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イーグルスファンコミュの“闘将”星野仙一さんを悼むテレビの中の怖い監督の素顔

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野球“闘将”星野仙一さんを悼むテレビの中の怖い監督の素顔野球

ぴかぴか(新しい)鉄拳制裁の裏にある柔らかな笑顔ぴかぴか(新しい)

1月4日に逝去した星野仙一さん。中日と東北楽天という、なじみの深い2チームが対戦する

3月3日のオープン戦(ナゴヤドーム)で追悼試合が行われる。

テレビの中の怖い監督――。それが私にとっての星野さんの印象だった。

「闘将」の呼び名がぴったりな激高ぶりは、野球ファンでなくとも知っている人は多い。

縁あって、楽天を定期的に取材するようになって4年目。

その他大勢のメディアの1人として、現場で間近に会うことが何度かあったが、私にはどうしても

「闘将」のイメージが結びつかなかった。

星野さんにとって、あくまで「大勢のメディアの中の1人」でしかない私だったが、

一度だけ楽天本拠地の狭い裏の通路で、1対1ですれ違ったことがあった。

昨年、晴れた夏の昼下がりだったと思う。正面からやってくる星野さんの姿を認めた

私は、しっかり挨拶をしなければ、と考えを巡らせた。

でも「お疲れ様です」もおかしいし、初対面同然にしても、すれ違いざまに「初めまして」もどうかと思う。


そうこう考えているうちに、すぐ目の前に近づいてきてしまった。


とっさに口をついて出てきたのは、「こんにちは!」。すると、「おう、こんちは。どこのコ?」と聞いてくる。

顔にたくさんの皺をつくって。ニコニコという言葉でしか形容できないような柔らかな笑顔だった。

画面を通して見てきた迫力のある顔とは似ても似つかぬ表情に私はホッとし、

何の取材で来ているかを簡単に説明した。

「そうかそうか、がんばって」と星野さん。たった一言二言で、こんなに勇気を与える人には

会ったことがないと思った。

このことを星野さんを知る何人かにしたところ、「そういう人なんですよ」「そうそう、女性には優しいよ」と

うれしそうに思い出話をシェアしてくれた。裏方スタッフの女性たちも、

「すごく優しいですよ」と声をそろえる。今の時代は許されない“鉄拳制裁”やスポ根“的”

指導でも知られた監督でもある。

言うまでもなく私や女性スタッフにそんな顔を見せないのは当然だが、

では闘将全盛期を知る人ならどうなのか。

1980年代、まだ40代で血気盛んな星野さんが中日で監督を務めた時代に、

クローザーを務めていた郭源治さんに話を聞いた。


ぴかぴか(新しい)闘将全盛期に「怒られたことがない」ぴかぴか(新しい)


「僕は怒られたことがないです」


驚きだった。すぐ隣にいた投手が打たれて怒られることはあっても、郭さんには怒りをぶつけることも

責任をとがめることもなかった。クローザーが打たれれば、試合は負ける。

だが、星野さんはどんな時も「お前しかいないから」と信頼の言葉をかけるぐらいだったという。


なぜなら、台湾からやってきた郭さんが、日本で野球をするためにどれほど苦労していたかを

知っていたから。

当時は通訳もいなかった。日本語もよくわからなかった。

食べ物もなかなか合わず、心身ともに追い詰められながら、黙々と1人、プロ野球で生き残るために

頑張っていた。

「僕が台湾から来て、異国の環境で奮闘してるの知ってたから。僕の性格もわかっていた」と振り返る。

「でも僕は怒ってほしかったぐらい。(うまくいかなかった時は)言われた方が、自分のストレスも

発散できるかなと思ったこともあった。でも星野さんは、僕より僕のことを知ってたんです。

おかげで僕はもっと責任感が強い選手に成長できた」

星野さんに成長を促された郭さんは、チームを牽引する活躍をみせると、

NPBの16年間で通算106勝(106敗116セーブ)、1415奪三振の記録を残した。


野球星野さんの優しさを受け継ぎたい――野球


郭さんは言う。

「星野さんは僕の人生を変えてくれた人。いろいろ言われることもあるかもしれないけれど、

野球人としてだけでなく、人との接し方、選手との関わり方、すべてにおいて自分を変えてくれました」

日本で野球ができたことをこの上なく感謝しながらも、星野さんに出会っていない野球人生は

考えられないという。「諦めない、前向きな考え方。これにはすごく影響を受けました」と続ける。

「それに、すごい優しいんです。選手たちを、その後もずっと気遣うんです。


ほんの少しでも、僕も星野さんをマネしたいというか、受け継ぐ人になれればと思っています」

長年ずっと、お正月になると新年の挨拶の電話をかけていた郭さん。

年末年始をハワイで過ごすようになっていた星野さんに、時差を考えずに電話したこともあったそうで、

その時は「ばかやろー、こっちは何時だと思ってんだ」と怒られたとうれしそうに話す。


「でも、今年は留守番電話につながったんです。疲れてるのかなと思って、メッセージと

『また電話します』って録音して、次の日の2日も電話した。でも、つながらない。こんなことはなかった。

絶対に電話を返してくれると思ってましたから……」

何時でも郭さんの電話に出ていた星野さんが、今年の年末年始のハワイ旅行をキャンセルして

いたことは、後になって報道で知った。電話に出られる状態ではなかったことは、想像がつく。


ぴかぴか(新しい)忘れられない「ありがとう」の一言ぴかぴか(新しい)



チームが変わっても、引退しても、教え子をずっと気に掛けていた星野さん。

楽天の先発3本柱、美馬学は「よく怒られた」ほうの選手だったが、

同時に「ずっと気にしてもらってました」と明かす。


ルーキーだったある日、打たれた後にずっと走らされたことがあった。

「アップも入れてもらえず、練習が終わるまでずっと内野を走らされました。

新人で来ていきなり!? とびっくりしました」と振り返る。いわゆるスポ根“的”指導で洗礼を受けたのだ。


無茶を言い渡すようで、必ずそこには愛と理由があった。

その後、美馬に先発転向を助言したのも当時監督だった星野さんだ。ひじの不安を抱えていた

美馬にとって、より負担が少なくなると考えたからだ。

その後、先発として頭角を現した美馬は13年に星野さん率いる楽天が日本一になった時、

日本シリーズで2試合に先発。2勝を挙げる活躍で、シリーズMVPを獲得した。


星野さんに言われたなかで、忘れられない言葉を尋ねると、「やっぱり、『ありがとう』って

言われたことです」と即答した。


日本シリーズが終わって、そう言われたのだ。よく怒られたという美馬は「僕の中で一番(の言葉)です」

と懐かしむ。愛情も感謝もあふれんばかりの人だが、決してそれらを安売りもしないのだろう。


「ずっと選手を気に掛ける星野さんのことだから、今もみんなのことを見ていますよ」と

郭さんは空を指差した。一方の美馬は、「見てるでしょうね。一生懸命やらないと怒られると思う」と、

まるで星野さんがすぐそこにいるかのように言った。なぜかゾワッと鳥肌が立って、笑顔がこみ上げた。




もみじ<東北を熱くする 追悼星野仙一さん>(3)三つのボール 「開幕」3勝勇気届ける野球


<東北を熱くする 追悼星野仙一さん>(3)三つのボール 「開幕」3勝勇気届ける

<東日本大震災が発生した2011年、プロ野球は予定より18日遅れて4月12日に開幕した。

星野仙一さんが率いて1年目の東北楽天は千葉でロッテと対戦。先発・岩隈久志投手の好投、

嶋基宏捕手の3ランなどで、6−4で勝った。ウイニングボールは被災地の皆さんへ届けてほしいと、

河北新報社に寄贈された。「東北の皆様へ」は選手会長だった嶋捕手の文字。

「2011 4.12 開幕戦勝利」は星野さんが書いた>


◎甲子園なら田中 

 やっぱり、最初のウイニングボールは東北に届けないといけない。

それなら河北新報さんが一番いいだろうと思った。

あのとき、本当はロッテ戦の開幕投手は田中(将大投手)に決めていた。

だけど震災が起き、仙台の球場(日本製紙クリネックススタジアム宮城=Kスタ宮城)は

まだ使えないので、東北楽天主催の開幕戦(4月15日)は甲子園を借りることになった。

甲子園なら田中がいいなと変更したんです。

一つ、面白い話があります。震災が起きる前のオープン戦のころ、

「開幕投手はおまえだよ」とボールに書いて、外野でボール拾いをしていた将大にぽんと渡した。

そしたら将大はメッセージも見ずに岩隈に投げようとした。「おい、将大、おまえメッセージを見ろ」と

大慌て。気付いた将大は「ああっ、分かりました」と。


<甲子園での主催開幕戦はオリックス相手に田中投手が完投し、3−2で勝利を収めた。

このときのウイニングボールには田中投手が「東北の皆様江」と書いた。

そして4月29日、修復工事を終えた本拠地・Kスタ宮城での開幕戦を迎える。

先発は田中投手。オリックスに3−1で勝った>


◎この試合だけは 

 本拠地での開幕戦は、ようやく地元に戻れたなという思いで、選手は異常な精神状態でした。

「このゲームだけは絶対に取らなきゃいけない」と。それぐらい、みんなが集中して戦っていました。


<甲子園での主催開幕戦、本拠地での開幕戦それぞれのウイニングボールも、メッセージと共に

河北新報社に贈られた。千葉での開幕戦と合わせた「三つのウイニングボール」は

Kスタ宮城やJR仙台駅、被災各地で展示され、被災者らを勇気づけてくれた。

さらにこの年、オールスターゲームの第3戦がKスタ宮城で行われた。

星野さんの強い要請で実現したとされる>

こういうときこそ、東北でオールスターゲームを実施すべきだ。

被災者のためにも、日本のためにもなる−。こう訴えたら、コミッショナーも各球団のオーナーも、

みんなが分かってくれました。

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