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織豊から徳川への歴史コミュの第八章 戦国時代の、こんな見方

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戦国時代というのは、日本史の教科書によれば、1467年に起こった「応仁の乱」だと言われています。

これは室町幕府第八代将軍、足利義政の世継ぎ問題に端を発しています。

それに畠山と斯波の両管領家の家督争い、他の守護大名の家督争いをも巻き込んで、11年という異例の長さの内乱となったのです。

家督の決定権が将軍にあったのが、そもそもの原因でした。

この内乱によって幕府の権威は地に落ち、守護は有名無実化して下克上が始まり、戦国時代が始まった・・・そう教えられてきました。

 

しかし、ぼくはこの指摘には、疑問を感じます。

 

そもそも、源平の内乱を収拾して武家支配を確立したのが、源頼朝による鎌倉幕府でした。

一応頼朝の征夷大将軍就任(1192)を鎌倉時代夜明けとすれば「承久の乱(1221)」以降、元朝来襲(1281)まで、まがりなりにも平和が保たれていたのです。

もっとも平和とは一部の支配層だけの問題であって、地頭から摂取を受ける農民達にとっては、常に死と隣り合わせの生活でした。

地頭とは、分かりやすく言えば、中央から派遣された部隊長と思えば良いでしょう。

荘園と呼ばれる農耕地に農民は押し込まれ、昔からの荘園領主の更に上に、地頭がくっついたのです。

相手は武家ですから、人殺しのプロです。

残忍な年貢摂取がなされて、鎌倉御家人の基盤となってきていたのです。

 

しかし御家人の平和も、元朝来襲以降は、小競り合いまで含めると、もうずっと内乱ばかりだったのです。

建武新政(1334)、室町幕府成立(1336)、南北朝争乱(〜1392)・・・。

しかも、南北朝争乱は、一応の決着が着いたのちも、地方では小競り合いが頻発していたのです。

 

そして決定的なダメージを与えたのが「応仁の乱(1467)」だったのです。

しかし、この事件はある変化を、日本にもたらしました。

守護大名あるいは戦国大名は、自国の利益を重視して、産業を奨励したのです。

その結果、堺や博多などの商業都市が栄え、大名への資金を調達するようになりました。

同時に農民の中には商人へと転職したり、足軽として戦場へ行くうちに武家として独立するものも表れてきました。

 

やがて、戦国のスター達が表舞台に出てきます。

彼らは自分達の正当性を主張するために、様々な手段を用いて世の中にアピールしました。

一国を守り、己の我を通すために。

そのためには、ある程度農民達は保護された時期でもあったのです。

 

しかし彼らはやはり支配者です。

農民達には、徴兵の義務がありました。

よく「○○軍2万」という表現を目にします。

しかし、かれらの大部分は兼業農民でした。

例えば、有名な桶狭間の合戦(1560)では、今川軍6000人の中で戦闘のプロは1000人程度ではなかったかとされています。

一方の織田信長軍2000人は、そのほとんどが戦闘プロ集団でした。

農民は、生きて帰れれば、また元の生活が待っています。

だからちょっと旗色が悪くなれば総崩れになるし、あるいは勝ちいくさになれば闘おうとはしません。

数々の幸運に恵まれて意気あがる戦闘プロ集団2000人が豪雨にまぎれて突入すれば、何倍の人数がいようと負けてしまうのです。

 

越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、奥羽の伊達正宗、美濃の斎藤道三、小田原の北条早雲などは、農民に対して常に自己の正当性をアピールし続けたのです。

そうしなければ、そのような大軍を率いることなどできなかったからです。

だから、彼らには数々のエピソードがついてまわり、格好の小説ネタになりえたのです。

 

こんな戦国時代に生を受け、そして天下統一へと動き出した3人・・・。

尾張の織田信長、岡崎の松平元康(徳川家康)、木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、何を考えていたのでしょうか。

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