ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

織豊から徳川への歴史コミュの第十七章 豊臣秀吉〜その2

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
3)太閤豊臣秀吉

       
覇権を確立した後の、秀吉の行動を年表を交えて見てみましょう。


天正11年(1583)
・賤ヶ岳の戦いにて柴田勝家を破り、加賀・越中を平定。
・織田信孝を自害させ、自身で滝川一益を破り、尾張・伊勢も平定。
・毛利を攻略。
・大坂城の築城を始める。

     

天正12年(1584)
・織田信雄と徳川家康の連合軍と合戦(長久手の戦い)。
・軍事的には敗戦に近い打撃を受けたものの、織田信雄を懐柔し和議に成功する。
・従三位権大納言に任ぜられる。



小牧・長久手の戦い・・・それは、秀吉以後の天下人となる徳川家康との目に見えない水面下の抗争も含んだ、天下分け目の合戦でした。

結果的には引き分けでしたが、秀吉はその政治力と「人たらし」ぶりを、家康は「東海道一の弓取り」と評されたほどのいくさ(野戦)上手ぶりを、お互いに見せつけあったのです。

この一戦をして、秀吉の魂胆寒からしめた家康が、後に筆頭大老となることになったのです。

        

 

         

○小牧・長久手の戦い

        

信長亡き後次男の北畠信雄が清洲城主となり尾張を領有しましたが、織田家をないがしろにする秀吉に怒り、三河の徳川家康に助けを求め、同盟を組んで秀吉と対抗したのが小牧・長久手の合戦でした。


きっかけは、北畠信雄が自分に背いて秀吉に接近した苅安賀城主以下の三家老(岡田重孝、津川義冬、浅井長時)を長島城内において暗殺したことによります。

秀吉は直ちに伊勢に出兵。

信雄配下の篠木・柏井領主であった上条城主小坂孫九郎雄吉は長島へ、犬山城主中川定成は伊勢にそれぞれの軍勢を引き連れて出陣しました。

天正12年(1584)3月13日、家康は清洲で信雄と会見し、機先を制して小牧山に陣を敷きました。

一方、秀吉は3月21日に大阪を発ち、27日に犬山へ到着、ついで楽田に移り、小牧山に対陣、両先陣の小競り合いとにらみ合い が続きました。

戦いなき合戦・・・これが小牧山の合戦です。

          

4月6日夜、秀吉は池田恒興・森長可等の進言を受けて、家康の本拠三河を襲うべく進撃。

しかし家康はその動きを察知して秀吉軍を追撃。

4月9日、長久手に戦い、大勝を収めました。

大敗を知らされた秀吉は2万余の大軍を引き連れて長久手に到着しましたが、家康はすでに小幡城へ引き返していました。

秀吉はすぐ竜泉寺城に入り決戦を挑もうとしましたが、家康はこれ以上のいくさは不用と、早々に小牧山城に帰ってしまいました。

秀吉は歯噛みして悔しがり、竜泉寺城に火を放って引き返しました。

この折、多くの神社・寺院が焼かれてしまいました。

いくさぶりでは秀吉の遥か上であることを証明した家康・・・これが長久手の合戦でした。

   

長久手の合戦の後、再び両軍は小牧山と楽田に本陣を置き、対峙。

小競り合いはあったものの、11月7日、信雄と秀吉の講和が成立。

というよりも、家康侮り難しとみた秀吉が、お得意の「人たらし」ぶりを大いに発揮して、からめ手から無理矢理講和にもっていったのです。

家康も秀吉と和を結び、同月21日には両軍ともに引き上げて、戦乱は終結しました。

       


             

この一戦の後、家康の懐柔に、秀吉は腐心しています。

それはそうです。

天下の羽柴秀吉・・・信長の後継者を自他供に認める秀吉が、徳川家康に赤っ恥をかかされたのです。

この男を怒らせてはならない。

しかも何としても臣下に置いておかねばならない。

ではどうすればよいか。

1)現在の地位以上のものを与える

2)日本古来の最高権威・・・皇室を利用する。

3)姻戚関係になる。

この3つの方法を、秀吉は採用しました。



天正13年(1585)
・紀伊根来・雑賀の一揆を討伐。
・四国統一を果たしていた長宋我部を降伏させる。
・徳川家康に妹朝日姫を嫁がせ、上洛を促す。
・3月に正二位内大臣となる。
・7月関白従一位となる。

     

天正14年(1586)
・徳川家康と主従の中となる。
・聚楽第の普請を開始。
・大仏殿造営に着手。
・12月に太政大臣となり、豊臣の姓を賜り豊臣秀吉と名を改める。



ぼくが大好きな小説に、司馬遼太郎さんの「尻食らえ孫市」があります。

これはここで登場した紀州雑賀の棟梁孫市と木下藤吉郎のやりとりを描いたものです。

「わしが殿御は、日本一、紀の国孫市ヤタガラス」

という孫市の舞いに応じて、雑賀衆鉄砲隊が孫市の持った扇子を撃ち抜く・・・といったくだりがあり、痛快な物語になっています。

実際雑賀衆には強力な鉄砲隊があったらしいです。

映画にもなり、NHK大河ドラマ「国盗り物語」でも扱われていました。

また根来・・・これを聞いてワクワクする世代は、間違いなくTV「仮面の忍者赤影」を見ているはずです。

松永弾正(久秀)の京都制圧をこらしめるため、羽柴秀吉の命を受けて京へ向かう飛騨忍者「赤影・青影・白影」と、怪獣を使う根来忍者軍団との戦いを、シリーズで描いた娯楽作品。

史実を参考にしているとはいえ、ぼく達の幼かった頃には、こういう娯楽時代劇がいっぱいありました。

たぶん・・・だから時代ものが好きなんでしょう。

徳川家康に妹を嫁がせ、正二位内大臣、関白従一位、そしてとうとう太政大臣となって豊臣の性を賜り、事実上天下人となりました。



天正15年(1587)
・九州征伐を敢行。
・九州の大部分を統一していた島津をくだし、博多・長崎を直轄化。
・バテレン追放令を発令。
・北野大茶会を開く。

     

天正16年(1588)
・関白政権の政庁として京都内野に聚楽第新築。
・後陽成天皇の行幸を仰ぎ、徳川家康をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠と秀吉自身への忠誠を誓わせ、天下に号令することを示す。
・国内平定のため、国内においていまだに争いを行う大名に対し、停戦や講和を命じこれに応じないと勅命に背くとして征伐。
・刀狩令を発布。
・百姓や僧侶が持っていた武器をことごとく没収。
・海賊禁止令発布。




秀吉の天下統一は、間近に迫っていました。

先に四国を弟秀長の働きで平定し、そして九州も・・・。

しかし今でも各地に存在するのですが、「国衆祭り」・・・その主役たる「国衆」と呼ばれる土豪・・・彼らは悲惨な最後を余儀なくさせられました。

例えばぼくの仕事がある鹿央町には、内古閑氏がいましたが、安国寺恵瓊の謀略により、柳川で憤死しています。

このから、頃秀吉の行動には変化があらわれてきます。

信長を上回る狂暴さで、全国を平定してゆくのです。

そして聚楽第の完成。

現存していれば、おそらく世界遺産になったであろうとさえ言われているこの大豪邸は、かつて日本で持った私邸としては最大規模のものでした。

天下人秀吉にとって、この年が生涯最良だったことでしょう。



天正17年(1590)
・6月5日 小田原征伐を行う。
・小田原城の北条氏政を二十万余の大軍で包囲し、翌月北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げる。
・長男鶴松生まれる。


秀吉の天下統一は、この年に達成されました。

小田原攻め・・・関白太政大臣豊臣秀吉の威勢を、天下にみせつけたのです。


○小田原攻め

  

秀吉は関東の北条討伐の宣戦布告は、政権内部の激烈な権力闘争を押し切って行われたと言われています。

すでにこの頃から表面化しつつあった、福島正則ら秀吉子飼いの武将たちと、いわゆる官僚・・・石田三成を筆頭とする文官との争いです。

天正17年(1590)に発令され、北条が公儀の命令を無視し上洛を拒否したことでの罪状とするものでした。

無論これは豊臣家の勝手な言い分に過ぎません。

その布告本文は大谷吉継から徳川家康に。

家康から北条へと渡されていますから、石田三成らによって発布されたものです。

またこれは想像に過ぎませんが、北条と姻戚関係にあった家康おろしもあったのではないでしょうか。

切れ者石田三成ならば、考えそうなことです。

    

この時の動員数は各大名の禄高に応じて、100石あたり5人の軍役が基準でした。

総勢20万とも言われる大軍が、小田原城近辺に集結されました。

毛利や長宗我部、淡路の加藤嘉明、豊臣直属の九鬼義隆らの水軍も動員されて兵糧などを運ばれました。

秀吉みずから出陣して清洲、駿府、沼津に到着した3月末頃には、 小田原完全包囲網はすべて整っていたと言う事です。

   

北条もすでに籠城の態勢を作り始めていました。

秀吉がとった戦法は、支城を落して本城を孤立させての兵糧攻めという、お得意のもの。

秀吉が一夜城と言われた石垣山城の本営に入った頃には、すでに家康の勧めで伊豆韮山城の北条氏規は降伏していました。

10日後の7月5日には、小田原本城の氏直も秀吉のもとに切腹・開城を申し出てきます。

小田原城は家康に委ねられ、北条氏政、氏照の兄弟は切腹。

家康の娘婿でもある小田原城主の氏直は、氏規ら一族300余名と共に高野山に追われました。

のちに近畿に領地を与えられ、徳川政権での小藩主として残ることになりました。

   


天正18年(1591)
・鶴松死去。
・関白職を甥の豊臣秀次に譲り、自らを太閤と称す。
・また、この年全国に後前帳を作成して提出させる。
・徳川家康を関東に移封。

                     

天正19年(1592)
・秀次により人掃令発布。全国の家数・人数の調査を行う。
・この年から4年間、全国で太閤検地を実施し、兵農分離を促進。



天下統一がなされた後・・・実にこの絶頂の時から、太閤秀吉の苦悩が始まるのです。

何故か?

それは、彼が武力で天下統一をなしえていなかったからです。

秀吉は、優れた経済感覚の持ち主でした。

彼の中には、もののふならではの価値観は、存在しませんでした。

そんな、農民出身の秀吉が天下人になりえたのは、ひとえに恩賞によるものでした。

『秀吉につけば、金持ちになれる』

そういう「利」でのみ、大名たちは従ったのです。

織田信長の後継者というブランドを背景に、商人と大名双方の奇妙なバランスの上に成り立っていたのです。

そういう意味では、フランス第二帝政を行ったルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)に非常に似ていると言えるでしょう。

しかし・・・もはや日の本には、分け与えるべき土地は、もう残っていなかったのです。

となれば、残された道はひとつ・・・海外!

秀吉の朝鮮出兵は、おそらくそれが最大の要因ではなかったでしょうか。

そしてもうひとつの悩み・・・嬉しい悩み!

60歳を目前にして、やっと出来た世継ぎ・・・秀頼の存在です。

彼は、ようやく築き上げた自分の天下を、秀頼にきちんと譲りたかったことでしょう。

しかし、自分にはもう時間がない!

あせった秀吉は、秀次から関白職を奪ってしまいます。

頼りとした弟秀長も逝ってしまい、老いも加わって冷静な判断力を欠いた秀吉は、ただの老人となっていました。





文禄元年(1593)
・一回目の朝鮮出兵(文禄の役)。       
・側室 淀殿との間に二男 拾丸(後の豊臣秀頼)出産。
・生母大政所没す。



文禄2年(1595)
・五大老(五奉行) 職として徳川家康・毛利輝元・小早川隆景・前田利家・宇喜多秀家を政治上の最高顧問に委嘱。
・徳川家康を筆頭とする。

         
また秀頼の継嗣問題をめぐる思惑から、秀次に謀反の疑いをかけ、関白職を奪い高野山に追放させ、その一族を京都三条河原で惨殺しています。

  

慶長2年(1597)
・2回目の朝鮮出兵(慶長の役)。
・8月足利義昭没。
・五大老の一人小早川隆景が死去し、上杉景勝が五大老に入る。




慶長3年(1598)
・五奉行 (五年寄衆)制定。
・浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の合議制により行政を処理することとする。
・8月5日五大老・五奉行に幼い秀頼の将来を訴えた遺言状をしたためる。
・8月18日没。享年62歳。



五奉行・・・通称五大老として知られる徳川家康・毛利輝元・小早川隆景(後に上杉景勝が加わる)・前田利家・宇喜多秀家を豊臣政権の最高顧問に加えたこと自体、往年の秀吉らしからぬことです。

おそらく全盛期の秀吉なら、最大勢力の徳川家康を策略で潰しにかかっていたことでしょう。

しかしそのパワーもすでになく、事実上自分の手を離れて動き出してしまった政権内部を何とかしなければならない・・・・・。

その思いが五年寄・・・通称五奉行として知られる、ほとんどが近江商人出身の浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家を生み出したのです。

皮肉なことに、彼らが豊臣政権を破局へと導いてゆくのです。

晩年には足利義昭が没し、名実ともに足利幕府が消滅しています。

             

人間は、最期のときに、過去の映像が走馬灯のように浮かぶと言います。

貧農から足軽になり、家庭を持ち、家臣を持つようになり、そして天下人へ・・・。

その結晶である大坂城でさえ、空しいものに感じたのでしょうか。

現実が現実でなくなる・・・息子秀頼の晴れ姿を見たかった・・・。

秀吉が得たくても得られなかったものは、ひょっとしたら正室ねねとの間にできるはずだった、子供だったのではなかったのでしょうか。

「今ごろになって・・・それがわかるとはの・・・。」

貧しかった子供の頃・・・ひょっとしたら、それなりに愛情をもらっていたのかもしれません。

その愛情を知らず知らず求め続けていただけだったのかも、しれません。

ようやくそれが得られたというのに、自分はもう長くない。

天下人秀吉の最後は、そんな気持ちだったような気がします。

「露とおち 露ときえにし わが身かな なにはのことも 夢のまた夢」

貧農としてはかなく生まれ、天下人でありながらこんな気持ちではかなく死んで行く我が身・・・この大坂城の栄華も、所詮は夢・・・いやあ、夢の中で見ている夢のようにはかないもの。

天下人豊臣秀吉は、こうして栄光に包まれたまま、享年62歳で死去しました。

波乱万丈というのがこれほど似合う人物は、日本史上秀吉だけです。

しかし後述する徳川家康・・・そして織田信長と比べたとき、一番大きな挫折を味わったのではないでしょうか。

挫折する間もなく人生を駆け抜けた信長。

幼い頃にさんざん辛苦を舐め、以来慎重になり一度も失敗のなかった家康。

後世太閤様と呼ばれ、大衆のヒーローとなった男は、ひょっとしたら、こういう人生だったのかもしれません。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

織豊から徳川への歴史 更新情報

織豊から徳川への歴史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング