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社会の隙間コミュのどうやって“南極料理人”になったのか――南極越冬隊調理担当・篠原洋一さん

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(後編)
(Business Media 誠 - 01月27日 11:51)

オーロラを眺めながら露天風呂 写真:Business Media 誠
 第33次南極越冬隊の調理担当として1年3カ月に及ぶ南極生活を体験し、今また第50次隊の一員として日本を発った篠原洋一さん(1月13日に南極に到着したそうだ)。観測隊が南極でどのような生活を送り、どんなものを食べているのかをインタビュー前編ではご紹介した。

 南極での生活と並んでもう1つ筆者が知りたかったのは「どうやったら南極越冬隊に加われるのか?」という謎の答えだった。インタビュー後編では、篠原さんがどういう経緯で南極越冬隊員を志し、それをいかに実現していったのか、そして今次、再度、南極へと旅立ったその想いを明らかにしたいと思う。

●“食”と“旅”が好きなどさん子

 篠原洋一さんは、1962年、札幌市に生まれた。牡羊座のA型。父親は薬の卸問屋を営み、母親はそれを手伝っていたという。 

 「子供の頃から、とにかく食べるのも料理するのも大好きだったんです。小学・中学時代、自宅で夜、勉強していて何が楽しかったかって、いろいろと研究して夜食を作るのが嬉しくって仕方がなかったですね〜」と、満面に笑みを浮かべる。

 「食」と並んで彼を夢中にしたもの――それは、「旅」だった。

 「新聞配達のアルバイトをしてコツコツと貯めたお金で、高2の時、18泊19日の日本1周の旅に出ました。札幌にいては決して味わえない、いろいろな出会いや経験をしました。まさに『百聞は一見に如かず』で、人生観が変わりました。人生というのは、耳学問でああだこうだ言っていてもダメで、自ら一歩を踏み出すことが何よりも大切なんだと痛感しましたね」

 百聞は一見に如かず。この考え方が、その後の篠原さんの人生を大きく切り開いてゆく原動力となっていった。ボーイスカウトの鉄道版とも言うべき「鉄道少年団」では、札幌市支部のリーダー格として各地の人々と交流を深め、社会性やリーダーシップを育んでいった。

 同時に、高校時代から、札幌の代表的な割烹の1つで、皿洗いのアルバイトを始めたという。「とにかく、食べること、作ることが大好きでしたから!」

 そうだとしても、なぜラーメンや洋食ではなく、割烹だったのだろうか?「テレビの人気ドラマの『前略おふくろ様』※の影響を受けたというのと(笑)、あとは、これからの日本は高齢化が進み、お年寄りが増えるから和食が良いって考えたんですよ」

※前略おふくろ様……1975〜77年、日本テレビ系列で放送。倉本聡原作、萩原健一主演。料亭を舞台にした青春ドラマ。

●料理人修行時代――南極越冬隊員を志す

 高校3年の秋のこと。現場での篠原さんの働きぶりを見ていた料理長から、「高校を出たら店で働かないか」と誘いを受ける。

 「でも、それを聞いた2番さん(料理長に次ぐポジション)に言われたんですよ。『オヤジから入れと言われたらしいが、簡単に入れると思うな。誠意を見せろ』って」(笑)

 困った篠原さんは、3番さんに相談する。「ただ働きをするのもいいんじゃないか、と言うんですよ。なるほどと思いまして、冬休みの間、朝8時から夕方5時まで毎日、ただ働きをさせてもらいました。そして5時以降は、それまで通り皿洗いのアルバイト。5時までのその時間は、とても勉強になりましたね。基本的な調理実習をさせてもらえましたから」

 4月になると新入社員が何人も入ってきた。高校卒の同世代はもとより、専門学校卒の年長者もいたが、この世界では、1日でも早く入店した方が“先輩”だ。そういう意味でも、篠原さんはラッキーだったと言えよう。「このお店では、1年10カ月お世話になりました。その間、すごい出会いがありましてね……」

 それは、南極観測隊に参加したことのある北海道大学の先生だった。

 「オーロラの話を聞かせてくれまして。そして言うんですよ。『オーロラの素晴らしさは実際に見ないと分からない』って。それを聞いて『見たいなあ』と心底思いましたね」

 「百聞は一見に如かず。一歩を踏み出す勇気が大切」という人生観を持つ篠原さんの心が、強く揺さぶられた瞬間だった。

 「それでいろいろ聞いてみると、南極観測隊には、研究チームと設営チームがあって、設営チームに料理人として入れる可能性がある。その代わり、何でも作れるようになれって言われました」

 心は決まった。

●南極観測隊入りを目指し、東京で修行三昧

 21歳になる頃、料理長の勧めで東京・歌舞伎町の割烹に移ることに。「『おい、ブー! 来週から東京に行け』って、言われました。突然(笑)」

 寮に入った篠原さんは、生まれて初めての東京暮らしを開始した。料理人の下積み生活は過酷だ。昔ながらの徒弟制度が色濃く残り、しかも長時間労働で、短期間で逃げ出す人も多い。しかしここで、彼は驚くべき行動に出る。

 「割烹での仕事が終わる午後11時から午前3時まで、ロッテリアで清掃員のアルバイトをしたんです。楽しかったですよー! 同世代の連中と話せるのは新鮮そのものでした。しかも昼間行くと、同じ年ごろの女の子たちもいっぱいいるし。普段は女性と話す機会なんてほとんどないですからね。自分がそれまで過ごしてきた環境とは全く異なっていて、視野が広がりました」

 2年数カ月在籍した篠原さん。今度は、名の通った某料亭に移る。「ここは厳しかったです! とにかくスパルタで(苦笑)。いつもオヤジについて回って、技を『盗む』日々でした」

 その約1年後、やはりお店からの紹介で、これまた由緒正しい割烹に移った篠原さん。「カウンターと小上がりだけの小さな割烹ですが、一見客お断りの店で、オヤジさんも京都の名料亭の出でした。私はここでフグ調理の免許を取らせてもらいました」

 ここでも彼は、驚くべき行動に出る。「毎週3〜4日ですが、朝5時まで、某居酒屋チェーンでアルバイトしていましたし、あといわし料理店でもバイトしましたよ」

 その目的は一体どこにあったのか?「それまで私は、4つの料亭や割烹で修行させていただき、懐石料理の基礎を学んできました。しかし、南極観測隊に加わるためには、懐石の技術を踏まえつつ、それ以外の料理のことも広く知っておく必要があると考えたんです。その点、居酒屋であれば、いろんな種類の料理を扱いますから、短期間で、いろいろと勉強できると思ったんですよ」

 成果は挙がったのだろうか。「ええ、1つの料理を作るにも色んなやり方があることを学びました」

 この時期に修得した、その場その場の状況に臨機応変に対応して調理する技術は、その後、南極生活で大きな力を発揮することになる。

 すでに26歳になっていた篠原さんは、南極の魅力に開眼させてくれた北海道大学の先生に電話した。もちろん、南極観測隊の隊員に志願するためだ。

●第33次南極越冬隊員に選抜され、念願かなって南極へ

 南極越冬隊の調理担当は2名で、海上保安庁と東條會舘から各1名が選出されるのが通例となっていた。したがって志願しても、その2人の枠に入るのは、そう容易なことではなかった。篠原さんは辛抱強く「その時」が訪れるのを待った。そして……

 「1991年、29歳の時に、ついに内定をいただき、訓練に入りました」。立場としては臨時公務員であり、隊員となるには前職を退職しなければならない。

 「冬の乗鞍岳で1週間に及ぶ訓練に従事しましたし、夏山での訓練もありました。また、座学あり、救命救急実習ありで、1年3カ月に及ぶ酷寒の地での生活に備え、研究チーム、設営チームの全員が様々な訓練を受けました。私の場合は当然、調理訓練もありました。パンを作ったり、ロシア料理を作ったり。これは大変というより、むしろ楽しかったですね」

 1991年11月14日。篠原さんを乗せた南極観測船「しらせ」(排水量2万8000トン、砕氷船としては世界最大級)は、東京の晴海埠頭から出航した。

 「やっと出た!って、しみじみ思いましたねぇー」

 念願がかない、篠原さんは南極越冬中に何度かオーロラを見ることができた(南極生活についての詳細は、前編を参照のこと)。1年3カ月にわたる南極生活が終わり、篠原さんが選んだ“その次の仕事”とは何だったのだろうか?

●任務終了――世界一周クルーズ船の料理人に転身

 1993年2月、南極越冬隊員としての任務を無事終了した篠原さんたち第33次越冬隊員は、南極観測船「しらせ」に乗船。思い出の詰まった南極大陸を後にした。

 帰国すると、取り敢えずは、臨時公務員としての立場も離れることになる。この先、篠原さんとしては、どうするか? すぐまた南極越冬隊に志願しようとは思わなかったのだろうか?

 「いやいや……たいへんな達成感がありましたからね!」

 帰国の途についた一行は、途中、オーストラリアで下船し、シドニーから空路、日本に向かうのだが、篠原さんの行動は一味違った。

 「オーストラリアの日本食レストランを食べ歩きしたんです……そういうレストランで働いてみたかったんで(笑)」

 しかしそれは不調に終わり、帰国後、世界一周クルーズ船の料理人になるべく、船会社の面接を受ける。子供の頃からのテーマである「食」と「旅」を追求するためだ。

 「でも、人員の枠があって、すぐには入れないと言われました。それで、当面の仕事として、埼玉県川口市で魚屋のトラックの運転手として働きました」

 “待てば海路の日和あり”。1994年10月、篠原さんは正式採用になった。

●世界を12周し、65カ国、170都市を巡った13年半

 「最初は、肉や魚の下ごしらえをするブッチャー・シェフを務めまして、それから、和食のシェフを担当させていただきました。庶民的なお惣菜から超高級懐石まで、何でも作りましたよ」

 世界1周クルーズだけでなく、さまざまなクルーズを体験したという。「世界1周クルーズに加えて、アジア太平洋クルーズ、さらには、ハワイ、日本国内と、いろいろなタイプのクルーズに同乗しました。勤務のシフトとしては、4カ月乗船+2カ月休暇というサイクルを、年に2回こなすようになっています」

 プロの料理人として、この仕事では、どんな収穫があったのだろうか?「世界を12周させていただき、その間、65カ国、170都市に寄港し(各都市1回当たり3日以内)、これまで会ったことのなかった様々な人々と出会い、多くの未知の食文化に触れることができたことが一番の収穫ですね」

 特に印象に残っていることは?「たくさんあり過ぎて、すぐには出てきませんが(苦笑)、例えば香港では、椎茸を煮ただけの前菜のあまりの美味さに感動しましたし、スペインでは、パプリカ料理の世界に開眼させられましたね。料理の味だけではありません。文化の違いにより、盛り付けのセンスも実に多様で奥深いということを知りました。

 外国のクルーズ船の場合、食材数は600〜700なのですが、日本人客を対象とする日本のクルーズ船では、1400種類くらいの食材が必要になるんですね。それだけ日本人は食の好みは多様だということです。

 あと……仕事とは直接関係ありませんが、太陽が水平線に沈む瞬間に緑色に見える『グリーンフラッシュ』を何度も見ました。あれは、船乗りでもそうしょっちゅう見られるものではないそうなんですが、本当に美しく感動的でした」

●南極への思い絶ち難く〜第50次隊として、再度、南極へ

 人にはそれぞれ、自分として居心地が良いと感じる職場や空間に関する適正規模があるようだ。2006年を迎えた頃、篠原さんの乗るクルーズ船は新しい巨大な船に替わり、彼は何となく違和感を覚えるようになる。

 「私にとっては、自分が歯車になったような感じがありまして……それに、ちょうどその頃、同じ船に乗っていたドクターが南極経験者で、『また行かないか?』と誘われて。どうしたものかと悩んでいたんです」

 彼の脳裏を過ぎったもの――それは、南極の−30度という酷寒の中、おでんを頬張り、氷山の氷を入れたオンザロックを呑みながら、仲間たちと仰ぎ見たオーロラの神秘的で荘厳な姿だったろうか。あるいは、アデリーペンギンやウェッデルアザラシの心和む姿だったろうか。そして何より、彼が丹精傾けて調理した料理に舌鼓を打つ隊員たちの幸せそうな表情であったろうか。

 2007年、彼は決意した。「また志願しよう!」

 そして、2008年12月25日、彼は、記念すべき第50次南極越冬隊員として、空路、オーストラリアに飛んだ。

 今回は、例外的に、日本から南極観測船は出ない。これまでの「しらせ」が引退し、新造船は、2009年に就航予定なので、今回に限り、オーストラリアから、同国の砕氷船「オーロラオーストラリス号」に乗船したのだ。

●篠原さんの「新たな挑戦課題」とは?

 篠原さんが参加した第33次隊から、実に15年。篠原さんも変わり、南極越冬隊をめぐる環境も変わった。「健康に対する世の中の価値観も変わりまして、メタボにならないための健康管理など、新しい課題も出てきているんです」

 言うまでもなく、料理というものは、人が生存を維持するための栄養補給という側面と、もう1つ、人々の日々の生活を心豊かにし、潤いや幸せをもたらすという側面がある。栄養という面に偏り過ぎれば、かつて時折見られたような(悪い意味での)病院食や社員食堂的な、味気ない、人によっては食事がストレスとなるような事態になりかねない。また逆に、食の豊かさを追求し過ぎると、メタボリック・シンドロームを初め、現代人が最も警戒する「文明病」と呼ばれる不健康な状態を招来しかねない。

 現代の社会的要請に応えつつ、いかにして、隊員たちの「唯一の楽しみ」である食事を、幸福感溢れるものにしてゆくか。今回、篠原さんは、前回にはなかった新しい挑戦課題をひっさげ旅立った。

 しかし、篠原さん自身も、大きく変わった。第33次隊に参加後、クルーズ船のシェフとして、世界を12周し、その間、実に65ヶ国、170都市で未知の食文化と出会い、自分のものとしてきたのだ。以前にも増して格段に視野が広がり、知識・技能を向上させた彼であれば、新しい挑戦課題を楽々と乗り越え、隊員たちを幸福にするのではないだろうか。

●篠原さんに見る「夢の実現への道」:

 まさに「夢を手繰り寄せた」と言ってよい篠原さんの人生の歩みを拝見していて筆者が思うこと――それは、集約するならば、次の3つである。

(1)一歩を踏み出す勇気

 「人生すべて『百聞は一見に如かず』なんですよ」という彼の言葉そのままに、高校時代以来、一貫して、迷うくらいなら「常に一歩を踏み出す」生き方をしてきた。それが「夢」への距離を縮めてきたことは疑う余地がない。

(2)何があっても腐らない

 しかし、彼の歩みを見ていると、必ずしも、常に夢の実現に一直線に突き進んでいる訳ではない。南極観測隊に選抜される保証もない中、時には、夢から逆行しているのでは……・と思うような時期もあったであろう。しかし、彼は絶対に腐らなかった。その一途な信念が運を引き寄せた部分もあったのではないか。

(3)他人がしないような努力、他人の何倍もの努力

 若くして単身、上京して、慣れない東京の有名割烹で板前修業。それだけでも逃げ出したいくらい大変なのに、驚くべきことに篠原さんは、もともと少ない睡眠時間をさらに削り、ロッテリアや、人気居酒屋チェーン、いわし料理店などでアルバイトを重ねた。それは、近い将来南極観測隊に志願するために何が必要で、今の自分には何が欠けているかを明確に自覚した上で、それを補填するための理にかなった努力だったのである。

 「なんだ、そんなことか!」と思う人も中にはいるかもしれない。しかし上記の3つは、単純なようでいて、それを長い人生の中で実践し続けるとなるととても難しい。それを片時も忘れることなく継続したことにこそ、彼の「夢を手繰り寄せ得た秘密」が隠されているのかもしれない。

●「帰国後は、自分の店を出したいですね」

 2010年3月、篠原さんは任務を終えて帰ってくる。その後の人生設計は、もう考えているのだろうか?

 「横浜で自分の店をやりたいと思っています。クルージングの経験者とかクルージングに興味のある人が集まってくるような和食屋さんを。あるいは、旅好きの若い人が集まってくる洋食系のお店もいいですね。

 世の中には、腕の良い料理人がやっているのに潰れる店はいっぱいあります。逆に、専門的な技能はあまりなくても、いつもお客さんで賑わっているお店もあります。その差は何なのか? 私は自分の技術を生かしつつ、何よりもお客さんの笑顔でいっぱいのお店にしてゆきたいです」

 彼の“帰国後”が、何やら今から楽しみになってきた。筆者はクルージングに行ったこともないし、“旅”は好きでも“若者”ではないが(笑)、しかし、彼の開く店に行ってみたいと思う。

 まずは何より、篠原洋一さんの南極での任務成功と、無事な帰国を祈りたい。

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