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戦史研究室コミュの古代戦史の部屋

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古代戦史についての雑談トピックです。
使い方は自由です!

対象となる時代は大まかに以下の通りです。
★西洋史
 紀元前〜5世紀(西ローマ帝国崩壊:476年頃)
★中国史
 紀元前〜3世紀(後漢王朝崩壊:220年頃)
★日本史
 紀元前〜12世紀(平安時代・平家滅亡:1185年頃)

主な戦争については、以下をご参照ください。
「戦争一覧」https://w.wiki/3KXm

※時代区分はトピック運用のため便宜上、採用したものです。
皆さまのご意見により変更する場合があります。また時代区分は厳密なものではありませんので、境目近くの区分につきましては皆さまの判断にお任せいたします。

コメント(32)

皆様が古代の戦史として最初に「これだ」ってのはなんですかね?そこからがスタートになるのかな。
私がまず思い浮かべるのはペルシア戦役(アケメネス朝ペルシアvsギリシアポリス)ですね。
古い戦史はもちろんあるのですが、歴史書として戦史の記録が解説されてるってのもありますしね。
カデシュの戦いでしょうか。。。
よく知りませんが「史上初の公式な軍事記録に残された戦い」ということで。
>>[2]
そうですね、そして記録上世界最初の平和条約が結ばれた戦いでもあるようです。
>>[3]
壬申の乱の関ヶ原って思えば不思議ですよね。
大津と吉野で別れてたのになぜ岐阜で決戦だったのか。。
>>[5]
確か大海人皇子は尾張にて援軍を求めたよう記憶してます。あの辺の豪族(尾張氏)となんらかの繋がりがあったのではないでしょうか。だとしたら近江と尾張の間で作戦たてやすい地形の関ヶ原にて戦ったというのも合点がいきます。
古代の戦史というと、ハンニバルがローマ軍を殲滅したカンネーの戦いやアレクサンドロス大王がペルシャの大軍を破ったガウガメラの戦いのように後の戦術のお手本となるような戦いがあって興味深いですね。
いりいろ考察すると面白そうですね。
>>[7]
戦史研究室という意味では書いてもいいのかもしれませんが、
古代の兵法家って名前が出てくるのは孫子の兵法でおなじみの孫武、孫ピン、呉起、孫子の兵法に注釈を入れた曹操くらいかな。
西洋の人の名前って近代は出るけど古代は思い浮かばないですね。。。
トゥキュディデス「戦史」を生んだペロポネソス戦争。
紀元前431年〜紀元前404年。
アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争。

>>[9]
戦史は私も読みました。
古代ギリシアはアテナイ->スパルタと覇権が移っていく過程になりますが、実はそのあとにテーバイ->マケドニアと覇権が移っていく過程もあるんですよね。
>>[10]

実は、トゥキュディデス「戦史」を通して読んだことはないんです。お恥ずかしい。古本でもまだ、いい値段みたいですね。
研究書は何冊か読みましたが、トゥキュディデス「戦史」と司馬遷「史記」の違いなどが興味深かったですね。
>>[11]
私は今ちょうどカエサルのガリア戦記を読んでいるところです。
ちょっとラテン語を勉強してみようかなと思い、ラテン語対訳付のものです。

ガリア戦記なんかもそうですが、古代の戦いに見られる特徴の1つは指揮官の能力次第では寡兵でも戦局をひっくり返したりすることが多くみられますね。
現代戦ではあまり見られない特徴の一つですかね。
>>[12]

歴史に描かれる個人はリーダーだけですからね。実態はどうだったんでしょう。
ただ、現代でも指揮官の能力は重要だと思いますが、逆に指揮官が目立たない時代ですね。
>>[13]
古代の先頭においても、必ずしも国家の指導者が戦闘に出るわけじゃないですからね。
もっとも、現代において指揮官が目立たないのは会戦がないからじゃないですかね?
ペロポネソス戦争
ギリシャ語: Πελοποννησιακός Πόλεμος、英: Peloponnesian War
紀元前431年 - 紀元前404年

アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生した、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争である。

戦争:ペロポネソス戦争
時 :紀元前431年 - 紀元前404年
場所:古代ギリシア
結果:スパルタの勝利

次から連載風に、ペロポネソス戦争について書き込みしようと思っています。
出典は主にWikipediaですので、おかしなところが出ましたらご指摘ください。


※青:ペロポネソス同盟諸都市、赤:デロス同盟諸都市、黄:アケメネス朝(wikiより)
【ペロポネソス戦争 Vol.1】

ペルシア戦争(前492〜前449年)に勝利したスパルタ、アテナイ(アテネの古名)、コリントスなどギリシア連合31ヶ国は、ペルシアへの対抗によって結束したかに見えたが、水面下では有力ポリス間の覇権争いは継続しており、特に戦後はアテナイとスパルタの権力闘争が表面化した。

アテナイは、一連の戦争の中で陸軍国から強力な海軍力を擁する海上貿易国家へ成長することに成功し、エーゲ海東海岸を勢力下に納め、全盛時代を迎えた。
ペルシア戦争のためにアテナイ主導で締結されたデロス同盟では、各ポリスから一定の資金が軍資金として集められたが、実態としてはアテナイによる同盟諸ポリスの支配であった。事実、同盟を離脱したポリスは、アテナイ軍に包囲されて強制的に同盟に再加入させられ、また、同盟国からの徴収金はアテナイの国庫に流用されるようになった。

これに対して、スパルタなど農業中心のポリスには、戦勝による見返りがほとんどなかった。交易活動が盛んなコリントスやアイギナもアテナイの勢力に圧倒された。スパルタはペロポネソス半島の諸ポリスとの間にペロポネソス同盟を結成していたが、アテネの勢力拡大にさらに強い警戒感をもつようになった。

こうしてギリシアはアテネを中心としたデロス同盟諸国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立というあらたな段階に入った。



※(左)アテナイのテトラドラクマ銀貨
発行時期は紀元前454-415年。通称「ふくろう銀貨」と呼ばれるもの。アテナイはデロス同盟参加国から徴収した銀を用いて莫大な量の銀貨を発行した。
※(右)スパルタの劇場跡
【ペロポネソス戦争 Vol.2 シュボタの海戦】

ペロポネソス戦争の直接の動機となったのは、紀元前435年に起きたギリシャ人植民市エピダムノスの内紛だった。

エピダムノス(現ドゥラス;アルバニア)は、コリントス(コリントとも呼称)により建設されたギリシア北西部の植民市ケルキュラ(コルキュラとも呼称。現ケルキラ)を母市とする。打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊したエピダムノスは、母市であるケルキュラに援助と調停を求めてきた。

しかし、ケルキュラはそれを無視。困窮したエピダムノスはコリントスに庇護を訴えた。当時ケルキュラとの関係が険悪だったコリントスはその要請を受け入れ、移住希望者と守備隊を陸路エピダムノスに向かわせた。

ケルキュラはこの行為を、自分たちのエピダムノスに対する統治権を無視する侵略行為とみなし、25隻の船を派遣して、その時ケルキュラにいた追放者の受け入れとコリントス人の送り返しを命じたが、エピダムノスが要求を突っぱねたため、ケルキュラは軍を派遣してエピダムノスを包囲した。

その知らせが届いたコリントスは同盟国と共に艦隊を編成し、ケルキュラに宣戦するとエピダムノスへ向かった。エピダムノスにコリントスおよびその同盟軍が着くとケルキュラ艦隊との間で海戦が起こり、ケルキュラの一方的な勝利に終わった。同日にエピダムノスはケルキュラに降服した。

この海戦の後、コリントスは艦船の建造と海軍力の増強を開始した。一方、コリントスの軍備増強と報復を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求める。海上貿易の利権をめぐってコリントスと敵対関係にあったアテナイはこの機会に乗じてコリントスの勢力を削いでおく思惑もあり、ケルキュラからの要請に応じた。

紀元前433年、ケルキュラ・アテナイ艦隊とコリントス艦隊との間で、ケルキュラ島に近いシュボタ諸島の付近において軍事衝突が起きた。トゥキュディデス曰く、これまでのギリシア人同士の海戦の中では最大規模の海戦と伝えられているシュボタの海戦である。

参加兵力はケルキュラ・アテナイ艦隊120隻、コリントス艦隊150隻。この海戦でケルキュラ艦隊は1000人以上の捕虜を出し、70隻の船を沈められた。コリントス艦隊は30隻の船が撃破された。結局、両軍共に勝利を主張し、明確な勝敗はつかないまま戦いは終わった。


※(左)関係マップ1
※(中)関係マップ2
※(右)当時の海戦イメージ
【ペロポネソス戦争 Vol.3 ポティダイアの戦い】

紀元前433年、シュボタの海戦によってコリントスとの対立が明らかになったアテナイは、コリントスの植民都市であったが、アテナイの同盟国であるポティダイアに防壁の除去と人質を要求。さらにコリントスの行政官を追放して、今後毎年コリントスから派遣されてくる行政官を拒絶するよう命じた。

アテナイは、ポティダイアがマケドニア王ペルディッカス2世とコリントスに唆されて反乱を起こし、それにトラキアの他の同盟国も倣うことを恐れていた。ペルディッカス2世の弟ピリッポスがマケドニア王に背いた時、アテナイはピリッポスらを支援したため、ペルディッカス2世は様々の反アテナイ行動をとったこともアテナイを刺激していた。

そこでアテナイは30隻の艦隊と1,000人の重装歩兵をペルディッカス2世の領地に送った。そして新たにアテナイ本国から、彼らにポティダイアの防壁を破壊し、人質を取り、諸同盟国への監視を強化するよう命令を下した。こうしたアテナイからの要請を、ポティダイアは自国の国防に対する重大な内政干渉と捉えて激怒。アテナイ側のデロス同盟から離脱し、ペロポネソス同盟の側に支援を求める。ペルディッカス2世もポティダイアに協力した。

アテナイ軍はポティダイアとマケドニアを同時に相手にして戦うことはできないと判断し、ピリッポスらと連携を取って戦おうとした。このアテナイの軍派遣に対し、コリントスは重装歩兵1,600人と軽装歩兵400人をポティダイアに送った。これを受け、アテナイは重装歩兵2,000人と40隻の艦隊を新たに送った。アテナイの増援部隊はまずマケドニアに上陸し、先発隊の一部と合流した後、マケドニア王ペルディッカス2世と講和した。ところがペルディッカス2世はアテナイとの講和を破棄し、再びペロポネソス同盟側に寝返った。

アテナイ軍がポティダイアに到着すると両軍は交戦状態に入った。このポティダイアの戦いで、ポティダイアおそびその同盟軍は300人弱を失い、アテナイ軍は150人を失った。その後、アテナイはポティダイア近くの地峡に防壁を築いて守備隊を置いた。ポティダイアは南北から塞がれ、さらに海からは艦船で封鎖されることになった。

コリントスはスパルタにペロポネソス同盟諸国を召集し、対アテナイ宣戦を訴えた。アテナイからの使節および和平派のスパルタ王アルキダモス2世の説得にもかかわらず、紀元前432年にスパルタは対アテナイ宣戦を決定し、アテナイもそれに応じたことによってペロポネソス戦争は開戦の運びとなった。

一方、ポティダイア包囲は長期化し、これによる国庫の消耗(この包囲戦にアテナイは年2,000タラントンを消費した)、さらに開戦当初にアテナイで流行した疫病にアテナイは苦しんだ。しかし紀元前430年の冬の時点にはポティダイアの耐久力は限界に達しており(食糧不足によって人肉を食べるものさえ現れるほどであった)、アテナイに降伏した。降伏の条件としてポティダイア市民がポティダイアを出て行くことがアテナイ側から提示され、ポティダイアはそれを受け入れ、市民たちはカルキディケ地方や各地に散った。後日ポティダイアにはアテナイ人が入植した。


※(左)関係マップ
※(右)現在のポティダイア(地峡部)
【ペロポネソス戦争 Vol.4 十年戦争〜ニキアスの和約】

紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵攻を始めた。アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との間で繰り広げられることになるギリシア世界を二分する戦いであるペロポネソス戦争がついに開戦の時を迎えたのである。

スパルタ王アルキダモス2世はアテナイの2倍もの兵力にのぼる重装歩兵の大軍を引き連れ、アッティカ半島におけるアテナイの支配地を荒らし回った。対するアテナイは、指導者であるペリクレスの提案で、スパルタ軍と陸上において真正面から衝突する危険を冒さずに、アテナイの城壁の内部に市民を避難させて戦況を長期戦に持ち込もうとした。

アテナイとその外港にあたるペイライエウス(現ピレウス)港の間には、ペルシア戦争におけるサラミスの海戦において、ギリシア艦隊を勝利へと導いたアテナイの名将テミストクレスによって建設された強固な二重の城壁が築かれていた。ペリクレスは、そうしたアテナイを守る長大な城壁によってスパルタ軍の侵攻を阻止している間に、港から出立したアテナイの艦隊によってペロポネソス同盟側の都市国家を次々に攻略していくことで、この戦いをアテナイ側の優位に進めていくという戦略だった。

ところが、エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。ペリクレスも疫病に罹って没する。しかし、ペリクレスの戦略は彼の死後も生き続けた。

疫病の流行による大きな被害と混乱はあったものの、アテナイ艦隊の海上戦における優位と、都市を守る強固な防壁による陸上戦における膠着状態が継続していくなか、全体の戦況は次第にアテナイの側の優位へと傾いていくことになる。

紀元前425年、スパルタに近いピュロスに侵攻したアテナイ艦隊が、スファクテリアの戦いにおいてスパルタを含むペロポネソス同盟の軍を破ると、降伏するよりは死を選ぶと謳われた勇猛なスパルタ軍の戦意を喪失させて降伏へと追い込むという大きな戦果を上げた。スパルタは慌てて講和を申し込む。アテナイは自分たちにとって有利な条件で講和条約を結ぶ絶好の機会を手にすることになった。

しかし、アテナイ市民を戦争へと煽り立てていくことを糧として、自らの政治的な求心力を得ていたクレオンら主戦派の政治家たちは、戦いの引き際を知らずに、終わることのない戦争の継続を求めていく。その後、こうしたアテナイの主戦派たちによって進められる長引く戦争による疲弊と、デロス同盟の盟主であるアテナイの強権的な姿勢に対して不満を抱いていたトラキア地方の諸都市がアテナイから離反していくことによって、戦況は徐々にペロポネソス同盟の側の優位へと傾いていった。

こうした情勢の変化に焦りをおぼえたアテナイの主戦派クレオンは、自ら大軍を率いてトラキア遠征へと赴く。紀元前422年、かつてペリクレスがあれほど避けることを強く求めていたスパルタの重装歩兵と、陸戦で真正面からの衝突を挑むことになったクレオン率いるアテナイ軍は、アンフィポリスの戦いにおいて大敗を喫することになり、クレオンもまたこの戦いで戦死した。

アテナイにおける好戦的な指導者であったクレオンの死をきっかけとして、両陣営の間では和平へと向けた機運が一気に高まっていった。紀元前421年、アテナイにおける和平派の政治家であったニキアスの主導によって、アテナイとスパルタの間でニキアスの和約が結ばれた。紀元前431年はじまったペロポネソス戦争は10年間におよぶ戦いの末にいったんは終結の時を迎える。

しかし、ニキアス和約の講和条件においては、アテナイとスパルタの双方が戦争中に獲得したすべての領土が返還されることが互いに約束されることになったものの、和約が締結された後になってもスパルタからアテナイへのアンフィポリスの返還が拒否されるなど、占領地の全面的な返還が行われることはなく、アテナイを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との対立と緊張関係はそのまま長く続いていくことになる。

※(左)関係マップ
※(中)コリント式ヘルメットを被ったペリクレスの像
※(右)アテナイと外港ペイライエウス(現ピレウス)。それぞれの都市は市壁に囲まれ、都市間は長壁で接続された。
【ペロポネソス戦争 Vol.5 第二次ペロポネソス戦争の開戦】

ニキアスの和約締結後、アテナイでは、主戦派の政治家であったアルキビアデスが新たな指導者の地位につく。

アテナイの名門貴族の家柄の生まれであり、アテナイ随一とも言われる美貌と美しい肉体の持ち主でもあると同時に、巧みな弁舌の才によってアテナイの民衆を魅了する美青年であったアルキビアデスは、30歳の若さにしてアテナイの将軍の地位に選出され、その後、彼を熱狂的に支持する民衆たちの力によってアテナイの指導者としての立場にまで昇りつめていった。

アルキビアデスは過激な発言によって民衆の支持を集めていくデマゴーゴスとも呼ばれる煽動政治家だった。彼は自らの求心力と民衆からの支持をさらに高めていくために、勇ましい演説によってアテナイの民衆を戦争へと煽り立てていくことになる。

当時のアテナイは、ニキアスの和約によって最も近い敵であるスパルタと直接戦うことができない状態にあった。そこでアルキビアデスは、ギリシア半島から遠い西方に位置するイタリアのシケリア島(現シチリア島)へと新たな戦地を求めた。

シケリア島では、スパルタと同じドーリア人によって建設されたシュラクサイ(現シラクサ)を中心とする都市国家と、アテナイと同じイオニア人によって建設されたセゲスタを中心とする都市国家との抗争が起きていた。アルキビアデスは、アテナイと友好関係にあったセゲスタの救援を名目として大艦隊を送り込み、シケリア島全体をアテナイの支配下へと組み入れ、さらには、シケリア島の支配を手はじめとして、カルタゴからエジプトへと至る広大な領土を支配する地中海帝国を築くという大いなる野望を抱いていたと言われる。

紀元前415年、アルキビアデスの主導によってアテナイのシケリア遠征が始まった。これを知ったスパルタは、アテナイが互いの同盟国に対する軍事攻撃を禁じたニキアスの和約を破ったとみなし、シュラクサイを救援するための軍を派遣することにした。これにより第二次ペロポネソス戦争が開戦となった。


※(左)関連マップ
※(中)アルキビアデスの像
※(右)現在のシラクサ(シュラクサイ)
【ペロポネソス戦争 Vol.6 アルキビアデス、スパルタへ逃亡】

紀元前415年、アテナイのシケリア遠征が始まるが、その指揮官には主戦派のアルキビアデスのほか、遠征には反対の立場にあった和平派のニキアスも選ばれた。遠征軍の規模も、当初の計画である60隻の船で小部隊を送るというものから、200隻以上の大艦隊と1万人以上におよぶ重装歩兵の大部隊派遣にまで拡大した。

そうした遠征軍の出発の前日、市中に幸運の印として置かれているヘルマ(ヘルメースの胸像が乗っている長方形の柱)が多数破壊されるという奇妙な事件が発生した。遠征に対する悪い予兆であり、また政府転覆の企てであるとして深刻に捉えられたが、遠征軍の出発という国家の大事を前にして、この不審な事件についての調査はとりあえず後回しにされた。事件の翌日、アルキビアデスとニキアスが率いるアテナイ遠征軍はシケリア島へと向けて出立した。

アテナイ艦隊はまず同盟国軍と合流するためにケルキラ島(あるいはコルフ島 ・コルキラ島)に向かい艦隊を分割した。その後、カタナ(現カターニア;シチリア島)に進んだが、到着した際にアルキビアデスに逮捕令が出ていることが分かった。

アテナイ本国で行われた調査において、ヘルマの破壊という神を冒涜する行為に、普段から素行悪く徒党を組んで狼藉を働いていたアルキビアデスの友人たちが深く関わっていた疑いが強まり、アルキビアデス本人も彼らを招いてエレウシスの秘儀をまねた酒宴を開いていたという密告があったことから、アルキビアデス自身に対しても神を冒瀆する行為へと関わった瀆神罪の嫌疑がかけられることになった。

古代ギリシアにおける最も偉大な哲学者として讃えられることになるソクラテスも、不敬神の罪に問われてアテナイの裁判において死刑の宣告を受けることによって毒杯を仰いで命を落とすことになるように、古代ギリシアでは、神を冒瀆する瀆神罪や不敬神にあたる罪は死刑に相当する重罪として位置づけられていた。

アルキビアデスは自身の船でアテナイに戻ることに同意したが、処刑されることを恐れ、イタリア南部のスリイに停泊中にペロポネソス半島に向けて脱出し、スパルタへの亡命を求めた。アテナイは欠席裁判で死刑を宣告したが、彼の有罪は証明されたように思われた。

アルキビアデスはスパルタに亡命すると、ペロポネソス同盟都市に対してアテナイの死活的な情報を提供する。


※(左)アテナイ艦隊のシケリアまでの航路
※(右)ヘルメース像。
【ペロポネソス戦争 Vol.7 アテナイ、シケリア遠征で大敗】

アテナイの遠征軍は到着早々、遠征の主導者であったアルキビアデスを失うことになったが、ニキアスの主導によってシュラクサイを包囲することには成功した。

ところが、スパルタへと寝返ったアルキビアデスがスパルタの側にアテナイの遠征軍の情報を横流しすることによって、戦況はアテナイの遠征軍の側が徐々に劣勢となっていき、これ以上遠征を続けることは危険であると判断したニキアスは遠征軍のアテナイ本国への撤退を決める。

撤退の準備をしていた紀元前413年8月28日、月の姿が太陽と月との間に入った地球の影によって覆い隠されていく月食が起こった。かつて、ペロポネソス戦争がはじまった当初のアテナイの指導者だったペリクレスが、日食を見てうろたえるアテナイの兵士たちに、自分のマントを脱いで兵士の目の前で広げて光を遮ることで天体現象の合理的な説明をして不安と混乱を鎮めて見せた。しかし、シケリア遠征の指揮官であるニキアスは、月食を見てこれを不吉な前兆と考えて、軍の撤退をすぐに実行するのをやめてしまった。そのため、アテナイの軍勢はそのまましばらくの間、シケリアの地にとどまり続けることになる。

こうした不合理な理由に基づく撤退の判断の遅れから、戦況はさらにアテナイの側の不利へと大きく傾いていくことになり、スパルタとシュラクサイの連合軍によって包囲されることになったアテナイの遠征軍は、兵たちの多くが虐殺されたのち、捕虜となった人々もシュラクサイ近郊の石切り場へと送られて、そのほとんどが飢餓と疫病によって死に絶えた。さらには指揮官であったニキアスも処刑されることになるというアテナイの側の大敗によってシケリア遠征は幕を閉じることになった。

シケリア遠征の大敗によって、1万人にもおよぶ重装歩兵と、三段櫂船の漕ぎ手となる3万人にもおよぶ水兵を失うことになったアテナイは急速に弱体化していくことになり、これを一つの大きな転換点として、ペロポネソス戦争はスパルタ側に優位な戦況へと大きく変化していくことになった。



※(左)シュラクサイの城壁と対塁壁(赤)とアテナイの攻城堡塁(青)
※(右)シュラクサイからのアテナイ軍敗走経路
【ペロポネソス戦争 Vol.8 アルギヌサイの海戦】

紀元前413年、シケリア遠征に失敗したアテナイは1万人にもおよぶ重装歩兵と軍艦の漕ぎ手3万人を失った。アテナイを盟主とするデロス同盟からは、軍事的に弱体化したアテナイのことを見限って同盟を離脱し、さらには、敵方であるスパルタを盟主とするペロポネソス同盟へと寝返る都市国家が次第に増えていった。

しかし、敗戦の色が濃くなっていくアテナイの国内においては、民主主義の政体とそれまでに培われてきたアテナイの伝統と文化を守るために、アテナイ人全体での強い団結心が呼び起こされていった。最後の決戦へと備えて、100隻を超える軍艦がエーゲ海の全域からアテナイ本国へと呼び集められたうえで、すべてのアテナイ市民はもちろん、本来は戦いに参加することが許されていない奴隷たちまでもが、戦後における奴隷身分からの解放を条件に三段櫂船の漕ぎ手として軍艦に乗り込んだ。

こうして何とか100隻を超える艦隊を編成することになったアテナイの人々は、国家の命運を決める最終決戦へと赴くアテナイ艦隊を率いる将として、アリストクラテス、アリストゲネス、ディオメドン、エラシニデス、リュシアス、ペリクレス、プロトマコス、トラシュロスという8人の将軍を選出した。このうちの1人に名を連ねているペリクレスは、かつてアテナイの民主政を完成期へと導いたアテナイの黄金時代における指導者にしてペロポネソス戦争の初期に不運にも疫病によって命を落とすことになった同名のペリクレスの息子にあたる人物である。

その後、8人の将軍たちが率いるアテナイ艦隊は、エーゲ海をギリシア世界における海の覇者であるアテナイ人たちの手に取り戻すために、エーゲ海を北東へと進んでいき、レスボス島の東に位置するアルギヌサイ諸島の近くにおいて、ペルシア帝国からの援助を受けて大艦隊を養成していたスパルタ海軍に対して決戦を挑むことになった。

こうして紀元前406年に行われることになったアルギヌサイの戦いにおけるアテナイ艦隊とスパルタの艦隊の決戦においては、ペルシアからの援助を受けて養成されたスパルタの艦隊を前にして、アテナイの艦隊を率いる8人の将軍のそれぞれが、かつてのペルシア戦争においてギリシア艦隊の勝利を導いたサラミスの海戦における名将テミストクレスを彷彿させるような快進撃を見せることによってアテナイ側の大勝利に終わった。

しかし、その後の掃討戦のさなか、突如として巻き起こることになった暴風によってアテナイ艦隊では多くの船が大破してしまい、戦いに勝利したものの、アテナイ軍の側も多数の人員の命を失うことになり、暴風による混乱のなか、敗戦によって壊滅状態にあったスパルタ艦隊にも逃げられてしまった。


※(左)関連マップ
※(右)当時の海戦イメージ
 『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社(1974年)より
【ペロポネソス戦争 Vol.9 6将軍の処刑】

紀元前406年、総力を結集して挑んだ最終決戦となるはずの大海戦において、戦いに勝利しながら兵力を大きく失い、敵軍を殲滅させることにも失敗したことが伝えらたアテナイの本国では、艦隊を率いた将軍たちの責任を追及する政治家や市民たちの声が高まっていった。

アリストゲネスとプロトマコスの二人の武将は、裁判にかけられて命を奪われることを恐れて逃亡を図るが、残りのアリストクラテス、ディオメドン、エラシニデス、リュシアス、ペリクレス、トラシュロスの6人の将は、アテナイへ帰還し、裁判の場で正当な裁きを求めた。しかし、アテナイでは民衆の耳に聞こえが良い言葉だけを語り、その感情を煽り立てていくことによって自らの求心力を高めていくデマゴーゴスと呼ばれる煽動政治家がはびこって民主政治は堕落し、衆愚政治に陥っていた。

あと一歩でペロポネソス戦争全体の形勢を逆転できるところまでたどり着きながら、ぬか喜びに終わったことに怒り狂うアテナイの市民たちの声によって、6将軍全員に死刑判決が下された。

アテナイ市民たちの理性を失った醜い感情のみにまかせた愚かな判決に対して、のちに自らもこうしたアテナイの民衆による不当な裁判にかけられて命を落とすることになるソクラテスだけが最後まで異議を唱え続けていたと伝えられる。

しかし、ソクラテスによる異議の声は、怒り狂う市民たちの大きくて愚かな声によってかき消されてしまうことになり、ペリクレスらアテナイの6将軍は自分たちが最後まで命を懸けて守ろうとしたアテナイ市民たちの手によって処刑されてしまう。


※ルーブル美術館にあるソクラテスの大理石の頭像
【ペロポネソス戦争 Vol.10 アテナイの降伏】

一方、スパルタ側の動向だが、紀元前406年のアルギヌサイの戦い後、ペルシアはかつてアテナイ艦隊に勝利したリュサンドロスを艦隊司令官とするようスパルタに要請した。アテナイ艦隊の指揮権を握ったリュサンドロスはペルシアの財政支援を得て、潤沢な資金で艦隊を強化・拡張した。

その後、リュサンドロスは沿岸のアテナイの同盟国との戦いを開始した。まず彼はサモス(エーゲ海の東部、トルコ沿岸にあるギリシャの島)のアテナイ艦隊を陽動するためにカリア(現トルコのアイドゥン県、ムーラ県一帯)のケドレイアイへと向って同地を攻略。その後、アテナイの同盟国で戦略上の要地であるランプサコスを攻略した。これによって、彼はアテナイの穀物輸送ルートを押さえた。そのため、アテナイ側は飢餓を避けるためにはリュサンドロスを倒す必要に迫られた。

紀元前405年、アテナイ艦隊180隻はリュサンドロス目指して進み、ランプサコスの対岸のアイゴスポタモイに停泊した。アテナイ艦隊は翌日の日の出と共に出撃してきたが、リュサンドロスはそれには応じなかったのでアテナイ艦隊は暗くなり始めるとアイゴスポタモイへと引き上げた。これが四日間続いたため、アテナイ軍はリュサンドロスを侮って敵を挑発するようにさえなっていた。

しかし、これはスパルタ側の策略であった。ペロポネソス戦争最後の海戦はケルソネソス半島(現トルコ;ガリポリ半島)を流れるアイゴスポタモイ川の河口付近で行なわれた。

5日目、敵を侮っていたアテナイ軍に対し、リュサンドロスは陸軍と呼応してアテナイ艦隊を総攻撃した。予期せぬ襲撃に混乱状態に陥ったアテナイ軍はろくに迎撃もできなかった。このアイゴスポタモイの海戦はスパルタ軍の大勝利に終わり、逃げ遅れたアテナイの艦船は全て拿捕され、3000あるいは4000人の兵士が捕虜になった。

その後、リュサンドロスはアテナイの同盟者のビュザンティオンとカルケドンへ向い、それらを味方に引き入れて再びランプサコスに船の修繕のために戻った。一方この大敗を聞いた日、アテナイは恐慌状態に陥ったが、翌日には篭城戦を決議し、その準備に取り掛かった。

やがてスパルタの二人の王、アギス2世とパウサニアスの軍によってアテナイは陸海から包囲された。アテナイはよく持ちこたえたが、リュサンドロスによって穀物輸入ルートを遮断されたのが効いてアテナイは食料が尽き、餓死者すら出すという始末だった。そして、紀元前404年5月、アテナイは城壁の破壊、12隻を残した全艦隊の引き渡し、スパルタへの隷属を条件に降伏した。

このアテナイの無条件降伏をもって、紀元前431年にはじまり、27年間にわたって続いていくことになったペロポネソス戦争はついに終結の時を迎えた。


※(左)関連マップ
※(中)アイゴスポタモイの海戦が起きたガリポリ半島(衛星写真)
※(右)ガリポリ半島(地図)
【ペロポネソス戦争 Vol.11 ソクラテスの死】

紀元前404年、ペロポネソス戦争で敗れたアテナイでは、スパルタの強い影響のもとで、30人による親スパルタの寡頭政政権が成立した。政権成立の当初、行き過ぎた民主政がアテナイ敗因の原因だったと考えていたアテナイの貴族や富裕層はこの事態を期待すべきものと捉えた。しかし、まもなく三十人政権は恐怖政治を敷き、貴族、富裕層や対立勢力を次々と粛清して財産を奪い穏健派を殺害した。

そのため、この政権への失望と反発が強まり、翌紀元前403年に共和制派勢力が三十人政権を打倒し政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスが糾弾され、公開裁判にかけられて刑死した。

ソクラテスを刑死に追い詰めたアルキビアデスだが、紀元前415年、スパルタに亡命した後の足跡を簡単に触れておく。

祖国アテナイを敵国へと売り渡すことによってスパルタでの名声を手にすることになったアルキビアデスは、一時は、市民たちからスパルタの王位につくことを望まれるほどまでに名を上げた。そうした人気の絶頂のさなか、若い時から浮名を流していた奔放な性格と素行の悪さが再び大きな問題を引き起こす。スパルタの王妃と密通して彼女との間に子供までもうけてしまったのだ。

アルキビアデスは、妻を寝取られることになったスパルタのアギス王から命を狙われることを恐れ、今度は、ペルシアへと逃亡した。

紀元前411年、ペロポネソス戦争においてアテナイ敗戦の色が濃くなると、スパルタとの和平を図って、アテナイにおいて民主政が放棄され、400人の特権的な市民が政権を握る寡頭政が敷かれた。こうしたアテナイの混乱を好機と捉えたアルキビアデスは、ペルシアの地に近いサモス島に駐留していたアテナイ海軍に働きかけて艦隊の指揮をとって、スパルタ艦隊を打ち破り、祖国アテナイに凱旋将軍として迎え入れられることになる。

しかし、紀元前406年、副官の失策によって自らが率いる艦隊が敗れることになると、敗戦の責任を問われることを恐れたアルキビアデスは再びペルシアへの逃亡を図った。こうして、アルキビアデスはペルシア帝国による庇護を求め、太守ファルナバゾスが治める現在のトルコとの中西部に位置するフリュギアへと逃げ延びた。

そして、アルキビアデスはフリュギアの地で暗殺される。

王妃との密通の罪、そしてアテナイへと寝返ってスパルタ艦隊を沈めたことへの報復として、スパルタからの密使の要請によって放たれたファルナバゾスの刺客に暗殺されたと言われる。別の説では、フリュギアにおいて目をつけた名家の娘を誘惑したために、その家の兄弟たちからの恨みをかうことによって家に火をかけられ、矢と槍をあびせられて殺されたとも伝えられる。

ペロポネソス戦争が終結した年と同じ紀元前404年のことだった。


※ソクラテスに教えられるアルキビアデス、1776年。
(Alcibades Being Taught By Socrates , 1776. )
フランソワ・アンドレ・ヴァンサン
【ペロポネソス戦争 Vol.12 その後のギリシャ】

27年にわたる戦争はギリシアのポリス社会を大きく変質させ、その全盛期が終わって衰退期に入る契機となった。特にアテネを中心とした主な情勢は次のようなことが挙げられる。
・戦争の長期化によって市民が没落し、ポリス民主政の基盤がくずれていった。
・そのため戦争の主体も市民による重装歩兵から、傭兵に移行していった。
・アテネでは一時は寡頭体制がとられ、民主政は復活したがデマゴーゴスが多くなった。
・アテネの海上帝国は崩壊し、デロス同盟も解体、ポリス世界の覇権はスパルタに移った。
・スパルタはペルシア帝国と同盟したため、ペルシアのギリシア干渉が再び強まった。

では、戦後のギリシャはどのように変わっていったのか。最後に簡単に見ていく。

ペロポネソス戦争でポリス社会がすぐに崩壊したわけではなかった。アテナイはデロス同盟の支配者たる地位は失ったものの、有力ポリスとして存在し続けた。

スパルタはペルシア帝国のギリシャ地方支配に抵抗するようになった。これに対し、ペルシャ帝国はアテナイやテーバイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵対するポリスに資金支援を行い、諸ポリスが合従連衡を繰り返してスパルタに対抗した。

紀元前379年にようやくスパルタはギリシャとエーゲ海における覇権を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を担う自由市民が700名程度にまで減少したため、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は打撃を受けた。

紀元前378年、アテナイがデロス同盟に代わる第二次海上同盟を再び結成した。ギリシア世界が慢性的な戦争状態に陥り、徐々に衰退する一方で、アテナイは紀元前375年のナクソス沖の海戦でペルシア軍を打ち破り、海上の覇権を取り戻した。 紀元前371年、スパルタ軍はレウクトラの戦いでテーバイ軍に敗北し、ギリシアの覇権を失った。

紀元前357年にテーバイを中心とする同盟市と第二回海上同盟を擁するアテナイの間で戦争が勃発し、紀元前355年に同盟市戦争は同盟市の勝利におわり、第二回海上同盟は崩壊。テーバイ側で参戦したマケドニア王国の影響力を強めた。

紀元前347年にプラトンが死去し、アリストテレスが故郷のマケドニアに帰国してアレクサンドロスの家庭教師になったこともこの後の歴史に大きな影響を与えた。

紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王国にアテナイ・テーバイ連合軍は敗北し、マケドニアの覇権が成立した。こうしてギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることになったのである(スパルタだけはマケドニア主導のヘラス同盟(コリント同盟)に加わらず、後にアギス3世が反マケドニアの兵を起こすも、紀元前331年のメガロポリスの戦いで敗れた)。

紀元前336年にマケドニア王が暗殺されると一時的にヘラス同盟は混乱に陥ったが、アレクサンドロスが権力を掌握。紀元前334年にアレクサンドロスは、ペルシア戦争以来のギリシア世界の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に乗り出す。

【ペロポネソス戦争 END】


※(左)アレクサンドロス彫像(イスタンブール考古学博物館)
※(中)アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス
※(右)愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス(拡大図)
動画で見ると、文字と画像とは違った印象を持つと思いましたのでアップします。
自分としては勉強の復習のつもりです。

ペロポネソス戦争 アテネVSスパルタ

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