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人と自然コミュの「株式会社という病」

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平川克美「株式会社という病」NTT出版 ¥1600 2007年6月刊

 この著者の本は、前回に続き2冊目。リーマンショックや村上ファンドの株買い占めによる経営干渉、堀江貴文氏のライブドア株価操作なども取り上げられていて、そのあたりの評価はいいのだけれども。村上氏「金儲けしてなにが悪いんですか」堀江氏「カネで買えないものはない」。これに答えることはなかなかむつかしいが、法律スレスレのことをやっているんじゃないのか。
 このタイトルでは、掘り下げ方がちょっとタルい気がします。株式会社は所有と経営が分離してしまい、欧米では株主の機嫌を伺わないといけないような、短期で実績を出す経営が要求されていて、この傾向が日本にも強くなっているとか。ここで日本型の経営はあまり強くも擁護されていないようだが、しかし欧米の小さな政府・市場原理主義・規制緩和の新自由主義経済のデメリットは示されている。じゃ、どうなのかという方向性を出すことが著書の目的でもないようなのだ。

 しかし、実は私は上場されている株式会社で働いた経験がないので、この辺あまりわかりません。同族的な小さな株式会社での経験しかないんです。会社への忠誠心(ローヤリティ)はどこから生まれているのか、これなくしては会社の持続も難しい。労働と賃金の対価交換といった尺度が、一時米国のシリコンバレーで広がり、IT技術者が高給を求めて次々と職場を変えて行った例が挙げられている。
 一方、日本では「愛社精神」などと言われるが、会社は単に労働の場ではなく、自己実現の共同体的な場所でもあった。社内運動会、社内旅行、あるいは花見・忘年会などと若い人たちからは煙たがれるのは「労働と賃金」の視点からはわかるけれど、一般的には社員からは歓迎されているし、外国の日本企業が実施すると非常に喜ばれるという。地域・家族と同様のあるいはさらに上位の共同体的な位置づけがされていても不思議ではないですが、時にトラブルの原因にもなってきましたが(「会社と〇〇とどっちが大事なの?」)。
 このように、会社は株価総額では買うことができない、金銭に換算できない集団的社会的文化的精神的な要素を内包しているので、私は、「会社は株主のものではない」という立場に共感する。(ただし、このような社内行事に著者は触れていない)

 で、この本、著者も書いているように「すっきりした」内容ではなく、問題点の羅列、ああでもないこうでもない、あるいはそういう点もあるが、こういう点もあるといったまとまりのない(まとめようとしていない)内容なので、結局何が言いたいのかは最後までわからなかった。資本主義の「細胞」のような株式会社。出資者、経営者、金融(銀行)、労働者、そして消費者・・・、これらが株式会社を取り巻く利益関係者であるという。しかし、会社にとって、いずれも重要な要素であっても、基本は経営者・労働者ではないのか、と思う私や著者はまともだと思っているが、どうも時代遅れらしい。結局、市場経済の、ゆっくりと進むとしてもグローバリゼーションへの対応策はまだ見あたらないというのが理由のようだ。

コメント(1)

 ところで、通常企業はモノを作って(製造業)、それを売る(販売業)ことで利益を上げてきたわけだが、これらはモノをカネに換算してきたわけだ。ところが、20年ほど前に米国で金融工学というのが開発された。これはどういうことかというと、カネでカネを買う、またはカネでカネを売るという直接的ストレートなビジネスである。モノを仲介しないで、カネだけをビジネスの対象にしている。金融とはこれのこと。株の売買、国際為替差益のことも含む。瞬間的に価格高騰低下があれば、その機会をとらえて売買する。デイトレーダーもこれに当たるだろう。
 だが、これはゼロサム(プラスマイナスゼロ)社会のことであり、利益が出ている人がいれば、ババをつかんだ人がいるわけだ。金儲けして何が悪いとは、ババをつかんだ人に言ってほしいです。
 米国のゼネラルエレクトリックという電化製品のメーカーがこのように変身した。もはや電化製品の製造販売はしておらず、金融株式投資会社になった。それで、中堅技術者が失業して、下層に転落したという図式なんだね。

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