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田井肇コミュの『イズムー今月の会いたい』より

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――:初めまして。今回は色々な思いを語っていただきたいんで、本日はよろしくお願いします。
田井 肇さん(以下、田井):はいどうぞ、宜しくお願いします。
――:来年(2008年)は20年目を迎えるということですね。おめでとうございます。
田井:ありがとうございます。
――:お生まれは大分ですか?
田井:いや、岐阜県です。3歳ぐらいの頃にはすでに別府の浜脇に住んでいたようなんですが、その後に引っ越した北浜からの記憶しかないんです。そして中学校に上がるちょい前ぐらいから、亀川に移ったんですけどね。※浜脇、北浜、亀川はいずれも別府市
――:やっぱり幼い頃から映画が好きで?
田井:う〜ん、幼い時って私だけではなく、みなさん映画好きだったでしょうね。僕はまあ・・昭和30年代に少年時代を過ごしていますから・・。昭和33年くらいでいうと、日本の人口が8千万人ぐらいなのに、映画人口は11億人いましたからね、年間一人当たり12〜13本は観てたんですよね。だからその頃の日本人は、すごい本数を観てたんですよ。
――:その頃の娯楽って映画がダントツなんでしょうね。
田井:ちなみに今でしたら、一人当たり年間1.5本ぐらいかな?・・ですから、今の10倍ぐらいは観てた計算ですね。物価はどうだったかな・・初任給は、3万あるかないかぐらいだったでしょうか。映画は75円とかね。
――:75円!!
田井:子供は25円とかね。僕が小さい頃は、まだ50銭って単位も通用してましたから。1円の下がね。
――:へぇー。
田井:まあ、誰しも映画に行ってた時代なんですよね。私も親に連れられてよく見に行ってました。で、そのうち、お茶の間にテレビというモノが登場して洋画なんかも放送し始めた。
――:その頃に記憶に残っている映画と言えば何ですか? 田井:記憶に残っていると言えば「鯨神(くじらがみ)」っていう映画ですかね。大映の映画で、勝新太郎と本郷功次郎なんかが出るんですけどね。原作は宇能鴻一郎っていう、のちに、ちょっとエッチな小説で有名になった人なんですけど、この小説で芥川賞を受賞しましたからね。
――:原作はどういった内容で?
田井:これは鯨を捕る人達の話なんですね。「白鯨」ってあるじゃないですか?(ハーマン・メルヴィルの長編小説。1956年映画化)あれの日本版みたいなお話なんですよね。荒波の中で鯨を捕獲するっていう・・非常に強烈な映像でしたね・・だけどね・・何故だか、大半の内容は記憶に残ってません。ただ、すごい・・強烈な印象があって、家に帰って漫画に書いた記憶があります。
――:子供心に感動したんですね。
田井:感動っていうのとは、ちょっと違いますね・・何かこう・・気持ちの奥に引っ掛かちゃってる、と。そうゆう経験ですよね、子供心に感じる映画というのは。・・それに、あの時代は、大人が観る映画に子供を連れて行くっていうのは、当たり前でしたので、貴重な体験でしたよ。知らない「大人の世界」が見えてくる――。これは今となって振り返れば、大変貴重な体験だったなと。今の親だって、大人の映画を子供に観せた方がいいですよ、絶対に。僕はそう思う。今は逆で、親が子供に合わせちゃう。「ポケモン」や「ドラえもん」なんか子供の為に行っちゃう。まあ大人が観ても楽しいかもしれないですけどね。・・とにかく映画は好きだったんで、気がついたら映画館で迷子になったりして、父ちゃん、母ちゃんから「お前、何してたんだ!」なんて怒られたりしてましたよね。
――:そうなんですか(笑)。
田井:うちの母親は明治の生まれなんですけど・・生きていれば96歳かな?まあよく連れられて映画館に足を運んでたなあ・・・。彼女は、大川橋蔵とか、東千代之介なんかが好きでね・・東映ですね、観てたのは。しかし、当時の彼らは一線級ではないんですよね。一線級の俳優っていったら片岡千恵蔵とか市川右太衛門とかそうゆう人ですから。ちょっと光ってる新人っていう感じでしょうか。大スターじゃないんですよね。
――:ええ。
田井:だからうちの母親は、ど真ん中で売れている俳優よりちょっと外れた人が好きだったんでしょう。相撲で言えば「大鵬より柏戸」ってタイプの人ですから。
――:ストレートにはいかないと。
田井:だからって訳なのでしょうかね、私自身、性格的に少しひねているというか・・マイナー好みだったりとか。人とは違うところに興味を持っていましたね。
――:なるほど。そういった自覚はありましたか。
田井:ありましたねー。例えば、1970年に中学校の修学旅行で大阪万博に行ったんですよ。万博の最大のハイライトは、アメリカ館の「月の石」(アポロ11号が持ち帰った石を展示)だったんですが、私は誰も知らないアフリカのコートジボワール館とか・・そんなところばっかり行ってましたね・・だから映画もそうですが、どこかメインストリームにあるメジャーなものよりもマイナーな映画というか、そういったものが好きでしたねぇ。
――:ええ、お気持ちはわかります(笑)。
田井:そんな感じで少年時代を過ごして、高専(大分工業高等専門学校)に入ったわけですが、うちは貧乏だったし、授業料が安いことを優先してね。親には「お前に大学は行かせられない、行くなら防衛大学だけだ」って言われててね。あそこは授業料払わなくていいでしょ?だから、「防衛大学しか行けないのかなぁ」って思ってて。でも、まかり間違って官僚か何かになってたら、今頃国会で「接待うけました」とか言ってたかもしんないけど(笑)。
――:あはは、旬な話題ですね(笑)。
田井:まあ当時、僕はそこそこ勉強ができましたんで、大体はこなしていけてたんですよ。あの頃は5ランクでしたけど、体育か音楽だけが4で、それ以外は5でしたから。
――:それは優秀じゃないですかー。
田井:いやいや、皆そんな感じでしたよ。だから何系が得意?とか言われるんですけど、答えようがない、みんな得意だから。
――:ある意味、嫌みじゃないですか(笑)。
田井:嫌み?嫌みに聞こえたらごめんなさい。でも普通にそうだったんですよ。
――:さぞかしモテたでしょう?勉強もスポーツもできて。
田井:そんな事聞かれるとは思わなかった(笑)。まあどっちかというと、全くモテなかったですね(ハッキリと)。自分が思うようにはなりませんでした。よくフラレてましたよ。
――:そうですかー?(笑)でも彼女を連れて映画に行ってたでしょ?
田井:僕はね、16歳の頃から日活ロマンポルノにハマってましたから。だから、そんなところ連れて行ける訳ないでしょ(笑)。一人で映画評論を読んでは、あーでもないとかこーでもないとか言ってましたんで、周りから見ればヘンな奴だったんじゃないでしょうか。
――:その頃は、年間何本ぐらいの映画を観ていたんですか?
田井:100本ぐらいじゃない?
――:100本もですか!
田井:う〜ん、そんなもんでしたね、そんなにビックリする数じゃないですけど。
――:でも、周りには居なかったでしょー?そんなに観てる人は。
田井:ああ、そうですね、周りには居なかったんで、だんだん話が合わなくなってきてましたね。高校の時から、映画にどっぷりハマって映画の評論を書いたりとか、ロゴタイプを真似して描くとか。デザインにもハマってて、「ポセイドン・アドベンチャー」とかあるじゃないですか?あのロゴなんかを必死に描く訳ですよ、そっくりに。映画と同化したいっていうか、授業中にそればっかりずっとやってるんです。
――:へー、どっぷりだったんですね。
田井:そう。だから学校の成績はどんどん落ちますよね?でも、全然平気だったんですよ。その頃の自分は何か「やればいつでも出来る」っていう気持ちがありましたから。

――:その頃ですか?「湯布院映画祭」に関わる事になりましたよね。
田井:留年しちゃってて、20歳ぐらいの頃ですよね、当時は自主上映なんかもやってましたから、現在も湯布院映画祭の顧問をされている中谷健太郎氏から「映画祭をやろう」っていうお声があり、湯布院映画祭の“顔”でもある伊藤雄さんと三人で「あんな事も、こんな事も出来たらいい」って中谷氏のお宅で話し合ったんですよ。そして、「じゃあ実現しよう」って事になって。
――:スタートってそんな感じなんですね。
田井:う〜ん、まあそれは好きな事をやってるだけですから。楽しいですよね。でも最初はねぇ・・町おこしの為にやるとか・・そんな考えは一切ないですから。ただ好きな事をやっているだけなんですよ。
――:映画祭に関わっている間、学校はどうされたんですか?
田井;卒業しましたけど、就職なんかは全く考えておりませんでしたね。湯布院映画祭もあるので、大分は出たくないけど家は早く出たいっていう思いもありましたから・・自分で何とか食っていかなきゃならないので、塾の講師をやり始めたんですよ。経営っていうか、寺子屋の延長みたいな感じで小さい所でやってたんですよね。・・僕はこういった事に関しても長けていたんです。個人的には凄く数学が好きなんですけど、教えた子が「数学で一番になりました」って言ってくれたり。
――:講師としてやっていこうと思ったんじゃないですか?
田井:思わなかったですね・・。僕は映画中心で考えてたんで、他のことやってみたところで自分の能力なんてたいしてないのは分かってましたから。まあ、そんな感じで食いつないでいる間に、出入りしていた「大分映像センター」を経営されていた方が亡くなられて、誰か運営しなきゃならないって時に僕が引き継いだりとかして。
――:はい。
田井:そこは湯布院映画祭の事務局になっていたんで、皆の溜まり場だったし。何とかやっていかなきゃいけないから、学校の文化祭に16ミリ映画を貸し出ししたり、自動車学校に交通安全のフィルムを売るとか。そんな事を10年ぐらいやってたんですね。でもその傍ら、湯布院映画祭は十数年関わっていたんですけど――、袂を分かつという事になりましてね。
――:何か心境の変化があったんですか。
田井:そのあたりの経緯はあまり言いたくはありません。僕から言うと一方的になるので。
――:ええ。
田井:う〜ん、何でしょうかね・・・・その頃の僕は、映画の事に関して「プロ」でありたいと思うようになってたんですね。仕事を持っていて、ついでに映画に関わっているという・・それが嫌になったんですね。「映画で飯を食う」っていう事を真面目に考えるようになってきた。昭和50年代にはマスコミの方から、湯布院映画祭の記事を取り上げていただいたりしましたが、それは「田舎の若い人が儲かりもしないことをやっている」っていう形でしか表現されてないんです。「都会でお金持ちが儲けの為にやってる」なんてマスコミはとりあげないでしょ?だから僕らはマスコミ受けしやすかったんですよ。僕は、東京だろうが地方だろうが、そんなことに関係なく、真っ当な評定を受けたいなと。ダメだという事も含めてね。・・・・東京が優れてるなんて全く思ってないですからね。
――:正当な評価を受けたいと。
田井:ええ、そうですね。まあプロっていう肩書きで存在したいな・・って思ってましたから。

――:そして、現在のシネマ5からのお話が来たんですね?
田井:そうです。まあ・・19年前ですが、前の経営者が「商売になる映画がないので閉館する」と言ってまして・・でも裏を返せば「商売にならない映画」っていうのは、いっぱいある訳じゃないですか?大分で上映されない映画が・・だから、やらせて下さいって言って、始めた訳ですよ。前経営者の方は「どうせダメだろ」とは思ってたんでしょうけど・・、僕自分もそう思ってました。ちなみに最初の軍資金っていうか、スタートの資金は390万円ですよ。僕が考えてたのは、年間130万づつ食いつぶしても、3年は持つかなと。周りには、こんなタイプの映画館は100万都市でしか成り立たないと言われていましたし、正直、私自身そう感じてましたしね。・・だから、思い切って3年やって・・そして・・せめてね、やるのは3年でも、人の記憶の中に10年は残るっていう映画館にしたかったんですね。
――:でも・・3年目以降は考えなかったのですか?
田井:考えなかったですねぇ・・どうなってたんでしょうかね・・ダメだった場合は。分かりません。ただ目の前にあることをしっかりやろうと。そして、プロとしてやる上は「常にチャレンジする」って事が大事だと。挑戦しなかったらヤメた方がいいですから。これで良しという気持ちを持たない、それこそがプロです。
――:はい。
田井:この最初の3年間は、最も潔く、美しい時期だったですね。――でも・・まあ・・そういった時期がずっと続けばいいかっていうと、そうでもないですけどね。――当初は「この映画を観てほしいから映画館を続けたい」っていうことが、いつのまにか逆転して「映画館を存続する為に映画をかける」って事になる訳ですよね・・しかし会社であれば・・これはある一定期間を過ぎれば必ず起こります。例えば、SONYの最大の目標はなんでしょうか?――それは「SONYという会社を続ける」事ですよね・・たぶん。・・それは悪いとは思いません。・・でも、最初の3年間は「この映画を上映したいから、映画館をやっている」っていう気持ちだけでしたから、それは確かに潔くて、美しい。
――:なるほど。
田井:でも、「美しいばかりが人生じゃない、濁っているのも人生じゃないか」って、僕は感じるので「美しいものが全て良い」とも思ってません。そういった意味も含めて、その最初の3年は潔くて美しい時期だったかなと。
――:田井さんの精神的な部分は、やはり映画からの影響が大きいのでしょうか?
田井:多分ね。映画、及び映画人でしょうね。映画を通じて人に触れる。そういった形で培われたんでしょう。
――:そして4年が過ぎ、5年が過ぎ、映画館の会員さんも1000人を越えたんですよね?
田井:ありがたい事ですよね、ホントに。1000人と言えば大分市の市会議員のビリぐらいだったら当選しますからね(笑)。まあーでも、本当にありがたい。
――:ですよね。
田井:毎年、12月2日から翌年2月の末日までに会員募集をするんですが、会員になっても12月31日には全員、会員期限は切れることになっています。会員数は毎年、一旦ゼロになる。自動更新なんてありませんから。ずっと映画館を続けられる保証なんてないわけですからね。如何に観客の期待に応え続けていけるかって事を課題としてるんですね。「俺は来年も堕落せずに、やっていけるだろうか」っていう不安を持ち合わせながら、それを新たな課題としてやっていくんです。自分なんて全く信用できないから、自分を「そうせざるを得ない」という環境に陥れてね。ダラダラとただ上映しようなんて、全然思ってないし。
――:運営されてて理想としている事はありますか。
田井:僕は正解っていうのを嫌うので・・要するに・・・・いつも「シネマ5らしくない」っていうことをやりたくてたまらないです。さっき言った、チャレンジするって言う事も踏まえてね。・・「いかにもシネマ5」っていう事は、やりたくない。・・だけど、「ちょっとシネマ5らしくないな」って思われることもありながら、結果として、それを含めてやはり「シネマ5」である、というふうにして、「シネマ5」像みたいなものがつねに動いていくものとしてあるのがいいのかなと思います。

――:では最後に7つの質問にお答えいただけますか?
:最も影響を受けた映画は?
田井:今日の気分で言えば「ストレンジャー・ザン・パラダイス」
:最も好きな俳優は?
田井:そうだなぁ・・う〜ん「笠智衆」かなぁ・・・。
:最も好きな映画監督は?
田井:「エルンスト・ルビッチ」ですかね。
:最も好きな音楽(アーティスト)は?
田井:・・・「都はるみ」ですかね。
:最も影響を受けた言葉は?
田井:『映画人の最大の特長は、柔軟である事である」っていう言葉ですね。
:最も怖い事は?
田井:それは「死」ですね。
:では、あと50年生きられる保証がある場合、何がしたいですか?
田井:やはりこのまま「シネマ5を続けること」ですね。日々変わらずに。
――:有り難うございました。これからもシネマ5の上映を期待しています。

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