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織豊から徳川への歴史コミュの第二章 天下統一以前と三傑の役割〜その2

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3)「前九年の役」「後三年の役」・「保元の乱」「平治の乱」、そして武士の台頭

   

  

『院』と『天皇家』・・・この二つの権威が、朝廷内にできました。

そうすると必然的に、それぞれの武力も必要となってきました。

院御所の北面にできた院側近の詰所が、やがて『北面の武士』と呼ばれるようになってきました。

この武士階級は身分が低いこともあって、貴族階級にない活力を持っていました。

武力やその他のエネルギーを上手く使えば、出世も比較的簡単だったのです。

その中で台頭してきたのが、平正盛でした。

平正盛は元々伊勢・伊賀を基盤とする平一族で、彼は白河上皇の娘が死去した折、彼女の弔いとして私領を提供しました。

彼はこの件で認められ、北面の武士となり、かつ諸国の受領を歴任することになりました。

そして源氏の棟梁源義家の次男源義親追討の功により、その地位は一気に向上することとなりました。

   

○前九年の役

一方の源氏は、平家ほど派手ではありませんでしたが、この時期においては平家よりも上にランクされていたようです。

中でも、前九年の役、後3年の役は有名です。

前九年の役は1051年(永承6)陸奥守に着任した源頼義とその子源義家と、俘囚長安倍頼時・安倍貞任親子との一連の戦いでした。

俘囚とは大和朝廷に降伏した蝦夷の事です。

彼らは従来の組織を解かず俘囚長の直接支配下にあったので、政府の地方支配が緩むと反乱を起こしました。

中でも前九年の役は最大最後の反乱でした。

きっかけは、権守藤原説貞の子息の野宿が襲われ、人馬が殺傷された・・・とするものです。

しかしあまりにもでき過ぎており、おそらく功名に走った源頼義が彼らを刺激して反乱させた・・・そう考える歴史家も多いようです。

戦いは長期化し、源頼義は鎮守府将軍の任期が終わっても陸奥に留まり、結局再任されました。

源頼義は出羽国の俘囚長清原武則を口説き落とすことに成功。

安部一族及び途中から反旗をひるがえした藤原説貞を滅し、1062年(康平5)にようやく前九年の役と呼ばれた陸奥での戦いは終結しました。

1063年(康平6)戦功に対する除目が行われ、源頼義が正四位下伊予守、源義家は従五位下出羽守、次男源義綱は左衛門尉に任命されました。

清原武則は従五位下鎮守府将軍となったが、在地豪族がこの官に任ぜられるのは、当時破格のことでした。

この清原一族が後の奥州藤原氏となってゆくのです。

   

○後三年の役

前九年の役から約20年、清原氏の勢力は順調に伸張し、武則の子武貞、その嫡子真衡の頃には、清原氏の名族性も確立してきました。

しかし勢力が拡大すると、清原氏一族に内部抗争が起こりました。

この争いに陸奥の国守源義家の干渉が加わって発展した争乱が、後三年の役です。

   

1083年(永保3)、真衡と一門の長老吉彦秀武と陸奥の二人の甥清原清衡・家衡をとの間に内乱が勃発。

国守として陸奥の国に入国した源義家を大いに歓待した真衡は親密の度を深め、義家との提携に成功しました。

そして真衡は出羽に遠征し、これに対して清衡と家衡は裏をかき直ちに真衡の本拠を襲撃しましたが、義家の軍勢に討たれて敗走。

真衡は遠征の途中病に倒れてしまいましたので、秀武の追討はならず、清衡と家衡も源義家に投降しました。

義家はこれを良しとして陸奥を二分して清衡と家衡双方に配分し、勢力を分散させて統治することとしました。

しかしこの分け方には不平等があったので、清衡と家衡の間に族長権をめぐる対立が起きてくるのでした。

   

家衡は清衡の妻子親族を殺害して出国し、出羽国に戻って戦闘の態勢を固めました。

この窮地に清衡は義家に訴えて支援を依頼しましたが、義家は源氏の支配権強固にする好機と判断。

1086年(応徳3)自ら数千の兵を率いて出羽の家衡を攻撃しました。

しかし本陣沼柵の守りは堅く膠着状態の戦闘が数ヶ月続き、また義家は豪雪に見舞われることになり、空しく陸奥に後退。

そして苦戦している義家に、急ぎ馳せ参じた弟源(森羅三郎)義光が合流しました。

また義家に帰参した吉彦秀武の兵力を併せて自信を持った義家と清衡は、再度大軍を率いて出羽に進軍しました。

出羽の横手盆地で戦乱が展開されました。

家衡の新しい本陣金沢柵の守りはすこぶる堅く、義家も苦戦を強いられましたが、兵糧攻めで戦況が一変しました。

やがて柵は落ち、家衡は討ちとられ、清原一族は滅しました。

5年の長きに及んだ後三年の役も、1087年(寛治元)11月14日ついにその終末を告げることとなりました。

源義家は朝廷に逆賊鎮圧の恩賞を求めましたが、朝廷は義家の私戦とみなしたのです。

恩賞はなく、さらに寛治2年(1088年)国司の任も解かれて空しく京に帰ることになりました。

やむなく義家は私財を家来に分け与えたと伝えられています。

清原清衡は寛治2年(1088年)奥六郡を与えられて姓を藤原に戻し、衣川のほとりに拠点を移して後の平泉藤原三代の基礎を築きました。

 

○保元の乱

   

中央での藤原一族の権力は藤原道長・頼道親子の時最高を極めます。

しかし頼道が1074年に死去すると、それに匹敵するほどの政治力の持主は藤原家には居ませんでした。

そこで白河上皇が院政を始めたことは、前述したとおりです。

院政は鳥羽上皇・後白河上皇・後鳥羽上皇と続き、しだいにこの組織は朝廷と対立してゆくようになりました。

初期の謀略一辺倒だった権力闘争も12世紀後半になると、武力衝突を伴うようになってきました。

時の権力者はまだまだ天皇家・・・武家は同門であろうとも、ときとして争わねばならなかったのです。

   

 

保元の乱というものは、上皇と天皇の権力闘争に女性がからみ、なおかつ武家に遺恨を残すという、まれにみる劣悪な戦いでした。

当時の朝廷内の実力者は鳥羽上皇とその皇后で、近衛天皇母の美福門院得子でした。

この鳥羽上皇は第一皇子顕仁親王が自分の子でなく、実父の白河上皇の落胤であることを知っていました。

ですから崇徳天皇は無理矢理皇位を3歳の弟(近衛天皇)に譲らされ、おまけに上皇となることすら禁じられてしまいました。

当然ながら近衛天皇は幼く、次期皇位継承者としては崇徳の子重仁親王と、崇徳の同母弟雅仁親王の子の守仁親王が候補でした。

   

守仁親王の生母は早逝していて、近衛天皇母の美福門院得子が守仁を養育していました。

当然美福門院得子の実子崇徳は、自分から帝位を奪った近衛天皇と母得子を良くは思ってはいません。

当時12歳の守仁親王は、聡明な皇子として評判でした。

そしてタイミング良く、近衛天皇が他界してしまいました。

当然ながら、彼を天皇に押す声も、多かったのです。

しかし守仁の父の雅仁親王がまだ健在・・・。

院がなかったころなら、何も問題はなかったことです。

しかし、影の権力者としての上皇がある以上、天皇は幼くても何ら問題はない。

だったら、一時的な天皇があっても、これまた何ら問題はないのです。

という安易な理由で、雅仁親王が皇位につきました。

これが後白河天皇です。

当時28歳。

こういう謀略渦巻く朝廷で育ち、波瀾の人生を送った後白河天皇・・・後の謀略上皇となるのも、止む無しだったのかもしれません。

   

さまざまな謀略の結果、後白河天皇が誕生し、必然的に守仁親王が皇太子となりました。

すぐ皇位は守仁親王に譲られることになっていたはずです。

遊び人として知られていた彼は、守仁親王を皇位につけるためだけの存在でしかなかったのです。

この一連の流れに最も反応したのが、崇徳です。

せめて自分の息子を皇位にと念じていたのですから・・・その怒りは、怒髪天をつくほどだったことでしょう。

ましてや到底天皇の器とは言えない、「遊戯王」雅仁が後を継ぎ、その子供が皇太子になってしまったのです。

このままで済ますものか・・・彼の中には、父からも疎まれ続けた怨念が、どす黒く燃えていました。

   

時代のエネルギーは、様々な形で姿を表します。

当時摂関家でも家督争いが起きていました。

藤原忠実は、長男忠通より次男頼長を愛していました。

忠通は近衛天皇在任中関白を務めますが、父藤原忠実は事ある毎に難癖をつけるようになりました。

そしてとうとう忠実は長子忠通を勘当し、藤原家の家督を頼長に継がせました。

翌年には藤原摂関家の地位を利用して、頼長を左大臣にしてしまいました。

しかし頼長はボンクラであり、鳥羽上皇の寵臣中納言家成とトラブルを起こして上皇の信を失ってしまいます。

また後白河天皇が即位しましたが、これは兄の忠通が推薦していた人物だったのです。

更に悪いことは続くもので、鳥羽上皇妃の高陽院泰子が他界しました。

彼女は妹でした。

彼女がいたからこそ、上皇の怒りを買っても左大臣でいられたのです。

下々では近衛天皇が死んだのは忠実・頼長の親子が呪詛を掛けたからだ、などという噂が流れるようになってきました。

時代のエネルギーは、天皇家・摂関家を巻き込み、荒れ狂うのでした。

   

この時代の大きな流れは、古代よりありました。

そしてそれは、人々の生活が向上するにつれ、より大型で強いうねりとなって表れるのでした。

保元の乱は日本史上初の、大型のエネルギー爆発と言って良いでしょう。

このうねりは、それまでの貴族社会を一変させ、新たな支配者層の形成へと社会を動かしました。

その新しい支配層こそ、武家でした。

かつて源義家は前九年・後三年の役を通じて「天下第一の武者」と言われ、源氏そのものもたいへんな評価を受けていました。

源氏の基盤が東国となったのも、彼の名声があったればこそでした。

しかしその子孫の為義の代になると、清和源氏の地位はかなり凋落し、平家に煮え湯を飲まされることも度々ありました。。

そして八男源(鎮西八郎)為朝の事件が起こります。

彼は遊女の子供として生まれ、乱暴が過ぎるとして父の怒りを買い、13歳で九州へ流されてしまいました。

為朝は九州の豪族阿蘇氏の婿になり、近隣を征服。

西国を鎮る男とならん・・・そういう意味を込めて、鎮西八郎と名乗るようになりました。

そのあまりのむごさに、土地を取られたり人民を殺された社寺は朝廷に訴え、朝廷は為朝を召還命令を出しました。

しかし為朝はこれを無視。

そのため為義の官位が召し上げになるということになってしまいました。

やむなく為朝は帰還。

      

一方の平氏は、平正盛が台頭。

彼は前述したとおり、源義家次男義親を討伐し、一気に北面の武士上位へ昇格しました。

その子忠盛は備前守に任官され、海賊横行と朝廷に報告して、白河上皇より山陽・南海両道の海賊討伐の命を受けました。

本当に海賊が多かったかどうかは不明ですが、彼が海賊と称するものの首級をあげ、西国をその掌中におさめたのです。

この功により、忠盛は院への昇殿を許されるようになりました。

また忠盛は鳥羽上皇の荘園肥前神崎荘を預かっており、ここは日宋貿易の拠点でもありました。

忠盛はこの場所での権限は自分にあると主張し、日宋貿易に介入しはじめました。

この主張が通ったのも・・・白河上皇の影が見えるからに他なりません。

これにより財政的基盤が確立され、のちの平氏繁栄の元となりました。

この忠盛のはたらきにより、西国は平家が掌握し、これで西の平家・東の源氏という図式が成立したのです。

   

白河上皇と平忠盛がどのような関係だったのかはわかりません。

嫡子清盛が白河上皇の落胤だったことが衆知の事実だったそうですから・・・とんでもない人間関係が渦巻いていたのでしょう。

凋落する清和源氏と上昇気流の桓武平氏・・・そこに稀代の好色上皇が加わり、後々の遺恨を生んでゆきます。

そして・・・時がきました。

 

1156年(保元元)7月2日、長年院を牛耳ってきた鳥羽上皇が死去。

後事を得子と藤原忠通に託します。

翌7月3日、崇徳上皇は長年の鬱積をはらすべく、行動に移し始めました。

後白河天皇もその動きを察知して手を打ったのですが、7月5日、崇徳上皇は兵力を募りだしました。

彼の元には源為義・為朝親子や清盛の叔父平忠正らが参じました。

為義は1143年頃から現左大臣藤原頼長の侍になっていたのです。

ここでトラブル発生。

為朝が高松殿夜襲を提言したのですが、藤原頼長に一蹴されてしまいました。

武士をあまりにも軽く見すぎていたため、戦闘のプロの提言を聞き入れなかったのです。

藤原頼長のボンクラさが、よく分かります。

 

一方現関白藤原忠通の呼びかけで後白河天皇に忠義を誓った源義朝や平清盛らを呼集。

義朝は為朝と同じく、夜襲を提言。

これが受け入れられ7月11日未明、後白河天皇側は機先を制して崇徳上皇側を急襲。

ここで為朝が大奮戦。

白河殿前に仁王立ちし、次々に敵を倒してゆきました。

清盛の長男で19歳の若武者重盛がこれに向かおうとすると、慌てて家臣に止められたそうです。

それほどの武者がいながら・・・奇襲に上皇側はなすすべなく、戦いは短時間で決着がつきました。

左大臣頼長はこの戦いで矢にあたって死亡。

源為義・平忠正は処刑、源為朝は伊豆大島に流刑となりました。

そして悲運の上皇崇徳も讃岐に流されました。

崇徳上皇は讃岐に流された後、激しい恨みを失うことはありませんでした。

「我魔性となり王を奪って下民となし下民をとって王となし、この国に世々乱をなさん。自分の血でしたためた写経の功力を三悪道に投げ込み、その力をもって日本国の大魔縁とならん」

これが崇徳上皇の呪いの言葉とされています。

そしてその後、爪も髪も切らずに、日々凄まじい形相になっていったと言います。

崇徳上皇は保元の乱の9年後に45歳で没しています。

暗殺されたという説はその当時からあったそうですが、上皇のあまりの悲運と怒りは民衆の中に溶け込み、伝説として伝えられました。

後の小説「雨月物語」では、西行法師が崇徳の霊とやりあうシーンが描かれています。

          

この戦いは武家側も貴族も・・・そして天皇家でさえ、肉親同士の戦いを余儀なくされたのです。

平清盛は太宰大弐であり播磨守、源義朝は左馬頭どまり・・・。

現代で例えれば、清盛が大臣クラス、義朝が防衛庁次官・・・その差は歴然でした。

しかも武勲第一は義朝だったのです。

しかも実の父を斬首されてしまった・・・。

白河上皇の落胤でもあり、豊富な資産を持つ平清盛は朝廷に対して、様々な工作を行っていたのでしょう。

武術一辺倒の源氏とは、もうとっくの昔に差が開いていたのです。

しかしそれをあっさり認めてしまったら、武家の棟梁ではありません。

その遺恨は深く残りました。

   

   

○平治の乱

  

保現の乱から3年後の1159年(平治元年)摂関家ではまたまた内紛が起こってしまいました。

院の近臣藤原信頼は、同じく院の近臣藤原通憲(信西)との間で権力闘争を行っていました。

藤原信頼は同じく不満派だった源義朝と結託するようになっていました。

同じように、信西と平清盛も結託。

一色即発の状況となっていきました。

   

この様な状況の中同年12月4日平清盛は一族を引き連れて熊野詣での旅に出発。

挙兵の機会を窺っていた藤原信頼と源義朝は、9日夜半院御所を急襲しました。

平治の乱が勃発したのです。

火を放ち、後白河上皇を幽閉し、内裏を制圧して二条天皇をも監視下に置くことに成功。

危難を察した藤原通憲は山城と伊賀堺の田原の山中に逃れていたところを発見され、斬首されてしまいました。

また朝廷で勢いのあった信西の子息藤原俊憲・貞憲・成範らは任を解かれ、流罪に処せられました。

ここまでは、無事成功しました。

しかし平家が、このまま手をこまねいているはずがありません。

急遽京に引き返した清盛以下平家一門は、都を制圧した義朝らと相対することになりました。

源義朝・源(悪源太)義平父子は清盛を摂津国の阿倍野に迎え撃とうと主張。

しかしここでも武家を認めない摂関家信頼に反対され、大きな勝機をなくすことになるのです。

    

平清盛ら平氏一族は16日夜半には六波羅邸に入りました。

しかしすぐには手を出せません。

信頼と義朝が上皇と天皇を人質にとっていたからです。

うっかり攻め入れば、逆臣をなってしまいます。

そこで清盛は名簿を提出して恭順を装って信頼を油断させ、25日に二条天皇を内裏から六波羅邸に迎えることに成功しました。

これで清盛らは官軍、義朝らの軍は朝敵賊軍とすることができるようになったのです。

清盛は信頼・義朝追討の宣旨を奉じ、長男重盛を大将として大内に攻撃をかけました。

このとき重盛を迎え撃ったのが、源氏一の勇者と言われた源義平でした。

悪源太と呼ばれた19歳の若者はたちまち重盛を追い詰め、重盛はやっとのことで逃走。

   

平家一門は官軍となり、また平治・平安・平家と平が並ぶのは神のおぼしめしと思い、士気があがったということです。

追討宣旨を奉じて意気の揚がる平氏に対して源氏の士気は揚がらず、結局は合戦に破れてしまいました。

義朝は再起を図って東国に落ちる途中、尾張国の内海で殺されました。

義平は逃亡し、良く1160年(永暦元)決死の覚悟で六波羅に忍び込んだところを捕らえられ、六条河原で斬首に処せられました。

首打たれる直前、義平は首切り役に、

「悪源太の首を打てるとは、わぬしも名誉よのう。うまく切れるか!・・・下手に切ろうものなら、わぬしの顔でも食らおうかのう。」

と捨て台詞を残した・・・とされています。

   

この乱で源氏はほとんど滅したも同然となりました。

源氏の棟梁義朝の長男義平は斬首、次男朝長は戦死・・・そして3男頼朝も殺される運命にありました。

しかし清盛の継母池禅尼の助命嘆願により、頼朝は伊豆に流刑。

そして義朝の妾常磐御前の子、今若・乙若・牛若は、僧籍に入り、平家への反乱をせぬという誓いのもと、助命されました。

この牛若が後の九郎判官義経であることは、言うまでもありません。

常磐御前は敗者の運命として、勝者の意のままになる・・・この場合は清盛の寵愛を受けることになったのです。

屋敷を与えられ、清盛との間に娘をもうけ・・・後に義経と出会い、平家滅した後に再婚し、女性として静かにその生を全うしたとされています。

 

こうして平氏は清盛のもと、この後我が世の春を謳歌してゆくのでした。

 

一時的に平家が覇者となりました。

中でも平清盛の時代、平家にあらずんば人にあらずとまで言われた、平家全盛時代を現出させました。

一時は福山に遷都させるほどの力を誇った平家でしたが、貴族階級と妥協したことで武家の荒々しさがなくなってしまったのは皮肉なことでした。

平清盛死去後、木曾義仲の挙兵をはじめとして、源義経や兄頼朝ら各地に潜伏していた源氏の挙兵を招きます。

後白河法皇の陰謀があったとはいえ、彼ら源氏のパワーは平家が失った武士の力そのものでした。

やがて平家は追い詰められ、壇ノ浦で滅亡・・・。

源頼朝による、史上初の武家政権『鎌倉幕府』が誕生することとなりました。

   

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