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丹羽ゼミ(愛産大)コミュのbibikeiの古地図レジメ

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図1は尾張太古之図」は、文化十一年(1814)、春日井郡玉井之神社修復の際発見したるものより縮写したものである。
図2は豊田市猿投(さなげ)町の猿投神社に伝わる古地図を書木おこしたものである。

今から1,500〜500万年前、愛知、岐阜、三重にまたがる大きな湖があり、ここに流れ込む河川の堆積が現在の丘陵地や水田の地下の亜炭層を形成した。その後、地殻変動のよって湖底が陸地となり、河川の洪水によって砂礫(されき)が堆積したが、河川は堆積から浸食作用へと転じ、海面の上昇によって海水が進入し熱田海となった。その後、海岸線は段丘を形成しながら南へと退きた。熱田海は現伊勢湾で、白山まで伊勢湾は湾入していたことになる。 


 瀬戸市の瀬戸は「狭門」即ち海峡の意であるし、赤津の「津」は港を意味する。現在、低地に属する地域は、古くは中島郡、海部郡(海東・海西)と呼ばれた。小牧山は古くは「帆巻山」といったとも伝えられ、清洲、萱津もまた海川を連想させる地名である。また津島市の西部や佐屋町は、ほんの30、40年前、まるで砂浜のような砂地が続いて、網目のような水路を小舟が行き交っていた。明治初年頃まで木曽川が現在より東方、国道155号辺りを流れていた名残である。

 長島、津島、枇杷島、中島などの島々を考え合わせると、現在の地名の源が推し量られる。むろん、中央海域が全くの海であったというのではなく、揖斐、長良、木曽の三大川や庄内川、矢田川、天白川、日光川等々の流れが今のように固定されずに氾濫しながら乱流していた。

 東岸に目を転じると、ここにも、桑名から、多度(戸津)、石津、津屋、養老、津、赤坂、磯といった地名が大垣市まで、現在も養老山脈沿いに並んでいる。
「古事記」「日本書紀」の、日本武尊の伊吹山から伊勢の能褒野への経路、壬申の乱の時の天武天皇の桑名から不破への行程を、やはり伝承によって辿ると、養老山脈に沿った道になる。現代の国道258号は古代の道につかず離れずであろうか、石津の辺りからは、三大川のはるか向こうに名古屋市が望まれ、後に桑名と熱田の宮との、「七里の渡し」が設けられた地形がよく分かる。日本武尊や天武天皇は、養老山脈沿いの陸路、海路を辿ったものと思われる。

コメント(5)

 慶長15年(1610年)名古屋城の建設が始まりました。以後、4年の歳月をかけ完成にいたりました。
家康は、江戸・大阪につぐ城下町として情熱をもって町づくりを行いました。すでに6万人余の暮らす清洲城下から寺社(120余)、町名もそのまま移転させる計画は歴史上まれなことであった。

 名古屋城下と名古屋台地南端の熱田神宮を結ぶ南北の幹線道路本町通を建設、その西側に平行する運河堀川を作りました。名古屋城郭本丸には、金鯱を冠する五層の天守閣が小天守とともに威容を誇り、その南側には本丸御殿が造営され藩主義直を迎えました。

その後二の丸御殿が建てられ藩主の住居や政務を行う場所として幕末まで使用されました。現在の官庁街である三の丸には尾張藩の重臣の屋敷や東照宮、亀王天王社が置かれました。




 広小路、外堀通、堀川、久屋大通に囲まれる区域を碁盤の目に区切り町人を住まわせ、さらに区画の中心の空き地に寺院をおきました。「碁盤割」と呼ばれています。
 それを囲むように武家町、寺町を配置して外敵に備える一方、町人を監視していました。名古屋で内向きの文化(花道や茶道)が盛んなのはこうした都市計画によるものといわれています。


 碁盤割の町名には、出身地や職業が当てられました(京町、桑名町、駿河町、呉服町、鍛屋町など)。南寺町(中区大須を中心とする地区)、東寺町(東区高岳中区新栄付近)、西寺町(西区江川沿い)などには、現在も多くの寺院が存在し、五条橋から中橋にいたる堀川左岸は豪商が軒を連ね今でもその面影を残しています。
名古屋都市圏の都市構造及び防災体制の現況

http://www.bousai.go.jp/oshirase/h15/0523nagoya/sankou3.pdf
低炭素都市2050名古屋戦略

http://www.n-kd.jp/modules/tinycontent/rewrite/cf_lowcarbon.pdf
 徳川家康が尾張藩の首府を清州から名古屋台地に移した最大の理由は西に対する防衛でした。
木曽川から流失した土砂で埋められた沖積層で形成された濃尾平野が西に広がり、名古屋城は背後に低地の湿地帯をもつ名古屋台地の最北に建設されました。
名古屋台地の東には熱田から流れる精進川の低湿地帯があり、家康の本拠地岡崎・駿河へは名古屋城下の中心を横切る伝馬筋から、駿河街道を東に進まなくてはなりませんでした。一方南の海岸線熱田の沖は、遠浅の海が広がり大型船の新入をはばんでいました。
防衛に適していたこの名古屋台地の地形は、その後の名古屋のあゆみに大きな影響を与えました。
 大量物流の輸送を海運に頼っていた江戸時代、外洋港を持たない名古屋の財政を支えていたのは、62万石といわれる年貢米収入と他の藩にはあまり例のない木曽の山林からの収入で年貢米収入を上回っていたといわれています。
 江戸幕府が崩壊し、明治時代が始まると名古屋の沈滞がしばらく続きます。
薩摩・長州閥で固められた新政府への人材登用もされませんでした。しかしもっとも大きな要因は明治政府の提唱する殖産興業という、制度改革や技術移転などの近代化政策に乗り遅れたことだと思います。
徳川御三家筆頭という特権に甘んじ、中央や諸外国との情報の途絶は、名古屋の発展に大きなマイナス要素をもたらしました。享保期(1716〜1735年)には世界最大の百万都市に成長していた江戸と比較すると、名古屋開府時の人口7万人から幕末まで横ばいの状態が続きました。名古屋の経済発展の停滞がしのばれる数字です。
江戸期から、外洋港を桑名や四日市に頼っていたことで、家内工業的な産業は存在しましたが政府が推進する近代的な産業は育たず、人口も微増の状態が明治中頃まで続きました。
 明治19年(1886)5月、名古屋区長吉田禄在らの努力により東海道線の名古屋乗り入れが実現しました。近代都市としての名古屋は第一歩をふみだしました。また明治22年(1889)市制施行により名古屋市が誕生しました。
大型船の進入を許さなかった熱田沖の遠浅の海は、半田港から熱田まで通じる武豊線が敷設されたことでもわかるように、流砂も激しく港湾建設には適さないと考えられていました。
しかし浚渫技術の進歩もあり、明治29年(1896)名古屋港の第一期工事が始まり、明治40年(1907)には念願の名古屋港が開港しました。同時に埋め立て作業もおこなわれた熱田沖に広大な工業用地が造成されました。
海と陸のインフラ整備と名古屋台地周辺の平坦な産業用地は潜在的に眠っていた名古屋の「ものづくり」への技術力を開花させたのです。
 昭和に入ると、全国を震撼させた昭和恐慌の余波にもかかわらず鉄鋼業、航空機産業、自動車産業といった産業が興り、軽工業から重工業への移転がはじまりました。熱田沖に埋め立てられた広大な工業用地には近代的な工場が進出し、現在の「ものづくり」名古屋の基盤が完成しました。
 名古屋台地は北や西側の低地から約10mの高台になっている。今では自動車が通る道が付けられ、家が建ち並び、それらの工事の中で傾斜もゆるくなったが、国道41号の清水口への坂などを注意してみれば相当の高度差があることが理解できる。名水と呼ばれた井戸はどれも名古屋台地の崖下や途中に湧いていたものだ。
 名古屋の名水は名古屋台地に滲み込んだ雨水が、地中に貯えられ、ろ過され、地中のミネラルを溶かし込み、崖の途中や下で湧き出していたものだ。
 名古屋城のお堀は、築城当初は流れ込む川は無く自然の湧水で十分満たされていた。名古屋の市街が発展した。建ち並ぶ家により地中にしみ込む雨水が減少し、また、市街の各地にある井戸から汲み上げる水が増え、崖からの湧出量が減ったことから庄内側からひく御用水が造られた。
 
 ① 昔の北区、片山神社です。
 ② 現在の片山神社
 ③ 現在の写真は片山神社から下って行く写真です。

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