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織豊から徳川への歴史コミュの第十三章 織田信長第2章〜天下布武〜その2

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1574 天正2年
・正月、朝倉義景、浅井久政・長政親子のどくろで祝杯
・越前守護代の桂田(前波)長俊が一向門徒に殺さる。
・武田勝頼に美濃の明智城を落とされ、小里城に池田恒興を置く
・従五位下に昇任。
・六角義賢が近江石部城を退散。佐久間信盛に石部城を管理さす
・武田勝頼が徳川領の遠江・高天神城を落とす
・伊勢長島の一向門徒二万人を焼殺。織田信広討死
・滝川一益に北伊勢五郡を与える
・荒木村重に摂津を与える。



1575 天正3年
・本願寺・三好を攻め、三好康長降伏
・長篠の戦い。織田-徳川連合軍が武田勝頼を設楽原で撃破。
・越前の一向一揆を十日間で鎮圧。一万数千人の大虐殺。
・従三位参議権大納言兼右近衛大将に昇任
・家督を信忠に譲る。




1576 天正4年
・安土城へ転居。
・石山本願寺を攻めるが苦戦。
・石山本願寺攻めの主将を佐久間信盛に任じ、天王寺城に入れる
・毛利水軍に完敗。
・正三位内大臣兼右近衛大将に昇任。



1577 天正5年
・紀伊の雑賀を攻める。雑賀の鈴木孫一ら投降
・安土山城下町掟を公布。楽市楽座とする
・柴田勝家ら、加賀で上杉謙信に惨敗
・松永久秀、再度謀反。焼死。
・羽柴秀吉に播磨を与える
・羽柴秀吉、但馬の竹田城を落とし、弟秀長を入れ置く
・従二位右大臣兼右近衛大将に昇任
・羽柴秀吉、播磨の上月城を落とし、尼子勝久を入れ置く



1578 天正6年
・正二位右大臣兼右近衛大将に昇任
・上杉謙信、病没。
・信忠らに石山本願寺に攻め込ませる
・織田信忠らを播磨に派遣。
・九鬼嘉隆に鉄船を建造させ、和泉沖で雑賀水軍を破る
・荒木村重、謀反。




1579 天正7年
・法華宗、浄土宗の論争。負けた法華宗方、斬られる。
・明智光秀、丹波を攻め、波多野三兄弟を生け捕る。
・明智光秀、丹後に侵攻
・柴田勝家、加賀へ侵攻
・荒木村重、有岡城から逃げだし、尼崎に移る
・羽柴秀吉、播磨で別所勢に大勝
・徳川家康の嫡子信康切腹。
・滝川一益ら、荒木村重方の有岡城を落とす
・明智光秀、細川藤孝、丹後、丹波を平定
・羽柴秀吉の介添えを受け、宇喜多直家の投降を認める
・誠仁親王の第五皇子を猶子とし、二条の新邸を献上
・荒木村重、信長への投降を拒否。信長、妻子を切る。
・九鬼嘉隆、鉄船で毛利水軍を木津川河口で破る





1580 天正8年
・羽柴秀吉、播磨の三木城を落とし、別所長治ら、切腹
・石山本願寺と和す。
・羽柴秀吉、播磨、但馬を平定。
・柴田勝家、能登、加賀を平定。加賀を佐久間盛政に与える
・土佐の長宗我部元親、明智光秀の取り次ぎで信長へ貢物を献上
・明智光秀に丹波を与える。
・石山本願寺焼失
・柴田勝家、加賀の一向一揆を退治




1581 天正9年
・佐々成政に未平定の越中を与える
・各地より配下部将を京に呼び寄せ、天覧の馬揃えを行う
・佐久間盛政、加賀の一向一揆を退治
・細川藤孝へ丹後を与える
・このころ安土に惣見寺完成
・羽柴秀吉、因幡へ進入。鳥取城を兵糧攻めにする
・荒木村重の残党を匿ったため、高野聖数百名を斬る
・前田利家へ能登を与える
・織田信雄、伊賀を攻略。信雄に伊賀三郡、信包に一郡を与える
・羽柴秀吉、鳥取城を落城させ、毛利方の吉川経家を切腹さす
・羽柴秀吉、因幡、伯耆国境で毛利方の吉川元春と対峙、和す
・羽柴秀吉、池田恒興が淡路を平定




1582 天正10年
・追放された佐久間信盛病死。子の信栄赦免される
・信忠、信濃、甲斐へ侵攻。武田勝頼切腹し、武田家滅亡
・滝川一益に上野、及び信濃二郡を与える
・甲斐を河尻秀隆、駿河を徳川家康、信濃四郡を森長可に与える
・六角義賢をかくまった恵林寺を焼く。
・三男信孝へ四国の長宗我部征伐を命じる。信孝、準備を始める
・徳川家康、穴山梅雪、拝領のお礼に上洛。明智光秀が接待役
・羽柴秀吉、備中の高松城を水攻め。
・羽柴秀吉の救援のため、明智光秀、細川藤孝らに出陣命令
・明智光秀、連歌を詠む「ときは今あめが下知る五月哉」
・本能寺の変。信長、明智光秀に攻められ、自害




もはや敵なしの織田右近衛将信長・・・天下統一は、時間の問題かと思われました。

しかし・・・「人間50年」で始まる「敦盛」を好んだ信長は、このときすでに47歳・・・。

人生の終焉は、すぐそこまで来ていたのです。

 

信長は次第に、カリスマがなくなりつつあったのです。

遮二無二何かにぶつかっていた時には、家臣にも温情を与えていた信長でした。

しかし段々天下が見えてくると、荒木村重、佐久間信盛、六角義賢といった謀反人には、一族ともども残忍な仕打ちを行いました。

信長に目をかけられれば良し・・・さもなくば「死」あるのみ。

 

こういう風に感じてくると、家臣団の中に不調和音が生じます。

柴田勝家、羽柴秀吉、前田利家、佐々成政・・・彼らは、「勝ち組・主流派」でした。

中でも、羽柴秀吉の出世振りはめざましく、他の武将からは疎まれるほどでした。

彼は敵には残酷に、身内には温情をかけたので、各地で武功をたてたのです。

信長ほどではないにしろ、兵糧責めなどで地獄の苦しみを与えていたのです。

自分の軍は戦闘をさせずに勝つ・・・秀吉はあちこちでこの自慢をしていたらしいのです。

 

明智光秀、細川藤孝、滝川一益・・・彼らは「負け組・反主流派」です。

信長が好むやり方を・・・残忍な全滅方法をとらなかったのです。

中でも明智光秀は、猛烈な危機感を覚えていたことでしょう。

下人から身を起こした「さる」に手柄をとられ、いつのまにか接待役になってしまっている。

このままでは・・・信長の気性からしても、自分の身の上が危ない!

おまけに・・・狂気に満ちた信長は、場合によっては皇位を簒奪するやもしれない。

知識人として織田家と朝廷の橋渡し役を任されていた自分には、到底見逃す訳にはいかない。

絶望の淵に追い込まれた男は・・・いちかばちかの、一世一大の賭けに出たのです。

 

備中の高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉への救援部隊として、天正10年(1582)明智光秀と細川藤孝に出陣命令が下されました。

朝敵・・・織田信長成敗の陣容をとりました。

信長を成敗する事は二人の家臣にしか伝えられていなかったとのことです。

「敵は、本能寺!」

最初は極めて静かな夜盗の様な討ち入りでした。

 


★ショート小説「本能寺」

「殿!敵襲でございます!」

小姓とわずかばかりの手勢では、たちまち追い込まれた。

その旗印を目にしたとき・・・信長は光秀が謀反であるこを悟った。

「おのれ光秀!」

しかし・・・残された手の者はわずか・・・。

「是非に及ばず」

もはやこれまで。

「ここを死守せよ。」

「殿?」

「わが首(しるし)を・・・光秀如きに、渡したくないでな。頼んだぞ!」

信長は寝屋に戻り、槍の刃先についた血をぬぐうと、扇子を取り出して舞い始めた。

「敦盛」・・・。

「人間五十年・・・ 」

おれはもう充分に生きたな・・・。

「下天の内を比ぶれば・・・」 

尾張のうつけから身を起こし・・・義元めをやぶり、美濃の親父殿と語り合った・・・。

「夢幻の如くなり・・・」 

そして天下人への夢を追った・・・。

しかし、良い夢だったのう・・・・。

「一度生を得て ・・・」

そうだ、おれは決めたではないか・・・一度っきりの生だ・・・自由に使おうと!

「滅せぬ者のあるべきか・・・」

そろそろ・・・かの・・・。

信長は部屋に火を放ち、火中に悠然と座し己が死を待った。

     

        

「殿・・・火が!」

「うむ・・・。」

燃え上がる本能寺を見ながら、明智光秀は、何を思ったか?




5)信長の史的役割

 

 

信長の居城と言えば、安土城です。

最近NHKで放映された番組「信長の夢・安土城発掘」では、実に面白い特集を組んでいました。

この城については、信長の居城という以外、あまり知られていませんでした。

それは、すでに焼け落ちているからです。

最近安土山の発掘が行われ、驚くべき事実が解明されつつあります。

 

この城は、従来の「要塞」としての城の概念を大きく逸脱し、「政治の象徴」としての城でした。

まず地理的には、当時ふもとまで広がっていた琵琶湖に面し、京まで船で1時間で行けること。

東には中仙道があり、まさに交通の要所だったのです。

 

ふもとには人工的な町が作られ、全国から商人が集められていたらしいのです。

信長が奨励したとされる「楽市楽座」のグレードアップ版なのでした。

これによりこの安土は、全国ににらみを効かせることができ、しかも京をもその制圧下におくことができる場所だったと言えます。

 

大手門は広く、10人程度の列を作っても、まだ余裕があったほどです。

従来の大手門は、人が1人〜2人しか通れません。

これはたぶんに、戦略的な理由です。

攻め入ってきた敵を、足止めするためのものだったからです。

 

安土城は本格的な天守閣を持った、初めての城でもありましたが、この天守閣を宣教師フロイスはこう語っています。

「城の中央には彼らが『天守』と呼ぶ塔があり、それはヨーロッパのものよりはるかに気品がある。」

この宣教師フロイスがアドバイスしたのかどうかはわかりませんが、この天守閣にはどうやら『吹きぬけ』があったようなのです。

日本には、このような建築はありません。

間違いなくヨーロッパ人から受け入れた知識が活かされています。

 

そしてこの天守閣から空中廊下で『本丸』と繋がれていました。

この『本丸』は、当時天皇が日常生活に使っていた『清涼殿』と、ほとんど同じつくりになっていたようです。

だとすると、信長は、天皇を迎え入れる場所をわざわざ作ったということになります。

つまり・・・信長は、右大臣ではなく「征夷大将軍」になろうとしていたのではないでしょうか。

 

信長といえば、比叡山延暦寺焼き討ちや一向一揆弾圧など、仏門の敵として扱われていました。

しかし天守閣にはどうやら、仏舎利塔もあったらしいのです!

これは、従来の信長のイメージを、大きく変える発見です。

信長はおそらく・・・自分の敵には徹底的に押さえ込んだが、それと宗教とは別だと考えていたとしか思えません。

むしろ信長は、精神論をベースとして、日本を変えようとしていたのかもしれないのです。

しかしそのやり方が強引すぎたため・・・そして後の権力者のために、そのイメージが我々に植え付けられただけなのかもしれません。

南蛮かぶれで仏門の大敵・・・そういうイメージがあまりにも強過ぎるがために・・・。

ひょっとしたら明智光秀を炊きつけた人物または集団がいたのかもしれません。

それは永遠の謎かも・・・しれません。

 

革命児織田信長・・・彼は様々な革命を実践しています。

(1)軍隊

職業的な専門戦闘軍団を育成したのは、実は信長が最初でした。

鉄砲隊を最初に組織したりもしました。

武田勝頼率いる武田騎馬軍団を破った長篠の戦いは、それまでの「いくさ」を「戦争」へと変えた画期的な事件でした。

(2)経済

当時の日本は金銀の精製法が普及し、ちょっとしたゴールドラッシュでした。

タイミング良く・・・というか、先見の明があったのでしょうが、信長の商業奨励はパチッとハマりました。

商人の多くは信長に投資したのです。

その結果が秀吉時代にも続けられ、歴史上『安土・桃山時代』と呼ばれる絢爛豪華な時代を現出させたのです。

(3)旧体制との決別

皇室は別として、信長は自分にとって不必要な権威は、いとも簡単に否定してしまいます。

そして諸外国の文化を率先して取り入れるなど、非常に柔軟な思考の持ち主でもありました。

異文化との接触は、多大なるエネルギーを生み出します。

その結果、羽柴秀吉の天下統一事業が、非常にスムーズに進むことになりました。

 

これから研究が進むにつれて、信長のイメージは大きく変わることでしょう。

しかし、彼が自分の信念に正直であり過ぎたために、49年という短い生涯となっていまいました。

当時の人間から見ても、やはり信長は『暴れん坊』だったのでしょう。

織田信長という戦国時代の暴れん坊が、どうして選ばれたのか。

それは、例えて言うなら、山火事を静めるのに火をもって制するのに似ています。

無用なものを滅し、リフレッシュするために、選ばれた・・・そう思わずにはいられません。

 

コメント(1)

☆新年、おめでとうっ、
ございます!!
不況!?の御時世、心弾ませ、
明るい年に致したいですっ
…♪\(^o^)/
本年も、どうぞ宜しく
お願い申し上げます!!
m(._.)m

☆1/2今夜TV「信長燃ゆ」見てね♪
皇室を必死で守った
近衞前久、信尹(信基)も登場致します!!

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