ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

織豊から徳川への歴史コミュの第六章 天下統一以前と三傑の役割〜その6

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
○守護大名の台頭と応仁の乱

   

鎌倉時代には、守護・地頭・荘園領主という3つの権力が、各地にありました。

守護とは軍事・警察権を持った役職。

地頭とは、昔からその地を支配しているか、もしくは御家人達が所領を安堵された場合に任命される役職で、実質は荘園の管理者でした。

荘園領主は公家や武家もおり、その土地のオーナー。

源頼朝は御家人管理の礎を地頭とし、幕府から地頭へという流れで全国を管理していました。

農民や商人にとっては、地頭はまさに権力そのもの。

過酷な年貢の取りたてや、刑罰まで扱っていたとされています。

  

しかし鎌倉幕府の崩壊とともに、地頭職の権限は大幅に縮小。

地頭・御家人の区別はなくなり、国人と呼ばれるようになっていました。

建武の新政時期には国司も置かれていましたが、室町幕府になると、幕府からの命令系統は守護へと移行しました。

すでに大いなる力を蓄え始めていた各地の武将・豪族たちを新たに守護職に任命し、彼らに一国の責任を与えたのです。

その権限は鎌倉時代のものよりはるかに強大で、軍事・警察権の他に裁判権をも持っていました。

これは武士が、鎌倉時代の幼稚な考えから、自分たちの力に自信を持ってきた結果必然的にそうなったものです。

彼らの持つ裁判権により、その影響力は国内の御家人から一般庶民までに及ぶようになってきました。

そして彼らが自分たちの権限強化に積極的になったことで、守護から一国の支配者にまで変化していったのです。

彼らを鎌倉時代のものと差別化するために、守護大名と呼んでいます。

    

彼らは半済・守護請という方法などで、変化していきました。

半済とは幕府が出した臨時軍事費徴収制度のことで、近江・美濃・尾張・伊勢・志摩・伊賀・河内八ヶ国に限り、

「荘園の年貢の半分を守護が徴収してもかまわない」

とするものでした。

しかしこの八ヶ国にとどまらず、土地まで拡大解釈されるようになりました。

これによって支配権を獲得していったのです。

守護請とは、混乱が続く中で荘園の管理をも守護が請負い、結果として強大な権力を手に入れたパターンです。

鎌倉幕末から南北朝の内乱期のあいだ、荘園領主は自領の管理に忙殺されました。

野盗や他国の侵入などで、荘園は荒廃し、農民も自立してゆきました。

窮地に立たされた領主はその対策として、経営自体を守護に委ね、少ないけれども一定の年貢収入をキープしようとしたのです。

また段銭という臨時税金の徴収も任されていましたので、事実上民衆にとってはそのトップが守護となっていきました。

こうして各地の守護は大名化し、次第に幕府をおびやかす存在となっていったのです。

  

3代将軍義満没後、幕府はこれら守護大名・管領の反乱及び自立しようとする農民一揆に悩まされることになります。

列挙してみましょう。

   

(正長の一揆)

正長元年近江坂本の馬借を中心に山科・醍醐の農民も加わった徳政一揆。

幕府に徳政令公布を要求し、京都の酒屋・土倉を襲って質物の奪還、証文の焼却などを行いました。

(長享の乱)

永享10年、鎌倉公方足利持氏が室町幕府にそむいた事件。

持氏が彼をいさめる関東管領上杉憲実を攻めたのを機に、幕府は今川、武田らに出兵させ、箱根で持氏を撃破。

(嘉吉の乱)

嘉吉元年6月、播磨守護赤松満祐が6代将軍足利義教を自邸の宴に招いて暗殺した事件。

領国に帰った満祐は幕府軍に攻められて自殺。

   

中でも嘉吉の乱によって幕府の権威は衰え、赤松氏の勢力もなくなりました。

そして8代将軍足利義政のとき・・・戦国時代の幕開けとなる大争乱が起こったのです。

      

      

○応仁の乱

   
この応仁の乱を語る前に、その根本的な要因を覚えなければなりません。

南北朝統一がなされ、ようやく日本にいくさがなくなったあたりから、足利一門内に乱れが生じてきました。

それが前述した長享の乱。

そもそも足利幕府は、古地関東での拠点を鎌倉に定め、その補佐役として関東管領職を設置していました。

管領職は代々上杉家が踏襲してきましたが、徐々に関東での足利一門は京の本家とは異なる動きを見せ始めてくるようになりました。

おそらく関東における足利一門は、複雑な勢力基盤が渦巻く中で常に緊張状態があり、京を基点として政を考える本家とは考えが相容れなかったのでしょう。

そして本家でも、6代将軍足利義教の頃には足利政権もやや陰りが見え始め、3代将軍義満の権威を現出させようとして中央集権を図り、これも地方政権が不満を抱く要因のひとつだったことでしょう。

鎌倉公方足利持氏を討ったあと、足利政知は関東公方として関東に入りましたが持氏の子成氏に入国を阻まれ、伊豆に根を下ろしました。

これが堀越公方となり、足利成氏は幕府と相対する立場となり、拠点を下総古河に移してこれが古河公方となります。

こうして足方本家と古河公方の対立となったのですが、ここで一代事件が起こってしまいました。

よりによって、将軍足利義教が播磨・美作・備前の守護大名赤松満祐によって殺害されるという嘉吉の乱です。

これによって幕府内は大混乱に陥り、これを鎮圧したのが後に応仁の乱の本幹となった細川氏、山名氏。

その後7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で将軍となりましたがわずか1年で急逝。

8代将軍は義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承することとなりました。

関東での争いが幕府に強く影響を及ぼし、そしてこれが応仁の乱へと移行していく様は後述します。




さてやや時代は戻りますが、3代将軍義満の時代、足利政権は絶頂期を迎えます。

武家と公家の文化が融合し、かつてない豊かな建築が建立されました。

その代表たる京都の金閣は、義満の作った北山第の名残です。

この時代を北山第にちなんで北山時代と呼んでいます。

   

義満は当時の朝廷と文化面でも張り合っていました。

同じ京にある2つの権力者は、いくさこそ起こしませんでしたが、お互いに派手な演出をするなど意地を張り合っていたのです。

有力な守護大名を排斥して南北朝合一を果たした義満にとって、後小松天皇以上の存在でありたかったのではないでしょうか。

義満は1397年に義持に将軍職を譲ったものの、その後も影響を幕府に与え続けました。

事実上の院政を行い、日明勘合貿易の相手明から、日本国王に封ぜられてもいます。

院政は実に11年間にも及びました。

そしてそれが、足利政権の最初にして最後の輝きとなったのです。

         

4代将軍義持は、北山第の多くの建物を解体して鹿苑寺とし、日明勘合貿易を一方的に打ち切りました。

独裁者だった義満に対する、反発路線です。

ところが、日明勘合貿易の中止は財政面で大いなる打撃となり、幕府は弱体化してゆくことになります。

義持は義量に将軍職を譲り、院政を始めましたが、有力な守護大名からは蔑視されていました。

義満路線を踏襲していれば、あるいは財政的に優位に立てたのですが・・・父と息子はいつかライバルになるものです。

守護大名達は幕府の拘束を無視するようになりました。

義量が19歳で早世した後義持は再び将軍となりましたが、混乱の度合いは深まるばかりでした。

          

前述したように6代将軍となった義持の弟義教(義圓)は、強い幕府を復活させるべく、様々な政策を打ち出しました。

守護大名の無礼打ちなど、強攻策をもって守護大名統制にかかったのですが、それが仇となりました。

ところが1441年(嘉吉元)6月、四職の1人であり3カ国の守護を兼ねる赤松満祐の自邸で義教は暗殺。(嘉吉の乱)

赤松満祐は山名勝豊率いる幕府軍によって討伐されますが、将軍家の威信は完全に落ち、後の争乱のお膳立てができあがってしまいました。

    

7代将軍には義教の子義勝が8歳で就任したものの、8年足らずで早世。

このため8代将軍には、義勝の弟義政が8歳で就任。

義政は政治に無頓着であり、彼が口出しする場合は、自分の趣味が叶えられるかどうかが全てだったとさえ言われています。

義政の時代は、銀閣が造営された東山にちなんで、東山時代と呼ばれます。

まつりごとをすべき人間が趣味三昧ですから、現実逃避的な文化とも言われています。

義政は御所では毎日宴会三昧だったとそうです。

関東管領細川勝元と山名勝豊(宗全)の張り合いも、この義政の無能ぶりが産んだものと言えます。

一方民衆は飢饉の連続で餓死者が多数発生し、難民が都に退去して訪れるなど、政情不安も高まってきていました。

時代のエネルギーは、様々な形で表れる・・・その典型的な現象が、起きようとしていました。

        

 


   

賢俊という真言宗の僧がいました。

権大納言日野俊光の子で三宝院賢助の弟子であり、兄弟に日野資朝、資名がいます。

彼は1336年醍醐寺座主に補せられ、東寺長者、根来寺座主を兼ね、西走した足利尊氏に従い、護持僧として活躍しました。

九州落ちした尊氏に光厳院の院宣を受けさせ、京都復帰の足がかりを作った人物です。

のちの将軍家と日野家との密接な関係とは、彼の活躍によって定まりました。

彼によって、代々の足利将軍は、正室を日野家から娶る慣習となっていました。

8代将軍義政の正室日野富子は、彼の兄弟日野資名の子孫です。

そしてこの日野富子が・・・応仁の乱を日本史上かつてない長期内乱としてゆくのです。

   

足利義政には男子がいませんでした。

それで天台宗の浄土寺僧侶だった弟の義尋を還俗させ、後継者とし、義尋は義視と改名して9代将軍となる予定でした。

既に管領を辞職していた細川勝元が執事となり義視を補佐しました。

ところが皮肉なことにその翌年1465年(寛正6年)11月日、義政の妻富子が男子(義尚)を産んだのです。

当然、義政の気持ちは我が子へと傾きます。

そして何よりも、義尚の母富子が義視を排斥し、我が子を次期将軍へすべく必死に活動を開始し始めました。

富子は義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼し、義視の補佐役細川勝元の勢力と対抗させようとしました。

その為幕府内部は義尚派と義視派とに分かれ、対立が起こってきました。

    

その矢先の1466年(文正元)9月6日、細川勝元をはじめ諸将が伊勢貞親への誅罰を要請し、貞親は近江に出奔するという事件が起こりました。

伊勢貞親は義政に信任され、1460年(寛正元)政所執事となり、殿中惣奉行・御厨別当などを兼ね権勢をふるっていました。

しかし彼は1466年(文正元)2つの管領家のひとつ斯波氏の内紛に介入。

この介入によって足利義視をおとしいれようとしたというのが、誅罰要請の理由でした。

伊勢貞親は義尚の養い親でした。

これだけならまだしも、続いて相国寺の季瓊真蘂もその後を追って、消息不明となりました。

季瓊は禅僧ながら、一部に黒衣の宰相と呼ばれた幕政の実力者だったのです。

伊勢貞親は明かに義尚派であり、季瓊の方もまた義尚派だったと思われます。

そこでこの義尚派である実力者両人は、義視の排斥を画策し、義政に義視の事を讒言したらしいのです。

義政も我が子義尚を次期将軍にと考えていたので、それではいっそのこと義視抹殺をと考えました。

ところが、この謀りごとは義視に洩れ、驚いた義視は山名宗全を、次いで細川勝元を頼った。

宗全らは日頃から貞親らとあまりそりが良くなかったので、義視の話を聞き、いよいよ討とうと決意。

貞親・季瓊はその勢いに恐れをなし、そこで近江に遁走した・・・と考えられています。

 

将軍家家督争いは、たちまち他にも波及しました。

それは管領の斯波・畠山両家、および信濃守護小笠原家・加賀守護富樫家・駿河守護今川家など家督相続争いです。

この一連の家督争いの原因は、管領・守護の認定権が将軍にあったからです。

その頃斯波家では養子斯波義敏と実子斯波義廉、畠山家でも養子畠山政長と実子畠山義就との間に、家督相続をめぐっての争いが続けられていました。

そこで細川勝元・畠山政長・斯波義敏が結びつき、これに対し山名宗全・畠山義就・斯波義廉がグループを結成。

その結果、諸国の守護大名や彼らの比護下にある豪族達も又、どちらかにつかざるを得なくなりました。

そして1467年(文正2)正月18日、山名宗全・畠山義就・斯波義廉グループが京都上御霊社にいた管領畠山政長を攻めて罷免させ、斯波義廉を新管領に押し上げました。

両派の関係は一段と悪化し、山名宗全・畠山義就・斯波義廉と細川勝元・畠山政長・斯波義敏はそれぞれの派閥諸将を動員。

山名宗全派と細川勝元派は京都を舞台に東西に別れて、対陣しました。

同年3月、年号は「応仁」と改元されました。

5月26日・・・ついに両軍がいよいよ戦闘開始。

将軍義政も重い腰をあげ、かねてから苦々しく思っていた山名宗全に対し、細川勝元を支持して弟義視追討の命を下しました。

義視は、1468年(応仁2)11月13日に比叡山へ出奔。

こうして1477年11月11日まで10年10ヶ月にも及ぶ応仁の乱が勃発したのです。

       

応仁の乱は実に11年の長期に渡って行われました。

それは、本来ならば調停役であるべき幕府が・・・というより、将軍が無能かつ現実逃避家だったからです。

両軍は京の都を焦土とさせ、中央による日本の統制を事実上不可能にさせました。

山名宗全と細川勝元の病死によって京都での戦闘はひとまず終わりに近づいたものの、両軍はその領国においてさえもなお戦い続けました。

朝倉孝景が越前に、山名是豊は備後へ派遣され、さらには細川勝元軍主導で山名宗全軍の主力大内政弘を背後から襲うとするなど次第に地方も戦乱に撒きこまれていったのです。

将軍義政が支援したということにより、一応は細川勝元軍が幕府軍、山名宗全軍が逆賊という扱いになっていたようです。

以後、細川勝元軍を幕府軍、山名宗全軍を西軍と呼びます。

         

総大将を欠く西軍が迎え入れようとしたのは、出奔していた義視でした。

義視が西軍に迎え入れることを阻止したい幕府軍は、義視を厚遇するなど非常に気をつかっていました。

しかし彼は西軍に迎え入れられ、軍の総大将として復権を図りました。

これに対し幕府軍は天皇に奏上して義視他の官位剥奪を行いなど、徹底して西軍切り崩しに動きました。

その甲斐もなく1469年正月になると西軍は義視を将軍と称させ、擬似幕府を成立させてしまいました。

この後しばらく小競り合いが続くものの、東西両軍の主力がぶつかり合うようなことはありませんでした。

しかし乱は収束せず全国的に拡大し、また慢性的な停滞が起こり、武家も民衆も疲弊しきってしまいました。

結局戦闘が一応終了したのは1478年(文明10年)7月10日、義政と義視との和解まで待たねばならなかったのです。

   

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

織豊から徳川への歴史 更新情報

織豊から徳川への歴史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。