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イーグルスファンコミュの星野監督「あいつに勝ち星つけるぞ」で1球勝利…元楽天・山村宏樹氏が秘話語る

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野球星野副会長への献花台を楽天生命パークに設置野球


楽天は7日、4日に死去した星野仙一副会長(享年70)への献花台を、

楽天生命パークのゲート1に設置することを決めた。時間は7日が14時半から17時半、

8、9日は10時〜17時半。

闘将との別れの場を望むファンの声が多く届いており、球団が6日から検討していた。


野球星野仙一氏 膵臓がんに力尽く…最後は「昼寝のような表情」野球


楽天球団副会長の星野仙一(ほしの・せんいち)氏が4日午前5時25分、

膵臓(すいぞう)がんのために死去したと6日、球団が発表した。70歳。

この日、星野氏の近親者による密葬が営まれ、後日「お別れの会」が開かれる予定。

最後まで「燃える男」の美学を貫いた。

球団の発表によると、星野氏は約1年半前の16年7月に急性膵炎を発症。

それをきっかけに膵臓がんが判明した。昨年12月末に病状が悪化。

最後は「昼寝でもしているような安らかな表情で、ご家族にみとられて旅立たれました」という。

周囲にはがんで闘病していることは明かさず、体調に波はあったものの昨秋のドラフト会議など

数々の仕事をこなしてきた。男・星野は決して弱みは見せない。

病状を公にせず、突然の訃報となったのも故人の強い意志ゆえ。

球団側は「人前では常に強気を貫いた“星野仙一”のスタイルを最後まで全うしようとしたことですので、

何とぞご容赦ください」とした。

星野氏は息を引き取る寸前まで「(春季キャンプ前の)コーチ会議に出られるかな」と話していた。

現場に、愛する野球のそばにいたい。しかし、その願いはかなわなかった。

球団は発表文の中で「最後の最後まで野球に情熱を燃やし、野球に一生を捧(ささ)げた

星野(球団)副会長でした。故人に代わり、今まで支えてくださった全ての皆さまに感謝申し上げます」と

つづった。




野球星野監督「あいつに勝ち星つけるぞ」で1球勝利…元楽天・山村宏樹氏が秘話語る野球

 中日、阪神、楽天の元監督で、現楽天球団副会長の星野仙一氏が膵臓(すいぞう)がんのため、

70歳で亡くなった。2013年に楽天を日本一に導き、東日本大震災の被災地に希望をもたらした

闘将の訃報に、東北は深い悲しみに包まれた。

元楽天投手で現スポーツコメンテーターの山村宏樹氏が、現役最後の2シーズンに監督だった

星野氏との秘話を語った。

星野氏が楽天の監督1年目だった2011年。山村氏はプロ17年目。

2軍キャンプからのスタートだった。

6月に1軍昇格。宮城・利府町の練習場から北海道・旭川遠征中の1軍に慌てて合流した。

「監督が『山村を呼べ』と言ってくれたと、後で聞きました。結果は打たれたけど、(監督は)

1軍に上げたら、すぐ使っていただいた」

その年の8月25日の日本ハム戦。

1―1の7回裏、4番手で登板した山村氏は、プロ野球史上32人目の「1球勝利」(2○1)を挙げた。

「リリーフで僕が中田翔を1球で打ち取り(左飛)、ベンチに帰ってきたら

、監督が野手に『あいつ(山村氏)に勝ち星つけるぞ。よーし、行け』とハッパをかけてくれた。

当時の僕の主な役割は、負けている試合のリリーフ。

そんなベテランに気を使ってくださったんでしょうが、うれしかった。

直後にチームが本当に勝ち越したんですよ。試合後には『ごほうびだな。

もう1回頑張れ』と言っていただきました」

現在、山村氏は仙台市を中心にスポーツコメンテーターの仕事をする一方、

母校の山梨・甲府工野球部の非常勤コーチを務めている。

「監督は勝ちにこだわり、『優勝する』と言葉に出し続けた。

僕が高校球児を教えることになったときも『子供達の夢をかなえてあげたいなら、

高校生自身が夢を言葉にして甲子園、甲子園と言い続ける―そういう指導も必要だ』と

教えていただきました」

甲府工の、今年の練習始めとなった5日、山村氏は生徒に、星野氏の名前を出して、

その教えを伝えた。その翌日に知った訃報。

 「今朝(6日)、テレビをつけて言葉を失いました。生徒に監督の言葉を伝えたばかりだったので」

闘将は逝ったが、その教えは世代を超えて脈々と受け継がれていく。




野球ノムさん 星野氏の死を悼む「いくら何でも早すぎる」 阪神と楽天で“Vにつなぐ”野球

元楽天監督の野村克也氏は「いくら何でも早すぎる。お悔やみを申し上げるほかない」と悼んだ。

01年まで監督を務めた阪神を翌02年から星野氏が指揮。

09年に楽天監督を退くと、11年に星野氏が監督に就いた。

「阪神でも楽天でも私の後に監督となり、優勝につなげた不思議な巡り合わせがあった」と振り返った。



野球嶋、星野さんに誓う「今年こそ東北熱くします」野球

闘将の言葉を胸に、東北を再び熱くする。


嶋が6日、4日に亡くなった星野仙一氏への思いを語った。

監督就任1年目の11年に東日本大震災が発生。選手会長として最初は星野氏と衝突することも

あったが団結し、13年の日本一につながった。

負けることが当たり前だったチームを闘う集団へと変えた指揮官に感謝し、

今季の日本一奪還を目指す。

まだ、受け止められなかった。嶋は「実感がないし、考えられないです。信じられない。

球場に行ったら『嶋!』と呼ばれると思う」とつぶやいた。

11年3月、東日本大震災が起きた。野球をしている場合ではないという選手に、

就任1年目の星野監督は怒った。「最初は僕たちのことを理解してくれなかったと思った。

今になって分かる。何十年とプロの世界で生きてきた星野さんは経験が違った。

僕たちが一時的な感情で動いていたり、子どもだった」。プロ野球選手としてできることを気づかされた。

少しずつ全員が変わっていった。チームには負けることに寛容な雰囲気があった。

敗れてもクラブハウスには笑い声が響いた。しかし「星野監督が来られて意識は変わった。

負けたゲーム後、帰りのバスで笑い声は一切なくなった。1つの勝ちに対する執念、情熱。

特に若い選手が肌で感じた」と闘将の怒声が闘う集団へと導いていった。

厳しさは愛情だった。

捕手という役割上、よく怒られた。だからこそ「僕は絶対に星野さんを黙らせてやろう、

納得させてやろうという思いがあった。それが優勝になった」と話す。

選手を発奮させるための言葉のムチ。

「その中に愛情があって、本気でそいつのことを思っていろんなことを言ってくれた。

人間味というのは星野監督と出会って勉強させてもらった」と胸に響いた。

忘れられない言葉がある。

「13年、日本シリーズ第6戦に敗れた後に全員集めて『頼むから俺を男にしてくれ』と言われた」。

崖っぷちで選手を頼りにしてくれたことがうれしかった。

思い出は数え切れないほどある。

「監督から教えていただいた『闘う姿勢』を忘れず、今年こそ東北を熱くします。

そしていつか監督のような厳しさの中に愛情のある人間になりたい」。

闘将の思いは東北で生き続けていく。




野球大久保博元氏、元日に電話「また飯でも食いに行こうや!!」元気だった“おやじ”が…野球


中日のエースとして「燃える男」、中日、阪神、楽天の監督時代は「闘将」と呼ばれた

星野仙一球団副会長が4日午前5時25分に死去した。

体調が優れないと聞いてはいたが、本当に信じられない。

元日の午前10時過ぎ、新年のあいさつをするため携帯電話を鳴らしたら、いつもより元気のいい声で

「おめでとう! また飯でも食いに行こうや!!」と応えてくれた。

ボクにとって、「おやじ」と呼べる最後の人が旅立ってしまった…。

2011年オフのことだった。西武のコーチ時代、選手への暴行問題でクビになり、球界復帰など

夢にも思っていなかった“浪人中”のボクに打撃コーチとして声をかけてくれたのが

当時楽天監督だった星野さんだった。

母子家庭で育ったボクは、そのとき以来、星野さんを「おやじ」と呼ばせてもらっていた。

ボクがやろうとすることには、「ダメだ」ではなく「よし、やってみろ」。

選手が活躍すれば「オマエから渡してやれ」とボクにそっと高級時計を差し出す。

今だから話せるが、借金で困っている教え子や選手がいると聞けば、自費で援助したことも

1度や2度ではない。頼まれたら断れない、まさに親分肌の人だった。

おやじに一度だけ反抗したことがある。14年のシーズン終盤。監督室に呼ばれ、告げられた。

「おめでとう。来季はオマエが監督だ」。ただ、星野さんは体調が悪く、球団を去ろうとしていた。

ボクが「おやじが辞めるなら、ボクも辞めます」と言うと、苦笑いして「分かった。オレも残るから、やれ」。

これが、一番の思い出だ。

ボクは1年で監督を辞め、東京・新橋に居酒屋を開店した。ほどなく、

楽天時代の顔なじみが何人も店にやってきた。

後で聞けば、星野さんが「デーブの店に行ってやれ」とポケットマネーを渡したという。

こんな「おやじ」は、もう球界に現れないだろう。
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野球池山隆寛氏「闘将の気合受け継ぐ」/星野さん悼む野球



池山隆寛2軍監督が、星野仙一球団副会長の死去を受け

「あまりにも早すぎます…。悲しいです。。。」と悔やんだ。

池山氏は7日、ブログを更新。星野さんの訃報に触れ「突然訃報で今は何も考えられません。

星野さんがいたから今の自分があったと言っても過言じゃありません。でも…あまりにも早すぎます…。

悲しいです。。。」と早すぎる死を悼んだ。

「思い起こせば、最初に楽天のコーチを任された時に、真っ先に闘将の77番を頂きました」と振り返り、

「天国からでも野球をご指導ください。また、我々やプロ野球界、そして、日本の野球に携わる全ての

方々を見守ってください。

一生懸命野球に突っ走ってきた闘将!!星野仙一さん。ゆっくり、ゆっくり休んでください。

闘将の気合いを我々が受け継いで行きます」と呼びかけるようにつづった。
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野球池山2軍監督のブログ野球

https://ameblo.jp/ikeyama-t/entry-12342210314.html

2018-01-07 06:46:41より

闘将!!星野仙一さん…。





おはようございますしょぼん



既報の通り、闘将!!星野仙一さんが天国に行ってしまいました。。。



突然訃報で今は何も考えられません。

星野さんがいたから今の自分があったと言っても過言じゃありません。



でも…あまりにも早すぎます…。

悲しいです。。。



思い起こせば、最初に楽天のコーチを任された時に、真っ先に闘将の77番を頂きました。



天国からでも野球をご指導ください。

また、我々やプロ野球界、そして、日本の野球に携わる全ての方々を見守ってください。



一生懸命野球に突っ走ってきた闘将!!星野仙一さん。ゆっくり、ゆっくり休んでください。



闘将の気合いを我々が受け継いで行きます。



合掌。

『がんばろう日本!!…NEXTSTAGE』





野球ドラ4渡辺佑樹、山梨盛り上げる「欲しいのは勝利だけ」野球


富士学苑高でエース左腕として活躍し、ドラフト4位で楽天に入団した渡辺佑樹投手=

富士吉田市出身、横浜商大4年=は6日までに、9日からの新人合同自主トレを前に

「欲しいのは勝利だけ」と話し、1年目からの活躍を誓った。

霊峰・富士の麓から渡辺が日本一を目指す。5日の入寮まで、母校・富士学苑のグラウンドで

トレーニングを重ねた。

「新人合同自主トレに一番いい状態で臨めるよう体を動かしてきました」

プロ入りが決まり、環境は一変した。富士吉田に戻ると、母校の仲間を始め、たくさんの祝福を受けた。

「実感がようやく湧いてきました(笑い)。周囲の人が喜んでいる姿を見ると、

プロ野球選手になったすごさと喜びを感じます」

中学までは軟式野球で外野手。高い能力を発揮していたが、強くなるより、

みんなと一緒にプレーするのが楽しかった。

転機となったのは、横浜商大野球部・佐々木正雄監督との出会い。

マウンドでも冷静に投げられる性格を『長所』と捉えていたが、指揮官には「勝利への気持ちが

足りない」と映った。

生活面から厳しく鍛えられ、マウンドでも1球にこだわる闘志を学んだ。

3年春のリーグ戦では3勝を挙げ、ベストナインを獲得。

スカウトが訪れるようになり、初めてプロを意識した。

「本当に厳しい監督で、めちゃめちゃ怒られましたが、もっと勝ちたいと思うようになりました。

監督に会わなかったら、今の自分はない。だからこそ恩返しできればと思います」

契約金4000万円、年俸1000万円(推定)で合意。プロ入りを果たした。

「何を買うの? ってすごい聞かれるんですが、特にないんです。休日も部屋で漫画を読んだり、

動画を見たりするくらいで、あまりお金を使わないタイプ」

“無欲の男”に、あえて欲しいものを聞いてみた。しばらく考えた末に出た答えは―。

 「勝利が欲しい。気持ちの入った投球で、どんな状況でマウンドに上がっても、勝てる投球をしたい」

1日でも早く1軍投げたい プロ1年目の目標を「挑戦」と書いた。

 「1日でも早く、1軍のマウンドで投げたいです。合同自主トレから、しっかりアピールしていきたい」

 山梨で唯一のプロ選手として、注目される中で新たな世界に飛び込む。

 「山梨の方にもぜひ、(楽天の本拠地)仙台に来てほしい。

様々なことに挑み続け、勝ち続ける投手になりたいです」

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