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イーグルスファンコミュの宮川、諦めず戻った1軍マウンド「3桁の背番号は2度と着けたくない」

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野球美馬 岸に聞きたい「緩いカーブとかチェンジアップとか」 野球

中大出身の美馬が東京都内の中大附属中で野球教室を行い、軟式野球部員らに変化球の

握り方などを指導した。

一方で、今季9勝をマークした右腕も西武からFA移籍した岸に「緩いカーブとかチェンジアップとか

僕の持っていない球種がいっぱいある。どんな感じか聞いてみたい」と伝授を熱望。

防御率4・30で自身初2桁勝利まであと一歩に、「あと1勝が壁だった。防御率を3点台前半にしないと

勝負にならない」と岸の加入を発奮材料にする。



野球「10キロは痩せてくるように」/梨田監督野球

梨田昌孝監督が、巨漢大砲に減量指令を出した。

NPB史上最重量となる体重135キロで、今季から加入したアマダーに対して、

「メキシコに帰国する前に、キャンプインするまでには、10キロは痩せてくるようにと伝えておいたよ」。




野球宮川、諦めず戻った1軍マウンド

「3桁の背番号は2度と着けたくない」野球

2016年11月25日(金) 11:00より

育成選手としてスタートしたプロ野球人生だった。

1年目で支配下登録され、初勝利を挙げるも、2014年オフには再び育成に降格してしまう。

2度の手術、先の見えないリハビリ生活。それでも諦めなかった宮川将は、

東北楽天の1軍のマウンドに戻ってきた。



野球待ち望んでいた指揮官からの言葉野球


支配下登録選手として契約更改に臨むのは、13年オフ以来、2度目のことだった。

16年11月13日。そこには、スーツ姿ですがすがしい表情をした宮川がいた。

「去年の契約更改とは気分的にまったく違いましたね。1軍で1試合も投げられなかった15年から、

今年は支配下に復帰して9試合投げることができた。堂々と(交渉に)臨むことができたと思います」

7月14日からのオールスター休み前に、「休み明けから1軍練習に参加しろ」と球団から告げられた。

直感的に「これが(支配下返り咲きの)ラストチャンスやな」と察した。

支配下登録のリミットは同月31日だからだ。この機会を逃せば、16年は育成選手のまま終わる。

1軍の首脳陣が見守る中、渾身(こんしん)のピッチングを披露する。

すると練習後、梨田昌孝監督に呼ばれた。指揮官は厳しい表情のまま。

しかし、掛けられた言葉は「1軍の戦力として戦ってもらう」。

宮川にとっては待ち望んでいた一言だった。

「最初、監督さんの顔を見たときはダメなのかな……と思ったんですけど、

次の瞬間にはいつものにこやかな監督さんに戻っていて(笑)。

一安心しました。去年はキャッチボールすらままならなかった。

不安の中、ずっとやってきた。(支配下は)目標にしてきたことなので」


野球父の支えに報いるうれし涙野球

永遠とも思えるような時間が流れていた。

12年のドラフト会議。左右の両輪として、ともに大体大を支えてきた松葉貴大が、まず“外れ外れ”と

いう巡り合わせながらドラフト1位でオリックスに指名される。

会場は一気に祝福ムードに包まれ、胴上げなどセレモニーが続く。

宮川はその間、別室でじっと“その瞬間”を待っていた。だが――。

全体の70番目に東京ヤクルトが大場達也(日立製作所)を指名したのを最後に、全球団が選択終了を

決めた。

静寂さが戻った会場に、諦め切れない男が1人いた。会議開始から3時間になろうとしていたが、

依然、自分の名前は読み上げられないまま。「本指名が終わったとき、一度は『ダメだ』と思いました」。

大きな瞳はすでに真っ赤に充血していた。

だが、育成ドラフトの指名が始まると状況が急変する。

東北楽天の育成1位として、宮川の名が挙がったのだ。「

育成は高校生が選ばれるイメージを持っていて。でも指名されて、

『首の皮一枚つながった』という思いでした」。悔し涙が一気にうれし涙へと変わった。

支えてくれた人がいた。父・欣也さんは息子の夢を叶えるサポートをしようと、

脱サラして飲食店を開店させた。

「大阪ナンバーワン右腕」と騒がれた大体大浪商高時代にも、

「おまえにはまだ実績がない。大学に行ってもう1回鍛え直してプロを目指そう」と助言され、

本人も納得した。

大体大に進学すると、父はドラフトまでの日めくりカレンダーを自作

プロから指名を受けるために足りないものを一つずつ、つぶしていくことに没頭した。

そんな二人三脚の日々が頭の中を駆け巡ると、涙はますます止まらなくなった。



野球ガムシャラさでつかんだ支配下登録野球

待って、ひたすら待って喜びをかみ締めたドラフトとは対照的に、ルーキーイヤーには急展開が

訪れる。宮川は背番号「121」を背負ってプロの世界に飛び込むと、必死に右腕を振った。

「2軍では成績、結果にこだわりながら、とにかくガムシャラに投げ続けました。

1年目はとりあえずこれくらいの成績を残して……なんて悠長なことを言っていられる

立場ではないので。とにかく必死でした」

2軍では先発ローテーションに組み込まれていた。

そして、ちょうどチーム本体が遠征に出ており、宮川が2軍の泉練習場でトレーニングしていた

ある日のこと。

「昼ぐらいに練習を上がると、携帯電話が鳴ったんです。投手コーチ(当時)の高村(祐)さんから

『コーチ室に来てくれ』と」

部屋に入るなり、「おめでとう。(本拠地の)Kスタに行ってくれ」。「え、何のことですか?」。

まさに寝耳に水の出来事だった。「スーツに着替えて、早く! 支配下おめでとう」。

末尾の言葉が心に引っかかったものの、半信半疑のままタクシーで球場へ向かう。

球団から正式に告げられると、ようやく現実として捉えることができた。6月2日、支配下登録される。

「プロに入ってから一つの目標にしていた、支配下選手になることができてとてもうれしい。

まだスタートラインに立ったばかりなので、これからも努力を続け、チームの勝利に貢献できるように

一生懸命にプレーしていきたい」。

プロ野球選手の証しでもある2桁の背番号「90」を着けることになった右腕は、

そう言って目を輝かせた。


野球うれしさと悔しさ交じる1軍経験野球

プロ初登板は6月5日のヤクルト戦(神宮)。中継ぎ登板だった。


「神宮のマウンドは大学時代に経験していて(大学2年、4年の全日本大学選手権)、

緊張せえへんやろなと思っていた。でも、プロはお客さんの数も違うし、雰囲気が違った」

1球目、振りかぶった瞬間にいろいろなことが頭をよぎった。

その結果、「大暴投になってしまいました(苦笑)」。とはいえ、自身のプロ野球人生をスタートさせた。

だが、初勝利までは遠かった。なかなか白星が手元に舞い込んでこない。

好投しながら報われない日々に、「今日の勝ちは宮川や!」と星野仙一監督(当時)が

憤ることもあった。

歓喜が訪れたのは、初登板から2カ月が経過した8月4日の北海道日本ハム戦(札幌ドーム)。

先発の戸村が4回3失点とピリッとせず、怒った星野監督は「5回から宮川や!」。

すると、5回表に味方打線がプロ野球新記録となる1イニング7二塁打と爆発し、一挙7得点。

その後、7回までの3イニングを1失点に抑えた宮川にようやく初白星が転がり込んだ。

育成入団の選手が1年目に1軍で勝利を挙げたのは、史上初の出来事だった。

このシーズンは17試合に登板して2勝0敗、防御率2.45。

球団初のリーグ優勝、日本一のメンバーに名を連ねたが、振り返る宮川の表情は曇っていた。

痛恨のミスを犯したのは、巨人と戦った日本シリーズ第4戦(東京ドーム)。

4回から2番手としてマウンドに上がった宮川だったが、「シーズン中とはまったく別物。

球場の雰囲気にのまれたというか……」。

2連続四球と適時打で1点を失うと、続く寺内崇幸には頭部への死球。危険球で退場となった。

「日本一になってくれたからよかったですけど、もし負けていたら……。

でも、あの緊張感が最高潮とすれば、普段の試合は平然と投げられます」。

悔しさ交じりの貴重な経験となった。


野球右肘痛の始まりと育成落ち野球



うれしさと悔しさを同時に味わった1年目。貴重な財産を手に、大きく飛躍するはずだった。

しかし、選手生命をも脅かす暗雲は突如出現する。

2年目は前年と同じ17試合の登板ながら、防御率4.29と大幅に悪化。原因は右肘の異常にあった。

「1年目はロングリリーフが多かったですけど、勝ちゲームで起用されることもあり、

投げる間隔も空いていたんです。でも、2年目は一転して最下位ですから。

連敗もある中で体の回復が追いつかなかった。

痛くても、我慢しながら投げていた部分も確かにありました」

状態が悪い中で投げ、打ち込まれて2軍落ち。キャッチボールでも痛みが出たため検査したところ、

右肘の肘頭疲労骨折が判明した。

「疲労骨折というのは普通、じん帯が緩んできて不安定な中で投げると起こるものですけど、

僕の場合は直接骨に負荷が掛かったようです」。

シーズン終了後の10月15日、ヒジの別部分から骨を移植する手術を受けた。

退院すると、球団から呼ばれた。「まさか、戦力外か……」と身構えたが、

その内容は「育成として1年間しっかり体を作り、次の年にまた支配下に戻れるよう頑張ってくれ」と

いうものだった。最悪の事態は回避されたが、だからといって未来が見えてくるわけでもなかった。



野球後輩に習った不屈の精神力野球

翌15年の春季キャンプからキャッチボールを再開したが、すぐに痛みが出てしまう。

ノースローを入れて再開しても、また痛み出すという負の連鎖が続く。

「痛みがあったり違和感があったり、その繰り返し」。トレーナーと相談し、少々の痛みならば

我慢しながら投げていこうという方針だったが、すぐに限界が訪れる。

「骨を移植したことで、ほかの箇所にも悪い影響が出て……」。8月、クリーニング手術を行った。

長く先の見えないリハビリ。支えとなったのは同志の存在だった。2歳下の右腕・釜田も

また、13年秋に右肘にボルトを埋め込むと、14年春にはトミー・ジョン手術を行い、

復帰を目指していた。

「ウエートルームには音楽がかかっているんですけど、釜田はいつもイヤホンをつけて

黙々とトレーニングに励んでいる。

一方の僕は当初、1軍の試合を見る度に焦りや歯がゆさを感じたりして……。

気持ちの波が大きかった。でも釜田には不屈の精神力みたいなものを感じたし、

この姿勢を見習わないとなと思えました。年下ですけどお手本になるし、本当に尊敬できるヤツですよ」



野球気持ちは熱く、頭は冷静に野球

2軍登板もゼロに終わった15年、オフの契約更改では「1年間しっかり戦える体を」と、

これまでと同じ言葉を球団から掛けられた。ただ、「早く戻ってきてくれ」とは言われなかった。

それは自分自身が考えること。

「ヒジの状態がどうこうと言える立場でないのは分かっています。今年ダメなら終わり。

しっかりやろうと思っていました」

崖っぷちの男には、一方で興味深い現象が起こっていた。

ストレートの最速が147キロから151キロにアップしたのだ。


「リハビリ期間の1年半の間にしっかりと体を鍛え直せたのも大きいですし、

投げられなかった期間に自分を見つめ直せたと思います」


フォーム自体は大きく変わっていない。変化があるとすれば、自身の内面だという。


「1軍の試合をテレビで見ながら、自分だったらこうするとか、冷静に野球と向き合えるようになった

気がします。マウンド上であれこれ考え過ぎなくなった。

気持ちの余裕も出てきて、力みも少なくなりました」 

気持ちは熱く、頭は冷静に――。これは大体大浪商高時代に習ったことだが、

今になってやっと、真の意味を理解できたという。


「緊張で舞い上がったデビュー戦、日本シリーズとは違う姿、成長した姿を見せることができていると

思います」


野球「育成出身」を売りにしない野球


今は自分らしさを追求する毎日。すなわち、ストレートで追い込んでいく姿勢であり、投げっぷりの良さ。

「今年は三振も結構取れたと思うので(9回2/3で9奪三振)、そういうピッチングを続けていきたい。

接戦や勝ちパターンを任されるようになりたいし、ロングリリーフもやりたいし、先発もやってみたい」。

投球への欲は無限にあふれ出る。

また、育成での経験が自身を成長させてくれたという実感はあるが、

「育成出身の――」というキャリアを売りにするつもりはない。

「言い方は悪いですけど、僕が背負っていた3桁の背番号では、プロ選手じゃないと思っていました。

『プロ野球選手になりたい』、『プロ野球選手に戻りたい』という一心で練習してきたわけですから、

この番号はもう2度と着たくないです」

最初に支配下登録されたとき、「スタートラインに立った」と表現した宮川。

ならば、これは2度目のスタートラインとなる。今までとは違った“宮川将”を見せるつもりだ。

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