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織豊から徳川への歴史コミュの第四章 第三章 天下統一以前と三傑の役割〜その4

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さて、頼朝の鎌倉入りより少し前、もう一人の源氏が信濃で決起しました。

源義仲・・・通称木曽義仲。

幼名を駒王丸。

義仲は1154年(久寿元)源氏の棟梁源義朝の弟義賢の2男として、武蔵の国で生まれました。

しかし1156年(久寿2)父義賢が義平に攻め滅ぼされ、信濃の国木曽に逃れ、1166年(仁安元)元服後木曽次郎源義仲と名乗っていました。

以仁王の平家追討の令旨を奉じた義仲は旗揚げをし、1183年(寿永2)北陸に進撃しました。

また義仲の元に、以仁王の遺児北陸宮が身を寄せていたのです。

   

こうした各地の源氏蜂起が続く中、相国清盛が2月4日死去。

義仲は平家打倒の風潮の中、5月11日倶梨伽羅峠の戦いで平維盛の軍に大勝。

義仲は、倶梨伽羅峠で牛の角に松明を付けて平家の大軍を追い込み壊滅させたことで有名です。

ですがこれは中国の故事にあることで、後の創作でないかと言われています。

そして7月28日、後白河上皇を奉じて上洛。

その直前、平家は安徳天皇を伴って、西国へと脱出していきました。

入京した義仲は、8月14日左馬頭に任じられました。

義仲と後白河上皇の蜜月関係は、この時点で最高のものになっていました。

しかし、謀略家後白河上皇の野望は、せっかく上洛した義仲の意を見事に削いでしまいました。

義仲が後白河上皇の孫にあたる北陸宮を次期天皇と考えていたのに対し、上皇は安徳天皇の弟(後の後鳥羽天皇)を擁立しようとしていました。

後白河上皇は占いによって、これを決めたとされています。

この結果、義仲は後白河上皇を幽閉してしまい、義仲は逆賊となってしまいました。

また義仲の軍隊は京で狼藉や掠奪を繰り返し、大衆からも見放されてしまったのです。

義仲に見切りをつけた上皇は頼朝を頼るようになり、同年10月14日頼朝に対し宣旨を出しました。

この10月宣旨によって頼朝は東国における荘園・公領の回復が認められ、その政治的・軍事的基盤はますます強固なものとなってゆくのです。

 

  

もう一人・・・史上最も有名な源氏がここで登場します。

源九郎義経。

棟梁源義朝と常磐御前の間に生まれたこの武者は、鞍馬山で育ちました。

当時は遮那王と呼ばれていたそうです。

武蔵坊弁慶との出会いもこの頃とされています。

弁慶が実在の人物であったかどうかは不明ですが、おそらくは比叡山などの山伏と、何らかの接触をしてはいたのでしょう。

彼らは当然、反平家グループでした。

彼らが密かに、遮那王に武芸を教授していたことは間違いないでしょう。

彼らは各地にネットワークを持っており、全国の情報を詳しく知っていたものと思われます。

遮那王は反平家のグループに推され、山を脱出して近江で元服し、源九郎義経を名乗りました。

そして反平家の雄、奥州の藤原秀衝の元で5年の歳月を過ごします。

おそらくこの間に、東国の戦術を学んでいたのでしょう。

騎馬を主戦力とするその機動性は、後々平家を苦しめてゆきます。

生い立ちの不明さ、未知の戦術、その後の不幸・・・これらが義経を、日本史上最大のヒーローに仕立て上げてゆくのです。

義経は1183年(寿永2)10月21日、奥州から鎌倉へ馳せ参じ、義兄頼朝と会見。

すでに宣旨によって官軍となっていた頼朝の命を受け、木曾義仲討伐総大将として、西国に旅立ちました。

   

1184年(元歴元年)1月20日、源範頼・義経の官軍が、木曾義仲軍を撃破して上洛。

義仲は逃亡中戦死。

ついで1月26日平家討伐の宣旨が出され、源範頼・義経の官軍が引き続き平家討伐の任にあたることになりました。

2月7日の一の谷の戦いにおいては、有名な鵯越の逆落としがありました。

これはかなり脚色がなされていますが、義経が背後の山から奇襲をかけたことは事実でしょう。

この戦法は、奥州の山中においては日常の戦法でした。

しかしこれが奇襲となった・・・これは、西国の貴族社会においては全く予想だにしなかった戦法だったからです。

厳しい自然の中で培われた奥州は、いまだ中央政権にとっては、未開の地だったのでしょう。

義経チンギス汗伝説も、この斬新な異国の香りすら漂う戦術からイメージされたものなのかもしれません。

  

平家の本拠は西国であり、瀬戸内でした。

移動できる場所は、まだまだ残っていました。

平家一門は屋島へ移動。

しかし2月19日、一の谷と同じく、官軍は島の裏手から攻撃。

これはいかに平家が水上戦術に頼っていたかを示しています。

まるで裏手からの攻撃を考えていなかったのです。

そして3月24日、壇の浦にて平家滅亡・・・。

平清盛という一代の英雄が、結果的に一門を滅する種を撒いてしまったということは、歴史の皮肉というしかありません。

  

その後の源氏のいきさつにつきましては、度々映画化戯曲化されており、あまりにも有名です。

結論から言えば、反平家グループが担ぎ上げたのが源氏の棟梁頼朝でしたが、その一族は邪魔でしかなかった・・・ということになります。

頼朝は確かに絶対的な存在でした。

義経を奥州平泉にて抹殺し、ついでに奥州藤原氏まで滅してしまいました。

しかしこの武家にとっての絶対者ですら、かの後白河上皇が崩御するまでは幕府を開くことができなかったのです。

上皇崩御後の1192年(建久3)7月12日、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府をスタートさせたのでした。

その頼朝も自らの地盤を固める間もなく急死し、2代目将軍頼家は暗殺され、3代目将軍実朝も甥の公暁に暗殺されるなど、幕府は北条氏によってゆらぐのでした。

   

この機に乗じて後鳥羽上皇が打倒鎌倉の旗を上げたのが、1221年(承久3)の承久の乱でした。

上皇は順徳天皇・土御門天皇を次々に上皇とさせ、強力なかつての院政復活をはかったのです。

幕府が提案した後鳥羽上皇の子を新将軍に迎える案を却下し、九条家の三寅を派遣しました。

幕府ごときに天皇家の血を入れぬ・・・そういう意志表示でした。

なおかつ上皇は、愛人亀菊の所領地頭を解任せよと迫る始末。

完全に武家を見下した態度であり、挑戦でした。

そして鎌倉との緊張が高まると、いよいよ全国の御家人に宣旨を出したのです。

そのスローガンは『打倒執権北条義時』・・・。

1199年(建久10)の頼朝の急死から、1219年(承久元)の実朝殺害までのたった20年の間に、事実上源氏鎌倉はなくなっていたのです。

そして源氏なき後の政権を握ったのは、北条一族でした。

中でも頼朝の妻政子は、頼朝による武家政権の意味をはっきり把握していました。

それは武家生活の向上と、朝廷からの完全独立でした。

それが伺われるのが、かの『尼将軍説法』です。

居並ぶ御家人衆の目の前で、頼朝の意志を明確に伝えたこの演説は瞬く間に全国の御家人に広がり、院へ集まる武士はごく少なかったのです。

結果上皇は敗北し、3上皇はそれぞれ流刑となりました。

そしてこの結果幕府は完全に朝廷に対して優位に立ち、その後は武家の政治が続くのでした。

  

また執権という職を歴任した北条一族は、自分たちの立場をよく理解していました。

源氏の棟梁だからこそ平家に立ち向かえた・・・この事実を決して曲げようとはしませんでした。

将軍職は神聖なものであり、シンボルである・・・そして現実の政策を担当するのが、執権である・・・これを全うしたのです。

故に、北条一族には失政は許されませんでした。

善政を行い、『いざ鎌倉』という、御家人達の信用をかちえていったのです。

『御成敗式目』という武家の法令は、『律令』や『格式』を武家流にアレンジしたものです。

    

しかし、鎌倉政治は、あくまで武家のためのものでした。

一般の民衆は、過酷な賦役や非道な取りたてで苦しみ、民衆のための政治が形式的にでも行われるのは、実に明治維新まで待たねばならなかったのです。

この武家専制政治が長く続いた結果、日本人の『建前』性が完成されてゆくのでした。

決して表向きは事を荒立てず、裏で取引しながら生き延びる・・・こういう資質は、まさにこういった歴史上の流れがあったからに他なりません。

いや、武家そのものですら、朝廷や貴族から独立するまでには、長い年月を要していたのです。

やはり天皇という絶対的なシンボルが、現在の日本人資質を形成していった根本原因と言えるでしょう。

  

鎌倉政権を崩壊させた事件・・・それは他国の来襲でした。

元来日本は、常に大陸を見据えていました。

背に負うものは、果てしない太平洋。

そこから来るものは皆無でしたから、当然目が行くのは大陸であり、中国・朝鮮半島・琉球でした。

ですから大陸への対抗意識の表れが国名・・・『日本』とは、太陽が昇り出る方角にある国、という意味です。

かつて隋の煬帝へあてた書簡の中で、『日出る処の天子、日没する処の天子に・・・』とあり、煬帝を激怒させたことは有名です。

そしてその中国も隋から唐、宋と続き、鎌倉幕府成立後150年を経た当時、モンゴルの支配下にあって、国号を『元』と称していました。

ときの皇帝は、フビライ汗。

チンギス汗に始まる北方遊牧騎馬民族の大爆発により、当時のユーラシア大陸は4つの汗国と元で構成されていました。

中でも元は、匈奴や突厥といった北方民族の悲願だった中国本土の制圧に成功し、さかんに侵略戦争を行っていました。

   

NHK大河ドラマ「北条時宗」の原作者高橋克彦氏は、NHK教育テレビの中で、次のように語られています。

「元がただ単に、侵略のためだけに侵攻してきたとは思えないふしがあるんです。

最初の文永の役はまあ侵略戦争だったとしても、弘安の役は逆に幕府が呼びこんだ・・・そういう感すらあるんです。

現に、何故元軍は、二度も同じ博多に攻め入ってきたのでしょう?

それに暴風や台風・・・神風と呼んでいますが、これはあくまでお飾り。

事実上、日本軍が勝っていたんですから。

それで一旦退却し、海上にいた元軍にとどめをさしたのが、たまたま台風だったって訳で。

ということは、弘安の役のときは、確実に元が攻めてくる・・・そういう確信があったんじゃないでしょうか。

だとしたら、何故・・・という疑問が湧いてきませんか?

だからぼくは、小説の中では一種の情報戦略があった・・・そういう視点で描いているんです。

何らかの情報を、意図的に元に流していたんじゃないかと。

日本は油断しており、博多は手薄だ・・・と。」

   

見事な推理ですね。

確かに、二度も同じ場所に攻め入るのは、ちょっと腑に落ちないところです。

高橋氏は様々な資料を吟味され、こういう仮定を提案なさっています。

  

さて、最初の襲来は1274年(文永11)10月、25000の元・高麗連合軍が対馬・壱岐を攻め落し、博多に上陸したことから始まりました。

これが文永の役です。

その2年前、異母兄北条時輔の反乱(二月騒動)を押さえ、執権となったばかりの北条時宗にとってはまさに寝耳に水。

大陸流の騎馬戦術をもってかかる元軍に、個々の戦闘中心だった日本軍は押され、初日は敗退でした。

かちどきをあげる元軍は、夜襲を恐れて一旦船団に退却しました。

しかしこれが痛恨のミス。

翌日人々が海を見ると、昨日まであれだけいた元の船団が全く見えなかった・・・と言われています。

九州地方によくある、ただの強い風でした。

陸戦には強い元の軍も、海の気象にはとんと無頓着すぎました。

  

それから7年後の1281年(弘安元)、ふたたび元軍が侵攻。

今度は140000の大軍でした。

しかし同年7月1日、壱岐を蹂躙した元軍は肥前にある鷹島で休息していました。

この頃はちょうど二百十日・・・台風シーズンです。

高麗に作らせた粗悪な船団は再び暴風雨に見舞われ、海のもくずと消えたのでした。

  

鎌倉幕府と御家人の関係は、奉公と御恩でした。

つまり働いただけ、土地やその他のものが支払われたのです。

だからこそ元軍との戦闘では、

「やあやあ我こそは○○の××なるぞ!」

などと名乗りをあげ、確実に褒賞を勝ち得ようとしたのでした。

それだけ、御家人の暮らしは楽ではなかったのです。

しかしこの『元寇』によって、ギブ&テイクの関係だった幕府と御家人の関係に、大きな変化が現れるようになりました。

このいくさ自体が防衛的なものであり、与えるべき土地も金銀もなかったからです。

しかも5代執権北条時頼以降、幕府は執権の独裁になっていました。

御家人に対して威圧的になり、なおかつ執権をさしおいて得宗(執権を引退した者)が権力を握るようになったのです。

得宗は近習の御内人らと密室政治を行い、これに対して将軍直属の御家人から不満が出るようになりました。

また幕府が元の再来襲に備えて軍備を拡張するあまり、御家人の惣領家から庶子家が独立しはじめ、ますます統制がとれなくなっていきました。

こうなると崩壊は時間の問題でした。


  

足利尊氏は1305年(嘉元三)、清和源氏嫡流源義家の子義国を祖とする誠和源氏の血統足利貞氏の次子として生まれました。

足利氏は義国の長子義重が上野国新田荘に定着して新田氏となり、弟義康が足利荘に定着した名家です。

弟で片腕として活躍し、後に反旗を翻した直義(当時高国)がいます。

尊氏(当時高氏)は、兄の急死により嫡子となり、1319年(元応元)10月、15歳で従五位下治部大輔に任ぜられています。

最後の執権守時の妹登子を妻に迎え、鎌倉幕府の有力御家人として扱われていました。

    

一方朝廷では、13世紀半以降皇統が持明院統と大覚寺統の両統に分裂し、皇位の継承をめぐる激しい対立が続いていました。

幕府はこの解決策として両統が交互に即位するという方式を成立させましたが、両統の対立は依然として解消しないままでした。

そんな中、野望に満ちた大覚寺統の後醍醐天皇が、1318年(文保2)31歳で即位。

天皇は政治の刷新を行い、院政を廃止して記録所を設け、人材を登用して、親政をはじめました。

しかし皇位の継承者たち・・・つまり大覚寺統で兄後二条の皇子邦良親王、そして持明院統の量仁親王の両派はそれぞれ幕府に働きかけ、天皇の早急な退位の実現を画策していました。

壮年で即位した天皇はこのような情勢のなかで自己の皇位を安定させ、理想とする天皇中心の政治を実現するためにも、また、年来学んできた宋学の名分思想の立場からも、倒幕の必然性を痛感し、近臣たちとひそかに計画をすすめました。

天皇はたびたび倒幕の会合を開き、1324年(正中元)に密告によりこれが発覚(正中の変)。

天皇はこれに屈せず、機をみてふたたび倒幕の挙兵を起こしました。

後醍醐天皇挙兵の報に接した幕府は、高氏に1330年(正中7)9月2日出兵を命じ、幕府軍は5日から7日にかけて鎌倉を出発しました。

高氏はこの9月5日に父貞氏を失い、その仏事も終わらぬのに動員令を受けました。

このことは高氏の心中に北条鎌倉への不信感を植え付けることになったことでしょう。

これ以外でも幕府内のゴタゴタに嫌気がさしており、また有力御家人でありながら苦汁を飲まされており、名家としてのプライドが爆発寸前でした。

前にも述べましたが、当時の幕府では執権北条高時には実権がなく、内管領の長崎高資が専断をほしいままにし、賄賂が横行し政治は乱れ、御家人たちの不満が高まっていました。

1331年(元弘元)後醍醐天皇は隠岐に流刑となりました(元弘の変)。

神器も幕府が擁立した光厳天皇(量仁親王)に渡されました。

そして高氏ら幕府軍も11月には鎌倉に帰着。

      

ところが同年の末ふたたび幕府の心胆冷やしめる出来事が起こりました。

楠木正成が千早城で、天皇の皇子護良親王が吉野で挙兵したのです。

後醍醐天皇の意思は受け継がれていたのでした。

このとき強力なネットワークを形成した功労者が、護良親王でした。

親王は武芸にはげみ、吉野山中で各地に倒幕の令旨を発しつづけました。

新田義貞が挙兵の意を固めたのが、護良親王のすすめによるものとされています。

     

1333年(元弘3)に入ると播磨の赤松則村が挙兵するなど、各地で反幕勢力が立ちあがりました。

後醍醐天皇も、閏2月には隠岐を脱出して伯耆の名和長年に奉ぜられ、各地の武士に綸旨を下して討幕を呼びかけました。

これを知った幕府は大軍の派遣を決し、北条氏一門の名越高家と足利高氏を大将として上洛を命じました。

高氏は幕府の要求にしたがい、異心のない旨の起請文を書き、妻登子と嫡子で四歳の千寿王(義詮)を人質に置いて、3月27日、3000騎を率いて鎌倉を出発。

しかし高氏は、すでに挙兵の覚悟を心中秘めていたとされています。

途中、三河国で一族の吉良貞義に幕府への反逆を勧められ、また、近江国鏡の駅で細川和氏と上杉重能がかねてひそかに賜わっていた後醍醐天皇の綸旨を高氏に披露し、挙兵を促したとされています。

高氏は4月16日入京。

その後高氏は京着の翌日、使者を伯耆に遣わして天皇に帰順を報告。

22日には、ひそかに上野国の同族岩松経家に北条氏追討の内書を送って挙兵を催促しています。

高氏は27日、六波羅探題の軍議にしたがい、山陰道を伯耆に向けて出京。

しかしこの日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家が、赤松則村と戦って敗死。

そしてついに決意を固め、そのまま丹波国に入り篠村に陣しました。

そして陸奥の結城宗弘、小笠原貞宗、島津周防五郎三郎など各地の武士に軍勢催促状を発して、勅命により後醍醐天皇の味方に参ったから合力するよう協力を呼びかけ、29日には大友貞宗・阿蘇惟時・島津貞久ら九州の豪族にも密書を送って協力を要請しています。

そして4月29日ついに挙兵して、篠村八幡宮の社前で旗を揚げ、同社に願文を奉納して所願の成就を祈った後、5月7日、京の六波羅探題を陥落させたのです。

高氏は直ちに六波羅に奉行所を設けて京都の治安の維持にあたり、また彼の下に投ずる者も多かったから、早くも新しい勢力となりました。

    

また護良親王の激により立ちあがったのが、河内の土豪出身で『悪党』と呼ばれる楠木正成でした。

彼は御家人ではありませんでしたが、海の商人出身名和長年と同じく、体制派からはずれた陸の商人的武士でした。

楠木正成は河内金剛山千早城にたてこもり、名越越前守の大軍を半年以上にわたって釘付けにしてのけました。

水路をいくつも城内に持ち、数々のゲリラ戦術を展開できたのも、正統派御家人ではなかったからに他なりません。

 

護良親王・赤松則村の蜂起の報を受けた後醍醐天皇は伯耆の武士名和長年の助けにより隠岐を脱出し、船上山において反幕府運動を展開してゆきました。

足利家と並ぶ名家御家人新田義貞は幕府の名を受けて楠木正成の千早城包囲に参戦している最中、護良親王の倒幕綸旨を受けました。

心中期するものがあった新田義貞は病気を理由に帰国し、倒幕挙兵の準備にとりかかりました。

これに対し幕府は多額の課税を罰とし、使者を送りましたが義貞はこれを殺害。

足利高氏が六波羅探題を攻略した翌5月8日、ついに新田義貞は挙兵。

そして幕府に不満を持つ関東武者を次々に加えつつ、分倍・関戸で幕府軍を圧倒しました。

5月22日、60000にも膨れ上がった新田義貞の軍は鎌倉に殺到し、武家・庶民の区別なく虐殺し、これで鎌倉幕府150年に終止符がうたれたのです。

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