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イーグルスファンコミュの塩見 恩返し誓う 猛練習振り返り「感謝」&「活躍できず」浜矢が悔やむ

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野球塩見 恩返し誓う 猛練習振り返り「感謝」野球

悲しみを乗り越え、闘将にプレーで報いるしかない。

星野氏が東北楽天の監督に就任した直後、2010年秋のドラフト会議で1位を引き当てられた塩見は

「たくさん怒られたけど、感謝しかない。しっかり恩返しできるように活躍したい」と誓った。

午前中から室内練習場を訪れ、キャッチボールなどで約1時間、体をほぐした。

「突然のことで信じられない」。恩師の訃報に動揺しつつ白球に集中した。

「昨夜はいろんなことを思い出した」。

ドラフト1位の交渉権獲得の札に「歴史の立役者になれ」とのメッセージをもらったこと。

新人の年、2カ月勝てなかった時期も辛抱強く使ってもらったこと。

監督室に連日呼ばれ、周囲が心配するほど怒られたこと。

2年目の秋季キャンプは菊池、辛島、戸村、釜田と当時の若手投手5人組で「闘将ファイブ」と呼ばれ、

連日1時間半の猛ノックを受けた。

「きつかった」と振り返りながらも「今につながっている」と言う。「だけど、全然活躍していない。

恩返しできていない」と目を赤くして話した。

昨季はクライマックスシリーズで好投したが、けがで出遅れて3勝3敗と不本意だった。

「まずは、けがなく開幕を迎えること」。はやる気持ちを抑え、

8日に渡米して大リーグで活躍する岩隈と恒例の自主トレに入る。


野球「活躍できず」浜矢が悔やむ野球

浜矢は、星野氏の監督最後のシーズンだった14年に入団。

その年の9月28日の西武戦でプロ初登板して初勝利を挙げ、星野氏に記念の腕時計をもらった。

「(先発し)打たれながらも五回まで使ってもらい、時計までいただいた」と感謝を口にした。

昨季の開幕戦で被弾したときは、「しっかりせい」とハッパを掛けられるなど、常に気に掛けてもらった。

「期待してもらったのに活躍できなかった。今年はしっかり中継ぎに食い込み、

みんなと優勝を目指したい」。

塩見と共に渡米して岩隈の自主トレに加わり、課題の精神面などを鍛えるという。



野球【楽天】仁村スカウト副部長「星野仙一語り継ぐ」野球


楽天の仁村徹スカウト部副部長は7日、4日に亡くなった星野仙一副会長(享年70)を語り継いで

いくことを誓った。

ともに中日でプレーした現役時代から薫陶を受け、楽天では11年に作戦コーチ、12年は2軍監督、

13、14年はチーフコーチとして闘将を支えた参謀役が思いを語った。

仁村にとっても星野副会長は特別な存在だった。

「野球の恩人だし、人としても尊敬している。男が男にほれる、そういう人。復興しても震災を

語り継がないといけないのと一緒で、星野仙一も語り継がないといけない。

それは残された者の宿命」と話した。

一緒に過ごした時間が多かっただけに、特別な思い出というより、共に過ごした日常の会話が胸に

残る。

「寂しいよね。相談したりもしたしね。亡くなったとはいえ、こういうときはこう言われるなと思いながら、

やっていきたい」。その教えを常に胸に置いて、これからも歩んでいく。

最後に会ったのは、12月1日に大阪で行われた「野球殿堂入りを祝う会」。

病気のことは全く聞かされておらず「本当に誰にも言わなかったみたい。星野さんらしい。

心配かけないで、すごいよね。

もう1回、顔を見たかった。最後に会いたかったね」と故人をしのんでいた。




野球「厳しさの中に愛情」仁村徹氏学んだ星野哲学野球


<星野のDNA(1)>


星野仙一氏は多くの財産を残した。有形無形のそれぞれを「星野のDNA」と題し連載する。

第1回は、中日、楽天で2軍監督やコーチとして仕えた参謀・楽天スカウト部副部長の仁村徹氏に

受け継がれたもの。

楽天のベンチ裏に怒声が響いた。声の主は、マギー。

13年8月のある試合。「あんなことで! 銀次は、いつも頑張ってるじゃないか」。

発端は、仁村チーフコーチが凡ミスした銀次を怒鳴りつけたこと。

一本気なマギーには理解できなかった。険悪な雰囲気の中、星野監督が口を開いた。

「いいんだ。仁村は銀次が2軍の頃から目をかけている。

銀次も分かっている」。下地に愛情があることにマギーも納得し、場は収まった。

約1カ月後に初優勝。銀次も、マギーも、欠かせない戦力だった。


仁村氏は、星野氏を「厳しさの中に愛情があった」と懐かしむ。

銀次への指導は、星野流そのものだった。身をもって味わった。

プロ4年目の87年、星野氏が中日監督に就任。レギュラーに起用された。

当時は血気あふれる青年監督。「よくしかられた。怖かった。だけど、監督も必死。

監督とは、そういうもの」と理解した。教わったのは、基本の大切さ。何より勝負への執念。

「常に勝つために前向き。甘い野球はするなと。でも、勝つだけじゃダメ」。

勝っても内容が悪いと、またしかられた。

勝負師の下での経験が、仁村氏の指導理念の柱となっていった。

「(星野氏は)選手を我慢強く使う。使うと決めたら使い切る。そうしないと、選手は、人は、

動かないんだと思った。短気そうに見えて、我慢強い。選手をよく見ていた。視点が違う。

状態が悪く、悪い結果が出ると分かっていても、選手を使い切る」

順風満帆ではなかった。楽天1年目。東日本大震災後に一時、選手と距離が出来た。

野球をやっている場合じゃないという選手たち。プロとして野球を続けるべきという監督。

仁村氏は「お互いが理解し合う期間だった」と思っている。

14年秋の勇退セレモニー。泣かない選手はいなかった。

仁村氏にとって、星野氏とは? 「人としても、野球人としても、尊敬している。全てを教わった。

若い人に伝えていけるように」。銀次は「星野仙一のような男になりたい」と悼んだ。

DNAは受け継がれている。

◆巨人マギー(前楽天)のコメント 勝負にこだわる、燃える闘争心と、

ユーモアあふれる温かい人間性のどちらをも、私は決して忘れることはありません。

私は偉大な、そして野球界で最も優れた監督の1人の下でプレーすることができたことを一生感謝し、

忘れません。日本シリーズに勝って監督を胴上げできたことは、私の誇りです。


野球楽天ドラ1近藤、昨年末に星野氏から「けがするな」野球

楽天ドラフト1位の近藤が、闘将の魂を引き継ぐ。

亡くなった星野副会長は、岡山・倉敷出身。昨年末には同氏とパーティーで会った。

「星野さんから『けがするな』と言われたことが印象に残っている。故障したら、試合に出られない。

僕は広島出身ですけど、活躍することが恩返しにつながると思う」と決意を新たにした。



野球星野さん信念背負った77、球界初監督永久欠番検討野球


楽天が4日に70歳で亡くなった星野仙一球団副会長の監督時代に着用していた

背番号「77」を永久欠番とすることを検討していることが7日、分かった。

また、お別れ会を複数都市で開催することも検討中。

候補地には東京、大阪、仙台などが挙がっている。

詳細の決定はこれからだが、多くのファンとお別れの機会を設けるため、

さまざまなプランを練っていく。

楽天が、亡くなった星野副会長が監督時代に付けていた背番号「77」の永久欠番化を

検討しているという。

尊敬する巨人川上哲治元監督に倣い、中日、阪神で監督を務めていた際も付けたことのある番号。

球団関係者は「まだ正式に決まっていないですが、そういうプランもあります」。

チームではヤンキース田中が付けていた「18」が半永久欠番となっている他、背番号「10」が、

ファンのための番号として欠番となっている。

「77」が永久欠番となれば、監督、選手のものとしては球団史上初となる。

またお別れ会を複数都市で開催するプランも練っている。

本拠地の仙台だけでなく、東京や大阪が候補に挙がっているという。

親交のあった方や多くのファンに来訪してもらいたい狙いがある。

現時点で場所や時期、形式などは未定。球団関係者は「2月はキャンプ。

1月に開く声もあれば、3月の声もある。どこでやるのか、球場なのか、施設か、どういう風に行うのか。

まだ何も決まっていない」と話し、具体的な部分は今後詰めていく。

お別れ会以外の行事も考えている。星野副会長の故郷である岡山・倉敷のマスカットスタジアムは、

3月にオープン戦で使用する。球団が秋季キャンプでも利用するなじみ深い場所。

同市の「星野仙一記念館」が、前日6日に献花台を設置したが、

球団関係者は「球団としても何かやりたいという声がある」と話している。

今のところ追悼試合の予定はないものの、喪章を着けるなどさまざまな形で故人をしのぶという。

楽天では、11〜14年に監督を務めた。13年にはチームを初の日本一に導き、東北に夢と感動を

与えた闘将。

球団、ファンに与えた影響は語り尽くせない。密葬は6日に三重・津でしめやかに執り行われた。

今度は球団として、偉大な功労者を手厚く送る。


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