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人と自然コミュのスピリチュアルを考える(下)

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ランナーズハイと芋洗うサルとオウム

 地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教に迷い込んだ人たちもいた。オウムもある意味ではスピリチュアルだったのだ 厳密には、カルトというジャンルになる。カルトとは反社会的な宗教団体のこと。現在の若い人たちはこれを教訓にしているから、怪しげな教団には近寄らない。30代の人たちがスピリチュアルの支持者だと言う。
 オウムの教義は他の新興宗教やダライ・ラマのチベット仏教などからの寄せ集めに過ぎないことも宮崎哲弥氏や伊東乾氏が紹介している。「悪人を救済するために、あらかじめ殺す(ポアする)」論理はチベット仏教の伝統の中にあると言う。そういう本がありながら、どうして誰も未然に警告できなかったのだろうか。
オウムには理系の若い人たちも参加していた。これが私にはまだ腑に落ちないので、本を読んでみた。「空中浮揚」とか「水中で長時間の座禅」などをどのように「科学的に」説明できたのだろうか。
 新しく出た本を読むと、ちょっと異なる印象を受けた。映像や音響を、あるいはLSDを使っての「洗脳」のようなのだ。サリンを散布したのはマインドコントロールされた結果なのであって、実行加害者もまた「被害者」であるというのだ。カミクイ村の様々のサティアン内で製造された化学物質、あるいはそこで修行という名前で実行されたのは、単なるマインドコントロールそのものだ。化学物質や音響や映像を駆使して思考停止状態にしてしまうのだ。科学的な思索を司る大脳前頭葉を弱体化させた上での「洗脳」であるので、科学者といえどもコントロールされてしまったようなのだ。
 「大脳皮質は進化の順番で一番最後にできた、人間のもっとも人間らしい能力をつかさどる部分です。つまり、より脳の原始的な部分、大脳辺縁系とか中脳、間脳や延髄などが多く関わる活動の時は前頭前野の血流量は低下すると考えられるでしょう」
 「残虐な画像を見た時とか恐怖による思考停止とか、マインドコントロールと言われる現象は、脳血流測定の観点からは、その部分の思考能力が低下したり、あるいは停止したりする、いわば麻酔のようなものとして考えることができるでしょう」
 そうか、マラソン中の選手がハイになるというのは、これなんだ。血液が運動に使われ過ぎて、大脳前頭葉に回らなくて「思考停止」の麻酔状態になっているだけなんだ。心がハイなんじゃなくて、思考がローなだけなんだな。思考が麻酔状態って、恐ろしいよね。
 それにしても、科学と宗教が合体したかのような教団、つじつま合わせとは言え、力を発揮すると、こんなことになっている。
   
 オウム真理教が暴走した理由はまだ定かではないが、伊東乾氏によれば、「創発」ではないのかと言う。様々な組織が暴走するのは、このためだと言う。太平洋戦争への突入とか、オウムのサリン散布など、ナチスの虐殺など。各部門のそれぞれの総和以上に全体が暴走する様を言う。だから対策は創発の引き金を引く個人個人の自覚を促すことだという。複雑系の分析用語だが、歴史的事件をこのように説明するのを初めて聞いた。(以上、引用も、伊東乾「さよなら、サイレント・ネイビー」集英社)
 100番目のサルとか芋洗うサルという小話がある。これもなんだか創発と似ているように思うけれど、これはライアル・ワトソン博士の作り話のようで事実などではない。

 そういえば、原子力爆弾を開発したのも科学者だった。各種の戦争兵器を開発している技術者も科学者だ。彼らだけで死の兵器が現実に適用されたわけでない。様々な部門が役割を果たした結果、全体が暴走したのである。こうなると、もう止めることができないのだと。
 だが、そこまでわかってきたのならば、事業を絶えず疑問視する否定的非効率な部門をも無視できない規模で持てばいいのではないのか。企業には矛盾するような部門はとても持てないかもしれない。政治で言えば、無視できないような野党とか。アメリカでは時にそのような寛容さが見られるものの、暴走を未然に止めることには繋がっていない。後からの軌道修正はできるようだ(日本ではこれさえもできないが)。


科学・スピリチュアルとのつきあい方

 少数かもしれないが、そのような近代巨大科学を拒否しようとしている人たちもいる。地方でのシンプルな暮らしをすることにより、結果的にエネルギーの節制。マイカーも持たない。ITからの撤退を始めた人もいる。
 そもそも都市自体が冷暖房とコンクリート高層建造物、交通網などの反自然エネルギー浪費スタイルだ。だから、そのような科学技術による成果に囲まれた暮らしでなくて、物質的には貧困シンプルでも精神の安寧・安らかさを感じる暮らしがあるのだから、そこに参入してはどうだろうか。科学と宗教の暴走へのブレーキになるに違いないだろう。
 そして、スピリチュアルなどのオカルトをも拒否する、こんなことができるのだろうか。
 最初に書いたように、こんなテーマを前にしてしまって後悔しているわけだが、私自身が反科学を標榜しており、反スピリチュアルそのものだ。時に古代文明とか、トンデモ本も読まないことはないが、きちんと戻ってくるわけだし、科学本も見ているし。

 有機農業というのは、オールタナティブテクノロジーすなわち大規模科学農法に対する等身大の農法であるので、私は有機農業を反科学と位置づけているが、「非」科学ではない。だから非科学であるスピリチュアルも無縁のはずだ。ところが、どの分野でも起こっていることだが、有機農業の分野でも反科学でなく非科学的な理論や資材がかなりあり、それらが科学的な装いをしていることもあって、実際に現場に応用されているケースもある。この理由だが、有機農業は基本的に無(化学)農薬・無化学肥料栽培であって、要するに化学物質を排除することになっている(JASでは認められている化学資材がある)。畜産からの堆厩肥や堆肥・枯葉などの自然資材のみを使う。入手する場所ごとに成分が異なるし、また分析もされていないために、その利用の結果は不安定だ。また除草剤・殺虫剤を使わないことで、省力的に雑草管理ができず、害虫対策の手段も限定されている。つまり有機栽培はなかなか困難な生産方法なのである。農業者はあらゆる手段を検討し、採用するが、そこに非科学であるスピリチュアルが紛れ込んでしまうということのようだ。
  これまでは有機農業に(試験場職員などに)科学的メスを入れられると、その非科学性ばかりが強調されることが多いが、有機農産物の栄養価の優位性などの報告もある。これらは外側からの視点だが、科学思考に基づく農法実践は可能なのだろうか。
 科学的手法にこだわる人も出てきた。土壌の成分分析データを元に微量要素を施すとか(微量要素の化学物質の散布はJASで認められている)、経験や勘でやるのでなくて、化学的データを参考資料にしようということだろう。この程度であれば、さほど問題はないだろうが、実証データがなければ動けないのなら、非常に窮屈になってしまいかねない。ただし、畜産由来の堆肥などに医薬品残留などの可能性もあり、これらへの検査は必要であるが、そもそも有機的畜産ならば問題は起こらないのだ。
 有機農業にも資材にケミカルが多く使われるようになってきた。市場性が要請されて、品質の均一化や通年栽培・規模拡大などのためにビニール類・プラスチック資材を使わざるをえなくなってきている。これは大規模化学農法と同じ発想でないのか、ということになってしまう。これではオールタナティブではない。この歯止めはどこにあるのだろうか。

 個人的に言うなら、精神性を強調したりしないし、あまり柔軟ではないが自分の脳で納得できない資材を使わないようにしている。よくわからない説明をされる「様々な水」も使ったことがない。自然からの資材であっても何かわからないモノは使わない。確実に自分が説明できる資材だけしか使わない。私はEM菌も説明できないし、木(竹)酢液は不完全燃焼という化学反応での生成物の安全性を説明できないので使わない。このような資材はいっぱいある。しかし、反科学であろうとして非科学的なスピリチュアルを受け入れてしまう人も少なくない。科学的な装いをしているために、スピリチュアルという受け止め方をされていない。
 人体から外部に出ているのは意識だったり鼓動だったり体熱発散だろう。これらを波動とかオーラと呼んでいるのではないのか。マクロビオティックは倫理が含まれており、非科学的だからといって価値がないわけでない。肥満や飽食の現代人にはフィットするだろう。しかし、栄養失調の人はやってはいけない。ガン患者も治癒した例もあるが、いつも治癒するわけではない。いろいろだ。 
 科学者や大学教授が勧めているから、それが科学の裏付けになっている、と信じられやすいが(まさにそのために、学者が利用されているわけだし)反駁できなくても信じないという選択もある。この方がまだ賢明だ。商品のPRにタレントが使われてマインドコントロールされて購入してしまう消費者もいるのだから、責めることもはばかられる。
 野菜や鶏あるいは取り巻く自然界に起こるさまざまの、まだ十分説明しきれない現象もないわけじゃないが、神秘的には考えない。植物も動物もそして人も自然の中で競合して生きている。全体を指揮する「超越者」などいない。すべての生物は遺伝子の命ずるままに多方向に生存しているのみだ。ここにきれいな法則などない。
 科学の中にスピリチュアルが混宥していると思われるケースもあるし、スピリチュアルが科学に進化するケースもあるのではないか。

 というわけで、あんまり科学科学と言うこともないし、スピリチュアル排除と叫ぶこともないんじゃないか。「血液型性格診断」や「Oリング」なんかで、人生の転機を決断する人なんていないだろうし。雑誌や新聞の「占い」欄など見て、しばし楽しんでもいいのではないか。大きく流れを変えるようなとき、自分の行為を決定的にするような局面、こんな場合には、科学からもスピリチュアルからも判断や意志が自由であってほしいと思う。 何ものにもとらわれず自由であるためには・・・、むつかしいが、智慧を磨くということではないだろうか。科学は個人に生きる指針を与えることもないし、モラル・倫理・道徳に対して科学は答えない。指針や倫理を与えてくれる智慧、それは豊かな教養と、また鋭く柔軟な感性からしか生まれないように思う。できるだけ多くの事象を体験すること、あらゆる人々との多様な交流を積み重ねることによって、感性が柔らかくなり教養が広がると、その先に智慧が育まれるということではないだろうか。


上中下をまとめて、ホームページに掲載してあります。
多少書き直して、3月頃に印刷した通信で出す予定です。

コメント(4)

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何ものにもとらわれず自由であるためには・・・、むつかしいが、智慧を磨くということではないだろうか。科学は個人に生きる指針を与えることもないし、モラル・倫理・道徳に対して科学は答えない。指針や倫理を与えてくれる智慧、それは豊かな教養と、また鋭く柔軟な感性からしか生まれないように思う。できるだけ多くの事象を体験すること、あらゆる人々との多様な交流を積み重ねることによって、感性が柔らかくなり教養が広がると、その先に智慧が育まれるということではないだろうか。
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ここが泣けました(涙)

感想は・・・うまく書けるかどーかわからないけど「上」にコメントが多いのでそちらにかきまーす
こんにちは。(上)から(中)を飛ばして(読みましたよ)(下)に来ました。
反科学=非科学と受けとめる人が圧倒的なんじゃないでしょうか。反科学で非科学、僕も言われてみてナルホドと思いましたが、まさしくこのような姿勢こそ重要であると思います。僕も有機農業やっていますが、人によってスタンスが様々である事に正直驚いています。EM菌を始めとするに微性物菌に安易にすがる人が多いのも違和感を感じています。

智慧を磨く…まさにその通りと思います。偉そうに言える人間ではありませんが、知識が知識で終わってしまう、知識を智慧として応用できないのではもったいないし寂しいものです。多くの事柄を体験する事はなかなか難しいですが、読書というものはそれを補ってくれるものであると思います。『愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ』とも言うではありませんか。己の経験・体験にとどまっているだけでもいけませんね。

常に柔軟な思想を持つために日々研鑚していきたいものです。
ポンコツさん、こんにちは。

科学を武器にして、有機農業への批判・攻撃が、これまでもあったし、これからもあるでしょう。そのときにどのような言葉での反論が可能かをそのときに考え、試みることだと思います。
 私ですと、まぁ言うたら「あんたらに言われんでも、自分たちで考え解決するよって、ほっといてんか」(なんで関西弁やねん?)というのが、この文章の趣旨です。

 毎日新聞紙上でも「科学と非科学」が連載されていて、血液型性格診断も波動もインチキだ、また朝日新聞社から出ている雑誌「論座」2月号では「蔓延するニセ科学」が特集されていまして、「水からの伝言」など非科学だと断定しています。
(私の言い分:そんなこと、わかってらい(笑)
 わかってない有機農家がいるかもしれませんが。
お知らせ:
「スピリチュアルを考える」上中下を合わせ、他にいくつか投稿いただいたものをまとめて「とりのさとだより73号」を発行しました。
紙媒体で読みたい方、メッセージでご住所を教えてくだされば、お送りします。

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