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織豊から徳川への歴史コミュの第十九章 徳川家康として

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4)最強軍団三河衆

  

永禄9年(1566年)の12月、家康は25歳になっていました。

そしてついに祖父の目標だった三河を統一することが出来ました。

朝廷から従五位下三河守に任じられ、朝廷の勅許を得て「徳川」に改正したのもこの年です。

この徳川・・・かつて松平親氏以前の祖が住んでいたとされる「上野国新田郡世良田郷得川(現在の群馬県)」から決定したとされています。

勿論これは、確固たるものではなく、でっちあげたと解釈されてもおかしくないものでした。

しかしこの時代、まことにもっていい加減に、姓を変える武将はいくらでもいました。

関東管領上杉の後継者を自認した越後の上杉謙信(長尾景虎)や、小田原の北条(祖先は伊勢新久郎盛定・・・北条早雲)などはその好例と言えましょう。

苗字を変えることで、今までの飾り物主君ではない、独立した国主だと、内外に訴えたのです。

翌永禄10年(1567)には、嫡男竹千代(信康)が織田信長の娘徳姫と結婚し、清洲同盟もいよいよ固いものとなってきました。

  

 

足場を固めた徳川家康の軍団は、優れたものでした。

彼らは実に12年もの間屈辱に耐えてきたのでした。

そして主君の価値を試すかの如き一向一揆を、温情と断固たる決断を以って鎮圧した君主を仰ぎ見ることで、彼らにとっての家康の価値を決定的に高めたのです。

家康は野戦上手と言われています。

それはひとえに、武田騎馬軍団と並び称されるこの「三河軍団」の、家康のために命を捨てることを全くいとわない滅私奉公の姿勢にありました。

彼らとともに、家康自身の采配ぶりも、成長していったのでしょう。

 

   

永禄11年(1568)・・・この年は、家康にとって、実に重要な一年でした。

盟友織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭が第15代征夷大将軍となることにより、信長の地位が著しく向上したのです。

同様に、同盟者徳川家康も高名となり、様々な外交手腕を試される一年だったのです。

そのターゲットは・・・様々な思いが混じる、今川でした。

家康は、甲斐の武田信玄と今川領の分割を約し、遠江に侵攻しました。

この時点で、武田・北条・今川という3家が、関東で覇を競っていました。

それで同じく駿河・遠江を欲していた東の雄と結んだのです。

三河軍団の働きと武田の後押しもあり、今川氏真を駿府から遠江掛川城に追いこむことに成功。

翌永禄12年(1569)には、掛川城からも撤退させ、遠江の一部を領有します。

 

 

そして徳川家康と三河軍団の名を決定的に高めたのが、翌年でした。

越前朝倉攻めの途中浅井長政に裏切られ、京へ逃げ帰る織田信長のしんがりを木下秀吉とともに務め、朝倉勢の追撃を防ぎきって武名を高めた、いわゆる「金ヶ崎の退き口」です。

そしてその後織田信長とともに、浅井・朝倉連合軍を近江姉川の戦いで破ったのです。

6000人の三河軍団は猛攻を加え、圧倒的多数の浅井・朝倉連合軍をほぼ壊滅させ、敗走させました。

居城を浜松に移し、いよいよ関東へ勢力を伸ばそうとする家康に立ちはだかったのは、昨年同盟を結んだばかりの武田信玄でした。

信玄は野望を持っていました。

関東に覇を唱え、京に昇ると。

となれば・・・衝突するのは、清洲同盟!

いずれ雌雄を決しなければならない間柄だったのです。

覚悟を決めた家康は、信玄のライバル、越後の上杉謙信と同盟を結びました。

 

 

5)武田との攻防

 

元亀2年(1571)には、武田勢は三河・遠江に侵入。

高天神城や、吉田城での攻防ののち、いったん甲斐に戻っています。

 

 

翌元亀3年(1572)ついに、武田信玄が動きました。

9月29日、山県昌景率いる先発隊5000人が三河東部へ侵入。

先発隊は柿本城を落し、怒涛の如く遠江へと進撃しました。

まさしく「風林火山」・・・。

じっと時を見て、チャンスと見れば圧倒的な騎馬軍団が席巻する・・・各国大名が恐れた武田騎馬軍団と、それを統べる信玄入道の力でした。

信玄自らは病気の為、遅れて10月3日に甲府を発ちました。

さらに浅井長政、朝倉義景に書状を送り、信長の後方を攪乱するよう申し伝えていたと言います。

完全に本気だったことがわかります。

本隊の兵力は援軍を加え、2万2千人。

本隊は伊那郡を南下して信州街道・青崩峠・兵越峠を越え、10日には遠江へ侵入。

信玄は山県昌景と合流すると、12日には只来城と飯田城を攻略。

さらに攻撃目標を二又城に絞りました。

この報を受けた家康は13日、大久保忠世、本多忠勝らに兵3000人で偵察させますが、三箇野川付近で武田軍の前衛と衝突してしまい、あえなく敗走。

さらに進撃して来た武田軍と一言坂付近で再び戦闘となりますが、本多忠勝がしんがりをつとめたおかげで、やっとのことで浜松に逃げ帰ることができました。

二又城は、陥落。

 

そして、徳川家康はこれまで数多く敗走するも、この敗戦がなければ後の徳川もなかったとされる、史上有名な三方が原の戦いへと突入するのです。

 

  

○三方が原の戦い

  

この武田方との戦いにおいて、織田からは佐久間信盛らの支援部隊が浜松に来ていました。

少ない人数ではありますが、当時浅井・朝倉連合軍や毛利、石山本願寺などを相手に四面楚歌状態の信長にとっては、精一杯の救援だったと思われます。

また信長は、ことの他武田勢・・・というより、信玄を恐れていたようです。

家康に信玄の挑発に乗ってはならぬと忠告してきています。

  

翌22日、武田勢は三方が原を通過するかのように、進軍し始めました。

好機とばかりに城を出て、追い討ちをかけるべく進軍中の家康に、武田勢が進路を変えて浜松城に向かったとの報が届きます。

家康は急遽浜松城に引き返しましたが、武田軍は今度は進路を変えて三方が原の北にある祝田の坂へと向かったのです。

老練な軍略家武田信玄の真骨頂・・・。

諏訪一族との攻防や、上杉謙信と激闘を繰り返していたのは、だてではありません。

これで若い家康は、完全に判断を誤ってしまいます。

武田勢は浜松城を攻めず、背後からの急襲にかけて、城を出ました。

ところが・・・信玄の思惑は、騎馬軍団を最も有効に活用できる場所に、家康を誘い出すことにあったのです。

その場所は三方が原!

信玄は家康が浜松を出たことを知ると、きびすを返して陣を張りました。

  

家康は8000人の軍勢で進んでいくと、武田勢はすでに陣形を整えて待機していました。

家康が気付いたときには、もう時すでに遅く・・・。

家康はあわてて鶴翼の陣をつくり(おそらくは心の中で信玄を罵りながら)、信玄はさんざん上杉勢を悩ませた魚鱗の陣。

石川数正の突進で幕をあけ、最初こそ武田軍の首級を200とったものの、たちまち形成逆転。

本多忠勝、榊原康政、大久保忠世らの奮闘で持ちこたえるも、家康の旗本衆が崩壊。

そこへ信玄の命で徳川勢の後ろへ回り込んだ部隊が急襲し、挟み撃ちにされて家康の軍はちりぢりになって退却。

武田が誇る騎馬軍団は、野戦で最大の力を発揮しました。

家康の完敗でした。

  

本多忠勝のしんがりのおかげで、家康はやっとのことで浜松に逃げ帰ることができました。

家康は城門を開かせ、松明を焚いて逃げ帰って来る家臣を中へ入れようとしました。

しかし・・・追手としてやってきた武田勢は、城門が開いて松明が赤々と焚いてある様を見て、何か策略があるものと勘違いをして引き揚げていったと言われています。

そのとき家康は本丸で寝ていた・・・とされていますが、果たしてどうだったのでしょうか。

この戦法は、中国の諸葛孔明が用いた戦法です。

おそらくは、後世作られた逸話ではないかと思われます。

総大将信玄の病気のためこれ以上の進軍をあきらめた・・・まあこんなところでしょう。

たまたま味方の兵を迎え入れるために城門を開けていたのにもかかわらず、武田勢はそれ以上追わなかったというのは事実でしょう。

歴史は後世つくられるという、好例と言えます。

そして当の勝者武田信玄入道は・・・翌天正元年(1573),上洛の夢半ばにして53歳の生涯を終えたのです。

  


 

一命をとりとめた家康は、信玄に劣らぬ猛将武田勝頼と覇を競います。

三方が原の戦いで大きくダウンした戦力の補充をしながら小競り合いをくり返し、2年間を充電期間にあてていました。

そして、武田騎馬軍団最後の日がやってくるのです。

新たな武器、鉄砲の存在によって・・・。

 

  

○長篠の戦い

  

天正2年(1574)、高天神城が武田軍の攻撃により落城するという事件が起こります。

家康・・・というより、清洲同盟にとっても、いよいよ武田勝頼との決戦をするときがきました。

信玄は亡くとも、無敵の武田騎馬軍団は健在でした。

信玄を恐れていた信長は、嫡子勝頼は相手にしていなかったものの、やっかいなのが騎馬軍団。

ここで一気にカタをつけるべく、接近戦で効果を発揮する騎馬軍団に対抗する兵器を導入していました。

3段階式鉄砲部隊の導入・・・。

   

天正3年(1575)5月8日今度は勝頼が兵力を率いて、父の意志を受け継ぐべく上洛の途につきました。

武田と織田の最終決戦となる長篠の戦いの火蓋が、切って落とされたのです。

ここで主戦場になったのが、2年前に家康が武田から奪い取っていた長篠城の近辺です。

武田軍の本格的攻撃は4月下旬から始まり、5月8日に城自体に対する攻撃が始まりました。

武田の激しい攻撃に対して、長篠城城主奥平信昌は何とか持ちこたえます。

ここで有名な、奥平家臣鳥居強右衛門の決死の伝言話があります。

鳥居強右衛門は密かに城の包囲網を抜け出し、家康らから援軍向かうとの返答を伝言すべく長篠城に戻る途中、直前に武田の兵に捉えられてしまいました。

強右衛門は長篠城中の者に見せ付けられるように武田の陣中で磔にされます。

そこで援軍は来ない、降伏させよと言われ、言えば命を助けると言われたのです。

納得したかのように見せかけ、磔台にくくりつけられた強右衛門を見て、奥平信昌以下城中の者は固唾を飲んで見守りました。

その時に強右衛門はにっこり笑い、大きく息を吸うと大声で長篠城の味方に、

「もうすぐ援軍が到着するぞ!待ちなされ!」

と伝え、直後に刺されて絶命したのです。

これで長篠城の兵は一気に士気が高まり、さらに持ちこたえることになるのです。

翌日、織田信長は野田、武田勝頼は設楽原に布陣。

21日早朝、武田騎馬軍団と清洲同盟連合軍が激突しました。

この戦いで注目すべきは、鉄砲隊の存在です。

当時ヨーロッパ伝来の鉄砲(種子島銃)が注目されてはいましたが、当時のものは単発。

一度撃つたびに銃身を素早く掃除し、弾をつめてまた火縄に火をつけるという、大変面倒なものでした。

次に発射できるまで非常に時間がかかるため、一度退却せねばならず、この問題がために普及が遅れていたのです。

信長は考えました。

接近戦では武田に勝ち目はない。

鉄砲の魅力は、離れた状態からの攻撃にあるのだから、これを使わない手はない。

では、どうすれば良いのか・・・。

信長は日本の軍事史上に残る、画期的な戦法を採用しました。

それは3段階式鉄砲部隊の編成。

  

信長は3000人の鉄砲隊を3人ずつの組に分け、一人が発射したら次の者が前に出て、また発射。

これを繰り返し、発射した者はすぐに後ろに下がってすぐ鉄砲を掃除し、また火薬を詰めて次の発射の準備をさせたのです。

この方式でやれば、文字通り雨のように銃弾が飛んできます。

いわゆる弾幕に近いものを、信長は考案したのです。

この鉄砲部隊の前に、無敗を誇った武田騎馬軍団は壊滅。

武田勝頼をはじめ、武田の諸将は度肝を抜かれたことでしょう。

信じられない、まさに悪夢・・・。

武田勝頼は敗走。

これで武田は戦意を喪失し、その後没落してゆくのです。

しかし、武田勝頼は決して無能な武将ではなかったと思います。

父の遺産とはいえ、あの騎馬軍団を率いる様は、ひとかどの武将であったはずです。

事実、信玄の死後、家康は勝頼との小競り合いで、けっこう苦戦しています。

ただ・・・あまりに、父信玄の存在が大きすぎたと言えましょう。

甲斐の国自体が、信玄という幻想にひたりすぎていたのです。

もし・・・信玄存命中に、勝頼の存在が大きくなっていたとしたら、ここまで戦意喪失することはなかったでしょう。

武田が誇るもう一つの存在、乱破(忍び)を駆使して情報を仕入れ、織田以上の鉄砲隊をも編成することができたのかもしれません。

時代は、織田信長と徳川家康を、選んだのです。

こうして、清洲同盟連合軍は武田という脅威をなくし、天下への道をまた一歩大きく踏み出したのです。

  


  

 

長篠の戦い以降、武田騎馬軍団最強伝説は崩れ去りました。

ということは、今まで勝ち目がないと言う幻想がなくなり、反撃されると言うこと。

家康は、武田信玄・勝頼親子に侵略された地域を取り戻すべく、行動に出ました。

天正3年(1575)から翌4年(1576)にかけて、遠州北部の奪取に成功。

残るのは東遠州の高天神城だけ・・・。

この高天神城は要所であり、東遠州を奪回するのに必要な城でした。

ここをどちらが押さえるかで、関東のパワーバランスは決定するのです。

ここで武田勝頼痛恨のエラーがありました。

越後の上杉謙信没後の家督争いにおいて、北条から養子に来ていた上杉景虎ではなく、かの上杉景勝を応援してしまったのです。

これで一気に、同盟国北条との仲は冷え切ってしまいました。

家康は北条と手をむすび、武田を孤立させる作戦に出ました。

このあたりから、家康の謀略さが顔を覗かせてきます。

あたかも、亡き信玄公のように。

 

 

高天神城は天正2年から武田の城となっており、勝頼は何としても守り抜かねば生き残れないところまできていました。

勝頼は今川の残党を味方に引き入れて高天神城の守りを固め、家康は横須賀に城を築いて様子を伺う作戦。

やがて天正9年(1581)、城主岡部長教らが城から出て、徳川方大久保忠世の軍と激突して玉砕しました。

家康は完全に遠州を確保し、武田勝頼は国内での防衛を余儀なくさせられることになったのです。

しかも過酷な税を課したため農民たちの心は離れ、老臣たちまでも見放してしまいました。

こうなると、もはや武田の命運は尽きたと言えるでしょう。

最強騎馬軍団と信玄公あっての甲斐武田・・・まさに「攻撃は最大の防御也」。

 

天正10年(1582)、信長が甲州への進攻を開始し、当然家康もこれに従って進攻。

駿河口からは徳川家康、関東口から北条、飛騨口から織田方の金森長近、伊那口から織田信忠が一斉に甲斐に進攻しました。

結果は・・・武田の惨敗。

武田勝頼は自害し、信長は信濃国伊那郡で勝頼親子の首実検をしたとされています。

そして、徳川家康最大のライバル、甲斐武田は消滅し、これで徳川の勢力は東海道一帯にまで広がりました。

 

 

 

6)正室築山殿と嫡男信康の死

 

 

そして、この時期に家康にとって、そして徳川政権にとっても重要な事件が起こっています。

天正7年(1579)・・・三男長丸、後の2代将軍秀忠が誕生しています。

長丸より先に、嫡男信康と次男秀康がいました。

次男秀康は後に豊臣秀吉の養子となり、結城姓を名乗ることになります。

さて、どうして三男が2代将軍になったのでしょうか・・・長男信康がいるのに。

秀康は養子ですから仕方ないとして・・・。

それは・・・正室築山殿、嫡男信康の死!

 

 

通説では、聡明で人望のある信康を恐れた織田信長が、武田勝頼と密通の疑いありとして殺させた・・・とされています。

また信長から娘婿である信康の素行について説明を求められた酒井忠次が、信長にあるがままを報告し、それによって殺さねばならなくなったと言われています。

かの司馬遼太郎氏も、小説「覇王の家」の中で、そう書いておられます。

残虐で人望のなかった信長なら、まことにやりそうなことです。

しかし・・・なぜ母築山殿まで?

彼女が今川方の出身で、武田勝頼が今川の残党と結託していたから?

これも、おそらく後世作られたものか、あるいは噂が広まったか、どちらかでしょう。

織田信長という男、はっきりと敵対した者には残酷なまでの仕打ちをしていますが、疑いあるといった程度では、そこまでのことはしていません。

ここが以外に誤解されている点なのです。

ましてや、清洲同盟の徳川・・・。

そんなことをすれば、武田騎馬軍団が最強でなくなった今、文字通り最強の三河軍団が敵にまわるのです。

ただでさえ畿内統一にやっきになっていた頃。

そんな暇はないはずです。

では真実は?

 

嫡男岡崎信康・・・粗暴な行いが目立つ人物だったのではないかとされています。

自分に逆らい、母にしか心を許さず・・・このままでは、母と出奔してそれこそ武田方についてしまうかもしれない。

このままでは、同盟者とはいえ、反逆者を許さない信長の怒りを買ってしまう。

それならば、いっそ我が手で・・・。

そう・・・家康が考えたとしても、何ら不思議ではありません。

あるいは、三河の者とどうしてもソリが合わない、何かがあったのかもしれません。

いずれにしても、実の子を殺すという尋常ならぬ選択をせねばならなかった・・・簡単な理由ではなかったはずです。

 

そして正室築山殿・・・彼女は10歳も年上の、姉さん女房でした。

14歳で女性を知った家康は、しばらくは彼女に溺れたことでしょう。

しかしこの家康という男・・・節操のなさでは、これまた天下無敵だったそうです。

気に入れば、どんな卑しい女性とでも関係をもっていました。

先に述べた次男結城秀康の母は、そのような女性だったということです。

そして様々な女性と関係を持つうち・・・正室の築山殿は放っておかれるようになりました。

ましてや人質時代に、今川義元の口利きで、半ば無理矢理祝言をあげてしまっていたのです。

愛情など、ないに等しかったのではないでしょうか。

築山殿も、一族を葬り去った憎っくき信長の同盟者である夫に、愛情など持てなかったと思います。

また元来、純朴な三河ものを蔑んでいたのが、商業の民尾張衆と貴族文化の継承者駿河衆でした。

家康を囲む朴訥な三河武士には、築山殿はどうしても馴染めなかったことでしょう。

そして、閨(ねや)を共にしなくなった家康に、憎しみさえ抱いていたとすれば、ようやくここまで来た家康はどうすればよかったのでしょうか?

おまけに今川方にいる間に、同盟が結ばれているのです。

まかり間違えば、自分と信康も殺されていたかもしれなかった・・・。

そのことを、事あるたびに息子に言い聞かせ、次第に父に逆らう子供になっていったのではないでしょうか?

  

しかし、まがりなりにも征夷大将軍たる神君家康公が、そういう理由で正室と嫡男を亡き者にしてしまっては、幕府の威厳に関わる大問題です。

ではどうすれば?

誰かの圧力で、仕方なくやらされたことにすればいいのです。

その対象が、織田信長だった・・・。

こう考えれば、納得できます。

酒井忠次の信長への暴露話も確かにあったにせよ、たわいもない程度ではなかったでしょうか。

でなければ、それほどの重罪を犯した本人を、その後も重用していたと言うのは、どうにも合点がいかないことです。

執念深いと言われる家康ならば、後年でも何らかの理由をつけて、処罰できたはずです。

天下の御意見番として有名な大久保彦左衛門は、彼の一族が幕府から冷遇されたことに腹を立てて、他の譜代大名達の昔話を持ち出しては、散々こきおろしたと言われています。

たぶん・・・そこで、かなり大掛かりな話となっていった・・・そう思います。

 

そして家康も、武田の脅威がなくなった今、ようやく家族に愛情を注ぐゆとりができたのです。

そこで誕生した秀忠は、ことの他可愛く見えたのかもしれません。

彼を真の後継者にしよう・・・そう思った以上、邪魔になる存在が信康であり、次男秀康であり、信康を溺愛する築山殿だったのでしょう。

 

これはぼくの体験から言えることなのですが、若い頃からの人格者など、まずいません。

ある程度修羅場と言えるものの場数を踏んで、ようやく色んなことがわかってきだすものです。

幼少の頃からの人質、いきなりの独立、一向一揆平定、そして武田信玄に惨敗・・・。

これだけの修羅場を乗り越えてきたからこそ、地に足がついてきたのです。

そして息子を見た場合、若さ故という理由だけでは如何ともし難い、何らかのことがあったのです。

だからこそ・・・認める訳ではありませんが、今何とかしておかなければならないという、切羽詰まった思いの結果なのでしょう。

後年の家康は、思い出しては愚痴っていたそうです。

それは周りから見れば、優秀な嫡男信康を今でも想う、神君家康公の美徳として見えたことでしょう。

しかし、ぼくにはそうは思えません。

長男を指導できなかった、自分への怒りがそういう形となって表れたのだと思います。

秀忠へのスパルタぶりはつとに有名だったそうで、それはこの一件がそうさせていたと思っています。

 

天正7年(1579)9月15日、岡崎信康は遠州二股城で切腹。

介錯は服部半蔵に委ねられたが、十字に割腹した信康の首を切ることができず、代理の者が変わりに介錯した・・・とされています。

そして築山殿はそれより早く、家康の手の者によって殺害されています。

 

家康の家訓にある一文・・・

「人の一生は重き荷を負うて・・・」

切ないくらい、家康の抱えてきたものへの思いが、感じられます。

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