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宮本恒靖日本代表ガンバ大阪コミュの 宮本が泣いた!G大阪大逆転初優勝/J1

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2005年12月04日

宮本が泣いた!G大阪大逆転初優勝/J1



(日刊スポーツ)
<J1:G大阪4−2川崎F>◇最終節◇3日◇等々力

 G大阪がJリーグ開幕13年目にして悲願の初優勝を飾った。アウエーの川崎F戦で、激しいゴールの奪い合いを制して4−2で勝利を収めた。DF宮本恒靖(28)の勝ち越し点、得点王のFWアラウージョ(28)の2得点など最後まで攻撃サッカーを貫いた。前節首位を譲ったC大阪が残り1秒で同点とされたことで、最後に勝ち点で逆転。5チームに優勝の可能性があった史上最大の混戦を、終了直前に抜け出して関西に初の年間王座をもたらした。

 宮本のホオを大粒の涙がつたった。西野監督と抱き合い、また熱いものをぬぐった。苦しみ、悩んだ長いシーズンの最後につかんだ初タイトル。冷静沈着な男が初めてピッチで見せた涙だった。「もう、半分は自分たちの手から離れた優勝だったから…。終了間際に自分たちがそういう立場(優勝)にいると知って、その中でホイッスルが鳴った。もう涙しかなかった」。

 川崎Fに勝っていても、まだ残り3分まではC大阪が頂点にいた。3連敗で首位陥落したG大阪は、勝って奇跡を待つしかなかった。後半11分、右FKから頭で宮本が合わせて勝ち越した。再び同点にされても自慢の攻撃サッカーを貫いた。4−2で勝利。そしてC大阪が終了間際に同点。劇的な幕切れでつかんだ逆転Vだった。決戦前夜、宮本は夢の中でも泣いていた。「優勝して泣いていた。泣いている自分をとめる自分もいた。もしかして泣くのかなと思っていたけど、自然に出ましたね」。

 この日をずっと夢見てきた。Jリーグ参加に伴い創設されたG大阪ユースの第1期生。当時は照明施設のないグラウンドで、冬場はただひたすら走るだけの日々だった。ミニバイクのヘッドライトだけを頼りにボールを蹴ったこともある。「止める、蹴る、走るをたたき込まれた。僕のサッカーの原点。それが血となって流れている」。

 宮本が築いた「ユースからプロ」へのレールを後輩たちが続いた。稲本(ウェストブロミッチ)新井場(鹿島)が高校生でデビューし、大黒、二川、橋本、家長らが続いた。この日のベンチ入りメンバー16人のうち6人がG大阪ユース出身だった。97年の第2ステージで2位になった当時はFWエムボマのチームだった。今季もアラウージョの存在は大きかったが、下部組織の充実がチーム力を向上させた。

 8月、宮本はセリエAトレビソから獲得の打診があった。悩んだ末、ユース時代監督だった上野山信行育成普及部長(48)に電話した。「少しでも未練があるならやめておけ」。恩師の言葉で心を決めた。「このチームで優勝したい。形を残したい」。J創設から参加した10クラブで唯一優勝経験がないチームという汚名も返上したかった。10月22日大分戦で右ひざじん帯を痛め、ドクターから「6週間は覚悟してくれ」と言われた。それでも気力で11月5日のナビスコ杯決勝のピッチに立った。

 終盤は苦しんだ。前節まで6試合は1勝5敗。11月10日から3日間、吹田市内のホテルで疲労回復を目的とした充電合宿を行った。寝食をともにした共同生活で、自然とチーム内の共通意識が高まった。合宿後も勝てない日々は続いたが、チームの士気が崩れることはなかった。

 「ガンバが大きなクラブになるために優勝が必要だった。代表の優勝とは違う、心から求めていたもの」。常勝チームづくりの目標がある。来年は日本代表キャプテンとしてW杯もある。宮本とG大阪の新たな挑戦がまた始まる。

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