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ビートたけし コミュの映画監督「北野武」

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映画監督「北野武」
「その男、凶暴につき」(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致しなかった為、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。

1997年、映画「HANA-BI」が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として39年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画「菊次郎の夏」で約5分間のスタンディングオベーションを受けた。

2005年4月、フランスの「カイエ・デュ・シネマ」創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[9] (300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。

2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)[10]。

2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。

2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。

2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。

自著「時効」によると、「40代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が毒舌を期待していたためギャップで悩んだ。もう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時は面白いおじさん的な立場で出られればいい」と述べている。


「キタノ映画」

「キタノ映画」の特徴
「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。

こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も「キタノ映画」には重要な存在である。


監督作品
『その男、凶暴につき』(1989年)
ヨコハマ映画祭・監督賞
(第63回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第8位、第11回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第2位)
『3-4×10月』(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
トリノ国際映画祭・特別賞
(第64回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第7位、第12回コハマ映画祭日本映画ベストテン第4位)
『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
第46回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
第13回ヨコハマ映画祭・作品賞、監督賞
第65回キネマ旬報賞・読者選出日本映画監督賞
第16回報知映画賞・最優秀監督賞
第34回ブルーリボン賞・作品賞、監督賞
(第65回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第6位、第13回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第1位)
『ソナチネ』(1993年)
タオルミナ国際映画祭・「カリッディ金賞」
コニャック国際映画祭・批評家賞
※イギリス国営放送BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出
(第67回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第4位、第15回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第3位)
『みんな〜やってるか!』(1995年)
『キッズ・リターン』(1996年)
第51回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
第39回ブルーリボン賞・監督賞
第7回文化庁優秀映画作品賞・長編映画部門
第6回日本映画プロフェッショナル大賞・監督賞
(第70回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第2位、ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第1位)
『HANA-BI』(1998年)
ヴェネチア国際映画祭・グランプリ(金獅子賞)
ニューヨーク国際映画祭・ヨーロピアン・アカデミー賞「スクリーン・インターナショナル賞」
サンパウロ国際映画祭・批評家賞
オーストラリア映画批評家協会賞・外国作品賞
第53回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
報知映画賞 邦画部門・最優秀作品賞、最優秀監督賞
第41回ブルーリボン賞・作品賞、監督賞
第49回芸術選奨・文部大臣賞映画部門
(第72回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位、第20回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第3位)
『菊次郎の夏』(1999年)
第54回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
第1回文化庁優秀映画賞・長編映画部門優秀映画賞
(第73回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第7位、第21回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第5位)
『BROTHER』(2001年)
『Dolls』(2002年)
ダマスカス国際映画祭・最優秀作品賞
第4回文化庁優秀映画賞・長編映画部門優秀映画賞
『座頭市』(2003年)
ヴェネチア国際映画祭・監督賞
シッチェス・カタロニア国際映画祭・グランプリ
トロント国際映画祭・観客賞(グランプリ)
第58回毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
第77回キネマ旬報賞・読者選出日本映画監督賞
(第77回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第7位、第25回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第3位)
『TAKESHIS'』(2005年)
『監督・ばんざい!』(2007年)
ヴェネチア国際映画祭・監督ばんざい!賞
『アキレスと亀』(2008年)
テサロニキ映画祭・ゴールデン・アレクサンダー賞(同映画祭の大賞で、最優秀作品賞もしくは名誉賞にあたる。)
パストーネ・ビアンコ賞2008(白い杖賞)

事件・事故

フライデー襲撃事件
詳細はフライデー襲撃事件を参照

1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を半年間辞退した。なお、女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。

1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。


バイク事故
1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。

テレビ朝日「やじうまワイド」で大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。

上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に既に亡くなっていた逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。


価値観

数学
理系学部出身であった事からも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と語った一方で、「たけし・逸見の平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」として、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともあった。


社会風刺
ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、さらには『ビートたけしのTVタックル』などのテレビ番組で世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。

別の一例としては1992年に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[11]。この「『地球にやさしく』- 」は同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。

2008年現在はテレビ番組にて「僕は護憲の立場なんですよ。だけど、憲法を認めるかどうかの国民投票はするべき。」と発言している[12] 。

ただしたけし本人はこういった発言があまり大きく取り上げられることに対し「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などの反応を示すことが多い。また後述の佐高信には「床屋政談」と評されたこともあった。


スポーツ
サッカー(Jリーグ開始以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(『たけし軍団』)では投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。

神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーで軟式ルールながら阪神に勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年)』では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。

格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手切りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。

一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、跳び箱ができないことは後にたけしの出演番組内でもネタにされ、「たけしの跳び箱オリンピック」と題した苦手克服企画が1988年の年末に放送された。

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