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織豊から徳川への歴史コミュの第五章 天下統一以前と三傑の役割〜その5

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5)建武新政から室町幕府成立と信長登場まで

   

○建武新政

     

幕府滅亡とともに光厳天皇は廃され、1333年(元弘3)6月5日の後醍醐天皇帰京とともに、建武新政が始まりました。

高氏は同日鎮守府将軍に任ぜられ、12日には従四位下左兵衛督、弟直義も左馬頭となりました。

さらに8月5日には、高氏は従三位に昇叙されて武蔵守を兼ね、天皇の諱(尊治)から一字をを賜わって高氏から尊氏に改名。

また論功行賞が行われ、尊氏は30ヶ所、直義も15ヶ所の所領・所職を得ました。

当然ながらこれらはほとんど北条氏よりの没収地でした。

        

後醍醐天皇は記録所を復活して重要政務を審議させ、恩賞方・雑訴決断所を設けてそれぞれ恩賞問題や所領訴訟の処埋にあたらせました。

これらの機関の職員は雑訴決断所以外では大部分が公家で、記録所と恩賞方では武士は楠木正成・名和長年ら数名にすぎませんでした。

尊氏は高い官位こそ与えられましたが、政治の中枢には置かれませんでした。

武士の統轄と皇居の警備にあたる武者所の頭人の地位も新田一族に与えられていました。

足利一族からは、わずかに雑訴決断所の職員に被官の高師直・上杉憲房らが加わっているのみ・・・。

これにはおそらく公家、中でも護良親王からの讒言があったと思われます。

一度は天皇征伐軍として上洛し、裏切った者は信用できぬと・・・。

        

尊氏と天皇の水面下でのかけひきは、更に進んでゆきます。

朝廷は地方に国司と守護を併置し、幕府打倒に功績のあった公家や武士をこれらに任じました。

尊氏も武蔵の国司・守護と上総の守護を兼ねることになりました。

北畠顕家が尊氏の武蔵守任命と同じ日に陸奥守となり、10月に義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥に下向し奥羽両国の行政にあたったのは、足利氏の関東における勢力を牽制するためでした。

これに対抗して尊氏も、11月弟直義が相模守の任命をうけ、12月には成義親王を奉じて鎌倉入りあい、関東10ヶ国を管轄下に置くことに成功。

これによって、足利氏は関東において、その地位を一層強固になりました。

     

また朝廷には切れ者がおらず、当初より失政が多々ありました。

恩賞では、誤って一つの土地を数人に与えたり、現に知行する者のいる土地を他人に与えるなどの混乱が目立ちました。

そのうえ不公平も多く、なおかつ内裏造営の費用を諸国の地頭に課すなどして、鎌倉幕府では望めなかった武士たちの期待を裏切ることになっていました。

そればかりでなく、所領問題の処理でも武士社会の慣習を無視した公家的な処置が多く、そのため武士の間に新政に失望し、武家政治の再興を願う風潮が強くなってきました。

時代の大きな流れに逆らうことが如何に無謀なことか、よくわかります。

その結果公武の間に不和を生み、武士たちの不満を受けとめる形となった尊氏と、尊氏を警戒する護良親王との対立を鮮明に浮き上がらせました。

護良親王は尊氏襲撃を企ったものの、今や新田義貞と並ぶ武家の棟梁尊氏の強大な兵力のため失敗。

1334年(建武元)10月、護良親王は尊氏の圧力に屈した後醍醐天皇の命によって捕えられ、翌11月、鎌倉へ護送され東光寺に幽閉されました。

         

1335(建武2)7月北条高時の遺児時行が関東で挙兵する(中先代の乱)と、公家新政に不満な近国の武士たちが集まりたちまち大勢力となりました。

時行の大軍は鎌倉に迫り、これを迎え撃った直義は敗れ、幽閉中の護良親王を殺し、成良親王を奉じて西走。

尊氏はこの機に際し、自身東下して時行を討つため征夷大将軍と諸国惣追捕使への任命を朝廷に請願しました。

しかし許されず、征夷大将軍には成良親王が任ぜられました。

すでに朝廷を事実上見限っていた尊氏は、8月2日、朝廷の許しのないまま出京。

三河国で直義と合流して各地で反乱軍を撃破しつつ進み、19日には鎌倉を回復することに成功しました。

尊氏は諸将に恩賞を施し、そのまま鎌倉にとどまって朝廷と相対する気配を示します。

朝廷は尊氏を従二位に叙し、勅使を派遣して尊氏の帰京を強く促しました。

しかし尊氏は、直義が帰洛に強く反対したため動こうとしませんでした。

公家政権は、自身の不手際のため、崩壊しようとしていました。

 

11月に入ると、尊氏は新田義貞討伐を朝廷に報告し、直義の名で義貞討伐の催促状を諸国の武士に発布。

天皇に付き従う新田義貞を攻撃するということは、公家政権に対する公然たる反抗でした。

これに対して、朝廷では新田義貞を大将とする足利追討軍を派遣。

12月足利軍は新田軍と戦ってこれをやぶり、敗走する新田軍を追って西上。

1336年(建武3・延元元)正月入京。

         

しかしそれも束の間・・・陸奥守北畠顕家軍が足利軍を追走し、新田軍とともに攻撃。

足利軍は敗走し、尊氏は丹波を経て2月2日海路九州へ逃れました。

尊氏は3月3日、筑前多々良浜で菊池軍に大勝。

これをきっかけに勢力をもりかえし、再起の態勢を整えていきました。

4月3日、尊氏は一色範氏らを九州に残し、小弐・大友らの九州勢を従えて博多を出発しました。

途中各地の武士団を吸収しつつ、二手に分かれて、尊氏は海路を、直義は陸路を東上。

4月25日、兵庫和田岬で新田義貞と戦って敗走させ、湊川で楠木正成の軍を全滅させました。

後醍醐天皇は27日叡山に逃れ、29日には直義軍が入京。

尊氏も6月14日光厳上皇を奉じて入京し、8月15日には豊仁親王が神器のないまま即位して光明天皇となりました。

この後も両軍の戦闘が続きましたが、後醍醐天皇側は名和長年らが戦死し、次第に敗色が濃厚となりました。。

後醍醐天皇は義貞に命じて恒良親王・尊良親王を奉じて北陸へ赴かせ、天皇自身は、10月10日、尊氏の要請に応じて帰京し、11月2日、神器を光明天皇に授けました。

こうして建武新政はわずか2年半で終焉。

大化の改新、明治維新と並ぶ3改新のひとつは、結果的に公家に引導を渡すことで、その歴史的役割を終えたのでした。

    

○室町幕府の成立・・・そして南北朝の内乱時代

    

11月7日、尊氏は建武式目を公布。

幕府の再興を天下に宣言しました。

そして尊氏は光明天皇より1338年(延元三・暦応元)8月11日正二位征夷大将軍に任じられ、ここに名実ともに室町幕府が成立しました。

鎌倉時代とは異なり、様々な事情によりその本拠地は京に置かれ、その地名室町からこの幕府の名がつけられました。

しかし、鎌倉でも・・・そして後に江戸幕府でもそうですが、幕府成立直後はどうしても不安定になるものです。

鎌倉幕府と同様だったのは、朝廷がゆさぶりをかけてきたこと。

異なったのは、その朝廷自体が分裂し、なおかつ全国をゆるがす勢力となった・・・ということでした。

その対抗勢力とは、野心家後醍醐天皇と・・・そして最愛の弟直義でした。

    

後醍醐天皇は神器を光明天皇に渡した1336年〔建武3〕12月21日、ひそかに京を脱出。

大和の吉野に走って朝廷(南朝)を開き、尊氏の擁立する京都の朝廷(北朝)に対抗しました。

これからの60年間を、歴史上南北朝時代とよび、ふたたび内乱の時代となったのです。

後醍醐天皇は足利氏討滅を全国に呼びかけ、各地に皇子・諸将を派遣して勢力の拡大に努めました。

これに対して尊氏は、一族を守護に任じて諸国に配置。

また関東・九州など従来の有力豪族が勢力を保持する地方には関東管領・九州探題を置き、南朝勢力に対抗と全国支配を兼用させました。

         

内乱は、全国規模で行われました。

当初は天皇側の有力武将が健在であり、一進一退を繰り返しました。

北陸に下った新田義貞は越前金ガ崎城に入り、本拠地である上野・越後とラインを結び、活動を開始。

これに対し尊氏は越前守護斯波高経・若狭守護斯波家兼兄弟をこれに当たらせ、さらに執事高師直の弟師泰を救援にさし向けました。

師泰らは1337年(建武4)3月、金ガ崎城を陥れて尊良親王を自殺させ、恒良親王を捕縛。

幕府軍はその後も反撃する南朝新田軍と激戦を交え、翌1338年〔暦応元〕7月、藤島の戦いで新田義貞を戦死させました。

   

奥州にいた北畠顕家は、足利軍の猛攻を受けて伊達郡の霊山に移っていましたが、後醍醐天皇の命により倒幕の途につきました。

1337年(建武4)8月、10万の軍を率いて霊山を出発し、12月には鎌倉で足利義詮の補佐にあたっていた斯波家長を破りました。

翌1338年(暦応元)1月には美濃に到着。

これを迎え撃った幕府軍高師冬は、美濃青野原で大敗を喫してしまいました。

顕家軍はこれより南進して伊勢、そして奈良まで進軍し、幕府を脅かしました。

これに対して幕府は、高師直が大軍を率て南下し、2月般若坂で顕家軍を撃破。

そして5月には、和泉の石津で北畠顕家を敗死させました。

北畠顕家・新田義貞のあいつぐ戦死は南朝側にとって大きな打撃となり、これより以降は北朝が有利に展開してゆきます。

    

後醍醐天皇は劣勢挽回のため、再び皇子を各地に派遣する策をとりました。

1338年(暦応元)9月懐良親王を征西大将軍として西国に、また東国方面には、義良・宗良親王に北畠親房とその次子顕信らをつけて下向させました。

しかしこの策が功を奏する前、1339年(暦応2)8月16日後醍醐天皇は病のためついに吉野でその生涯を終え、義良親王が即位し後村上天皇となりました。

尊氏は天皇崩御の報に接して、直ちに幕府の雑務沙汰を七日間停止し、さらに天皇の菩提をとむらうため、洛西の地に天竜寺を創建。

尊氏にとって、良くも悪くも後醍醐天皇は終生のライバルだったのでしょう。

尊氏に対抗しうるカリスマ後醍醐天皇の死・・・この時点で南朝は、事実上崩壊していたと言っても良いでしょう。

   

1348年(貞和4)1月楠木正行が敗死して後村上天皇も奥地の賀名生に逃れ、南朝は有名無実の存在となりました。

しかし、勝利目前にして、思わぬ事態が起こりました。

兄尊氏とともに戦い、事実上政務を担当していた弟直義との争いが表面化(観応の擾乱)してきたのです。

それぞれが自軍に有利になるよう、一時南朝と講和したため、南朝はふたたび復活。

これによって、終止符を打つかのように思われた内乱は、まだ続くのでした。

この悲しい争いは兄の指示で弟を薬殺という結果を招き、さしもの尊氏も意気消沈。

そして尊氏・尊氏の実子で直義の養子となっていた直冬・南朝の三つ巴抗争が断続的に続きました。

そんな中1358年(延文3)4月30日、尊氏は背中にできた腫物が原因で、54歳の生涯を終えました。

    

○南北朝統一へ

   

1358年(延文3)12月18日、足利義詮は29歳で第二代征夷大将軍に任ぜられました。

幕府内部の分裂は、父尊氏・直義の死によって終わり、将軍が唯一の権威となりました。

この時代は鎌倉の頃と違い、鎌倉討伐・南北朝・室町幕府開府という動乱の時代を生き抜いた各地の実力者が、互いに覇を競うようになっていました。

彼らはそれぞれの自領を拡大するために争い、この火種はこの後豊臣滅亡まで続くのです。

少しでも相手に対して優位に立とうとするものは、当然ながら権威という肩書きを求めます。

開幕当初の有力武将こそいませんでしたが、群雄割拠の状態の日本・・・。

将軍の補佐役として幕政全般を統轄する執事の地位は、それこそ最重要ポストでした。

この執事の地位をめぐる有力武将の対立抗争が起こるのは当然です。

義詮は将軍の権威を高めるために、一族の斯波義将を執事に任命して幕政の安定を計りました。

その間に各国の動乱も沈静化してはいたものの、有力武将の反抗は随所で起こりました。

幕政が安定するのは、次世代の義満の時代まで待つ必要があったのです。

義詮は1367年(貞治6)12月7日、38歳で世を去り、10年間の短い将軍時代を終えました。

    

義詮のあとをついだ3代将軍足利義満は、1368年(応安元)4月元服し、同年12月30日に征夷大将軍に任ぜられました。

新管領細川頼之は幼少将軍義満を補佐する必要上、将軍の地位を絶対化して幕府の安定をはかることに尽力。

将軍の神格化政策は、義満の元服の儀・諸社参詣など、事あるごとに将軍の権威を高め、威厳を飾るための盛大な行事を演出しました。

内務的には五か条の禁制を発布して、幕府内の綱紀を一新。

南朝対策としては、頼之は、和平論者として南朝で孤立していた楠木正儀に目をつけました。

楠木正儀の誘引につとめ、1369年(応安2)2月には幕府に帰順させることに成功。

        

一方、九州では南朝方が懐良親王を奉じて、依然として優勢でした。

菊池一族など各地の豪族の間では、南朝方が優勢だったのです。

頼之は今川了俊を九州探題に起用してこれにあたらせることにしました。

了俊は1371年(応安4)九州に赴くと、少弐・大友・島津などの伝統的豪族や在地武士たちの誘引と組織化につとめました。

その軍略と用兵は巧みで、しだいに南朝方を圧迫していきました。

1372年(応安5)8月には九州における南朝方最大拠点大宰府を占領して懐良親王を筑後に逃亡させ、さらに1374年(応安7)8月には筑後に進攻。

親王らを肥後の菊池に追いこめ、九州のほぼ全土を回復しました。

   

功績大だった管領細川頼之ですが、義満が成人するにつれて、管領の幕政専断に対する諸将の不満は高まってきました。

1379年(康暦元)4月、斯波・土岐・山名・佐々木らの諸将が結束して、義満に頼之罷免をせまったのです。

義満はやむなく頼之を免じ、これに代えて足利一族の名門斯波義将を管領に任命。

頼之の罷免によってその後見から解放された22歳の義満は、幕政をとりしきり、足利将軍絶対主義を開花させました。

義満は1391年(明徳2)、野の実力者山名氏清・満幸両氏の反乱をおさえ(明徳の乱)、そして最後の課題である南朝との和平の交渉を推し進めました。

また応永6年、大内義弘が将軍義満に対抗し、関東管領足利満兼らと結んで堺に挙兵した反乱(応永の乱)をも鎮圧。

1392年(明徳3)10月南朝の後亀山天皇は帰京し、北朝の後小松天皇に譲国の形式で神器を授けて、両朝の合一が実現しました。

こうして室町幕府開府以来の懸念事項だった南北朝の統一は、解決されたのでした。

  

足利幕府の評価は、実に低いものがあります。

とりわけ初代将軍尊氏においては、逆賊のレッテルすら貼られていました。

何故でしょうか。

これは明治44年の「南北朝正閏問題」に端を発しています。

明治維新を乗り越えた日本は、皇室の整理作業に奔走していました。

皇室が二つ並んで存在していることはおかしい・・・そういう論争が起こり、明治天皇の勅裁を仰いだ結果、南朝が正朝とされたのです。

その結果、異端の北朝を立てた尊氏は、正朝南朝に対する逆賊である・・・そういうレッテルが貼られたのでした。

そして南朝を守りぬいた新田義貞や楠木正成は正義のヒーローとなりました。

「歴史は勝者によって作られる」・・・あるいは「歴史は権威によって、歪められる」

この事実をこれほど如実に語られた事実はありません。

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