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岡2林コミュの剣豪

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「ばっとう斎さま」
「ばっとう斎さまだ」
「ばっとう斎さま、これ持ってっておくんなせえ」
「今日もええご機嫌で、ばっとう斎さま」
長々と続く己の影を追うように、一人の大男が歩く。砂埃の巻く村の中通りは、一日の仕事を終えた百姓たちで活気付いている。その誰もが白い着流しの男を見るなり道を分け、海老のように背を曲げた。手元に野菜や芋などがあれば、恭しく掲げた。
熱気を孕んだ赤黒い髭面と、大きく突き出した腹をゆれゆれと揺らしながら、男は往来の真ん中をのし歩いていく。右手に下げた酒瓶が音を立てて揺れ、左手には色褪せた柄色の刀をわし掴み、小脇に竹皮に包んだ味噌と大根二本を抱えていた。
やがて村の端まで来ると、子供たちの騒ぐ声が聞こえる。右手に見える間口の広い宿屋風の家からだ。鼻歌交じりに近づくと障子窓はあらかた破れており、屋根からは腐った藁束が間口へとぶら下がっていて、奥の暗闇から子供のふざけ声や、物が破れ壊れる音が鳴り響いている。
「帰ったぞ、えい。なんだこのさまは」
男は腰をかがめて戸の無い入口をくぐる。男の頭をかすめたのは陽焼けた板切れ…そこには妙にせせこましい墨書でこう書かれていた。
「ばつたう流どうじやう 
  ばつたうさい すけ宗」
「うわあ」
子供が沸く声がした。土間にござを敷いただけの狭い道場から、何度か叩くような音がして、すぐに静まり返る。
四人の子供が律義に並び、棒切れで宙を斬る真似をするさまを横目に、抜刀斎は上がり縁へとどっかり腰を下ろす。どこからともなく、やつれてはいるが柳のように流麗な女が現われる。女は茶を片手に寄り来た。
「おう、すまぬ」
えいと呼ばれた女は、伏し目がちにうなづく。その後ろに立ち尽くす小男に目が止まる。
「へへへ、ばっとう先生、どうも」
「またお前か」
歪んで崩れた髷を掻きつつ近寄ってきたのは、頬に大きな黒子があり前歯の一本足りない、らっきょうのような頭をした男だった。
「いやね、さっきそこで義助と昔の話をしてたんですがね。ヤッパリ先生のお話になりやして。いやあ凄い腕だったって。義助の野郎先生の立ち回りを見れなかったのが残念無念って、また盗人でも現われねえかとか言ってやんで、ならてめえがなれって言ってやったんですよ。そうしたら野郎めっそうも無えって血相変えて」
「くだらねえこと言っておだてやがって、どうせこれが目当てなんだろう。ほれ」
抜刀斎と呼ばれた男は、片手の酒瓶を投げるように取り渡す。
「へへへ、さすがセンセイ」
平助を追い払うように立ち上がると、子供に向かって手を叩く。子供はわあいと意気を上げると、木切れを放って表へ駆け出していった。
「まったくあいつら挨拶も無しに」
そうは言っても余り機嫌の悪い風も無く、裏口に掛かる鉄風鈴の澄んだ音に涼みながら、茶をすする。すると奥から音も無く再びえいが現われた。脇まで来ると、美麗だがどこか寂しげな表情に西日が当たる。すると西日にむせるように咳込む。男は酔いが覚めたような表情をする。
「また悪いのか」
「はい」
男はえいの額に野太い手を伸ばす。えいは腰をかがめて顔を寄せる。
「…熱があるようだな」
「黒田先生に、お薬をいただいて参ります」
「ああ、もう夜も近い。気をつけてな」
えいはこくんと肯く。
「奥に夕ご飯のお支度をしておきましたので、おあがりになってください」
「おう」
「申し訳ありません」
えいはかくんと腰を折ると、はらりと背を向け看板をかすめて、出て行った。
草鞋を脱ぎ奥に上がる。古行灯の中、狭い畳部屋にぽつんと置かれた台の上、麦飯に大根の塩漬け、汁という夕餉。一旦箸を持つが、ぽろり取り落とす。何度も持ち直して、やっと持った瞬間にあっという間に平らげる。
まずは一息つく。
今度は本番とばかりに、脇の酒瓶を持ち上げて茶碗に注ぐ。手元が狂うのかばしゃばしゃと零れる。なみなみ注がれた白い酔い水は、今宵も永劫夢幻の境地へ誘う。
…小一時もすると抜刀斎は、転げた。古畳が煙を吐き、それでも起きるそぶりも無い。がらんどうの屋内に高鼾が響き、やがて行灯の灯芯が焦げ落ちた。
 「たのもう、たのもうー」
男はいつのまにか布団にいた。次いで、はあいという高い声に飛び起きる。
「…お客様です。」
襖陰からえいの顔が覗いた。抜刀斎のばら髪を見て、口元に幽かに微笑みが浮かぶ。
「昨日もかなりお召し上がりになったようですね。少しはお体のことも考えないと」
「ううむ」
男は素直に肯いた。
「えい。昨日も遅かったようだな」
「すいません」
えいの喉から木枯らしに似た音が吹き出る。男は口元を見つめた。
「…いや、いい。調合が難しいんだったな。今度黒田に言って、江戸のもっといい医者を紹介してもらうとしようか。」
えいは首を傾げると、表を気にするように振り返った。
「…お客様がいらしています。何やら笠を被ったまま気味の悪い」
「今出る」
朝の強い日差しにむせぶ間口にいたのは、肩幅の広い中肉中背の男だった。抜刀斎よりも十は若く見える。がしりとし特に右肩が隆々とし、左手は柄元を固く握りしめたまま動かない。草鞋も解かず笠を被った旅支度のまま突っ立っている。
「抜刀斎というのは貴殿か」
男は静かに口を開いた。
「…いかにも」
ねめ上げるような三白眼が笠の縁よりちらりと見える。抜刀斎は思わず目を逸らし、気を紛らすように頭を掻く。ぽろと虱が落ちた。
「拙者諸国修行の身。一手お手合わせ願いたい」
男はそう言って中を見渡す。隅に立てかけられた木刀に目を止める。
「後にしていただけまいか。まだ朝飯も食っておらん」
抜刀斎は欠伸をしながら背を向けた。僅かに声が震えているのを男は聞き逃さない。
「ならば待たせて頂く」
男は笠を取る。思わず振り向いた抜刀斎の目が凍り付くのを、えいは見ていた。
「ふ、藤木…一刀…」
抜刀斎は言葉を噛み殺し、えいは小さな悲鳴をあげた。
「お早うごぜえます」
門口で大きな頭がかくんと揺れた。えいは目で合図をするが、平助は気づかない。藤木一刀は黙って上がり縁に腰を下ろす。
「先生、今日一日うちのガキ預かってもらってもええですかね。つるの奴、悪い風にでも当たったのか昨日からふせってやがるんで。」
「あ、ああ。わかったな、えい」
固まっていた表情が綻ぶ。えいは戸惑いながらも半端な返事をする。
「わ、わかりました」
それを聞いた藤木一刀は眼を歪ませ、肩越しに高い声を投げつけた。
「なに、ここは餓鬼つ子の預かり処か。
ならば手合わせするまでもない。失礼」
そう言うとぷいと立ち上がり、笠を置いたまま門口に近づく。慌ててよける平助を肩で押しのけ、右腕を伸ばし強く引く。木の割ける音がして、捉まれたのは道場の看板であった。しかし、抜刀斎は少し振り向いただけで、微動だにせず立ち尽くしている。
「あっ、この野郎。先生、大切な看板を」
平助のらっきょう頭がたちまち赤く染まり上がった。抜刀斎と藤木を交互に見ながら、せわしなく手を振る。
「この野郎…生きて帰れると思うなよ。驚くな、昔江戸で一番とうたわれた大泥棒“墨掛けの松”がこの村に逃げてきたとき、一刀の下に斬り捨てたのが、誰あろうこのばっとうさい先生だ。そんじょそこらの微塵子浪人と一緒にしちゃいけねえ。先生、構わねえからやっちめえな。先生の腕ならこんなこまい男、三枚におろして朝飯のおかずに」
そこまで聞いて藤木がわらい出した。
「拙者は構わんぞ、ばっとう先生とやら。真剣でいくか」
左手のものが鳴る。自信に満ちた藤木の態度と対照的に、抜刀斎は狼狽の色を隠せない。
「先生、どうしたんですかい」
抜刀斎はぶるぶると震えだした。髭が揺れ、酒焼けした顔がさらに赤まる。
「先生」
「…朝はげんが悪い。それにここでは動き辛かろう」
藤木はまだ笑いが止まらない様子だが、抜刀斎は続ける。
「明日正午、川べりの庚申様の前でどうだ」
抜刀斎は低く唸るような声を絞り出す。しかしその目つきは縋るような色を隠せない。
「いやに待たせるな。まあいい、急ぐ旅ではない。抜刀先生、せいぜい“この世”の最後の朝暮を楽しんでおくのだな。これはまだ預けておこう」
藤木はそう言うと看板を土間に投げ捨てた。からん、という軽い音がして、藤木は消えた。平助は、なぜかにこにことしていた。
「さあ、義助のやつ喜ぶぞ。なにせ久しぶりに先生の腕を見れるっつうんだから。みんなに知らせてきまさあ。川辺の決闘、こりゃ、つるの病どころじゃないや。失礼」
平助も消えた。
「黒田さま早く、あっ…」
しばらくしていつのまにか消えていたえいが、背の高い初老の男を連れて現われた。抜刀斎はそのままの格好で床の隅を見つめている。痩せた男はねずみ色の粗末な絣を身にしてはいるが、どことなく“雰囲気”が有る。
「助宗、無事か」
「…黒田。」
抜刀斎は上がりきった肩をすとんと落とした。よろよろと土間に近づき、上がり縁に立つ。黒田は鋭い切れ長の目で転がった看板を一瞥すると、抜刀斎を見上げた。
「…決闘することになってしまった」
「何。おまえ、何てことを」
「平助の野郎にうまく乗せられちまった。」
「相手は、あの藤木一刀、百人斬一刀だというではないか。最近は辻斬りのかたわら道場破りをやっていると聞いていたが、まさかこんな田舎村に現われるとは」
黒田はため息をつき、腰を下ろす。並んで抜刀斎も座り込む。えいは間口から二人の様を遠巻きに見る。
「えい、外せ」
えいは俯き裏口へ抜ける。
「どうするつもりだ。もう刀なぞ握れぬくせして」
黒田は声を潜めて語り掛ける。ほととぎすの声が遠く響く。抜刀斎は右腕を上げて、しばし震える掌に見入る。そして目をつむりうなだれる。
「酒とは恐ろしいものじゃ…」
言い訳がましく呟いた。黒田は少し強い口調で言葉を継ぐ。
「だがおまえ、もし酒に溺れてなかったとしても、奴に勝てたとは限らん」
田の方向から穏やかな唄声が聞こえ始める。牛ののどかな声が重ね重ね里山に木霊する。
 しのつく汗にまみれ抜刀斎はやがて重い口を開いた。
「黒田…おまえ、“毒”を調合できまいか」
「何をするつもりだ」
「…奴はどこかその辺りに泊まるつもりだろう。見つけ出して、夜にでも忍び込んで…一服盛ってやる」
「卑怯な!」
「無様に死ぬよりはましだ」
抜刀斎は声を荒げた。
山鳩のはためく音が、陰影の次第に濃くなってゆく屋内に透き通る。障子影が土間の藁敷きに怜悧な格子模様を描く。
「…全てを失って浪人となり、江戸での仕官も失敗、商売にも向かず借金を作り、しまいに盗人にまでなって、やっと逃げ延びて見つけた終の住まいだ。ここでは誰もがわしを尊敬してくれる。…みんなわしを剣豪だというておる。」
「松造を斬ったことでか。江戸で負った深手がもとで瀕死の状態だった奴を、真後ろから袈裟懸けにやったっていう、それだけの話が」
「新月の晩だった。暗くて、何が起こったのか誰にも見えなかったろう。ところが平助なんか大立ち回りを見たとか吹聴しておった。…それが、わしには都合が良かったのだが」
そこまで言ってがばと顔を上げる。急に黒田の肩を掴む。毛だらけの腕で枯れ枝のような黒田を揺らしながら続けた。
 黒田は目を合わせない。
「わしを助けてくれ。そう、鳥兜の根はどうじゃ。あれなら見た目がわからないから、中々ばれぬというではないか。なあ、黒田。わしら仲間ではないか。お互い助け合って逃げてきた仲間ではないか」
隣からばさばさと何かを叩く音がする。かちかちという音もして、ひいよ、と鳴くのはひよどりか。
「…もう十年にもなるな」
黒田は終に目を合わせた。遠く、優しい笑みを浮かべる。
「わかった。…鳥兜ではないが、心当たりはある。夕刻までに調合して、持ってこよう。
それまでに奴の居所を捜しておくがよい」
黒田は、震えながら涙を浮かべる抜刀斎に肯いて見せた。そしてゆっくり肩から手のひらを引き剥がすと、立ち上がり、年に似合わぬしなやかな動きで身を整えて、一礼しつつ間口をくぐった。
田植え唄は一巡し、また最初の節に戻っていた。
眩しい陽の照り返しにむせぶ往来に、いつになく険しい顔をした黒田がゆく。老婆の挨拶も耳に入らない。そこへ音も無くつっと駆け寄る者が居た。
えいであった。
影のように寄り添ったえいは、小声でひとしきり何か語り掛ける。ぎらりと光る目で、黒田の口元を見、答えを待つ様子である。
「薬だ」
「薬ですって?あのひと何を」
「ここでは話しづらい。うちへ寄れ」
黒田の小庵は二十軒ほどの村の中心部に位置し、中央を通り抜ける道筋から家屋の間を少し分け入ったところにある。抜刀斎の家からは大して離れてはいない。二人は暗く固い表情のまま足取りだけは軽やかに、庵内へすっと消えていった。
もう日も傾いてそろそろ草虫の声が上がり始める頃、黒田は膨らんだ袂を押さえながら抜刀斎の家門をくぐる。
土間には朝と同じ格好でじっと座り込む抜刀斎がいた。いつになく陰気な抜刀斎の後ろから、えいの目玉だけが見える。暗がりに光る目は、山猫のそれを想像させた。
「ばっとう」
「…黒田。…持ってきてくれたか」
弱々しい声が焦げ茶色の暗がりに立ち昇る。えいが襖影から見ていることに、果たして気が付いているのかどうかもわからない。黒田は周囲を見回すと、えいに一瞬目を留めるが、そのまま袂に手を入れ、小さな紙包みを出した。
「これはな…」
黒田は再びえいを見る。えいは微動だにせず只黒田の手元を見据える。
「何種類かの山草の根と、南蛮渡来の或る薬を擦り合わせたものだ。長崎にいた時分に南蛮人の医師より教わったのだが、すぐに効くというものではない。しかし、4つ時もすれば、急に腹に差し込みがきて」
黒田はまたちらりとえいを見る。えいは動かない。
「五臓六腑の全てが引きちぎれんばかりにひきつり、挙げ句に心の臓がよじれ切り、絶命する。解毒法は、無い。一切発疹の類もなく、見た目は何で死に至ったのか皆目見当もつかないというものだ」
「…おぬしは使った事があるのか」
抜刀斎は真剣な眼差しで黒田の顔を見た。黒田は避けるように顔を振る。
「だが、これを教えてくれた南蛮人が、…人に飲ませたところを見た」
黒田の声が唐突に大きくなる。
「これを入れた酒を煽ったのは、知り合いの商ん人だった。私もその場に一緒にいて、しばらく共に酒を飲み、話をしていた。その場では結局何も無く、男は機嫌良く家に帰っていったのだ。…翌日、きれいな顔をした冷たい体が、家から運び出されたのを見た…私は恐かった」
黒田は両手で顔を覆う。指の隙からえいを覗き見ると、変わらぬ冷たい視線に当たった。
「わかった。かたじけない…」
抜刀斎の掌に小さな薬包が載せられた。
「指の先でも、牛を殺すほどの力があるという。気を付けて使え」
抜刀斎はしっかと肯く。その後ろでえいも肯いていた。黒田は嘆息した。子供の寄り集まりそぞろ歩くざわめきが聞こえてくる。黒田はせかせかと足早に去っていった。

藤木一刀は、座っていた。村外れの川岸に座っていた。川は雄大で、その流れは遠く江戸まで届き、ひいては青き大海へと続く。岸辺に繊細な草葉の群れが踊り、藤木の心を優しく撫でてゆく。脇に四角い墓石のようなものがあり、稚拙な筆致で刻み込まれた観音像が浮かび上がる。藤木は水面に映る夕映えを只眺めていた。と、ふと背にむず痒い感じを覚える。耳を澄ます。僅かに草の踏まれる音が聞こえると、柄元に左掌を添える。距離がもう刀の届くほどに縮まったところで、声を掛けた。
「おぬしでも“下見”をするのか」
潜んで近づいた筈の抜刀斎は、背に目のあるような藤木の言葉に、驚いて飛び出す。腰に結わえ付けられているのは刀ではなく、黒い酒瓶だ。
「うぬ、一刀…」
抜刀斎は腰元に気を遣りつつ、地を這うような調子で問い掛ける。肩が張って肘が出る。
「…一刀よ、一体誰に頼まれて来たのだ。有山のじじいか、くずの葉か」
藤木は顔を傾け、くすみ笑いをする。
「はは、おぬしのような木っ端のことなぞ、誰も覚えてはおらんわ。俺も顔を見るまでは忘れていたのだ。偶然だ」
藤木の背は寂しく橙色に染まり、庚申塔を挟んで、抜刀斎も並び立った。かあ、と烏が鳴き、ちゃぷ、と魚がはねる。
 抜刀斎の肩がゆるやかに下がる。瓶を手にとり、観音の頭上に無造作に置いた。
「ともあれ昔馴染みだ、一刀」
藤木の目が光る。
「酒は飲まぬ。…おのれは何か悪い手を考えておるのではあるまいな」
「わしも武士のはしくれじゃ。そのようなこすい真似はせん」
抜刀斎は瓶を取り直すと栓を抜き、口を開けて上を向いた。瓶を掴んだ腕を伸ばし、高いところで逆さにすると、口へ向けてばしゃばしゃと酒が流れ落ちる。脈々と喉が鳴り、肩が濡れる。
「おぬし、どこへ泊まる」
舌なめずりをしながら、抜刀斎は横目を遣る。藤木は今度は身の有る笑いを放つ。
「はは、酒飲みとしては変わらず一流だな。」
腰を払いながら立ち上がる。すぐ側まで来ていた子雀の群れが、さあっと飛び立って水面を渡り、対岸へと散っていく。まだ立ち尽くし川面に見ゆる抜刀斎を一瞥もせず、藤木は草叢へ分け入ってゆく。最後に言葉だけが残った。
「“むらじ”とかいう宿に泊まる。飯がうまいと聞いている」
夕風が髭を揺らす。丁度目の前を行く渡し舟がある。船頭が気づいて何やら声をかけるが、すぐに妙な顔をして漕ぎ去る。靡く髪の下の瞳はかっと見開かれ、空の一点を見詰めていた。肩は震え、夕日より赤い面にずるずると汗が粘り落ちる。引き攣った口元には歯茎が剥き出しになり、ひゅう、ひゅうという漏れ息と、ぎり、ぎりという歯ぎしりが、闇に包まれるまで続いていた。

そうしてすっかり夜も更けた頃、
黒田の庵。
忍んで駆ける音がして、薄木の引き戸がかららと開いた。
「おお、どうだ。助宗の様子は」
暗い油灯の下ではあるが、えいの頬にやや赤味が差しているのが見て取れる。
「つい今しがた戻ったところ」
「随分遅かったな」
「飲んだみたいね。陽気に鼻歌なんか唄って、すぐ床に入っちまったところを見ると」
「“飲ませた”のか」
「らしいね」
黒田はほっと息を吐く。えいは狭い板の間に上がり込む。
「“南蛮渡来の毒ぐすり”か…。」
しんとしたともし火の陰影の中、眉間に寄った深い皺で、黒田は一段と老け込んで見える。畳の上をかさかさと這う一匹のこおろぎがいる。黒田は、それきり黙して動かない。
「これが一番良い形」
えいは首を折り、黒田の顔を覗き込む。
黒田は組んだ腕を解き、顔を上げた。
そうして翌日、正午も大分廻った頃。
「遅い。おそいではないか」
どんよりと曇りざわめく草木、川は打って変わってにび色に沈み、どろっとした空気が肌に染む。川面を見詰める観音の裏では、このような田舎村では滅多に見られない、侍同士の命を掛けた果たし合いを待つ、村中の老若男女がひしめきあっていた。
「もう半時もたつ。怖じ気づいたか、藤木いっとお!」
おお、という声と、拍手が沸き立つ。小広い砂地の真ん中に立った抜刀斎は、上機嫌だった。
「“むらじ”の親父はいるか」
群集の中、老人が手を上げる。
「昨晩はすまなかったな。わしが帰った後、藤木は何をやっていた」
「へえ、そのまま寝転がって鼾を立てていなすったんで、起こさぬように茶碗を片付けさせていただきました。」
抜刀斎は大きくわざとらしく肯いて見せた。指を差して喜ぶ平助と義助の顔が、視界の隅に入る。
「朝になっても出ていらっしゃらないんで、おかしいと思って覗いて見たらば」
「うむ」
「もぬけのからでした。畳の上に金子の包みが、…少うし多めに」
ううむ、と唸って見せる。
…少うし“効き”が遅かったようだが。
だが、結句来ないところを見ると、どこかでおっ死んでいるに違いないのだ。
男はえいを見やる。えいは黒田の横にいて、固い表情を崩さない。抜刀斎は、えいの気を鎮めるようににやけて見せた。そのときである。背後にざわめきが広がる。抜刀斎が振り向きざま、川面から声が轟いた。
「ば、抜刀斎、すけむね!」
おおう、という低い声と、ぎゃあ、という赤子の泣き声が同時に湧き起こる。興奮した子らがちゃんばらをしている横を、ずり、ずりと摺り歩く藤木がいた。髷は大いに乱れ額に垂れた髪は少し濡れている。左手に緩く掴んだ刀を地に擦りながら、抜刀斎の横を過ぎると、位置に立ち、ふら、ふらと二回ほど揺れて振り向いた。
 抜刀斎は目を細め、唸った。そして黒田を睨む。
 だが黒田はそこにいない。えいだけが立ち尽くし、変わらぬ固い視線を向けている。
「ま、参ったぞ、抜刀。ひ、卑怯な手を使いおって」
ぷう、という音がした。
すぐに巻き起こる笑い声に、わけもわからず抜刀斎は狼狽した。口元に手をやり、顎髭をせわしなくしごく。
ぷう、ぷう。音は続き、そのたびに爆笑の嵐であった。
「…腹下しを…飲ませたな」
消え入るような気の抜けた声は、連綿と続く「ぷう」にかき消されていた。やがてあえなくへたりこむ藤木に、辺りは破裂せんばかりのざわめきに包まれた。
 やっと事態を飲み込んだ抜刀斎は、又えいを見た。
 えいは、ゆっくり肯いた。
 これは、えいの手引きか。
わしに人を危めさせたくはない、という気遣いか。
えいは、また肯いた。
えい、お前という奴は。
 えいに向ける視線が和らぐ。横に再び黒田の頭が、そろそろと現れた。
 「やい、立ちやがれ。」
平助が叫ぶと同時に、藤木の震える背に向けて誰も彼もが罵声を浴びせはじめた。
「だらしのねえ野郎だ」
「おれはこのために山一つ越えた向こうの村から来たんだ。ふざけるな」
「おらなんか二つむこうだ」
「くそ、こんな野郎を相手にしたとあれば、ばっとう先生の名折れになっちまう。」
「おらどもでやるだ」
「やれ、やっちめえ」
木の枝が投げ込まれた。子供らも小石を投げる。亀のように丸まる藤木に、がつ、がつと次第に大きな石が当たり、そのたびに石榴を潰したような喚き声が噴き出し、ぷっ、ぷっという別の音も吹き出てくる。
 余りに哀れであった。
 抜刀斎は素直に喜べない。危うく戦わずに済んだということよりも、自分よりも余程立派な腕を持つ武士が、しかも昨晩は気持ち良く昔話などして飲み交わした男が、こうして薄汚い輩に愚弄され嬲られていることに、納得がいかない。
 迷うがすぐに意を決して、囲まれ見えぬ藤木に走り寄る。そして分け入りその前に立ち、村人たちを遮るようにして大声を放つ。
「静まれ、静まれい。…ええい、わしの言う事を聞けぬのか。」
刀を抜いた。わっ、という声と共に、村人達が一斉下がる。藤木は巣から落ちた鳥の仔のように小刻みに揺れ続けている。香ばしい匂いが鼻を突く。
「仮にも一度はわしの相手になろうとした男じゃ。その意気や良し!おのれらのような臆病で愚かな者どもに、この男を責める権利は無いわ。下がれ、下がれい」
ざわめきは即座に波のように引いた。愚かと言われた村人たちの大半は、不思議にも素直に肯いていた。
中には拝む者までいた。
 「…しかし、だらしのない男だ。腹を下すなどというのは、弛んでいる証左だ」
抜刀斎は視線を投げ落とし、顔を上げ、演説を始めた。
「わしは生まれてこのかた体など壊した事は無い。」
おお、という声、拝む顔。
「わしの体が図抜けて頑健だからか。そういうことも確かにあろう。しかし、それだけでは駄目なのじゃ。毎日の精神修養、そして絶え間の無い鍛練が必要じゃ。」
ううん、という納得し唸る声。
「大体わしの腕を少しでも知る者なら、勝負を挑むなどという大それたこと考えもせんだろう。このちんけな男は、江戸では有名な剣客かもしれんが、」
だれかの喉が鳴った。
「わしの名は、全国津々浦々に轟いておる」
「いいぞ!」
義助の掛け声が心地良い。
「“井の中のかわず”めが、まったく呆れて物も言えぬ。見よ、この無様なありさま、」
調子の乗ってきた抜刀斎は、右足で一刀の頭をこづく。うう、と唸り、群集の中から笑いが漏れる。抜刀斎は有頂天であった。
「武士の風上にも置けぬわ。大体、辻斬り稼業などやっている浪人に、ろくな奴はおらん。
…どれ、最後にもう一度、その間抜け面を拝んでおこうか」
抜刀斎は振り向き、まだ蹲り唸る藤木の前にかがんだ。顔を寄せる。
…そのとき。
白刃一閃。
抜刀斎の右脇腹より、左肩までが、鮮やかに、ぱっくりと割れた。
一瞬の居合いだった。
抜刀斎は、ぷく、と唸るなり、血泡を吹くと、
でん、と仰向けに、倒れた。
肩に深く刺さった刀は、荒天に昇る龍の様に空を向き突き立っていた。腹から胸元にかけて無数に噴き出す血潮は、砂地を黒く染める。しかしすぐに干上がっていく。
藤木は突き出した右腕をそのままに、よろと立ち上がる。
藤木の眼球はどす黒く淀み、濁っていた。
水を打ったように静まり返る村人には目も呉れず、刺した刀もそのままに、ふら、ふらと場を離れる。村人たちは、藤木が川沿いの街道筋遠くに消えゆくまで、固唾を飲んで見守っていた。

「…なんだ」
義助が呆けたような声を出す。
「ちぇ、つまらねえな!」
平助の声が弾けると、村人は一斉にぞろぞろ引き下がり始めた。誰も何も言わない。そして誰も川岸の死人を振り返る事はなかった。

えいは、黒田と一緒に残っていた。まだ血を流し続ける抜刀斎助宗の骸を、遠巻きに見据えていた。
「…調子に乗るからだ。折角上手くいっていたのに」
いかにも残念な顔をして黒田は髷を掻いた。
「いいえ」
えいは、黒田にもたれかかるようにして囁いた。
「これが一番良い形」
くすり、と笑った。
                  了

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