必死に考えてくれる」(渡辺氏)

「そうやってプロの技が“言葉”になって広がっていくことで価値が生まれていくんです。

我々のベースボールスクールは様々な場所で行うので、広い東北の各地を小さなバンに

乗って回ることもあります。大変な仕事ですが、コーチたちの頑張りに支えられています」(同氏)

東北の野球文化を豊かにするための“土壌づくり”。その成果が少しずつ表れ始めている。


※『復興ありがとうホストタウン』モデルプロジェクト

 内閣官房東京オリンピック・パラリンピック推進本部事務局より「復興ありがとうホストタウン」に

登録された、被災3県(岩手県、宮城県、福島県)の自治体が、これまで支援してくれた

海外の国・地域に復興した姿を見せつつ、住民との交流を行う事業として実施するもの。



野球<東北を熱くする 追悼星野仙一さん>(9)参謀 野球知り尽くす島野氏野球


<古くから名将に名参謀ありと言われる。9連覇を達成した巨人の川上哲治監督なら牧野茂氏。

中日、阪神監督時代の星野仙一さんを支え続けたのは島野育夫氏だった。

栃木・作新学院高、社会人野球を経て1963年に中日に入団。

星野さんの入団前年に南海へ移籍し、南海、阪神で外野手として活躍した>

◎監督になったら

島野という名前は知っていましたが、当初は接点がなかった。私はプロ2年目に肘を壊した。

2軍で調整した後、大阪遠征の夜、中日の先輩で島野さんと親しくしていた人がいて、

一緒に食事をしました。そこで島野が野球をものすごく熱く語るわけです。

「うわー、すごいな。野球詳しいな」と。僕もまだ23、24歳。生意気だったんだね。

将来、監督になったらこの男を絶対に呼ぼうと思った。それからずっとお付き合いをしていました。

彼が素晴らしいのは、野球をものすごく知っていること。

投手を見て「次はフォークボール」「スライダー」「真っすぐ」と僕の後ろで言う。みんな当たる。

「どこを見てる?」「ボールを持ってグラブに入っている白いところが少し多く見えたら変化球」

「手首の筋がちょっと動くでしょ。フォークを投げるとき指を広げるから筋が動く」と。

見ても分かりませんよ。

ゆっくりセットポジションに入ったときは真っすぐとか、さっと入ったときは変化球とか、

胸の方にグラブが傾いたらどうだとか、癖を盗む。そういうところから、僕に野球を教えてくれました。


<島野氏は「鬼軍曹」と呼ばれる一方、面倒見の良い人柄で、監督と選手の緩衝材ともなった>
 
◎厳しくも好かれ

若いやつにはすごく厳しい。でも、ユニホームのときとプライベートのときですごく変わるんです。

だからヘッドコーチをやってもらったときも、裏方さんや選手から、

僕が焼き餅を焼くほど好かれていましたね。厳しいけれど、愛情があるというか。


<島野氏は2007年12月、胃がんのため63歳で亡くなった>

不思議なんですよね。僕が東京で仕事をして、伊丹に帰りました。

見舞いに行ったら、点滴しながら僕の顔を見て「監督をやりたかった」って言うんですよ。

ずっとヘッドコーチやってたんですよ。「えっ」と思いました。あれだけ僕に仕えてくれて

「監督を一度やりたかった」って言うんです。「絶対やらしてやるから、もう一回元気になって戻って来い」

「元気になったら、俺が絶対タイガースの監督をさせてやる。だから元気出せ」って言ったら、

その晩に亡くなりました。

東北楽天のときも呼びたかったんですが、もう呼べなかった。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

イーグルスファン 更新情報

イーグルスファンのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング