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【一緒に読書しましょうよ。】コミュの始めの1冊 その1

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本日が始めてとなりますので…
まずは、この作品から、ご紹介したいと思います。
よろしければ、ご覧下さいませ。

『パイロット フィッシュ』  大崎 善生


人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。

なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。

人間の体のどこかに、ありとあらゆる記憶を沈めておく巨大な湖のような場所があって、その底には失われたはずの無数の過去が沈殿している。

何かを思い立ち何かを始めようとするとき、目が覚めてまだ何も考えられないでいる朝、とうの昔に忘れ去っていたはずの記憶が、湖底から不意にゆらゆらと浮かび上がってくることがある。

それに手を伸ばす。

湖に浮かべられたボートから、手を伸ばす。しかし、ボートの上から湖の底が見えたとしてもそこに手が届かないように、沈殿している過去を二度とその手に取ることはできない。

どんなに掬っても掬っても、手の中に空しい水の感触が残るだけで、強く握ろうとすればするほど、その水は掌から勢いを増して零れ落ちていく。

しかし、手に取ることはできないかもしれないけれど、記憶はゆらゆらと不確かに、それでいて確実に自分の中に存在し、それから逃げることはできないのだ。

最近、僕がそんなことばかりを考えるようになったのは、おそらくは森本からの電話に原因があるのだと思う。

森本からの電話はこちらの都合など全く関係なく、つまり森本がかけたくなった時間にかかってくる。午後11時のときもあれば、午前3時のときもあるし午前7時のこともあった。

僕がまだ会社にいそうな時間帯には、会社にかかってくるのだ。

森本と僕は札幌の高校時代からの友人である。高校を卒業して、東京の同じ大学に進学した。森本は大手のカメラメーカーに就職して営業マンになった。それから19年、彼は有能な社員として日本全国を転勤して周り、今は神戸にいる。

所が一昨年の夏、つまり1998年の夏頃から森本の様子がおかしくなった。朝であろうと真夜中であろうと、会社で電話を受けた昼過ぎでさえも、いつも泥酔しているのである。

「なあ、山崎」と森本はたいてい呂律のあやしい興奮した声で言った。

「なぜ、僕がこんなに毎日毎日酒を飲んで、酔い続けていなきゃなんないかわかるか?」

僕も酒は好きだし、ほとんど毎日のように飲んではいるが、しかし森本のように朝から晩まで起きている間中酔い続けていなければならない理由はよくわからなかった。

「それはな、俺はつらいからだ。つらいんだよ。逃げたいんだ、逃げて逃げて、毎日逃げ出したいんだ。俺もお前も四十歳過ぎだよな、それで最近になってやっとわかったことがある。それはな、俺は人間の記憶力というものを甘くみていたということなんだ。

わかるか山崎」こんなとき、僕はたいてい何も言わずにただ森本の話を聞くだけにしていた。森本は僕の考えを聞きたい訳ではなくて、ただ自分のはまりこんでいる迷路の風景を言葉にして誰かに説明したいだけなのだろうと思ったからだ。

「二十歳の頃は俺もお前も生意気だった。おそらくは世間というものを舐めきっていた。働いたり金を稼いだり地道に生活することをどこかで軽蔑していた。小さな幸せを目指す生き方を否定していた。だから、酒場でサラリーマンや学生をよくバカにしたよな。それでな、それから二十年たって今になって気がついたことは、

そんなふうに粋がって酒場で吐いた言葉がいまだに心のどこかに澱のように沈殿しているってことなんだ。

そのときは、そんな罵倒の言葉を二十年後に覚えているなんて思わなかったさ。時とともにきれいさっぱり忘れ去っていると思いこんでいた。だけど、人間の記憶はそうはさせてくれない。そんな場面の細部にいたるまでを記憶していて、それが今になって自分を苦しめる。それから逃れるために俺は酒を毎日飲むんだ。二十年前に人を小バカにし、

傷つけるために吐いた自分の言葉から逃れるために」

その夏の間は毎日のようにそんな電話が集中した。しかしある日、真夏の雨のようにそれは突然止まった。ポートアイランドから神戸市内のへ向かうポートライナーの中で、森本は大声を張り上げながら走り出し、掛けつけた警察官と大立ち回りを演じた。結局その場で検挙され、神戸市内の精神病院に運ばれてそのまま入院した。

重度のアルコール依存症で、しかも運の悪いことにそれは内臓だけではなく確実に森本の脳をも冒していたのだ。

午前二時に突然、部屋の電話が鳴ったとき、僕は反射的に森本からの電話ではないかと思った。森本からの電話は、ここ何ヶ月かはない。しかし、こんな不規則な時間の電話はどうしても森本を思い起こさせてしまうのである。

驟雨のような森本からの電話が鳴り続けたあの頃から、僕は記憶あるいは人間の記憶力のことばかりを考えるようになっていた。それは一度聞いたら耳にこびりついて離れなくなる、単純でどこかも哀しいレゲイの旋律のように、ふと気がつくとそのことを考えている自分がいるのである。

確かに森本の言うことにも一理あると、僕は思う。二十年も昔のほんのささいな口喧嘩の場面が細部にいたるまで克明に蘇ってくることがある。その時の酒場のカウンターに置いてあった灰皿の色や形まで妙に鮮明に覚えていることに愕然とするし、逃げ出せない何かを感じることがある。

記憶からは確かにそう簡単に逃げることはできない。無理にそうしょうとすれば、やはり自分も森本と同じようにやがて自分のどこかを破壊するまで酒でも飲み続けるしかなくなるのだろう。

自分の内側に流れ続けるレゲイと同じで、どんなに忘れたい過去も、若さと感性だけで言い放った思い出したくもない浅はかで残酷な言葉も、自分の一部として生き続けていてそれだけを切り離すことは、不可能なのだ。

部屋の電話は何回か鳴り、そして僕の躊躇を見透かすように。それは切れた。九十センチ水槽の水換えを終えたところで、部屋の中心部に置かれたアクアリウムをぼんやりと眺めているときだった。

午前二時。部屋の窓から見渡せる西荻窪も街は水を打ったように静まり返っていた。

足元ではロングコートチワワという種類の二匹の小さな犬たちが、他愛のない追いかけっこを繰り広げている。一方が一方の足をちょっとだけ噛むと、踵を返して全速力で逃げ出していく。それを噛まれた方の犬が部屋の隅まで追い詰めてちょっとだけ噛み返すと、それこそ脱兎のように大袈裟に逃げ出す。二匹の犬は飽きもせずにそんなことを繰り返していた。

もう二歳の春になるというのにモモは一向に成長する気配がない。細く短い足をアニメーションのように高速で回転させて飛ぶように走る姿はなんともユーモラスで、子供の頃によく見た「トムとジェリー」というアメリカのアニメそのままだ。

遠くの方でかすかに救急車のサイレンが響いていた。その音のかそけさが、街の静けさを一層際立たせているように思えた。

水か換えを終えたばかりの九十センチ水槽はまるで新しい命を吹き込まれたようにキラキラと光り輝いていた。僕はそれを眺め、ガラス面に少しだけこびりついた苔をプラスチックの三角定規でこそげ落としたり、わずかに伸びすぎた有茎系の水草のトリミングをしたりと手入れの最終段階に入っていた。

その時にまた電話は鳴った。

完璧に仕上げられた水槽の前でビールを飲んだり、とりとめのない考え事をしたりと、今からの数時間が自分にとって最もくつろげる幸せな時間なだけに、繰り返される電話のベルは僕の気分を滅入らせた。

出たくないときをまるで狙いすましたように電話のベルは鳴る。

その電話が森本のものではないことを、僕は直感していた。森本の電話は一度だけしつこい程にベルを鳴らし続け、そしてこちらが出ないとわかると二度は鳴らさない。しかし、今の電話は少し前にかかってきて一度切れ、また鳴り出した。

午前二時に、酔っ払っている森本以外に僕に用事のある人間がいるかどうかを考えたが、瞬時には思いつくことができなかった。

諦めて受話器を取ると、声より先にグラスの中を氷が駆け回る乾いた音が鳴り響いた。

「わかる?」と、氷の音を追いかけるように声が続いた。

「ああ、わかるよ」と僕は答えた。

声の記憶というものがどこにどういう形で残されているものなのかはわからないが、その記憶がこんなにも鮮明で確かなものであることに僕は驚いた。「わかる?」たったそれだけの言葉で僕は湖底にゆらめく人の姿を思い起こすことがでいるのだ。それは、十九年ぶりに聞く由紀子の声だった。

「由紀子だろ?」そう言う自分のか声が掠れていた。「そう」とやはり少し掠れた声が響き、そしてまたカラカラとグラスの中で氷が駆け回った。「久しぶりね」と由紀子が言った。

「ああ、随分久しぶりだね」と僕は答えた。

それから、ちょっとした沈黙が流れた。十九年間も顔をあわすことはおろか、声も交わすことがなかった二人にとって、それはどうすることもできない沈黙であった。

「飲んでるの?」と僕は訊いた。

「ええ、少しだけ」と由紀子は言った。そして「山崎くんは?」と続けた。

「缶ビールをね」

由紀子のいる場所は、僕がいる場所よりも静まり返っているようにいるように思えた。それはやはり、かすかに響く氷の音がそう感じさせるのかもしれない。何も音がしないことよりも、小さな音が静けさをより際立たせるということもきっとあるのだろう。

「何年ぶり?」と由紀子は訊いた。

「十九年」

「十九年かあ」

そう言うと由紀子は溜息ををついた。そして、またちいさな沈黙が訪れた。それはまるで二人の十九年という長い歳月への黙祷のように僕には思えるのだった。

「音楽が聞こえるわ」と由紀子が小さな声で言った。

「そう?」

「うん。聞こえる。かすかに聞こえる。でも静かね山崎君の部屋」

僕はいつも部屋の中では、自分の耳に届くか届かないかくらいの音量で音楽を流している。音が自分の意識の中に入ってこられるのは苦痛だからだ。耳に辛うじて届くが、意識の直前で消えるくらいが僕にとって適度な音量なのである。

その音が由紀子の耳に受話器越しに聞こえることに僕は少なからず驚いた。それほどに、僕のいるこの場所は静かなのだ。

「何をかけてるの?」と由紀子は聞いた。

「ポリス」と僕は答えた。

「おわー、懐かしい」と由紀子は本当に懐かしそうに言った。

「そう?」

「今でもそんなの聴いてるんだ」

「新しいものはちょっとね。小説でも音楽でも若い頃好きだったものばかりを繰り返し読んだり聴いたりしている」

「どうして?」

「どうしてってそんなに多くのものは結局は必要がないからじゃないかな、きっと。音楽はとくに気に入ったもがいくつかあればそれで十分だから」

「エブリィ・ブレス・ユー・テイク ?」

「まあ、そんなところかな。とにかく聴きなれた歌が今は一番いいんだ」

それから再び会話が途切れた。僕は僕、由紀子は由紀子で受話器から零れてくる音をたよりに、十九年の歳月を埋めてくれるものを探していたのかもしれない。

「私、今二人の子供の母親なのよ」と今度は由紀子が沈黙を破ってくれた。

「上の子は健太、下の子は綾子。健太は小学三年生になるんだけどバカでどうしょうもないの。クラスの子や近所の子にお愛想ばかり振りまいて、人気者には違いないんだけれど中身は空っぽ。小学生のくせに、

どこにでもいるような返事だけはいい、できの悪い営業マンみたいなの。きっと旦那に似ちゃったのね。綾子は五歳。親の私が言うのも何だけど、とっても可愛いのよ。間違いなく私似ね」

キューンと足元でモモが切ない鳴き声を上げた。追いかけっこに疲れてしまったらしい。それに、僕が誰かと電話で話をしていると、モモはいつだって情けない鳴き声を上げるのだ。

「あら、誰かいるの?」

「犬を二匹飼っているんだ」

「そうなの」

「もう飼い始めて二年になるんだけど二匹目の方が全然大きくてね、いまだに掌サイズ」

「名前は?」

「上がクーでちびがモモ」

「あら、可愛らしい名前ね。種類は?」

「ロングチワワっていって、ようするにチワワの毛の長いやつ」

「じゃあいいじゃない、小さくても」

「うん、そうなんだけれどそれにしてもいくらなんでも小さすぎる」

「ふーん。そんなに小さいんだあ」

「この前なんかね、散歩中にカラスに襲撃されちゃったんだ。クーとモモを連れて近所を歩いていたら、でっかいカラスが電柱伝いに追ってくるんだよ。獲物を見るような目で明らかにモモを狙っているんだ」

「あら、いやね」

「僕がちょっと目を離したすきに電柱からバサッバサッてモモめがけて舞い降りてきてね、

モモはもうこれ以上ないくらいに体をアスファルトにへばりつけて、びびりまくっているんだ。どれだけ怖かったのかうんことおしっこを同時に漏らしちゃった。近所の子供たちにケラケラ笑われちゃってるの」

「アハハ」と由紀子は笑った。

それは十九年ぶりに聞く由紀子の笑い声だった。

「部屋の中でありとあらゆる悪さをするんだけど、それからはカアッて言いながら手をバサッバサッて振りながら近づいていくと、床を這いつくばるように走り回って、一目散に小屋の中に逃げ込んでいくんだ。バカだろ」

「バカね」

「ハハッ」と僕も笑った。

「色は?」

「クーは白地に薄茶のブチ。パーティーカラーっていうんだ。モモの方はフォーンというちょっと赤みのかかった薄茶色で泥棒みたいな顔をしている」

「泥棒?」

「そう、薄茶に長い髭がピョンピョンって感じで生えていてね。見つかったこそ泥みたいnびくびくした顔をしていて、でもその割には抜け目がない」

「そんな犬の顔、ときどきいるわね」

「それにモモはロングコートのはずなのに全然毛が伸びてこないんだ」

「騙されたの?」

「そうかもしれない」

何だかそうやって、僕と由紀子は肝心なことをグルグルと取り囲むように遠回しな会話を交わしていた。ただ、僕には今の僕と由紀子にとって果たして何が肝心なことなのかさっぱりわからなかった。

少しずつ外堀を埋めるように電線を伝って歩いていたのだろう。

チワワって体の割りに目が異様に大きくて、目と目の間が微妙に開いているのよねえとか、二人はしばらくチワワ談義に花を咲かせた。

「山崎君、プリクラって知ってるわよね?」と一通りのチワワ談義が終わったあと由紀子はそう僕に訊いた。

「ああ、知ってるよ」突然の話の方向転換に少し緊張しながら僕は答えた。

「撮ったことある?」

「いやあ、さすがにないよ」

「今度一緒に撮らない?」

その言葉と同時にカラカラと今までにないくらいに激しく氷が耳元で走り回った。電線から突然舞い降りてきたその言葉に、僕はアスファルトにへばりつくように沈黙した。

「ブリング・オン・ザ・ナイト」のイントロが僕の意識まで届いてきた。繊細で美しいギターのイントロにスチュアート・コープランドの切れ味のある硬質なドラムが重なっていく。

「結構楽しいわよ。綾子がたくさん集めてるの。私たちの時代にはそんなものなかったわよね」

「なんのために?」

「あら、いいじゃない。理由なんかないわよ」

「二人で?」

「そう、二人でよ」

何度かの沈黙が二人の会話の上を横切っていった。僕はクーとモモの姿を目で追いかけて、それから水槽に目をやった。

「いいじゃない」と由紀子が言った。

「意味とか理由とかそんなものは別にどうでも。ただ、四十一歳になった山崎君と四十一歳になっで二人の子持ちの私と、十九年も音信不通だった二人がお互いに中年になってプリクラを撮る。なんだかバカみたいで楽しくない?」

楽しくない?と言う割には由紀子の声は沈んで聞こえて、反射的に森本の声を思い起こさせた。

「由紀子、酔っているの?」

「うん、まあまあかな」由紀子との三年間を僕は思った。十九年たった今もそれは僕の心の中にある。それこそプリクラのように、今となってはそれは小さな小さな想い出のひとつとなってしまった。

しかし、それはたとえどんなに小さくても心の片隅にペタリと貼られたシールのようなもので、剥がそうとしても簡単に剥がすことはできないのだ。

「ねえ、山崎君、あなたは将来どんな仕事をするつもりなの?」大学に通い始めて三年目の夏、ゼミのあと待ち合わせた新宿の小さな喫茶店で由紀子は僕に訊いた。

「わからないなあ」

「たとえば、何かこうしたいとかこれだったらまあいいかとか、そんなこともないの?」

「うーん」僕が答えに窮していると

「何かあるでしょう?」と由紀子は薄い唇を少しだけ尖らせた。

「まあ、強いて言えば編集関係かなあ」と僕は言った。

それは行き当たりばったりというのではなくて、あと一年足らずで卒業という自分の中に芽生えつつある綿菓子のように無根拠で頼りない進路だった。

大学の授業は面白いと言えばそれなりに面白く、退屈かと聞かれればコクリと肯くしかないような代物だった。高校から大学へ進むとき、僕は大学というもの自体に過程ではなく目的を求めていた。中学は高校へ進む過程であり、高校は大学に進む過程である。

しかし、大学は何かの過程ではなくそれは過程の連続で教育を受けてきた人間にとっての目的でなくてはならない。

大学へ通い始めて半年もたたないうち、僕は自分のそんな思いが冴えない幻想であることをいやというほどに思い知らされた。

目的というよりも、大学こそが過程そのものであり、過程の総仕上げのような場所だった。その先にあるのは茫洋とした社会であり、そこにいく、より有利な立場を得るための広場が大学という不思議な空間だった。

キャンパスは傲慢だった。それも何の裏付けも自信も実績もない傲慢さに溢れていた。

学生たちは大声で笑い、ふざけあい、その割には一様に排他的で、しかし要領がよかった。僕はどうしてもキャンパスという空間にうまく馴染めず、どこかにいつも決定的な疎外感を感じていた。

そんな意味不明の疎外感は生まれて初めて味わうものだった。二ヶ月もアパートに引きこもり、寝てばかりいることもあった。

どこにも行く気になれず、誰と会う気に気力も湧いてこなかった。ただひたすら、部屋の電気も点けづに寝て暮らした。

しかし、僕にはそのまま大学を辞めてしまうだけの決断力もなかった。極めて消極的に与えられた場所の隅の方で辛うじて参加しているような状態で何とか三年間やり過ごしてきたのだった。

「編集者かあ。何だかいやなやつって感じね」

「そお?」

「だって面倒くさそうじゃない」

「そうかな」

「ま、いっか」と笑って赤い舌をペロッと出すと、ちょっと待っててねと言って由紀子は立ち上がった。

それっきり戻ってこない由紀子を僕は一時間も待ち続けただろうか。窓際の席だったから、新宿の人波をぼんやりと眺めていた。キャンパスを闊歩する、不安も疑問も感じさせない学生たちとは違って、新宿の歩行者たちはそれぞれに何かを引き摺って歩いているように見えて、何だかほっととした。

なかなか由紀子が戻らないので、今度は仕方なく通行人の数を数え始めた。

「ごめんごめん、遅くなっちゃって」七百九十六人目で戻ってきた由紀子は席に着くなりコップの水を一気に飲み干した。

「何だか、出版社ってやっぱりいやな感じね」と氷を口に含んで由紀子は言った。

「電話帳で調べて、上から順番に片っ端から電話してみたのよ。知り合いで編集をやってみたいという者がいるのですが空席はありませんかってね」

「空席?」

「そう、キャンセル待ちよ。とりあえずそれしか手がないじゃない」由紀子の長い睫の奥で思慮深い、黒い瞳が輝いていた。

「それって、もしかして僕のこと?」

「黙って聞いて。そうしたらね、ヒットしたのよ。三十件目くらいだったかしら。出版社とは思えないような感じのいいおじさんが出てね。うちは何であれ、やる気のある人間とは面接してみることにしてるから、明日にでも一度来てみなさいって」

「へぇー、そんなこともあるんだ」

「文人出版なんて聞いたことがないなあ。どんな本を作ってるの?」

「そんなこと、私が知ってるわけないじゃない」と由紀子は何だかとても愉快そうに笑った。

まあ、それはそれでいいのかもしれない。

由紀子が電話帳を引き裂いて持ってきた電話番号を頼りに、とりあえず明日訪ねてみることにしょう。どうせ僕は怠け者だし、それに何かの中から何かを選ぶ作業が大の苦手なんだから。中華料理屋に入ってもメニューに目移りして、何回も咳払いされなければ自分の食べるものさえ選べない。

Tシャツ一枚を買いにいってもその種類の多さに眩暈を起こすだけで、結局は手ぶらで帰ってきてしまう。

きっとこの世に出版社は中華料理のメニューやジーンズショップの棚に並んでるTシャツシャツの数くらいはあるに決まってる。

「まあ、何とかなるわよ」

由紀子のよく手入れされた白い歯がかすかにこぼれた。

私が用意した綿菓子よ、どうぞ召し上がれ、由紀子の二つの瞳がじっと僕を見つめ、そう囁いていた。

「今、何をしていたの?」

「水槽の水換えだよ」

「こんな時間に?」

「うん。掃除と洗濯と水換えはいつも真夜中にやることに決めているんだ」

「金魚も駆っているの?」

「じゃなくて、熱帯魚」

「へぇー、格好いいじゃない。綾子は金魚を飼っているのよ。金魚の水槽ってどうしてもすぐに黄色のような緑色のような変な色になっちゃうのかしら。水も割りとこまめに換えているし、ブクブク空気を出すやつ、あのスポンジだっていつもきれいに手入れしているのに」

モモがまたキューンと悲しい声を上げたので、膝の上に載せてやった。モモは竹とんぼのようにクルクルと尻尾を回して喜びを表現した。

そんな僕とモモをクーは床の上にペタンと腹ばいになり、顎まで床に投げ出して、恨めしそうに上目遣いで眺めている。

「水槽ってね、バクテリアの生態系で成り立っているんだよ」

「バクテリア?」

「魚が糞をするだろ、そこからたとえば、アンモニアのような有害物質が発生する。それをまず二とロゾモナスという名前のバクテリアが亜硝酸という物質に分解するんだよ」

「ニトロゾモナス?」

「そう、そう。そしてね、ニトロゾモナスがアンモニアを分解したことによってできた亜硝酸を今度はニトロバクターというバクテリアが硝酸塩という魚にとってほとんど無害な物質に分解するんだ。」

「ちょっと待ってよメモするから」

「まあ、メモはいいから聞いて」僕はグラスに入ったギネスを一気に飲み干した。

「でね、この亜硝塩という物質は魚にほとんど無害でしかも水草にとっては栄養になるんだ。だから水草が必要とする硝酸塩の量と魚の糞が分解されることによって発生する硝酸塩の量に調和がとれていれば、

理論的には水槽は半永久的にきれいなままということになる。だけど大抵は硝酸塩の方が供給過剰になってしまう。それは結局は水とバクテリアと水草と魚というバランスのなかで、どうしても魚の量が多くなってしまうからなのかな。

でね、硝酸塩というのは酸性だから水槽の水はどんどん酸化していってしまう。だから、それを緩和するために中性の水道水を注入して取り替えてやる。

掃除じゃなくて、中和することが本当の水換えの目的なんだよ」

「半永久的?」

「理論上は」

「何か凄く観念的ね」

でも、どんなにうまくいったとしても結局は完璧な水槽などありえない。水槽というものは人間が作った限界のある世界であって、それは確かに由紀子のいうように観念的なものを技術によってどのように成立させることができるかという実験なのである。

亜硝酸だけではなく、いつかそれを分解するバクテリアさえも、水槽内に増えすぎてしまい観念的半永久の水槽は現実的に崩壊してしまうのだ。

「観念的半永久の水槽かあ」と由紀子は小さく溜息をついた。そして続けた。

「それはそれでなんだか凄く幻想的で素敵ね」と。

「でもね、やっぱりいつかは水槽内のバランスが崩れる。水換えやフィルターの掃除だけではおいつかなくなるんだ。バクテリアが増え過ぎてしまって、たとえば水を還流させているパイプの中や底砂やそれに魚自身にもバクテリアが過付着のような状態になってしまうんだ」

「過付着?」

「そう。それでね、今度はそれを緩和させるための薬品が必要になる」

「薬品かあ」

「ホルムアルデヒド」

「ホルマリンのこと?」

「そう。ホルマリン」

「そなんもの手に入るの?」

「薬局に売ってるよ」

「誰にでも買えるの?」

「ああ。劇薬だから使用目的や住所氏名は記入させられるけど基本的には誰でも買える。それを十リットルの水に対して一ccの割合で水槽に投入する。

そうすると水槽内のバクテリアの量が減少して、過バクテリア状態から脱することができるというわけ」

「つまり、ホルマリンでバクテリアを殺すのね」

「そういうこと」

僕は何十年ぶりの由紀子との会話でなぜこんに一生懸命に水槽のことを説明しなけばならないんだろうという思いと同時に、この会話に居心地よさを覚えていた。

ホルムアルデヒドといった瞬間にホルマリンと答える由紀子、それによってバクテリアを殺すということを理解する由紀子。

膝の上でモモは、遊び疲れた人間の子供のようにコックリコックリと船を漕ぎ始めていた。

時々、はっと我に返っていかんいかんとでもいうように頭を振って虚ろな目で僕を見るけれど、結局はまたどうしようもなくなって船を漕ぎ出してしまう。そんな動作を繰り返している。

「由紀子がよく洗っているという、ブクブクの出るスポンジ。そこが実はバクテリアの住み処なんだ。だから、そこをきれいに洗い流すということはせっかく発生しつつあるバクテリアを捨ててしまっていることになるんだよ」

「だからSF映画みたいな話ね」

「水槽の水の中にもバクテリアはたくさんいてね、その水を全部捨てて生能系のない水道水に取り替えるということがどういうことかわかるだろ?」

「水の自殺?」

「そうかな」

「他殺かあ」と由紀子は溜息をついた。

「その時、一瞬はきれいになるけれど、すぐにまた黄色くなってしまう」

「そう。繰り返しなのね」

「最初はみんなそうなんだ」

「ところで、そのニトロ何とかという怪獣みたいな名前の連中、一体どこから連れてくるの?」

「それはね、パイロットフィッシュっていうんだけれど、健康な魚の糞の中には健全なバクテリアの生能系があるんだ。だから水槽を設置した時に一番最初に入れる魚が肝心でね、

健康な生能系のない水の中糞をするだろう、そうすると約二週間には健康な魚の、いい状態のいい割合で水槽内にバクテリアの生能系が発展していくんだよ」

「パイロットフィッシュ?」

「そう」

「きれいな響きね」

「でも、ちょっと悲しいんだ」

「どうして?」

「たとえばね、アクアリウムの上級者がアロワナとかデイスカスだとか高価な魚を買ったとするだろう。高級魚というのは大抵神経質で弱いんだ。そんなときに、

その魚のためにあらかじめパイロットフィッシュを入れて水を作っておくんだ。これから入る高級魚となるべく似た環境で生育した魚を選んでね。そして、水ができた頃を見計らって本命の魚を選んでくる。

でね、パイロットフィッシュは捨ててしまうんだ」

「殺すの?」

「そう。殺す」

「他の魚のために生能系だけ残して」

「そう。生能系だけ残して」

「もう、必要ないからね。ひどい奴は天日干しにしたり生きたままトイレに流したり、そのままアロワナに食わせてしまったり」

「ひどい」

「でね、最初に入れた魚の状態が悪かったらいつまでたっても水槽は仕上がらない。それは悪いバランスのバクテリアがそのままの状態で水を支配するようになるからで、そうなると水槽を立てなおすのはかなり大変なんだ」

「でも、うちの金魚はとても元気よ」

「だから、たぶん掃除のしすぎなんじゃないかなあ。あるいは餌のやりすぎか。一度、少し水が汚れても掃除をしないで放っておいてみたら。四分の一くらいだけ部分換水をして」

「ふーん」

「それがいいと思うよ」

「ねえ山崎君も殺すの?」

「いや、僕はどうも苦手でね。だから上級者になれないんだ」

部屋の九十センチ水槽は完璧といっていい程の仕上がりを見せていた。つややかで丹念に磨き上げられたかのような水は、まるでそこに存在していないかのような透明な輝きをたたえていた。

その中を約三百匹のカージナルテトラと約百匹のアフリカンランプアイが、優秀な指揮官にあやつられているかのように、右へ左へと優雅に群泳している。

淡い緑色のリシアというよく手入れされた芝生のような水草は、粉々に砕いてちりばめたダイヤモンドのかけらのような無数の小さな気泡を身にまとっている。

光合成によって発生した酸素たちは浮力の限界まで膨れ上がると、もうこれ以上は我慢できないとでもいうように順番に水面めがけてゆらめいていくのだった。水泡は光を吸収し、

あるいは反射し、まるで光の粒そのものが動いているようだ。

底の方ではコリドラスメタエという愛嬌たっぷりの小型熱帯ナマズが、口を動かし砂底を舐めながら泳いでいる。ヤマトヌマエビという透明で小さな淡水エビは水草に生えた苔を、まるで糸を巻くように器用に食べていた。

注意して見ると水底にいくつかの脱皮したエビの抜け殻を見つけることができる。澄み切った水の中でエビは音もなく成長し、そして入りきらなくなった自分を誇示するかのように殻を脱ぎ捨てていく。

十九年か、と僕は思う。

その間にいったいいくつの殻を僕は脱ぎ捨ててきたのだろうか。殻を脱ぎ残さなければ成長していけないエビたちのように、きっといつかどこかで僕も成長し、それによって何かを脱ぎ捨て、

あるいは何かを失ってきたのだろう。

由紀子には由紀子の、僕には僕の十九年という月日が流れた。

「山崎君、今どこに勤めているの?」由紀子は訊いた。

「文人出版だよ」と僕は答えた。

由紀子が言ったように文人出版の沢井さんは確かに感じのいいおじさんだった。

サウナ風呂の中にいるような蒸し暑い夏の日、僕はアスファルトの上にポタポタと汗をたらし、電話で沢井さんが教えてくれた道順を頭の中で反芻しながら千駄ヶ谷のゆるやかな坂道を登っていった。

やがて大きな神社が見えてきて五叉路にぶつかり、そこを左に折れた。その交叉点から三軒目の、広い墓地に面する四階建てのビルの三階に文人出版はあった。

「フーッ」と僕はわけもなく溜息をひとつついた。それから、意を決してインターホンを鳴らした。

「はい、文人出版です」

しゃがれた中年男性の声が、冷たい感じのする黒いプラスチックの箱から零れてきた。

「山崎隆二と申します。昨日電話した川上由紀子の親戚の者です。」と僕はできるだけはきはきと大きな声でインターホンに向かって話しかけた。

             つづく…



























コメント(9)

kさん

kさんの写真アップしたら、安心して参加してくれるかも?
itakichiさん
コミュに参加してくれて、ありがとうございます。
<kさんの写真アップしたら、安心して参加してくれるかも?
おぉ((((;゚□゚)何をおっしゃいますか…(笑)逃げられてしまいますから(汗)ここでは、影に隠れていますよ(笑)
これからも、ヨロシクお願いします。
鬼浜爆走茶凛呼隊様
はじめまして<(*_ _*)>ペコリ。
kと申します。
コミュに参加していただき、ありがとうございます。
少しずつではありますが続きを出しますからね(笑)
是非、また読み返してみてくださいね♪今後ともよろしくお願いします。
Hide™さん
コミュに参加してくれて、ありがとうございます。
<由紀子・・・。(T.T)
これには、ひとひねり入れてみましたが(笑)
誰か気がついてくれないかな…?
元札幌人の僕にとって このpfは 語り始めると
止まらなくなるかも(笑) 時代が語られているんだよねぇ
背景は kさんが 知らない昔の話しね 僕もまだまだ
学生時代のね
かずまさん
ほぉ〜、かずまさんがねぇ〜(笑)
では、今度は日記にでも書いてくださいませね♪
えw コメント見えないと思ったら やっとココだしw
てか 淡い恋の物語も混じるので (/ω\)ハズカシーィ

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