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戦史研究室コミュの戦史と人物

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このトピックの役割は大きく2つあります。

1 戦史に登場する人物を取り上げる。
著名な軍人をメインに戦史を語る場として利用する。

2 戦場体験者へのインタビュー取材の紹介。
コミュ管理人であるnagaoは、業務およびプライベートで元軍人を中心とした戦場体験者たちへのインタビュー取材を行っています。その取材の紹介や報告を行う。
無論、コミュメンバーの方々が独自で行ったインタビューを報告する場としても利用していただきたいと思います。

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[80]から、しりとり形式で人物を紹介していますが、トピック活性化のための手段として使用しているので、しりとりは無視してもらって結構です。しりとりの途中で気になる人物を挙げてください。

管理人は日本の陸海軍軍人の紹介が多いですが、もちろんそれに限定しているわけではありません。広く古今東西の人物が対象です。

当トピの特別ルールを定めます。ルールは随時、追加修正します。
(1)「ん」で終わるものは、その1つ前の語句を採用します。
(2)「う」など、あ行の語句で終わる場合は、
   他のあ行の語句(あいうえお)から自由に選択できます。
(3)「る」など、ら行の語句で終わる場合は、
   他のら行の語句(らりるれろ)から自由に選択できます。

コメント(167)

エルンスト・リンデマン(Ernst Lindemann)

1894年3月28日 - 1941年5月27日
ドイツの海軍軍人。最終階級は海軍大佐。

1913年にドイツ帝国海軍に入団、1931年から1934年まで、艦砲教官を務める。1935年、ドイツ海軍第I教育部教官に転じる。1936年から1939年まで海軍総司令部教育部で参事官、ついで部長を務めた。その間1938年に大佐に昇進。第二次世界大戦中の1940年、戦艦ビスマルク艦長に任命された。翌年5月、ビスマルク最初の出撃となった「ライン演習作戦」で、イギリス海軍の巡洋戦艦フッドを撃沈したが、その7日後、イギリス艦隊の艦砲射撃により、ビスマルクと運命をともにした。

→ま
丸山 政男(まるやま まさお)

1889年(明治22年)9月13日 - 1957年(昭和32年)11月11日

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長野県出身。松本中学校を経て、1911年5月陸軍士官学校(23期)を卒業。1919年11月陸軍大学校(31期)を卒業。1938年7月陸軍少将に進級。日中戦争に歩兵第6旅団長として出征し、武漢攻略に従事。1941年3月陸軍中将となった。太平洋戦争には、第2師団長として出征。ガダルカナル島の戦いにおいて、ジャワ島守備に着いていた第2師団が第2次総攻撃に投入されたが、それも失敗に終わり、1943年2月の撤退まで泥沼の戦闘を継続した。参謀本部付を経て、1944年3月、予備役に編入された。戦後、戦犯容疑により起訴されたが、1949年12月バタビア裁判で無罪の判決が出された。

→お、あ行
リチャード・ヘザーリントン・オカーン(Richard Hetherington O'Kane)

1911年2月2日 - 1994年2月16日
第二次世界大戦時のアメリカ海軍軍人、潜水艦艦長。最終階級は少将。資料によってはオケーンと表記されることもある。ニューハンプシャー州ドーバー出身。アイルランド系のアメリカ人。

1934年アナポリスを卒業。1938年潜水艦勤務を命じられる。 1943年10月潜水艦「タング」艦長に就任。タングが沈むまで艦長の任にあった。オカーンは敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数24隻総トン数93,824トンは太平洋戦争中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップである。

1944年10月24日、台湾西方沖でミ23船団を浮上して攻撃中、魚雷のジャイロの故障で発射した魚雷が一周してから自艦に命中する事故でタングは爆沈、甲板上のオカーン艦長は、部下8人とともに爆発で海に放り出されたおかげで辛くも生き残り日本海軍の捕虜となって、終戦まで東京都下の大森捕虜収容所に拘束された。戦後の1945年8月29日に釈放された。没後の1998年、アーレイバーク級ミサイル駆逐艦の27番艦がその名を命名された。

→か
加来 止男(かく とめお)

1893年(明治26年)11月8日 - 1942年(昭和17年)6月6日
日本の海軍軍人。空母「飛龍」艦長としてミッドウェー海戦で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍少将。

熊本県出身。1911年9月、海軍兵学校42期に入学。同期生には加賀艦長として加来と共にミッドウェー海戦で戦死する岡田次作がいた。18歳での入学はやや遅く受験では苦労したようで入学席次も入校時120名中98番である。しかし、卒業時には席次も117名中43番まで上がった。

海軍兵学校卒業後、1917年12月に海軍砲術学校普通科、1918年5月には海軍水雷学校普通科で学ぶが、同年12月に航空術学生となる。1926年11月に、海軍大学校甲種(25期)を卒業。同期生には、柳本柳作、高木惣吉、白石万隆、大杉守一らがいた。その後、霞ヶ浦海軍航空隊教官、海軍航空本部総務部部員兼艦政本部総務部第1課員と航空畑を歩む。1941年9月には飛龍の4代目艦長を拝命。飛龍は山口多聞少将が率いる第二航空戦隊に所属し、蒼龍と行動を共にした。1942年5月、第二航空戦隊旗艦が蒼龍から飛龍に移された。

ミッドウェー海戦では米空母ヨークタウンを戦闘不能に陥らせたが、飛龍も敵急降下爆撃を受け、飛行甲板に4発の爆弾が直撃して大破炎上する。機関出力も低下して、遂に飛龍の最期を悟り6月6日午前0時15分、総員退艦を命じる。そして、加来は司令官の山口と共に退艦を拒否し、艦と運命を共にした。

→お、あ行
及川 古志郎(おいかわ こしろう)

1883年(明治16年)2月8日 - 1958年(昭和33年)5月9日
日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。 第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。

1938年(昭和13年)4月25日、支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任。1939年(昭和14年)11月15日、海軍大将進級。日独伊三国同盟の問題の中、1940年(昭和15年)9月5日、第2次近衛内閣の海軍大臣に就任した。及川海相のやり方は大事なことは周囲に一切漏らさず、政府内の話し合いで、既成の事実がほぼ決まってから周囲を呼び出し無理矢理因果を含めてしまうというもので、異を唱えても「後の祭り」状態だったという。

1941年(昭和16年)10月18日、内閣総辞職に伴い軍事参議官に転ずる。12月8日、太平洋戦争が開戦した。1943年(昭和18年)11月15日、初代海上護衛司令長官に補される。1944年(昭和19年)8月2日、軍令部総長拝命。

終戦後の1945年(昭和20年)9月5日、依願予備役被仰付。その後、公職追放となった(1952年(昭和27年)追放解除)。公職追放解除の前より、陸軍の岡村寧次と共に蒋介石の国民党に対する軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)としての活動を行い、募兵や教育用カリキュラムの作成といった後方支援に当たり、この際1955年秋より高山岩男に再び協力を依頼している。

→う、あ行
伊藤忍(いとうしのぶ)  陸軍軍人 1894−1995
仙台市出身
陸軍の運輸部所属、上陸作戦等の専門家として知られる
支那事変では近衛師団参謀から第17師団参謀に転出後宣昌作戦に参加、
後に満州の部隊に赴任、帰国。 
対米開戦直後の比島作戦に上陸作戦の司令として、更に蘭印作戦にも参加
ガダルカナルやキスカの撤退にも参加
最終階級は陸軍中将

次は ふ ぶ

フランク・ジャック・フレッチャー(Frank Jack Fletcher)

1885年4月29日 - 1973年4月25日
アメリカ海軍の軍人。最終階級は大将。堅実な人物だったと言われているが、上司のアーネスト・キング提督からは恨まれていたとされている。

1942年1月初めにフレッチャー少将はアメリカ海軍 - オーストラリア海軍から成る機動部隊の指揮官に着任し、空母ヨークタウンがフレッチャーの旗艦となった。1942年5月、6月の珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦では指揮官として部隊を指揮した。1942年8月にフレッチャー中将はガダルカナル島、ツラギ進攻を指揮し、同月末には第二次ソロモン海戦を戦う。その最中の8月31日、乗艦していたサラトガが伊26の雷撃を受け、フレッチャーを初めとする幕僚や乗組員の多数が死傷した。1942年11月、第13海軍管区の指揮官及び北西海域の指揮官となる。翌年北太平洋の指揮官となり、終戦までその職を務めた。フレッチャーの最後の任務は総合委員会議長職であった。1947年5月に海軍大将に昇進、退役する。

→や
柳本 柳作(やなぎもと りゅうさく)

1894年(明治27年)1月9日 - 1942年(昭和17年)6月5日
日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。長崎県出身。柳本家は伊勢神宮から平戸に遣わされた神官の家系だったという。猶興館中学校より海軍兵学校第44期入校。入校時成績順位は100名中第66位、卒業時成績順は95名中第21位。昭和2年11月海軍大学校(甲種25期)卒業。

1941年(昭和16年)10月6日に空母「蒼龍」艦長を拝命しハワイ作戦、ウェーク島攻略作戦、インド洋作戦等の一連の作戦に参加する。しかしミッドウェー海戦で米軍急降下爆撃機から投下された爆弾三発が「蒼龍」に命中し大破炎上、沈没直前に総員退艦命令を発令するが、柳本自身は艦橋に残り、運命を共にした。「蒼龍」沈没により戦死認定を受け、翌年戦死公表と同時に海軍少将に特別進級した。なお、飛龍の艦長加来止男(戦死後少将)は海軍大学校の同期生である。

→く
オットー・クレッチマー(Otto Kretschmer)

1912年5月1日 - 1998年8月5日
ドイツ海軍の軍人。第二次世界大戦における著名なUボートの指揮官であり、最も戦果を挙げたエース・オブ・ザ・ディープ(Aces of the Deep)である。1939年9月から捕虜となった1941年3月まで、計44隻256,684トンの艦船を沈め、この功により剣付柏葉騎士鉄十字章を授かっている。

1955年、クレッチマーは西ドイツのドイツ連邦軍海軍に入隊し、北大西洋条約機構(NATO)の役職を歴任した。1962年から、NATOの参謀将校、1965年5月にNATOバルト海連合艦隊司令官の参謀長となり、1970年9月に准将として退役した。

→ま
松谷 誠(まつたに せい)
1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日

大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。最終階級は、陸軍大佐、陸将。石川県出身。金沢第二中学校卒を経て、1923年7月、陸軍士官学校第35期を315名中で3番の成績で卒業、同年10月、工兵少尉に任官し工兵第16大隊付となる。1926年12月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。1931年11月、陸軍大学校第43期を卒業した。

1942年8月、陸軍大佐に昇進。以後、参謀本部戦争指導課長(大本営第15課長)、大本営第20班長、杉山元陸軍大臣秘書官、阿南惟幾陸相秘書官、鈴木貫太郎総理大臣秘書官兼陸軍省軍務局御用掛などを務め、終戦を迎えた。

鈴木貫太郎首相秘書官であった1945年4月、松谷は「終戦処理案」をまとめ、ソ連の和平仲介による早期講和を主張。日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示し、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしていた。

戦後は公職追放となり、その後は警察予備隊、保安隊を経て陸上自衛隊に入隊。1953年2月1日、保安監補に任命。1954年7月1日、陸上自衛隊発足と同時に陸将に任命され、1960年12月31日に退官した。

→い

伊藤整一

昭和20年4月
沖縄特攻菊水作戦の司令官
戦艦大和に座乗
大和と共に運命を共にする
(私の異例戦記では沖縄に上陸して米軍から沖縄を守った英雄)
(当然、異例戦記では沖縄上陸部隊を殲滅後の話も沢山)

次は ち
千明 武久(ちぎら たけひさ)

1917年(大正6年)4月15日 - 1944年(昭和19年)9月16日
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。群馬県出身。ペリリューの戦いにおける千明大隊の奮戦で知られる。

旧制沼田中学校を経て1940年3月、陸軍士官学校卒業(第53期)。歩兵第15連隊付中隊長教育主任に任官。1944年2月、満州国チチハルより南洋諸島パラオへ出陣。千明大尉の指揮する第15連隊第3大隊は、ペリリュー島の守備に就いていた歩兵第2連隊に分遣され、同島南部「高崎湾」近くに布陣する。

「アンパン」と呼ばれる地雷を抱いて敵戦車下に潜り込んで自爆する戦法などで、相手を一時大混乱に陥れるも、9月16日未明に大隊本部戦闘指揮所で敵弾を受けて戦死。大隊は指揮官を失った後も反撃を続けたが、9月18日までに750人全員が玉砕した。

→さ


※ペリリュー島西岸を視察中の歩兵第15連隊本部
リチャード・ケレンス・サザランド(Richard Kerens Sutherland)

1893年11月27日-1966年6月25日
アメリカ陸軍の軍人、最終階級は中将。メリーランド州ハンコック出身。

イェール大学出身で州兵から正規の将校に取り立てられ、エリートコースを進む。フィリピン時代以降はダグラス・マッカーサー陸軍元帥の参謀長として辣腕をふるい、いわゆる「バターン・ギャング」の一人としてマッカーサーのフィリピン脱出にも付き従った。しかし、自身の不倫問題でマッカーサーから敬遠されるようになり、戦争終結後の日本における占領行政にも短期間ながらかかわったものの、間もなく退役した。

→ど、と


※フィリピン・コレヒドール島に籠るマッカーサーとサザランド(右)
ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー
(Михаи́л Никола́евич Тухаче́вский)

1893年2月16日 - 1937年6月11日
ソビエト連邦の軍人。赤軍の機械化を推進。数々の画期的戦術理論を編みだし、赤軍の至宝、あるいは赤いナポレオンと呼ばれた。とりわけ彼の「縦深戦術理論」はその後の軍事理論に大きな影響を与えた。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。

→き
木梨 鷹一(きなし たかかず)

1902年(明治35年)3月7日 - 1944年(昭和19年)7月26日
日本の海軍軍人。大分県出身。海兵51期。伊19潜水艦長として、アメリカ海軍の正規空母ワスプを撃沈した武勲で知られる。最終階級は海軍少将。

海兵51期の同期生には、クラスヘッドの樋端久利雄・大井篤・実松譲・井浦祥二郎・稲葉通宗ら著名な者が多い。木梨の兵学校入校席次は150番であったが、1923年7月の卒業時の席次は255名中255番と最下位であった。

ハンモックナンバーが上位の「特急組」を除き、大半の海軍士官は「両舷直」と呼ばれ、欠員補充のために艦艇から艦艇へとドサ回りをさせられるのが常であった。木梨は、1929年11月、海軍大尉に進級すると同時に伊61潜水艦航海長に補されてから、1944年7月に伊29潜水艦長として艦と運命を共にするまで、航海学生・海軍潜水学校甲種学生としての教育期間を除き、陸上勤務は一切なく、艦艇での勤務に終始した。

伊62潜水艦長(のちの伊162潜水艦)として太平洋戦争の開戦を迎えた木梨は、1942年7月、伊19潜水艦長に補される。そして同年9月15日、米空母ワスプを撃沈し、戦艦ノースカロライナと駆逐艦オブライエンを撃破(ノースカロライナは修理に3か月を要し、オブライエンは回航途中に竜骨が折れて沈没)する殊勲を挙げた。

同年11月海軍中佐に進級、1943年10月伊29潜水艦長に転じた。木梨が潜水艦長に補される前に、伊29は「遣独潜水艦」としてドイツに派遣されることが決まっていた。

木梨が指揮する伊29は、ドイツを目指して1943年11月5日に呉を出港。翌1944年3月11日、ロリアンへの入港を果たした。4月16日、伊29は日本に向かう18名の便乗者を乗せてロリアンを出港。7月14日にシンガポールに入港した。伊29は整備を終えて、7月22日に内地に向けシンガポールを出港したが、7月25日に台湾とルソン島の間にあるバシー海峡を水上航行している時、3隻のアメリカ潜水艦の待ち伏せを受け、3隻のうちのソーフィッシュの雷撃で沈没した。

下士官1名の生存者を除き、木梨以下の全員が1944年7月26日付で戦死したと認定され、木梨は同日付で海軍少将に進級した(二階級特進)。満42歳没。

→ず、す
杉田 一次(すぎた いちじ)

1904年(明治37年)3月31日 - 1993年(平成5年)4月12日
奈良県出身。日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士37期・陸大44期。最終階級は帝国陸軍では陸軍大佐、陸自では陸上幕僚長たる陸将。

対米開戦に終始反対し、海軍をも巻き込んで開戦阻止に動いたが上層部を説得することができなかった。第25軍情報参謀としてマレー作戦に従軍、シンガポールの戦い後の降伏交渉において後半から山下奉文将軍の通訳を務める。

ガタルカナル作戦では大本営派遣参謀として現地に入り、第2師団の作戦に関与。第8方面軍編成に伴いラバウルへ異動。ガタルカナル維持は不可能と大本営へ意見具申。「消極参謀」と批判を受けるが大本営は撤退を決定した。

戦後は辰巳栄一中将とともにGHQ歴史課で戦史研究に携わった他、情報機関設立に関与。吉田茂首相の信任が厚かった。陸上自衛隊に入り、1960年3月から1962年3月まで陸上幕僚長を務めた。

→じ、し
アントワーヌ=アンリ・ジョミニ(仏: Antoine-Henri Jomini)

1779年3月6日 - 1869年3月24日
スイス出身の軍人、軍事学者である。フランス第一帝政、のちにはロシア帝国に仕えてナポレオン戦争に参加し、その経験をもとに1838年に『戦争概論』を著して発表した。

戦略、戦術、兵站を主な研究領域としており、研究業績としては軍事学の方法論、戦争術、戦いの原則、内線および外線作戦、後方連絡線、兵站に関する研究を挙げることができる。ジョミニに最も重要な思想的影響を与えた人物には、科学的方法を軍事学に導入しようとしたヘンリー・ロイドや上官であったナポレオン・ボナパルトなどを挙げることができる。逆に影響を受けた人物には、パトリック・レオナルド・マクデューガル、アルフレッド・セイヤー・マハンなどがいる。

→に


※ロシア軍の将軍としての肖像

西住 小次郎(にしずみ こじろう)

1914年(大正3年)1月13日 - 1938年(昭和13年)5月17日
大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。熊本県出身。

日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、陸軍歩兵大尉に特進。軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。

西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。その他にも、西住をテーマにした小説や戦時歌謡(軍歌)、子供向けの伝記が数多く作られている。特に、軍部の依頼によって書かれた菊池寛による小説『西住戦車長伝』は1939年、新聞に連載されると好評を博し、1940年には松竹により映画化。監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演している。また主題歌の『西住戦車隊長の歌』は北原白秋が作詞を、飯田信夫が作曲をそれぞれ担当した。

太平洋戦争(大東亜戦争)末期、西住と同じ戦車第1連隊の機甲兵将校だった作家司馬遼太郎は、戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表し、戦車学校では「一度も西住戦車長の話をきいたことがなかった」、戦車第1連隊でも「逸話さえもつたわっておらず、その名を話題にする者もなかった」と述懐している。また、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことは間違いない」と認めつつ、「この程度に有能で篤実な下級将校は、その当時も、それ以後の大東亜戦争にも、いくらでもいた」とし、それにも関わらず西住が軍神になりえた理由を「彼が戦車に乗っていたからである」「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があったのだ」と推察している。

→う、あ行
ジョナサン・ウェインライト
Jonathan Mayhew "Skinny" Wainwright IV

1883年8月23日 - 1953年9月2日
アメリカ合衆国の陸軍軍人。最終階級は大将。第二次世界大戦における名誉勲章受章者の1人。

1942年のフィリピンの戦いではアメリカ極東陸軍(米比軍)に属し、ダグラス・マッカーサー大将を補佐し、バターン半島とコレヒドール要塞に立てこもり指揮を執った。 同年3月、マッカーサー大将がフィリピンを脱出してからは米比軍を指揮した。5月、コレヒドール要塞が陥落して日本軍に降伏、捕虜として満州に移送された。1945年9月2日、降伏調印式に出席した。

1945年9月5日、日本の降伏直後に大将に昇進。1947年8月に退役した。

→と
董 卓(とう たく)

? - 初平3年4月23日(192年5月22日)

中国後漢末期の武将・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。涼州隴西郡臨洮県の人。
『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。

辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。

→く
黒沢 丈夫/黒澤 丈夫(くろさわ たけお)

1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日
大日本帝国海軍士官・搭乗員。政治家。群馬県出身。海兵(63期)。

1937年9月に第29期飛行学生。1938年11月、第12航空隊に配属され漢口に着任。1940年11月、新設された元山海軍航空隊へ分隊長として転任した。1941年9月に元山空戦闘機隊は、鹿屋で編成されたばかりの第3航空隊に編入を命ぜられた。3空は台湾の高雄へ本拠を移した。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦。3空は同日から4度に亘ってフィリピン・ルソン島の米軍基地に大きな空襲を行い、在比米軍の航空勢力を壊滅させた。1943年9月、館山で新設された第381海軍航空隊の飛行隊長に任命された。381空は1944年1月より、南方バリクパパンへ順次進出。南方油田地帯の防空任務に就いた。

1944年10月フィリピン戦の激化により、ルソン島への進出が命ぜられ、黒沢率いる23機がクラーク基地に進出した。その後、バリクパパンの原隊に復帰した黒沢は381空飛行長に昇格。さらに南西方面戦闘機隊統合指揮官兼任を命ぜられ、シンガポールのセレターに移って指揮をとった。1945年5月、隷下戦闘機隊の内地転進命令が出され、6月には移動を完了した。黒沢は5航艦第72航空戦隊作戦参謀となった。8月15日、終戦。

戦後、群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。

→お、あ行
奥 保鞏(おく やすかた)

弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日
日本の陸軍軍人。元帥陸軍大将。

九州小倉藩士の長男として生まれる。幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加した。明治に入り陸軍軍人となる。1877年2月、西南戦争で熊本城籠城戦に参加。1894年12月、第5師団長として日清戦争に出征。1904年3月、日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征。日露戦争後の1906年7月、急逝した児玉源太郎の後任として参謀総長に就任した。

生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。

→た
リッチモンド・ケリー・ターナー (Richmond Kelly Turner)

1885年5月27日 - 1961年2月12日
アメリカ海軍の軍人。最終階級は大将。1908年アナポリス卒業。

真珠湾攻撃後、ターナーは1942年6月まで合衆国艦隊の参謀副長となった。ミッドウェー海戦後、南太平洋方面で展開される上陸戦の指揮官としてターナーが起用された。ターナーはガダルカナル島への上陸部隊を率い、8月7日朝に上陸作戦を行って日本軍が建設していた飛行場を押さえた。

その後、ターナーはスプルーアンス中将の要請により中部太平洋方面に転じた。1943年から1944年にはガルヴァニック作戦、クェゼリンの戦い、マリアナ・パラオ諸島の戦いで上陸戦の総指揮を執り、1945年も硫黄島の戦いと沖縄戦を指揮した。同年5月に大将に昇進。

第二次世界大戦終、国連軍事委員会のアメリカ海軍代表となり、第1回の国連総会にも出席した。1947年7月に退役し、1961年2月12日に死去した。75歳没。リーヒ級ミサイル巡洋艦の5番艦、リッチモンド・K・ターナー (USS Richmond K. Turner, DLG-20) は、彼に因んで命名された。

→な
永田 鉄山(ながた てつざん)

1884年(明治17年)1月14日 - 1935年(昭和10年)8月12日)
日本の陸軍軍人。長野県出身。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校(16期)を首席、陸軍大学校(23期)を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。

軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍省軍務局長時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に執務室で殺害された。死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。

その後、永田が筆頭であった統制派は東條英機が継承した。やがて太平洋戦争に至る。企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた。

→ざ、さ
斎藤 実(さいとう まこと、旧字体: 齋藤 實)

1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日
日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。第30代内閣総理大臣。

1873年に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、1879年に卒業(6期)。1884年にアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。1898年11月、山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命、第1次西園寺・第2次桂・第2次西園寺・第3次桂・第1次山本の5内閣で海軍大臣を務めた。シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任。

その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務める。五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後、内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。

斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。享年79。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。

→と
ジェイムズ・ハロルド・ドゥリトル(James "Jimmy" Harold Doolittle)

1896年12月14日- 1993年9月27日
アメリカ陸軍の軍人、パイロット。日本ではドーリットルと表記されることが多い。1942年4月18日のドーリットル空襲を指揮したことで有名である。最終階級は空軍大将(1985年)。

1917年、アメリカ陸軍航空部に入隊。1922年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業。1930年に中尉で退役し、シェル石油の航空部に支配人として入社。1940年、軍に復帰。1月2日、中佐に任命される。4月18日、東京初空襲を指揮。7月、東京初空襲の軍功で2階級昇進、准将に昇進した。1944年1月、イギリス本土のアメリカ第8空軍の司令官、中将となった。

1946年5月10日予備役。1959年に退役後、シェル石油の副社長などを歴任。同年米国科学アカデミーより公共福祉メダル受賞。1985年4月4日、予備役大将に昇進。

→る、ら行
ジャン・ランヌ(Jean Lannes)

1769年4月10日 - 1809年5月31日

ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人。最終階級は帝国元帥。 「イタリア方面軍のローラン」または「大陸軍のローラン」、「フランスのアイアース」「大陸軍のアキレス」と呼ばれた伝説的な勇者として知られる。モンテベッロ公爵、シェヴィエシュ公爵。

ナポレオンの元帥達の中で最も皇帝に信頼され、個人的な友情を得ていた。皇帝即位後もランヌはナポレオンを「君」と呼び、ナポレオンもそれを喜んで認めていた。

1808年5月、スペイン戦線で優勢なオーストリア軍と交戦、足に砲弾を受けて倒れる。右足切断の緊急手術を受け、一時は小康状態になったものの傷口が化膿して容態が悪化、死亡した。ナポレオンは倒れたランヌに取りすがって涙を流して嘆き悲しんだという。ランヌは戦死した最初の帝国元帥となった。

→ぬ
沼田 多稼蔵(ぬまだ たかぞう)

1892年(明治25年)4月18日 - 1961年(昭和36年)11月15日
広島県出身。日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1919年11月、陸軍大学校(31期)を卒業。

1932年12月、関東軍参謀(特務部)に就任、1936年8月、参謀本部付となり、日中戦争に歩兵第39連隊長として出征し徐州会戦などに参加。1939年1月、第11軍参謀長に着任し、企画院第1部長に転じ、第1部長任期中に総力戦研究所構想案を練ったとされている。1941年4月、第3軍参謀長に就任し満州に赴任。1943年10月、第2方面軍参謀長となり、昭和19年5月、ビアク島を視察中に米軍の上陸に遭遇し、臨時に防戦の指揮を執ったが、玉砕寸前に同島を脱出。南方軍総参謀長として終戦を迎えた。

1947年11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された。1948年4月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、1950年12月に仮釈放された。1955年9月、防衛庁顧問に就任している。

→う、あ行
臼淵 磐(うすぶち いわお)

1923年(大正12年)8月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日
東京府東京市生。日本の海軍軍人。1942年11月、海軍兵学校(71期)を卒業。1944年10月、戦艦「大和」副砲分隊長となった。1945年4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)時、戦艦「大和」の哨戒長として乗艦。配置場所に近い、後部指揮所電探室に米軍の直撃弾が命中し即死する。享年21。戦死後、海軍少佐に進級。

個人的に親交があり、同作戦に参加して生還した作家の吉田満(当時・海軍少尉)の著書『戦艦大和ノ最期』や、その列伝作品『臼淵大尉の場合――進歩への願い』で取り上げられたことによって、戦後、広く知られるようになった。

→お、あ行


※坊ノ岬沖海戦の大和
シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー(Charles Pierre François Augereau)

1757年10月21日 - 1816年6月12日
フランス革命戦争・ナポレオン戦争期の軍人。貪欲な野心家であり、日和見主義者であった。一度は皇帝の全面的信頼を勝ち取るまで登り詰めたものの、名声に執着する余り、凋落も早かった。

1804年5月19日、ナポレオンに請われて元帥杖を受け取りフランス第一帝政最初の元帥となっている。大陸軍第7軍団を指揮し、イエナ・アウエルシュタットの戦いでは左翼を任された。ルイ18世の王政復古にあたって、王政に忠誠を誓ったが、百日天下の際にはナポレオンになびいた。しかしナポレオンは彼を拒絶している。1815年のワーテルローの戦いの後、ルイ18世の再復古にあたり、オージュローは称号と年金を取り上げられた。

→ろ、ら行

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル
Erwin Johannes Eugen Rommel De-Erwin Rommel-pronunciation.ogg
1891年11月15日 - 1944年10月14日

ドイツの軍人。最終階級は陸軍元帥。

第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開された北アフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめ、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名もあり一般的には名将として知られる。

1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった。

→る、ら行
シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー
Charles Edouard Gabriel Leroux
1851年(嘉永4年)9月13日 - 1926年(大正15年)7月4日

フランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。軍楽の指導を通じて日本への近代音楽の普及発展に貢献した。その作品『扶桑歌』、『抜刀隊』の二つを編曲した『陸軍分列行進曲』は、現在も陸上自衛隊及び日本警察の観閲式などで行進曲として使用されている。

1884年、第3次フランス軍事顧問団の一員として来日。草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたり、『扶桑歌』『抜刀隊』などを作曲した。1910年、「日本の古典音楽 La musique classique japonaise」と題してフランス初の日本音楽研究の論文を発表した。同年、勲四等瑞宝章を受けた。

軍楽隊の指導にとどまらず、日本の音楽のために精力的に活動した。1887年には鹿鳴館に本部をおき、伊沢修二、鍋島直大侯爵、帝国大学教授、フランツ・エッケルト、ギヨーム・ソーヴレー、東京音楽学校、陸軍軍楽隊、海軍軍楽隊、式部職伶人の代表者らと「日本音楽会」を結成、これに指揮者として参加し、名声をあげた。

→る、ら行
マンフレート・アルブレヒト・フォン・リヒトホーフェン男爵
Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen
1892年5月2日 - 1918年4月21日

ドイツの陸軍軍人、パイロット。第一次世界大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)を保持するエース・パイロットとして知られる。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッド・バロン」(赤い男爵)や「ディアブル・ルージュ」(赤い悪魔)の異名で呼ばれた。

1918年4月21日朝、リヒトホーフェンは、第11飛行中隊のフォッカーDr.Iと第5飛行中隊のアルバトロス D.Vからなる15〜20機でソンム川周辺上空を飛行中、11機の英ソッピース キャメルと遭遇し空中戦となり戦死した。25歳没。最終階級は騎兵大尉。

→ふぇ、ふ
アンリ=ジョゼフ・フネ(Henri-Joseph Fenet)
1919年6月11日 - 2002年9月14日

第二次世界大戦期フランスの軍人、ナチス・ドイツの武装親衛隊フランス人義勇兵。ベルリン市街戦における武装親衛隊フランス人義勇兵部隊の指揮官を務め騎士鉄十字章を受章した。

当初は1940年5月〜6月のフランスの戦いでドイツ軍と交戦したフランス陸軍第3植民地歩兵師団 の中尉だった。独ソ戦後期の1943年10月、ドイツの武装親衛隊へ志願入隊。1944年8月のガリツィアの戦いで第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊長としてソビエト赤軍と交戦した。1945年2月下旬〜3月中旬、ポメラニア戦線に従軍。1945年4月末、フランスSS突撃大隊 の大隊長としてベルリン市街戦で奮戦し、1945年4月29日、ドイツ国最後の騎士鉄十字章受章者の1人となった。最終階級はSS義勇大尉。

終戦後はソビエトの捕虜収容所から脱走しフランスに帰国するものの逮捕され、対独協力者として懲役20年の判決を受けるが、恩赦により1949年12月に釈放された。その後は、かつて武装親衛隊の外国人義勇兵として戦った者のために様々な活動を続けるスポークスマンとして、いくつかのドキュメンタリー番組やラジオ放送に登場し、各種インタビューに応じた。

→ね
ミシェル・ネイ(Michel Ney)
1769年1月10日 - 1815年12月7日

フランス革命戦争およびナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人(フランス元帥)。ロシア戦役でモスクワからの長く困難な退却戦の中、逆境で見せた粘り強さと勇気、統率力は後に伝説として語られるほどのもので、ナポレオンにも「全く何と言う男だ!フランス軍には勇者が揃っているが、ミシェル・ネイこそ真に勇者の中の勇者だ!」と言わしめている。ワーテルローの戦いでは前衛で事実上の総指揮を執った。敗戦後、ルイ18世の政府によって反逆罪に問われ、銃殺刑に処せられた。

→い、あ行
石井 秋穂(いしい あきほ)
1900年(明治33年)11月2日 - 1996年(平成8年)8月25日

日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。山口県出身。

1936年の二・二六事件後には陸軍軍法会議の裁判官を務めた。後年、北一輝への尋問の様子や、軍法会議長官(陸軍大臣)寺内寿一から判決について圧力があったことなどを証言している。1939年8月、陸軍省軍務局軍務課員に就任。太平洋戦争開戦直前には、日米交渉の陸軍省側主務者として、武藤章軍務局長の下、早期開戦を唱える統帥部側の横槍を排しつつ交渉妥結に尽力した。戦後は故郷の山口県で晴耕雨読の静かな生活を貫いた。石井の残した日記や回想録、証言は、開戦当時の国策決定の内側を知る上で貴重な記録となっている。

→ほ
保科 善四郎(ほしな ぜんしろう)
1891年(明治24年)3月8日 - 1991年(平成3年)12月24日

日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍中将。衆議院議員を4期務めた後、財団法人日本国防協会会長。宮城県出身。

旧制宮城県角田中学校より海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中40番、卒業時118名中28番。海軍大学校卒業。海軍きってのアメリカ通として鳴らしアメリカ海軍の人物を調査するのが先決という持論を持っていた。アメリカに来る後輩士官たちに「情報が欲しいと言っても無暗に向こうを刺激するようなことをするな。大事なのはその国を知ること、人を知ること、友人をたくさん作ること」と言っている。

終戦時は米内光政大臣、多田武雄次官の下で軍務局長の地位にあったが、その際米内から「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託されている。保科が戦後政界に入ったのはこの米内の「遺言」を一つでも達成するためと述べており、Y委員会を通して現在の海上自衛隊を創設する際に、その「遺志」を反映させたと言われている。

米内からは信頼を得ていたのだが、米内と数々のコンビを組んだ井上成美は保科に批判的な態度を取っており、慰労会の最中井上は手相を見て「君は典型的な二重人格だ」と言っている。これは太平洋戦争開戦時兵備局長で開戦を止められる立場にいた保科が何故止めなかったのか、という批判も込められていた。高木惣吉も「終戦派なのか本土決戦派なのかどっちつかずで腹の内がわからない人」と批判していた。陸軍は保科を戦争継続派とみなし本音を語り、終戦間際に陸軍による鈴木首相、米内海相暗殺計画も話してしまい、保科は米内の警護を厳重にするように秘書官・副官に命じ、本心を見せないことが海軍側にとっては逆にメリットに働いたとも言える。

→う、あ行
ラッセル・ウィリアム・ヴォルクマン(Russell William Volckmann)
1911年9月23日 - 1982年6月30日

アメリカ合衆国の軍人。第二次世界大戦期、アメリカ陸軍の歩兵将校としてフィリピン・コモンウェルスの軍事顧問を務めたほか、日本軍占領下のフィリピンでは抗日ゲリラの指導者として活動した。戦後も陸軍に残り、新たな特殊部隊の創設に関与し、グリンベレー創設者の1人として記憶されている。最終階級は准将。

→ま
マッカーサー(ダグラス) 元帥

1880-1964 享年八十四歳
米陸軍軍人

以下 WIKIより抜粋(一部ここだけの改変あり)

1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。

1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ陸軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ陸軍参謀総長に就任した。

1935年にフィリピン陸軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン陸軍の元帥となった。大東亜戦争では初頭の大日本帝国陸軍の攻勢から一度単身逃亡して、昭和18年のレイテ沖海戦の勝利の後に比島の実権を奪還しつつも、日本陸軍山下大将のゲリラ的な抵抗に手を焼いたが、大日本帝国がポツダム宣言を受諾後に厚木基地に降り立ち占領軍の司令官として日本の無力化に鋭意奮闘し始める。

1945年から1950年まで占領軍(連合国軍最高司令官(GHQ))として各種の占領政策を行って日本の民主化(無力化)を進めたほか、国民主権・平和主義(悪名高い九条など)を柱とする現日本国憲法の制定に辣腕(??)を振るった。その一方で昭和天皇にも謁見して、感激をするのもつかの間、戦時中の帝国の上層部を裁く、東京裁判では(一部インド方面からの反論があり)あまり力を奮えなかった。戦後の日本の統治には戦前になかった3S政策を(スクリーン、スポーツ、セックス)重用した。そして大量の南北朝鮮人の官吏登用及び経済的な便宜を図ったと言う噂もある。

1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として釜山のみにとどまっていた国連南鮮軍の劣勢をはじき返すがごとく、仁川上陸作戦を成功させて中共北鮮連合軍を38度線まで押し戻した。その間に日本では朝鮮動乱に三個師団の部隊を引き抜かれた関係で、日本の治安を守るために警察組織を先に再度作り、更にその下に自衛隊を組織するなど、現在でも様々な問題を残している破天荒な政策がある。朝鮮動乱においてはその後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された。

退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任した後、死去した。

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